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万年助手との出会い
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それから一ヶ月ほどたった。その日は本郷大学のキャンパスに行って美学芸術学研究室の教授たちと面会することになっていた。初めて来る場所なので不案内なのだが、正門の前で助手の北沢泰樹という人が迎えに来ることになっていた。
キャンパスの中を一望すると、帝都大学に立ち込める妖気のようなものを感じず、人の生活臭のような空気を感じた。
しばらく待っていると、言われた通り長身の男が近づいて来て声をかけた。
「村瀬先生ですか?」
大学という雑多な世界に似つかわしくない好青年という印象だった。
「私が北沢です。よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしくね」
そう言えば、村瀬は助手の経験がない。助手は非常勤講師と違って非正規雇用ではないから、安くても収入は安定している。それに教授を補佐する立場にあるのだから、教授と縁故ができるし、他の大学との間にも人脈を作りやすい。だったら教授の覚えがめでたければ、非常勤講師と比べて専任講師に昇格しやすいのだろうか。
ふと興味を持って尋ねてみた。
「ところで北沢君。助手というのは居心地がいいものなのかい?」
「研究室の体質になじめば早く出て行くことになりますが、個性を主張してとんがっていると、いつまでも残り続けることになりますよ」
北沢の逆説的な回答に村瀬は違和感を感じた。それはどういうことなのだろう。逆じゃないだろうか。それでも北沢は自分の中では正しいことを言ったつもりなのだろう。思わず考え込んでしまった。
まもなく研究室に着くと北沢はドアを開け、二人は入室した。古びた机の上に本や書類が無造作に積み上げられ、雑然とした雰囲気だ。それを見渡していると奥の方から一人の男が歩み寄って来た。
「ようこそ、本郷大学へ。私が主任教授の朝倉鏡八だ」
「村瀬龍星です。これからよろしくお願いします」
「我々はこれから共に研究する仲間だ。まずはゆっくりと語り合おうじゃないか」
朝倉の人当たりのいい態度に村瀬も気を許し、北沢も交えて三人でお茶を飲みながら世間話をした。今日会ったばかりだが、付き合いが長い旧友を得たような錯覚を覚えた。しかし、その温和な雰囲気は長くは続かなかった。
「ところで、シラバスに載せる授業の内容には何と書いたんだっけ?」
朝倉は話題を切り替えた。それは村瀬も事前に提出するように言われており、一週間ほど前に添付ファイルで送信していたのだ。
「それではすぐにお持ちします」
北沢はそう言って研究室の隅の方に行ったが、すぐに一枚の紙を持って戻って来た。北沢が朝倉にそれを渡すと、朝倉は何やら難しそうな表情を浮かべた。そこにはこう書いてあったのだ。
音楽が社会の情勢を映す所産であることは疑う余地がないことだが、それは受動的な産物であるだけではなく、逆に社会の在り方にも影響を及ぼすという側面も否定できない。そこで両者が相互作用を及ぼしながら、音楽が単なる鑑賞の対象ではなく、政治的あるいは宗教的な特質を醸成していく過程を考察する。そして、狭義の芸術音楽だけではなくポピュラー音楽や民族音楽も射程に入れ、現代的なメディア空間における音楽の政治的特質を解明する手掛かりとしたい。
朝倉は三十秒ほど考え込んだが、やがて口を開いた。
「そんな目新しいことよりもある程度、議論されて評価が定まった作曲家や作品を扱うべきじゃないのかね?」
「こういった目新しい内容の方が学生は興味を持ってくれますよ。やはり大学は授業で勝負するものですからね」
そう言うと、朝倉は目を丸くして何かに当惑するような、あるいは珍しい動物を見ているような顔付きになった。
「村瀬君。君は今までそんな研究をしてきたのか?」
といぶかしげに言った。そう問われて村瀬は答えに詰まった。ゴーストライターとしてはそんな論文を数多く書いてきたが、自分の名義ではそんな前衛的な論文を発表したことはなかったのだ。そのため村瀬は朝倉があらかじめ持っていた人物像とは全く違う男に見えたようだった。それでも自分の授業の斬新さをアピールしようと答えた。
