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第五章 淫靡なるは酒食の国

禁咒

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まだだ、まだ足りない、まだまだ足りない。手のひらほどの石片を手の甲に埋まりきる程に刺していく。
僕の痛覚はすっかりおかしくなっていた、手がその役割を果たせないほどにボロボロになっているのに、まだ傷つけているのだから。
マルコシアスは誠実な悪魔だ、常に正しい回答をくれる。契約者……僕に嘘を教えるわけがない。
だからこの行為はきっと正しい。セネカを救うためなんだ、だからこの行為は間違っていない。そう自分に言い聞かせる。

左手の感覚はなくなった、もう動きもしない。その左手をセネカの腹の上あたりにおいて、僕は先程マルコシアスに教えてもらった術の内容を頭の中で反芻する。

弱りきって魔力の薄まった魔物に対して、魔物を支配する力を持つ僕だけが使える魔術、禁咒。
対象に血を与え、魔物使いの力を最大限に発揮させる。
魔物の全てを支配し、作り変える。
生も死も、全て僕の思うままに。

「セネカ・キルシェ」

ゆっくりと、焦らずに、名前だけは決して言い間違えないように。

「魔物使い、ヘルシャフト・ルーラーの名の元に」

右眼が熱くなる、身体中に流れる血が熱くなる。
決まり文句はない、僕がセネカに望むことを言うだけだ。途中で言い直したり、止まったりしてはいけない。
禁咒というのは随分と簡単なものだ、代償は安くはないだろうが。

「……生きて、生まれつきの厄介な体質なんて捨てて、もっと自由に……楽しく生きて」

力を使い過ぎた時の、激しい頭痛と耳鳴り。歪む視界には確かに僕の血が禍々しい輝きを放ったのが見えた。

セネカの傷は癒える。左上のちぎられた羽は元に戻る。
羊のような角の後から真っ直ぐの短い角が二本ずつ生える。
二対の羽の上に、新たに真っ黒の蝙蝠に似た翼が現れる。鉤爪のあるそれは一枚だけでセネカの体を包み込める程に大きい。

『……ヘルシャフト君』

「……ぅ……あっ、セネカさん!  大丈夫ですか?  変なところありませんか?  気持ち悪かったりしないですか?」

痛む頭を押さえつつ、セネカの体調を確認する。

『……のど、かわいた』

丸く青い瞳の奥に、微かに飢えの赤が鈍く光る。微笑んだその口には、鋭い牙が生えていた。

「え、っと、水……は」

僕はあるわけもない水を探す。セネカは可愛らしく微笑み僕の手を取った。
真っ赤な手にもはや感覚はなく、僕のものとは思えない。

『これがいい』

「これ……って?」

セネカの指が触れた瞬間、僕の腕の血が消えた。拭い取られた訳ではない、傷が癒えた訳でもない。
吸い取られたのだ、指先で。

「セネカさん……?  あの、セネカさん、ですよね?」

自分でも何を言っているのか分からない。セネカは丸い目をますます丸くし、それから無邪気な笑顔を返した。

『何言ってるの、ヘルシャフト君。セネカだよ?  ボクはセネカ・キルシェ、吸血タイプの悪魔だよ』

「きゅ……う、けつ?」

『ヴァンパイアみたいに弱点多かったりしないから安心してよ。ただ血を吸うだけ』

僕の顔に、服に、至る所に飛び散った血を指でなぞる。それだけでセネカは血を吸い取り、鈍感な僕にも分かるほどにその魔力を増した。
上機嫌になってパタパタと羽ばたく仕草は前と同じだ。だが、新たに生えた真っ黒の蝙蝠に似た翼は前とは比べ物にならない迫力だ。
一対の翼と二対の羽を嬉しそうに揺らしてセネカは立ち上がる。

「見つけ……は?」

僕達を追いかけて来たらしいアンテールは間の抜けた声と顔で疑問を表す。アンテールが呆然としている間にセネカは距離を詰め、彼の首にそっと手を添えた。

『アンテールさん、こんばんは』

「セネカ、か?  嘘だろ。なんだよ、それ。そのハネ」

『アンテールさん、ボクお腹空いてるんですよ。いいですか?』

アンテールの疑問を無視し、子供がオモチャをねだるように首を傾げる。どこまでも無邪気な姿は狂気をも感じさせる。

「は?  いいって、何がっ……ぁ」

『ありがとうございます』

質問の意図を尋ねようとしたアンテールの言葉を了承と捉え、セネカは首に添えていた手に力を入れた。皮膚を簡単に貫いて頚動脈に届いたその指は、アンテールの血を根こそぎ吸い取った。

