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第四章 温泉の国の海底には
『黒』
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声も影も僕だけに認識されるものだ、その証拠に誰もこの声に反応していない。
『本当に大丈夫かな? 本当に死んでいるのかな?』
無機質で単調な声が頭の中に響く。
あの黒い少女の声だ。
『ねぇ、どうしてレヴィアタンがここに来たと思う? どうして今になって呪いを強めたのかな、君達みたいな敵対者の存在を知ったんだろうね。ならそれを教えたのは誰なんだろうね。
ねぇ、どうしてヘルメスがここに来たと思う? あの弓を運べと言ったのは誰なんだろうね』
淡々とした声に微かな笑いが混じる。
『面白い事を見たがった傍観者が口を出したのかもね』
声は消えた。微かな耳鳴りが残っていたが、それもすぐに止む。
傍観者……少女は確か、「傍観させてもらう」と言っていた。
なら少女が教えたのか? 何故、何の為に。
楽しむ為に? ずっと見ていたのか?
ヘルメス、というのは……弓を届けたあの青年の事か?
そういえばあだ名だけで本名を聞いていなかった。
困惑する僕の体が浮き上がる。足場が崩れたのだ。
黒蛇が僕の体に巻きつき、ゆっくりと引き上げる。
十六夜はオファニエルに抱きかかえられ、ウサギ達も彼女の足にしがみついていた。
落ちていったのは海蛇だけだ。
「さっ、悪魔も倒しましたし帰りましょうか!」
「ねぇ、呪いって術者が死んでも解けないんじゃないの? 僕は術者に解かせないとダメって聞いたんだけど、違うの?」
「……え? て、天使様?」
十六夜を抱いたままのオファニエルの顔色は悪い。
そして気まずそうにこう言った。
『うん……そうなんだよね、どうしよう』
「どっ、どうしようじゃないですよ! 呪いを解くために、あんなに一生懸命戦ったのに!」
『忘れてたんだよぉ! そんなに責めないでくれ! 私だって一生懸命やったんだ!』
「天使様いいとこ持ってただけじゃないですかぁ!」
十六夜と言い争いを始めたオファニエルの翼が、散った。地の底から水弾が撃ち抜いたのだ。
落ちかけたオファニエルは岩場に掴まり、僕に十六夜とウサギ達を投げ寄越した。
『悪魔はまだ生きている! 引きずりあげて呪いを解かせろ!』
「はい! って、どうやってするんですか? 天使様」
『さぁ?』
翼の残りを悲しそうに見ながら、這い上がったオファニエルは十六夜の肩を叩き任せると言った。
「こ、これも試練なのでしょうか。ヘルさん」
「違うと思うよ、絶対にね」
水弾はもう撃ち込まれず、海蛇も姿を現さない。オファニエルの言う通り引き上げなければ海蛇ともう一度対峙する事は出来ないだろう。
『おい、狼。君が行けよ、飛べるんだろ』
『貴様が行け、翼はもう治っているだろう』
オファニエルの翼も完璧に元に戻っている。天使の特権、再生能力。
僕と十六夜は海蛇を引き上げるなんて出来ない、出来る二人は睨み合っている。
ため息をつく──ふと視線を上げると、目の前に黒い影が現れた。
『つまんないね、やっぱりオファニエルじゃ駄目かな』
その言葉に激昴し、オファニエルは腰に下げた剣を抜きながら振り返った。そして声の主の喉元に切っ先を突きつけ、驚嘆した。
『き、君は……生きていた、のか』
『失礼だね』
オファニエルは剣を下げ、じっと観察する。そして、嬉しそうに頬を弛めた。
『本物、だな。随分と黒くなって……どうしたんだ?』
『ずっと退屈していたんだよ、死にそうだった。折角面白くなりそうだったけど君じゃ駄目だったね』
『……力不足か、済まないな。君の退屈は私では癒す事は出来ない。何万年も前から分かっていた事だが……辛いな』
『そんなつまらない君に貸す力はない。だから今回はそこの人間達に免じての行為だ、君のためにやってやるんじゃない、勘違いするなよ』
淡々とした真っ黒の瞳には、一切の希望が無い。
だがその冷たい言葉にもオファニエルは微笑む。
『ありがとう。生きていてくれただけでも嬉しいのに、手も貸してくれるんだね。君にまた会えるなんて夢にも思わなかった。ああ、本当に……君なんだね』
『はぁ……本っ当に、つまらない』
長い前髪で目を隠す、冷酷で無機質な声を残して消える。一瞬の後、海蛇の頭部だけが僕らの目の前に落ちた。僕は呆然とする皆の間をすり抜け、海蛇に歩み寄る。