「これからの美学にはこうした型に囚われないスタイルも必要かと思います。作品を既に凝固してしまったものとしてではなく、生きたコンテクストの中に置き戻して、その意味作用がダイナミックに流動する形跡を捉える研究があってもいいはずです」
「しかし、美学の王道は巨匠と名作の連なりから成る歴史像の研究だよ。音楽だったらバッハやヘンデルが近代的な芸術音楽を確立させ、それがモーツァルトやベートーヴェンに影響を与えて古典派を隆盛させ、さらにシューマンやブラームスに影響を与えてロマン派を開花させたといった歴史観に沿った研究が美学の根底にあるんじゃないか。そんな奇抜な研究を試みる人もいるけど、まだ修行中の学生がそれに興味を示して、従来の美学の伝統をないがしろにするようなことはどうかと思うね」
「これからの大学は社会のニーズに応えなければなりません。我々も学生が興味を示す授業をするべきなんじゃないですか?」
「学問が大衆の興味に迎合して形を変えるなんて、あっていいわけがないだろう」
朝倉は苛立ったようにはき捨てた。
「しかし……」
「待ってください」
村瀬がそう言いかけるや否や北沢がその言葉を遮った。
「村瀬先生はまだこの研究室のしきたりをご存知ないんです。私が言い聞かせますから、今日のところはこれまでにしてください」
北沢がそう言うと朝倉もそれ以上何も言わず、譲歩したようだった。
「私はこれで帰るぞ。せいぜい美学の在り方を教えてやってくれ」
朝倉は不機嫌そうに言い残すと、研究室を出て行った。
北沢と二人で研究室に取り残された村瀬は苦虫をかみつぶすような思いをした。この研究室にはあんなのがいるのか。初めから思いがけない壁にぶち当たった気分だ。
それにしても北沢が遮ってくれなかったら口論になっていたかもしれない。機転を利かせた北沢に感謝の念を感じた。
「さっきはありがとう。初日から仲違いするところだったよ」
「あなたはこの研究室のしきたりをご存知ありませんね。それを教えることも兼ねて、今夜は二人で飲み明かしませんか?」
「ああ、そうしようか」
そう言って特に何も考えずに承諾したが、そう言えば他人から酒に誘われるのはこれが初めてだ。それに雪奈以外の人と二人だけで酒を酌み交わしたこともない。男同士が二人で飲むと、どんなムードになるんだろうと妙な興味が起こった。
東京は面積は狭いが、街の規模は大きい。生まれてからずっと東京で育ってきた村瀬でも行ったことがない界隈が多くある。本郷大学の近辺も村瀬はあまり行ったことがなく、街を歩くと珍しいものを見るような感覚がした。二人はその中の一角にあるバーに入って行った。
着席すると二人はまずビールを一杯飲み干して一息付いた。今日初めて会った二人だが、男の友情のようなものが芽生える予感がした。そんな中、北沢はしんみりと語り出した。
「私は今年で四十三歳になるんです」
「えっ……」
村瀬は軽く驚いた。北沢君なんて呼んでタメ口で話していたが、自分より十歳以上年上だったのか。
「助手になってから十年以上になります。もう一生、専任講師になれない万年助手ですね」
「助手でも優れた論文をいくつか書けば、専任講師への道が開けるんじゃないか?」
「教授になって出世コースを歩むか、一生、助手や非常勤講師で終わるかを左右するのは能力ではなく付き合いなんです。同業者や文部科学省の官僚といかがわしい店を飲み歩いたり接待ゴルフに明け暮れたりするのも大学教授の仕事のうちです。そういった才覚で権力者に取り入れない者は、いかに優れた論文を書いても出世できませんよ」
そんなことは言われなくてもわかっているつもりだったが、実際にそうなった人と対面すると、哀れみのような感情がわき出した。
「それともう一つ。私は指導教官という後ろ盾を失ったんです。七年前までこの研究室には高野教授という人がいて、私は高野教授のもとで表象文化論の研究に従事していました。ところが、高野教授は駒場大学に引き抜かれてしまったんです」
村瀬もその大学の名前は知っていた。表象文化論を専攻できる課程がある、日本でも数少ない大学であり、それ以外にも左翼的な研究者が集うことで知られる大学だ。
