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第三章 書物の国の小規模戦争
黒狼
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黒狼が降り立ったのは噴水広場。人は一人も居ない、先程の騒ぎで逃げたのだろうか。
カルコスは噴水の横に落ち、気を失っているのか横たわっている。片翼はちぎれ、胴には大きな歯形がつき血が流れている。
僕はその光景をぼうっと眺め、しばらくして思い出した。
僕を助けたあの黒い狼は?
僕はもう狼の背には乗っていなかった、いつの間にか消えていたのだ。
その代わりなのか、誰かに抱き締められている。柔らかく大きな何かが二つ、背中にぴったりくっつきその形を歪めていた。
『ヘルシャフト君、大丈夫?』
やっと足が地面に着く、優しい女性の声が頭の上から降ってきた。振り向くが視界は塞がれた。
柔らかいものが顔に押し当てられ、呼吸も出来ない。背中に回された腕を振りほどくと、目の前にはスーツ姿の女性が立っていた。
「マルコシアス……さま」
『怪我は無いみたいだけど、何か体に異常はないかな』
先程まで顔に当たっていたものに気がつき、一気に顔が赤くなる。
『あぁ……大丈夫じゃないみたいだね。取り敢えずこれ飲んで、これも食べられるのなら』
彼女が手渡したのはココアとクレープ……だろうか?具材はレタスやハムだ。
珍しくも慌てた様子で、僕を中心にして回るように歩いている。
『どうしよう……呪いや魔術はあまり……何も感じないし……何ともないのかなぁ。銅獅子が呪いを使うってのは聞いたことないし、大丈夫かなぁ。人間は脆いから気をつけないと。でも過干渉も良くないとか聞くし』
青臭いレタスの歯ごたえと酸っぱいドレッシングの味が口中に広がる。ハムは噛みちぎるのに苦労したし、ココアは甘過ぎる。あまり食べ物に力を入れる国じゃなさそうだしな、なんて考え始める。
『ヘルシャフト君、僕の声は聞こえてるよね? 僕が誰かは分かるかい? 自分の名前は言えるかな?』
僕を心配して焦るマルコシアス。いつも冷静な彼女らしくない言動が可笑しく思える。
「大丈夫です。聞こえてますし、分かります」
『そう? 本当に? 何かあれば言うんだよ』
そう言って彼女は僕の頭を撫でた。今までで一番優しく繊細な指だった。
背後から唸り声が轟く。赤銅色の翼を広げた獅子がよろよろと立ち上がった。胴からはもう血は流れていない、翼もみるみるうちに治っていった。
『流石は銅獅子、癒しの力を持つってのは嘘じゃないみたいだね』
『マルコシアス! よくもやってくれたな!』
『悪いのは君だよ? 僕のものに手を出すからそうなるんだよ、知っているだろ?』
マルコシアスは僕を後から抱き締める。
ああ、やっぱり……背中に胸が当たっている。必要以上に大きなそれは、ぐにぐにと僕の背中に押し当てられている。人に化けているとか言っていたが、もしその姿が自分で決められるのならこの姿は誰の趣味なのだろうか。
『ふざけるな! そいつにはあの犬が張り付いていた筈だ! どこへやった!』
『アルギュロスの事かい? あの仔なら図書館だ。何を勘違いしているのか知らないが、ヘルシャフト君はちゃあんと僕と契約している。対価を貰った以上はその対価分の働きはする主義だからねぇ。僕の家に泊まるという契約……今日が終わるまでは髪の毛一本程の傷さえつけさせないよ』
ビリ、と布の破ける音が背後でした。僕の服が破れた訳ではない。足下を這うように細い蛇が揺れている、鷹のような翼が僕を包み込むぐるる、と僕の耳元で肉食獣の低い唸り声がした。
『このマルコシアス、契約者に仇なすモノは全力を持って退ける』
冷たく低いマルコシアスの声が響いた。
決して大きくないその声は何故か広場中に通ったように思えた。
カルコスはしばらくマルコシアスと睨み合っていたが、とうとう目を逸らした。僕を名残惜しそうに見つめながらカルコスは飛び去った。
「あの……マルコシアス、さ……ま?」
マルコシアスのスーツには穴が空き、そこから蛇の尾と鷹の翼が生えていた。
僕がそれらを見つめている事に気がつくと、翼と尾を消してしまった。
『全身一気に戻れば服は無事なんだけどねぇ、一部だけだと実体だから破れちゃうんだよ』
くるん、と一回転。肩甲骨と尾骶骨のあたりに大きな穴が空いている。
『……下着もダメになったかなぁ。高かったのに。あ、ヘルシャフト君。ちょっと見てくれない?』
「や、やですよ!」
『あれ? 喜ばないの? せっかく人間が好きそうな見た目になってるのに』
「喜びません……何か羽織ってください」
両手で目を覆っていると、背中を軽く押された。
