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第三章 書物の国の小規模戦争
大図書館の禁書棚
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この国での一日は左手を抉られる痛みで始まる。
治ろうとしている傷を舌でこじ開け、血を掻き出す。僕が痛がる様すらも楽しんだ後、マルコシアスは優雅に微笑む。
……やはり、言動と表情が兄に似ている。傷つける理由があり手当をしてくれるだけ彼女の方がマシだけれど。
『じゃあ今日はこれで』
「は……い」
丁寧な手当を施される左手をぼうっと眺める。アルは心配そうに部屋を動き回っている。
『あの、マルコシアス様、対価を私が払うというのは』
僕の隣に足を揃えて座り、おずおずと話しかける。
『君のを貰ってもねぇ……魔力の種類は似てるし、質や量は劣るし、あまり欲しくないんだよねぇ。
それに、彼は君の主なんだろう? 主なら彼が払うべきだ』
『ですが……ヘルは、痛みにあまり強くはなくて』
ちらちらと僕を見る、心配そうに不安そうに、済まなさそうに。翼も耳も尾も垂れて、悲しい鳴き声をあげる。僕にはその仕草が可愛らしく思えてしまう。
『痛いのは嫌?』
「……当たり前じゃないですか」
僕の言葉を聞いて、マルコシアスは今までとは違う笑みを浮かべる。艶っぽいその微笑みは僕の不安を煽る、何も知らなければ魅了されるだろうに。
『なら、気持ち良くしてあげようか?』
『マルコシアス様!』
声を荒らげるアルなど居ないかのように楽しそうに笑っている。
『ダメだ、ヘル。断れ!』
『ふふっ、どうする?』
「それ……どうなるんですか?」
『ん? そうだねぇ、自分から身を捧げたくなるよ。もっともっと、傷つけて、虐げて、ってね。それが快感になるから、そのうち死んじゃうよ』
「やめておきます」
『うんうん、正しい選択だよ。あれはちゃんと取引出来なくなるから嫌いなんだ、他の悪魔は勧めてくるだろうから気をつけるんだよ?』
今までの発言など嘘だったかのように優しく笑って僕の頭を撫でる。その手つきは今まで出会った誰よりも優しく、それがまた恐ろしかった。
大図書館。
書物の国で最も大きく、世界中の本があると言われている。何よりも禁書の棚や宝書庫があるというのが最たる特徴だろう。
「わぁ……大っきい」
『広いからねぇ、迷子になっちゃダメだよ?』
『マルコシアス様、良いのですか? 着いてきて頂いて』
『ん? 二人っきりが良かったのかな? 邪魔して悪いねぇ』
『そ、そういう意味では……その、お忙しいのでは?』
『暇だよ、最近は呼び出す人間がいないから』
高い天井、それまで届く高い本棚。地下もあると聞いた。この中から目当てのモノなど見つかるのだろうか。
「あの……どうやって探したら?」
『司書さんに聞いてご覧、優しく教えてくれるよ』
『……ヘル、マルコシアス様には聞かない方がいい、また対価を要求される』
『聞こえているよ? アルギュロス』
平謝りするアルを尻目に司書らしき人を探す。人の姿のまばらなこの大図書ならすぐに見つかるだろう。
しばらく本棚を眺めながら歩いていると、緑のエプロンをかけた人物を見つけた。胸元に司書と書かれた札がついている、間違いない。
「あ、あの……すみません。司書さん?」
『はい、何か』
紫がかった長い黒髪を後ろで束ね、明るい紫色の眼鏡をかけ、レンズの奥から覗く灰色の瞳は、知性に満ちている。
かがみ込んで作業をしていた彼女の髪は床についていた、立っても少し引き摺っている。
「本を探していて」
『どのような』
「……呪いに関するものを」
彼女は眼鏡の位置を直し、一言一句漏らさず聞き取らせるようにゆっくりと話した。
『かけ方、解き方、種類、歴史、理論、呪物、などがございますが』
「えっと…解き、方」
そうだ、あの国々の呪いを解きたい。僕が生まれて初めて成し遂げたいと思った事だ。
『呪いの強さは』
「かなり……強力で、まず解けないって言われてて」
『ではこちらへ』
そう言うと彼女は図書館の奥へと進んで行く。急いで追いかけると、走らないでと注意された。
目の前で揺れる長い髪は、床を擦っている。その事を指摘しても彼女はお気になさらずと返しただけだった。
彼女はどこか無機質で、とても冷たい。
『こちらです』
彼女が示したのは、重厚な扉だ。僕の腕の太さ程もある鎖が巻かれている。
彼女はそれをいとも容易く解き、軽々と扉を開いた。