「その後は朝倉先生が指導教官になりましたが、朝倉先生には私の研究は理解されず、そのため後ろ盾を失った私は万年助手に収まるしかありませんでした」
そうだったのか。村瀬の脳裏には濁った思念が逡巡し、沈黙に陥った。すると北沢はこんなことを言い出した。
「大学教授の研究はスポーツに喩えると団体競技なのか個人競技なのか、どちらだと思いますか?」
「一人でやるんだから個人競技だろう」
「私は団体競技だと思います。大学という組織の一員として学界全体の繁栄のために研究するんですからね。それに仮に個人競技だとしても、周囲に束縛されず何でも自由に研究できるわけではありません。ボクシングでも日本のボクサーは日本ボクシングコミッションに所属しているし、現にライセンスが失効して活動できなくなる選手もいます。それと同じように集団の和を乱すスタンドプレーは嫌われるんです」
「しかし、授業をして定期的に論文を書けば、大学が要求する義務を果たしたことになるんじゃないか? その内容まで干渉されはしないしね」
「この業界はジグソーパズルのようなものかもしれません。それぞれのピースが常に一定の形を保っているから組み合わさるんです。もし、それぞれのピースが俺はこうなりたいんだと主張して形を変えてしまったら成り立ちませんよ」
「それでも研究は個人がそれぞれ行うものなんだから、個性が表れるのは当然じゃないか? それも否定されるのかな。それに突出した個性を武器にマスコミの間で有名になった教授や中にはタレント化した人もいるだろう。そうやって有名になれば、学界全体が社会にアピールできる一つの方法になるんじゃないか?」
「研究は個人で行うものかもしれませんが、教授のもとには明日の研究者を夢見る若者が集っています。つまり、研究者の双肩には自分が指導している学生の将来もかかっているんです。それを考えると個性を主張するのは控えて欲しいですね。専任講師になったからといって何でもできると思わないでください」
そうなのか。北沢は自分よりもこの業界での生活が長く、人生経験も豊富だ。それに比べると自分はまだ未熟で大学のことを何も知らないように思えた。そんな北沢の言葉は村瀬の心の奥にただ染み込んで行った。
キャンパスの中を一望すると、帝都大学に立ち込める妖気のようなものを感じず、人の生活臭のような空気を感じた。
しばらく待っていると、言われた通り長身の男が近づいて来て声をかけた。
「村瀬先生ですか?」
大学という雑多な世界に似つかわしくない好青年という印象だった。
「私が北沢です。よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしくね」
そう言えば、村瀬は助手の経験がない。助手は非常勤講師と違って非正規雇用ではないから、安くても収入は安定している。それに教授を補佐する立場にあるのだから、教授と縁故ができるし、他の大学との間にも人脈を作りやすい。だったら教授の覚えがめでたければ、非常勤講師と比べて専任講師に昇格しやすいのだろうか。
ふと興味を持って尋ねてみた。
「ところで北沢君。助手というのは居心地がいいものなのかい?」
「研究室の体質になじめば早く出て行くことになりますが、個性を主張してとんがっていると、いつまでも残り続けることになりますよ」
北沢の逆説的な回答に村瀬は違和感を感じた。それはどういうことなのだろう。逆じゃないだろうか。それでも北沢は自分の中では正しいことを言ったつもりなのだろう。思わず考え込んでしまった。
まもなく研究室に着くと北沢はドアを開け、二人は入室した。古びた机の上に本や書類が無造作に積み上げられ、雑然とした雰囲気だ。それを見渡していると奥の方から一人の男が歩み寄って来た。
「ようこそ、本郷大学へ。私が主任教授の朝倉鏡八だ」
「村瀬龍星です。これからよろしくお願いします」
「我々はこれから共に研究する仲間だ。まずはゆっくりと語り合おうじゃないか」
朝倉の人当たりのいい態度に村瀬も気を許し、北沢も交えて三人でお茶を飲みながら世間話をした。今日会ったばかりだが、付き合いが長い旧友を得たような錯覚を覚えた。しかし、その温和な雰囲気は長くは続かなかった。