『…っと、すいません。少し吸い過ぎましたね』

「がはっ……て、っめぇ!」

セネカが手を離すと、アンテールは糸の切れたあやつり人形のように崩れ落ちる。力なくセネカを睨むが、セネカはそれを無視した。いや、気がつかなかったのだ。その価値すらないと言わんばかりに。

『ヘルシャフト君大丈夫?  病院まで飛ぼうか。それともあの狼を待つ?』

「えっと、待ちたい、です」

『そっかぁ……どこにいるのかな』

セネカが僕のそばを離れ、向かいの路地を覗き込んだ隙を狙ってアンテールは僕に飛びついた。そして、僕の首に石片を突きつける。

「動くなセネカ!  このガキの首掻っ切るぞ!」

セネカは今までにない冷たい目をしてアンテールを見下した、あんな顔をしたセネカを僕は見たことがない。首に突きつけられた石片よりも、セネカの表情の変わりっぷりに気を取られたその瞬間。アンテールの腕は飛んでいた。
細長く黒い、ハート型の尻尾が目の前で揺れる。真っ赤な血を滴らせて。

「なん、だよ……これ。なんなんだよお前!」

『アンテールさん、今まで色々お世話になりました』

そっと一歩踏み出したセネカに、アンテールは怯え逃げようとする。だが、何もかもが遅すぎた。

『……さよなら』

パァン!  という破裂音が響くと、アンテールの体は半分消えていた。振るわれたセネカの足が所在なく揺れている。後に残った僅かな血は、セネカがそばに立つと消えていった。

「セネカ、お前……どうしたんだよ」

『……失敗しちゃった、やっぱりダメですね、ボク』

でも、とセネカはアンテールに詰め寄る。

『この方が、血が飲めますね』

「セネカ……なぁ、俺」

『いただきます、アンテールさん』

アンテールの声など聞こえないと、傷口に手を添え血を吸い取る。アンテールは血の霧と化してセネカに一片残さず喰われた。

「セネカ……さん?」

『そんな怯えた顔しないでよ、ボクはボクだって。ちょっと力が強くなったみたいだけど!』

大きく伸びをし、羽を広げる。東の空はもう白んできていた。

『ん?  あ、ねぇ、あれ!』

セネカが指差すのは、まだ光が届かない暗い路地。
その奥からアルが走ってきていた。アルは僕の怪我を見て驚き、焦り、擦り寄る。
アルがセネカの変化に気がついたのは、僕が病院に運ばれてしばらくしてからだった。


数日して退院する頃には、腕の傷はすっかり消えていた。この病院には治癒の得意な悪魔が務めているそうだ。

『レリエルへの説明大変だったよ、なんとか納得してくれたけど』

セネカは朝日を浴びて気持ちよさそうに羽を伸ばしている。アルは僕が入院した時からずっと不機嫌なままだ。
セネカへの対応が気に入らなかったらしい、アレは僕に傷がつくのをとても嫌がるのだ。

『もう出ていくんだよね?』

「はい、お世話になりました」

アルは軽い会釈をし、病室から出ていった。血に汚れていたカバンも今はもうすっかり綺麗になっている、セネカが手当り次第に血を吸い取ったお陰だろうか。中身も無事だ、弓も本も、その他の物も。

『お世話されたのはボクなんだけどね、じゃあまたどこかで!  ヘルシャフト君!』

「はい、きっとどこかで、セネカさん」

セネカに別れを告げ、空港に向かいながら、僕は腕にはめた角飾りからの声を心待ちにしていた。また近く連絡すると言っていた、いつしてくるだろうか。
セネカが元気になったと言ったら、メルはきっと喜ぶだろう。僕がやったのだと言ったら、どんな反応をして驚いてくれるだろうか。

メルからの連絡も、今まで会った全ての人達との再会も、次の国も、まだ見ぬ人達も。
何もかもが楽しみで仕方がない。
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