間違いない、まだ生きている。そして弱っている今なら通用するだろう。今、何をすべきかを僕は明確に理解した。
「レヴィアタン、この国の 呪 い を 解 け」
ぐる、と微かな鳴き声をあげて、ドロっとした黒い霧が海蛇に集まっていく。僕はこの霧が呪いの正体だと直感した。霧を全て吸い込んだ海蛇は、悲しそうに羨みの声をあげる。
「うん。大丈夫だよ、ありがとう」
傷つき、剥がれ落ちた鱗を撫でると、ポロポロと落ちていく。
それだけじゃない。
海蛇の頭部はゆっくりと崩れていっている。
「もう、いいよ。もういいから……おやすみ」
後に残ったのは黒っぽい石の山だ。これが海蛇の、この国を呪っていた悪魔の、最期の姿だなんて誰が分かるのだろうか。
触れた時に全て分かった、あの海蛇の感情が流れ込んだ。
何もかもに妬いていたんだ。自分はずっと独りなのに、仲良さそうに暮らす人間達を羨んでいた。
憎んでいたんだ。
僕には、よく分かる。普通に暮らせる人が、羨ましくて恨めしくて、仕方なかったんだろう? それを救えるのは永遠の安らぎの他にない。
洞窟を出て宿に戻る、明日あたりにはこの国を出る予定だ。オファニエルはその翼を隠すような真似はしなかったが、幸い夜遅くに人は居らずに騒ぎにはならなかった。
「ヘルさんは、これからどうするんですか?」
「旅を続けるつもりだけど、君は?」
「私は天使様と一緒に悪魔退治です!」
「そっか、気をつけなよ?」
『今回は反省点が多過ぎる。私と鳴神だけで倒そうなど、思い上がりだったらしい』
オファニエルは甲冑を脱ぎ、真っ白な布をまとっている。翼を手入れしながらため息をつく。
『今後は小物を相手にしていく事になるな』
「分かりました! 地道な努力が大切なんですね!」
無邪気に笑う十六夜も、何故か自信満々に微笑むオファニエルも気がついていない。
脱いだ甲冑をウサギ達がサンドバッグにしている事に。これだけの破裂音が響いているというのに何故気がつかないのか。
「あの黒っぽい人、知り合いなんですよね」
『あ、ああ。同族……なんだろうな、あの子はかなり曖昧な存在なんだ』
薄々感づいてはいたが、やはり天使か。あの独特な気配は天使とも悪魔とも違ったものに思える、それが''曖昧''と言うことなのだろうか。
『天使の中でも特殊な能力を持っていてな、自分の全てを完璧に自由に出来る、というものなんだ。
だがそれ故に、生きる気力を失えば簡単に存在ごと消えてしまう。
だから本気で退屈しのぎの遊びをしているんだよ。何千年か前から見かけなくなったから、とうとう消えてしまったのかと思っていたんだ』
先程までの自信は消え、俯いたまま話し続ける。
月の如き輝きが、陰る。
『私は、ずっと退屈させないように、消えてしまわないようにと遊んでいた。でも、私は遊びが下手で、いつだって満足させられなかった』
自分の翼を抱きしめるように、羽をむしり取るように、震える手は真っ白になっていく。
『今日、会えてよかった』
オファニエルは自嘲の笑みを浮かべて、話を終えた。十六夜は途中から眠っており聞いていなかったらしい。僕ももう眠る事にする、布団に潜り込んですぐに意識を手放した。
だから、聞いていない。
オファニエルが最後に呟いた言葉なんて、聞いていない。
『……自分だけのものにしようとしたから、この手を離れていってしまったのかな。ねぇ、たぁちゃん、君は今……退屈しているのかな。たぁちゃん……私には、君さえいればいいのに』
天使らしからぬ愛執の言葉なんて、聞いていない。
『本当に大丈夫かな? 本当に死んでいるのかな?』
無機質で単調な声が頭の中に響く。
あの黒い少女の声だ。
『ねぇ、どうしてレヴィアタンがここに来たと思う? どうして今になって呪いを強めたのかな、君達みたいな敵対者の存在を知ったんだろうね。ならそれを教えたのは誰なんだろうね。
ねぇ、どうしてヘルメスがここに来たと思う? あの弓を運べと言ったのは誰なんだろうね』
淡々とした声に微かな笑いが混じる。
『面白い事を見たがった傍観者が口を出したのかもね』
声は消えた。微かな耳鳴りが残っていたが、それもすぐに止む。
傍観者……少女は確か、「傍観させてもらう」と言っていた。
なら少女が教えたのか? 何故、何の為に。
楽しむ為に? ずっと見ていたのか?