「ところで、シラバスに載せる授業の内容には何と書いたんだっけ?」
朝倉は話題を切り替えた。それは村瀬も事前に提出するように言われており、一週間ほど前に添付ファイルで送信していたのだ。
「それではすぐにお持ちします」
北沢はそう言って研究室の隅の方に行ったが、すぐに一枚の紙を持って戻って来た。北沢が朝倉にそれを渡すと、朝倉は何やら難しそうな表情を浮かべた。そこにはこう書いてあったのだ。
音楽が社会の情勢を映す所産であることは疑う余地がないことだが、それは受動的な産物であるだけではなく、逆に社会の在り方にも影響を及ぼすという側面も否定できない。そこで両者が相互作用を及ぼしながら、音楽が単なる鑑賞の対象ではなく、政治的あるいは宗教的な特質を醸成していく過程を考察する。そして、狭義の芸術音楽だけではなくポピュラー音楽や民族音楽も射程に入れ、現代的なメディア空間における音楽の政治的特質を解明する手掛かりとしたい。
朝倉は三十秒ほど考え込んだが、やがて口を開いた。
「そんな目新しいことよりもある程度、議論されて評価が定まった作曲家や作品を扱うべきじゃないのかね?」
「こういった目新しい内容の方が学生は興味を持ってくれますよ。やはり大学は授業で勝負するものですからね」
そう言うと、朝倉は目を丸くして何かに当惑するような、あるいは珍しい動物を見ているような顔付きになった。
「村瀬君。君は今までそんな研究をしてきたのか?」
といぶかしげに言った。そう問われて村瀬は答えに詰まった。ゴーストライターとしてはそんな論文を数多く書いてきたが、自分の名義ではそんな前衛的な論文を発表したことはなかったのだ。そのため村瀬は朝倉があらかじめ持っていた人物像とは全く違う男に見えたようだった。それでも自分の授業の斬新さをアピールしようと答えた。
「これからの美学にはこうした型に囚われないスタイルも必要かと思います。作品を既に凝固してしまったものとしてではなく、生きたコンテクストの中に置き戻して、その意味作用がダイナミックに流動する形跡を捉える研究があってもいいはずです」
「しかし、美学の王道は巨匠と名作の連なりから成る歴史像の研究だよ。音楽だったらバッハやヘンデルが近代的な芸術音楽を確立させ、それがモーツァルトやベートーヴェンに影響を与えて古典派を隆盛させ、さらにシューマンやブラームスに影響を与えてロマン派を開花させたといった歴史観に沿った研究が美学の根底にあるんじゃないか。そんな奇抜な研究を試みる人もいるけど、まだ修行中の学生がそれに興味を示して、従来の美学の伝統をないがしろにするようなことはどうかと思うね」
「これからの大学は社会のニーズに応えなければなりません。我々も学生が興味を示す授業をするべきなんじゃないですか?」
「学問が大衆の興味に迎合して形を変えるなんて、あっていいわけがないだろう」
朝倉は苛立ったようにはき捨てた。
「しかし……」
「待ってください」
村瀬がそう言いかけるや否や北沢がその言葉を遮った。
「村瀬先生はまだこの研究室のしきたりをご存知ないんです。私が言い聞かせますから、今日のところはこれまでにしてください」
北沢がそう言うと朝倉もそれ以上何も言わず、譲歩したようだった。
「私はこれで帰るぞ。せいぜい美学の在り方を教えてやってくれ」
朝倉は不機嫌そうに言い残すと、研究室を出て行った。
北沢と二人で研究室に取り残された村瀬は苦虫をかみつぶすような思いをした。この研究室にはあんなのがいるのか。初めから思いがけない壁にぶち当たった気分だ。
それにしても北沢が遮ってくれなかったら口論になっていたかもしれない。機転を利かせた北沢に感謝の念を感じた。
「さっきはありがとう。初日から仲違いするところだったよ」
「あなたはこの研究室のしきたりをご存知ありませんね。それを教えることも兼ねて、今夜は二人で飲み明かしませんか?」
「ああ、そうしようか」
そう言って特に何も考えずに承諾したが、そう言えば他人から酒に誘われるのはこれが初めてだ。それに雪奈以外の人と二人だけで酒を酌み交わしたこともない。男同士が二人で飲むと、どんなムードになるんだろうと妙な興味が起こった。