『そんなに見たくないなら後ろ歩くよ。今は何も持っていなくてねぇ、家まで我慢するとしよう』
「見たくないって訳じゃ……あ、いやそうじゃなくて、その。こっ、これ。着てください、そんな格好で外を歩かれるのは……困ります」
灰紫のセーターを脱いで渡す。あまり大きくはないが、穴くらいは隠せるはずだ。
薄い肌着一枚になってしまった僕は彼女に気がつかれないように小さく抑えたくしゃみをする。
『……何かを与えなくてはならないね、何がいい?』
「いりませんよ、別に。早く帰りましょう」
『ダメだよ。等価のモノを返さなくては』
「なら後で言いますから。取り敢えず帰りましょう」
セーターを羽織らせたとはいえ、こんな際どい格好で外を歩かせる訳にはいかない。僕も肌着一枚で歩き回りたくはない。
『……分かったよ』
先を歩く僕の手に、細い指が絡む。柔らかく温かいそれは、僕を落ち着かせた。
大きな音を立てながら窓が割れる。
アルは大図書館で資料を探していた。ようやく目当てのものを見つけたかという時に、背後のガラスが割れたのだ。
そして旧知の姿を見た。
『兄弟! お前のガキがあの狼女に捕まっているぞ! いいのか? この駄犬が!』
ガラスを割って飛び込んできたカルコスは開口一番にそう言った。
『……何を言っている仔猫、頭でも打ったか』
『マルコシアスだ! あの執念深い悪魔の!』
『ああ、家に泊めて貰っている』
『………は?』
あんぐりと口を開け、目を丸くする。
百獣の王を自称している獣がしていい顔ではない。
『あの悪魔の家に、だと? 正気なのか? 一度目をつけられたら終わりだぞ?』
『マルコシアス様に無礼な口をきくな、その貧相な鬣を毟るぞ』
『我の威厳の源に手を出すでない! 全く人騒がせな。あのガキがまた攫われたのかと思ったわ』
有りもしない威厳の源は赤銅色の鬣だったらしい。もはやそれも粉々に割れたガラスの破片によってみすぼらしいものになっている。
『ヘルが攫われたとして貴様が焦る必要がどこにある』
『え、いや……ほら、あのガキは……食料だ。我が喰うのだ、決めたのだ』
『ほぅ……?』
『あぁもう! ちゃんと見ておけ! 我が喰うまであのガキを守っておけ! この駄犬!』
急に目が泳ぎだしたかと思えば、焦って飛び出し入ってきた窓の横の窓に飛び込みまた割った。
カルコスは隣の家の屋根を壊しながら去っていった。
アルは旧知の情けない姿にため息をつき、散らばった本から資料の捜索を再開した。
そしてこの後、アルは割れたガラスについて職員にねちっこく問い詰められる事になる。
カルコスは噴水の横に落ち、気を失っているのか横たわっている。片翼はちぎれ、胴には大きな歯形がつき血が流れている。
僕はその光景をぼうっと眺め、しばらくして思い出した。
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僕はもう狼の背には乗っていなかった、いつの間にか消えていたのだ。
その代わりなのか、誰かに抱き締められている。柔らかく大きな何かが二つ、背中にぴったりくっつきその形を歪めていた。
『ヘルシャフト君、大丈夫?』
やっと足が地面に着く、優しい女性の声が頭の上から降ってきた。振り向くが視界は塞がれた。
柔らかいものが顔に押し当てられ、呼吸も出来ない。背中に回された腕を振りほどくと、目の前にはスーツ姿の女性が立っていた。
「マルコシアス……さま」
『怪我は無いみたいだけど、何か体に異常はないかな』
先程まで顔に当たっていたものに気がつき、一気に顔が赤くなる。
『あぁ……大丈夫じゃないみたいだね。取り敢えずこれ飲んで、これも食べられるのなら』
彼女が手渡したのはココアとクレープ……だろうか?具材はレタスやハムだ。
珍しくも慌てた様子で、僕を中心にして回るように歩いている。
『どうしよう……呪いや魔術はあまり……何も感じないし……何ともないのかなぁ。銅獅子が呪いを使うってのは聞いたことないし、大丈夫かなぁ。人間は脆いから気をつけないと。でも過干渉も良くないとか聞くし』
青臭いレタスの歯ごたえと酸っぱいドレッシングの味が口中に広がる。ハムは噛みちぎるのに苦労したし、ココアは甘過ぎる。あまり食べ物に力を入れる国じゃなさそうだしな、なんて考え始める。
『ヘルシャフト君、僕の声は聞こえてるよね? 僕が誰かは分かるかい? 自分の名前は言えるかな?』
僕を心配して焦るマルコシアス。いつも冷静な彼女らしくない言動が可笑しく思える。
「大丈夫です。聞こえてますし、分かります」
『そう? 本当に? 何かあれば言うんだよ』
そう言って彼女は僕の頭を撫でた。今までで一番優しく繊細な指だった。