ヘルメス、というのは……弓を届けたあの青年の事か?
そういえばあだ名だけで本名を聞いていなかった。
困惑する僕の体が浮き上がる。足場が崩れたのだ。
黒蛇が僕の体に巻きつき、ゆっくりと引き上げる。
十六夜はオファニエルに抱きかかえられ、ウサギ達も彼女の足にしがみついていた。
落ちていったのは海蛇だけだ。
「さっ、悪魔も倒しましたし帰りましょうか!」
「ねぇ、呪いって術者が死んでも解けないんじゃないの? 僕は術者に解かせないとダメって聞いたんだけど、違うの?」
「……え? て、天使様?」
十六夜を抱いたままのオファニエルの顔色は悪い。
そして気まずそうにこう言った。
『うん……そうなんだよね、どうしよう』
「どっ、どうしようじゃないですよ! 呪いを解くために、あんなに一生懸命戦ったのに!」
『忘れてたんだよぉ! そんなに責めないでくれ! 私だって一生懸命やったんだ!』
「天使様いいとこ持ってただけじゃないですかぁ!」
十六夜と言い争いを始めたオファニエルの翼が、散った。地の底から水弾が撃ち抜いたのだ。
落ちかけたオファニエルは岩場に掴まり、僕に十六夜とウサギ達を投げ寄越した。
『悪魔はまだ生きている! 引きずりあげて呪いを解かせろ!』
「はい! って、どうやってするんですか? 天使様」
『さぁ?』
翼の残りを悲しそうに見ながら、這い上がったオファニエルは十六夜の肩を叩き任せると言った。
「こ、これも試練なのでしょうか。ヘルさん」
「違うと思うよ、絶対にね」
水弾はもう撃ち込まれず、海蛇も姿を現さない。オファニエルの言う通り引き上げなければ海蛇ともう一度対峙する事は出来ないだろう。
『おい、狼。君が行けよ、飛べるんだろ』
『貴様が行け、翼はもう治っているだろう』
オファニエルの翼も完璧に元に戻っている。天使の特権、再生能力。
僕と十六夜は海蛇を引き上げるなんて出来ない、出来る二人は睨み合っている。
ため息をつく──ふと視線を上げると、目の前に黒い影が現れた。
『つまんないね、やっぱりオファニエルじゃ駄目かな』
その言葉に激昴し、オファニエルは腰に下げた剣を抜きながら振り返った。そして声の主の喉元に切っ先を突きつけ、驚嘆した。
『き、君は……生きていた、のか』
『失礼だね』
オファニエルは剣を下げ、じっと観察する。そして、嬉しそうに頬を弛めた。
『本物、だな。随分と黒くなって……どうしたんだ?』
『ずっと退屈していたんだよ、死にそうだった。折角面白くなりそうだったけど君じゃ駄目だったね』
『……力不足か、済まないな。君の退屈は私では癒す事は出来ない。何万年も前から分かっていた事だが……辛いな』
『そんなつまらない君に貸す力はない。だから今回はそこの人間達に免じての行為だ、君のためにやってやるんじゃない、勘違いするなよ』
淡々とした真っ黒の瞳には、一切の希望が無い。
だがその冷たい言葉にもオファニエルは微笑む。
『ありがとう。生きていてくれただけでも嬉しいのに、手も貸してくれるんだね。君にまた会えるなんて夢にも思わなかった。ああ、本当に……君なんだね』
『はぁ……本っ当に、つまらない』
長い前髪で目を隠す、冷酷で無機質な声を残して消える。一瞬の後、海蛇の頭部だけが僕らの目の前に落ちた。僕は呆然とする皆の間をすり抜け、海蛇に歩み寄る。
間違いない、まだ生きている。そして弱っている今なら通用するだろう。今、何をすべきかを僕は明確に理解した。
「レヴィアタン、この国の 呪 い を 解 け」