東京は面積は狭いが、街の規模は大きい。生まれてからずっと東京で育ってきた村瀬でも行ったことがない界隈が多くある。本郷大学の近辺も村瀬はあまり行ったことがなく、街を歩くと珍しいものを見るような感覚がした。二人はその中の一角にあるバーに入って行った。
着席すると二人はまずビールを一杯飲み干して一息付いた。今日初めて会った二人だが、男の友情のようなものが芽生える予感がした。そんな中、北沢はしんみりと語り出した。
「私は今年で四十三歳になるんです」
「えっ……」
村瀬は軽く驚いた。北沢君なんて呼んでタメ口で話していたが、自分より十歳以上年上だったのか。
「助手になってから十年以上になります。もう一生、専任講師になれない万年助手ですね」
「助手でも優れた論文をいくつか書けば、専任講師への道が開けるんじゃないか?」
「教授になって出世コースを歩むか、一生、助手や非常勤講師で終わるかを左右するのは能力ではなく付き合いなんです。同業者や文部科学省の官僚といかがわしい店を飲み歩いたり接待ゴルフに明け暮れたりするのも大学教授の仕事のうちです。そういった才覚で権力者に取り入れない者は、いかに優れた論文を書いても出世できませんよ」
そんなことは言われなくてもわかっているつもりだったが、実際にそうなった人と対面すると、哀れみのような感情がわき出した。
「それともう一つ。私は指導教官という後ろ盾を失ったんです。七年前までこの研究室には高野教授という人がいて、私は高野教授のもとで表象文化論の研究に従事していました。ところが、高野教授は駒場大学に引き抜かれてしまったんです」
村瀬もその大学の名前は知っていた。表象文化論を専攻できる課程がある、日本でも数少ない大学であり、それ以外にも左翼的な研究者が集うことで知られる大学だ。
「その後は朝倉先生が指導教官になりましたが、朝倉先生には私の研究は理解されず、そのため後ろ盾を失った私は万年助手に収まるしかありませんでした」
そうだったのか。村瀬の脳裏には濁った思念が逡巡し、沈黙に陥った。すると北沢はこんなことを言い出した。
「大学教授の研究はスポーツに喩えると団体競技なのか個人競技なのか、どちらだと思いますか?」
「一人でやるんだから個人競技だろう」
「私は団体競技だと思います。大学という組織の一員として学界全体の繁栄のために研究するんですからね。それに仮に個人競技だとしても、周囲に束縛されず何でも自由に研究できるわけではありません。ボクシングでも日本のボクサーは日本ボクシングコミッションに所属しているし、現にライセンスが失効して活動できなくなる選手もいます。それと同じように集団の和を乱すスタンドプレーは嫌われるんです」
「しかし、授業をして定期的に論文を書けば、大学が要求する義務を果たしたことになるんじゃないか? その内容まで干渉されはしないしね」
「この業界はジグソーパズルのようなものかもしれません。それぞれのピースが常に一定の形を保っているから組み合わさるんです。もし、それぞれのピースが俺はこうなりたいんだと主張して形を変えてしまったら成り立ちませんよ」
「それでも研究は個人がそれぞれ行うものなんだから、個性が表れるのは当然じゃないか? それも否定されるのかな。それに突出した個性を武器にマスコミの間で有名になった教授や中にはタレント化した人もいるだろう。そうやって有名になれば、学界全体が社会にアピールできる一つの方法になるんじゃないか?」
「研究は個人で行うものかもしれませんが、教授のもとには明日の研究者を夢見る若者が集っています。つまり、研究者の双肩には自分が指導している学生の将来もかかっているんです。それを考えると個性を主張するのは控えて欲しいですね。専任講師になったからといって何でもできると思わないでください」
そうなのか。北沢は自分よりもこの業界での生活が長く、人生経験も豊富だ。それに比べると自分はまだ未熟で大学のことを何も知らないように思えた。そんな北沢の言葉は村瀬の心の奥にただ染み込んで行った。
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