背後から唸り声が轟く。赤銅色の翼を広げた獅子がよろよろと立ち上がった。胴からはもう血は流れていない、翼もみるみるうちに治っていった。
『流石は銅獅子、癒しの力を持つってのは嘘じゃないみたいだね』
『マルコシアス! よくもやってくれたな!』
『悪いのは君だよ? 僕のものに手を出すからそうなるんだよ、知っているだろ?』
マルコシアスは僕を後から抱き締める。
ああ、やっぱり……背中に胸が当たっている。必要以上に大きなそれは、ぐにぐにと僕の背中に押し当てられている。人に化けているとか言っていたが、もしその姿が自分で決められるのならこの姿は誰の趣味なのだろうか。
『ふざけるな! そいつにはあの犬が張り付いていた筈だ! どこへやった!』
『アルギュロスの事かい? あの仔なら図書館だ。何を勘違いしているのか知らないが、ヘルシャフト君はちゃあんと僕と契約している。対価を貰った以上はその対価分の働きはする主義だからねぇ。僕の家に泊まるという契約……今日が終わるまでは髪の毛一本程の傷さえつけさせないよ』
ビリ、と布の破ける音が背後でした。僕の服が破れた訳ではない。足下を這うように細い蛇が揺れている、鷹のような翼が僕を包み込むぐるる、と僕の耳元で肉食獣の低い唸り声がした。
『このマルコシアス、契約者に仇なすモノは全力を持って退ける』
冷たく低いマルコシアスの声が響いた。
決して大きくないその声は何故か広場中に通ったように思えた。
カルコスはしばらくマルコシアスと睨み合っていたが、とうとう目を逸らした。僕を名残惜しそうに見つめながらカルコスは飛び去った。
「あの……マルコシアス、さ……ま?」
マルコシアスのスーツには穴が空き、そこから蛇の尾と鷹の翼が生えていた。
僕がそれらを見つめている事に気がつくと、翼と尾を消してしまった。
『全身一気に戻れば服は無事なんだけどねぇ、一部だけだと実体だから破れちゃうんだよ』
くるん、と一回転。肩甲骨と尾骶骨のあたりに大きな穴が空いている。
『……下着もダメになったかなぁ。高かったのに。あ、ヘルシャフト君。ちょっと見てくれない?』
「や、やですよ!」
『あれ? 喜ばないの? せっかく人間が好きそうな見た目になってるのに』
「喜びません……何か羽織ってください」
両手で目を覆っていると、背中を軽く押された。
『そんなに見たくないなら後ろ歩くよ。今は何も持っていなくてねぇ、家まで我慢するとしよう』
「見たくないって訳じゃ……あ、いやそうじゃなくて、その。こっ、これ。着てください、そんな格好で外を歩かれるのは……困ります」
灰紫のセーターを脱いで渡す。あまり大きくはないが、穴くらいは隠せるはずだ。
薄い肌着一枚になってしまった僕は彼女に気がつかれないように小さく抑えたくしゃみをする。
『……何かを与えなくてはならないね、何がいい?』
「いりませんよ、別に。早く帰りましょう」
『ダメだよ。等価のモノを返さなくては』
「なら後で言いますから。取り敢えず帰りましょう」
セーターを羽織らせたとはいえ、こんな際どい格好で外を歩かせる訳にはいかない。僕も肌着一枚で歩き回りたくはない。
『……分かったよ』
先を歩く僕の手に、細い指が絡む。柔らかく温かいそれは、僕を落ち着かせた。
大きな音を立てながら窓が割れる。
アルは大図書館で資料を探していた。ようやく目当てのものを見つけたかという時に、背後のガラスが割れたのだ。
そして旧知の姿を見た。
『兄弟! お前のガキがあの狼女に捕まっているぞ! いいのか? この駄犬が!』
ガラスを割って飛び込んできたカルコスは開口一番にそう言った。
『……何を言っている仔猫、頭でも打ったか』
『マルコシアスだ! あの執念深い悪魔の!』
『ああ、家に泊めて貰っている』
『………は?』
あんぐりと口を開け、目を丸くする。
百獣の王を自称している獣がしていい顔ではない。
『あの悪魔の家に、だと? 正気なのか? 一度目をつけられたら終わりだぞ?』
『マルコシアス様に無礼な口をきくな、その貧相な鬣を毟るぞ』
『我の威厳の源に手を出すでない! 全く人騒がせな。あのガキがまた攫われたのかと思ったわ』
有りもしない威厳の源は赤銅色の鬣だったらしい。もはやそれも粉々に割れたガラスの破片によってみすぼらしいものになっている。
『ヘルが攫われたとして貴様が焦る必要がどこにある』
『え、いや……ほら、あのガキは……食料だ。我が喰うのだ、決めたのだ』
『ほぅ……?』
『あぁもう! ちゃんと見ておけ! 我が喰うまであのガキを守っておけ! この駄犬!』
急に目が泳ぎだしたかと思えば、焦って飛び出し入ってきた窓の横の窓に飛び込みまた割った。
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