扉の中は光がなく何も見えない、目を開いていても閉じていても同じ景色だ。彼女のものと思しき足音だけを頼りに進む。
カチ、と音が響き明かりが灯る。突然の光に目は対応しきれず、何度も瞬く。目が慣れて周囲を見渡すと、壁だと思っていたものが全て本棚だったと気がついた。
『こちらの本棚です。ごゆっくりどうぞ』
「あ、ありがとうございます」
木製の丸椅子を二つ取り出し、彼女は少し離れた位置に座った。
ポケットからメモを取り出し、何かを書き留めている。
さて、呪いの解き方……の本にも色々あるな。変身、病気、幻覚? あの国々の呪いはどれに当てはまるのだろう。
革張りの高級そうな本の中、他とは違った装丁の本を見つける。興味を惹かれて手に取った。
「ル……異? 司書さん、これなんて読むんですか?」
『それは呪いについての本ではありません』
「そうなんですか……」
『…………大丈夫ですか?』
「何がです?」
彼女は僕の顔を怪訝そうに眺めた後、僕の手から本を奪い取って本棚に戻した。扱いに気をつけろということだろうか、ならもう聞いた方が早いな。
「あの、司書さん。国にかけられている呪いとかが載った本ってありますか?」
『国……?』
不思議そうな顔をしながら本棚を探る。
そして一冊の本を取り出した。
『八つの呪いについてならこちらを』
『八つの呪』と書かれた禍々しい本。黒と紫の斑の表紙は模様が蠢いているように見える。恐る恐るページを捲る。
『暴喰の呪』の文字を見つけ、そのページを眺める。知っているはずの文字が初めて見たように理解できない。見ていると目が回る、頭が痛くなってきた。
『そちら禁書の中でも危険なモノです、お気をつけを』
思い出したように言う彼女の姿が歪む、視界がゆっくりと回る。世界が黒く染まっていった。
気がつくと赤い湖の中に立っていた。急いで陸に上がるが、地面も赤い。空もだ、太陽もなくどこまでも赤い。
何もかもが赤い世界。口の中に鉄っぽい味が広がる、吐き出した液体まで赤い。嗅いだことのある匂いだ、吐き気を催す血の匂い。
パシャン、と湖の水面に波が立つ。湖から手が突き出している、一本だけではない。無数の手が、いや人が、次々に這い上がってくる。皮膚を乱暴に剥がされたかのように全身が血に塗れた人型の何かが僕に掴みかかる。
誰か助けて。
そう叫んだのは僕だったか、それとも……
治ろうとしている傷を舌でこじ開け、血を掻き出す。僕が痛がる様すらも楽しんだ後、マルコシアスは優雅に微笑む。
……やはり、言動と表情が兄に似ている。傷つける理由があり手当をしてくれるだけ彼女の方がマシだけれど。
『じゃあ今日はこれで』
「は……い」
丁寧な手当を施される左手をぼうっと眺める。アルは心配そうに部屋を動き回っている。
『あの、マルコシアス様、対価を私が払うというのは』
僕の隣に足を揃えて座り、おずおずと話しかける。
『君のを貰ってもねぇ……魔力の種類は似てるし、質や量は劣るし、あまり欲しくないんだよねぇ。
それに、彼は君の主なんだろう? 主なら彼が払うべきだ』
『ですが……ヘルは、痛みにあまり強くはなくて』
ちらちらと僕を見る、心配そうに不安そうに、済まなさそうに。翼も耳も尾も垂れて、悲しい鳴き声をあげる。僕にはその仕草が可愛らしく思えてしまう。
『痛いのは嫌?』
「……当たり前じゃないですか」
僕の言葉を聞いて、マルコシアスは今までとは違う笑みを浮かべる。艶っぽいその微笑みは僕の不安を煽る、何も知らなければ魅了されるだろうに。
『なら、気持ち良くしてあげようか?』
『マルコシアス様!』
声を荒らげるアルなど居ないかのように楽しそうに笑っている。
『ダメだ、ヘル。断れ!』
『ふふっ、どうする?』
「それ……どうなるんですか?」
『ん? そうだねぇ、自分から身を捧げたくなるよ。もっともっと、傷つけて、虐げて、ってね。それが快感になるから、そのうち死んじゃうよ』
「やめておきます」
『うんうん、正しい選択だよ。あれはちゃんと取引出来なくなるから嫌いなんだ、他の悪魔は勧めてくるだろうから気をつけるんだよ?』
今までの発言など嘘だったかのように優しく笑って僕の頭を撫でる。その手つきは今まで出会った誰よりも優しく、それがまた恐ろしかった。
大図書館。
書物の国で最も大きく、世界中の本があると言われている。何よりも禁書の棚や宝書庫があるというのが最たる特徴だろう。
「わぁ……大っきい」
『広いからねぇ、迷子になっちゃダメだよ?』