ぐる、と微かな鳴き声をあげて、ドロっとした黒い霧が海蛇に集まっていく。僕はこの霧が呪いの正体だと直感した。霧を全て吸い込んだ海蛇は、悲しそうに羨みの声をあげる。
「うん。大丈夫だよ、ありがとう」
傷つき、剥がれ落ちた鱗を撫でると、ポロポロと落ちていく。
それだけじゃない。
海蛇の頭部はゆっくりと崩れていっている。
「もう、いいよ。もういいから……おやすみ」
後に残ったのは黒っぽい石の山だ。これが海蛇の、この国を呪っていた悪魔の、最期の姿だなんて誰が分かるのだろうか。
触れた時に全て分かった、あの海蛇の感情が流れ込んだ。
何もかもに妬いていたんだ。自分はずっと独りなのに、仲良さそうに暮らす人間達を羨んでいた。
憎んでいたんだ。
僕には、よく分かる。普通に暮らせる人が、羨ましくて恨めしくて、仕方なかったんだろう? それを救えるのは永遠の安らぎの他にない。
洞窟を出て宿に戻る、明日あたりにはこの国を出る予定だ。オファニエルはその翼を隠すような真似はしなかったが、幸い夜遅くに人は居らずに騒ぎにはならなかった。
「ヘルさんは、これからどうするんですか?」
「旅を続けるつもりだけど、君は?」
「私は天使様と一緒に悪魔退治です!」
「そっか、気をつけなよ?」
『今回は反省点が多過ぎる。私と鳴神だけで倒そうなど、思い上がりだったらしい』
オファニエルは甲冑を脱ぎ、真っ白な布をまとっている。翼を手入れしながらため息をつく。
『今後は小物を相手にしていく事になるな』
「分かりました! 地道な努力が大切なんですね!」
無邪気に笑う十六夜も、何故か自信満々に微笑むオファニエルも気がついていない。
脱いだ甲冑をウサギ達がサンドバッグにしている事に。これだけの破裂音が響いているというのに何故気がつかないのか。
「あの黒っぽい人、知り合いなんですよね」
『あ、ああ。同族……なんだろうな、あの子はかなり曖昧な存在なんだ』
薄々感づいてはいたが、やはり天使か。あの独特な気配は天使とも悪魔とも違ったものに思える、それが''曖昧''と言うことなのだろうか。
『天使の中でも特殊な能力を持っていてな、自分の全てを完璧に自由に出来る、というものなんだ。
だがそれ故に、生きる気力を失えば簡単に存在ごと消えてしまう。
だから本気で退屈しのぎの遊びをしているんだよ。何千年か前から見かけなくなったから、とうとう消えてしまったのかと思っていたんだ』
先程までの自信は消え、俯いたまま話し続ける。
月の如き輝きが、陰る。
『私は、ずっと退屈させないように、消えてしまわないようにと遊んでいた。でも、私は遊びが下手で、いつだって満足させられなかった』
自分の翼を抱きしめるように、羽をむしり取るように、震える手は真っ白になっていく。
『今日、会えてよかった』
オファニエルは自嘲の笑みを浮かべて、話を終えた。十六夜は途中から眠っており聞いていなかったらしい。僕ももう眠る事にする、布団に潜り込んですぐに意識を手放した。
だから、聞いていない。
オファニエルが最後に呟いた言葉なんて、聞いていない。
『……自分だけのものにしようとしたから、この手を離れていってしまったのかな。ねぇ、たぁちゃん、君は今……退屈しているのかな。たぁちゃん……私には、君さえいればいいのに』
天使らしからぬ愛執の言葉なんて、聞いていない。
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