『マルコシアス様、良いのですか? 着いてきて頂いて』
『ん? 二人っきりが良かったのかな? 邪魔して悪いねぇ』
『そ、そういう意味では……その、お忙しいのでは?』
『暇だよ、最近は呼び出す人間がいないから』
高い天井、それまで届く高い本棚。地下もあると聞いた。この中から目当てのモノなど見つかるのだろうか。
「あの……どうやって探したら?」
『司書さんに聞いてご覧、優しく教えてくれるよ』
『……ヘル、マルコシアス様には聞かない方がいい、また対価を要求される』
『聞こえているよ? アルギュロス』
平謝りするアルを尻目に司書らしき人を探す。人の姿のまばらなこの大図書ならすぐに見つかるだろう。
しばらく本棚を眺めながら歩いていると、緑のエプロンをかけた人物を見つけた。胸元に司書と書かれた札がついている、間違いない。
「あ、あの……すみません。司書さん?」
『はい、何か』
紫がかった長い黒髪を後ろで束ね、明るい紫色の眼鏡をかけ、レンズの奥から覗く灰色の瞳は、知性に満ちている。
かがみ込んで作業をしていた彼女の髪は床についていた、立っても少し引き摺っている。
「本を探していて」
『どのような』
「……呪いに関するものを」
彼女は眼鏡の位置を直し、一言一句漏らさず聞き取らせるようにゆっくりと話した。
『かけ方、解き方、種類、歴史、理論、呪物、などがございますが』
「えっと…解き、方」
そうだ、あの国々の呪いを解きたい。僕が生まれて初めて成し遂げたいと思った事だ。
『呪いの強さは』
「かなり……強力で、まず解けないって言われてて」
『ではこちらへ』
そう言うと彼女は図書館の奥へと進んで行く。急いで追いかけると、走らないでと注意された。
目の前で揺れる長い髪は、床を擦っている。その事を指摘しても彼女はお気になさらずと返しただけだった。
彼女はどこか無機質で、とても冷たい。
『こちらです』
彼女が示したのは、重厚な扉だ。僕の腕の太さ程もある鎖が巻かれている。
彼女はそれをいとも容易く解き、軽々と扉を開いた。
扉の中は光がなく何も見えない、目を開いていても閉じていても同じ景色だ。彼女のものと思しき足音だけを頼りに進む。
カチ、と音が響き明かりが灯る。突然の光に目は対応しきれず、何度も瞬く。目が慣れて周囲を見渡すと、壁だと思っていたものが全て本棚だったと気がついた。
『こちらの本棚です。ごゆっくりどうぞ』
「あ、ありがとうございます」
木製の丸椅子を二つ取り出し、彼女は少し離れた位置に座った。
ポケットからメモを取り出し、何かを書き留めている。
さて、呪いの解き方……の本にも色々あるな。変身、病気、幻覚? あの国々の呪いはどれに当てはまるのだろう。
革張りの高級そうな本の中、他とは違った装丁の本を見つける。興味を惹かれて手に取った。
「ル……異? 司書さん、これなんて読むんですか?」
『それは呪いについての本ではありません』
「そうなんですか……」
『…………大丈夫ですか?』
「何がです?」
彼女は僕の顔を怪訝そうに眺めた後、僕の手から本を奪い取って本棚に戻した。扱いに気をつけろということだろうか、ならもう聞いた方が早いな。
「あの、司書さん。国にかけられている呪いとかが載った本ってありますか?」
『国……?』
不思議そうな顔をしながら本棚を探る。
そして一冊の本を取り出した。
『八つの呪いについてならこちらを』
『八つの呪』と書かれた禍々しい本。黒と紫の斑の表紙は模様が蠢いているように見える。恐る恐るページを捲る。
『暴喰の呪』の文字を見つけ、そのページを眺める。知っているはずの文字が初めて見たように理解できない。見ていると目が回る、頭が痛くなってきた。
『そちら禁書の中でも危険なモノです、お気をつけを』
思い出したように言う彼女の姿が歪む、視界がゆっくりと回る。世界が黒く染まっていった。
気がつくと赤い湖の中に立っていた。急いで陸に上がるが、地面も赤い。空もだ、太陽もなくどこまでも赤い。
何もかもが赤い世界。口の中に鉄っぽい味が広がる、吐き出した液体まで赤い。嗅いだことのある匂いだ、吐き気を催す血の匂い。
パシャン、と湖の水面に波が立つ。湖から手が突き出している、一本だけではない。無数の手が、いや人が、次々に這い上がってくる。皮膚を乱暴に剥がされたかのように全身が血に塗れた人型の何かが僕に掴みかかる。
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