女の思秋期

岡部麒仙

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沙樹の進路

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「それにしても沙樹はどうするつもりなんだろうなあ」
 沙樹が去って千恵と俊夫だけになった食卓で俊夫がぼやいた。
「何が?」
「進路のことだよ。もう受験生なのに勉強に身が入らないようだな」
「それなりに考えてるんじゃないの。お風呂から出たら訊いてみようか」
 本人がその場にいないと、その人について不平を言い出すものだ。だが、そろそろ不平を言い合っているだけではすまされない。本人の前で言わなければならなくなった。千恵は待っている間、厳しく迫ることにしようか媚びるように聞き出そうかと考えていた。
 少したつとパジャマに着替えた沙樹が浴室から出て来た。これから寝るまでに何をするつもりなのかはわからないが、少なくとも勉強に燃えようというオーラのようなものは漂ってこない。
 ダイニングを通り過ぎようとしたところを、俊夫が呼び止めた。
「ちょっと、そこに座りなさい」
「何? 難しそうな雰囲気ね」
 沙樹がさっきまで座っていた食卓の椅子に座ると、その雰囲気が部屋中に充満した。やや重くなった空気をぬうように俊夫の声が通った。
「もう受験生なんだ。今後の進路はどうするつもりなんだ?」
「そんな必死になって勉強しなくても、どこかの大学に入れるでしょ」
「どこかの大学じゃない。志望校を見定めて、そこに向かって努力するんだ。それが受験というものだろう」
「志望校なんて成績と照らし合わせて、入れそうなところに決まるんじゃないの?」
 その通りだ。一部の野心がある人は高望みをして努力するのだが、近頃はそんな野心を持ち合わせていない若者が増えてきた。
 それを聞いた俊夫はがっかりしたように諭した。
「そんな精神ではろくな大人になれないぞ。お母さんを見ならったらどうだ。偏差値ピラミッドの頂点まで登り詰めたんだ」
「でも、今は平凡な高校の先生でしょ。それだったら東大卒じゃなくてもできるんじゃないの?」
「それは……」
 俊夫は言葉に詰まった。すると沙樹は千恵にコメントを求めた。
「お母さんはどう思う? 東大を出て、いちばんいいことって何?」
「お父さんと結婚できたことかな」
 実はこれがよかったなんて堂々と言えることなんて、これと言ってない。沙樹のやる気を高めるようなことをとっさに思いつかなかったので、そう答えておいた。
「え~。こんな人としか結婚できないの? なおさら勉強する気がなくなっちゃう」
「こんな人とは何だ。才女のハートを射止めただけでも立派な方だぞ」
 俊夫も言い返した。
「でも、結婚する前は同じ高校に勤めていたんでしょ。東大卒でも元禄大卒でも結局ゴールは同じなんじゃないの?」
 元禄大とは俊夫の出身校で中堅の私大だ。高校は学歴で序列化される社会ではない。会社のように出世するわけでもないし、高学歴の教員が優遇されるわけでもない。
 事実を言い当てられて俊夫も言い返せなかった。
「平凡な大学を出ても東大卒の人と結婚できるいい見本じゃないの。私もそうしようかしら」
 どうやら沙樹には自分が高学歴・高収入のコースに進もうという気がなく、結婚で逆転をねらっているらしい。それを聞いて千恵は今時の若者はこんなものかと思いながらも落胆はしなかった。
「とにかく今夜ゆっくり考えなさい。明日の朝、自分の考えを言うんだ」
 俊夫がそう言うと、ささやかな家族会議は自然と打ち切りになった。

 その夜、千恵は寝る前に先ほどのやり取りを思い出しながら、こんなことを考えていた。
 自分は東大を卒業して何を得たのだろうか。大人になってから手に入れたものと言えば、今の家庭と職業ぐらいしかない。
 でも、それは平凡な大学でも叶えられる。それよりも何を失ったのだろうか。人生の岐路に立たされ、どちらかを選ばなければならない時には、もう一方の可能性は失われる。そうやって人はいつも何かを失っていく。
 人生はわらしべ長者のようなものかもしれない。持っているものを交換して、より価値の高いものを手に入れていく道のりだ。ただし、新しく手に入るものがより価値が高いとは限らないから人生は難しい。だったら交換しないという選択肢もありだろう。
 未来に何かを得ようとするよりも今あるものを失わないように生きてきたら、人生はどうなるだろうか。そうすれば、ずっと変わらずにいられるかもしれない。それも幸せの形の一つだろう。
 沙樹がそんな平坦な道のりを歩むつもりでも、せめて反対はしないでおこう。そう心に念じた。
 千恵はそんなことを考え出すと眠れなくなる性質なのだが、この夜は深く悩まなかったせいか、すんなりと眠れた。

 翌朝、千恵が目を覚ましてカーテンを開くと、日光が差し込んできた。この日は土曜。太陽は毎日変わらないはずだが、心なしか休日にはのん気な顔をしているように見える。
 少し日光を浴びてリフレッシュすると一階に降りた。すると俊夫が珍しく朝食の支度をしていた。俊夫は休日には大抵起きるのが遅くなるが、たまにはこんなこともあるようだ。
「あら。早起きね」
「この時間が待ち遠しくて早く目が覚めてしまったよ」
「私たちが先に待っていると、沙樹が変に緊張するかもね」
 受験などの面接でも、入室した時点で既に試験官が待機していると威圧感を受ける。これが逆で受験生が入室してから少し考える時間が出来るのだったら、その間に緊張が和らぐのかもしれない。
 早見家の朝食は昨夜の残り物がなければ、トーストと目玉焼き。この日もそうだった。
 目玉焼きは半熟がベストだ。固すぎてもゆるすぎてもベストな仕上がりではない。両親のお説教もほどよい加減に調整すればいいだろう。
 しかし、今朝は俊夫が厳しく言いそうだ。そこで千恵は自分は優しくして中和させようかと思った。
 やがて目玉焼きが出来上がった。俊夫がそれをフライパンから皿に移すのを見ながら、今日の目玉焼きは固すぎないといいなと願った。
 そうこうしているうちに、沙樹が眠い目をこすりながらダイニングに現れた。
「おはよ……。いつも通りの朝ね」
「今日はいつも通りじゃないぞ。昨日の返事を聞かせてもらおうか」
 俊夫は鋭く問いただした。沙樹は答えるより先に冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し、グラスにコポコポと注いだ。それを片手に沙樹はだるそうに椅子に座った。それを一口飲むと誠実さがこもっていない声で答えた。
「やっぱり入れそうな大学に行くわ。今さら必死になって勉強しようなんて思わないしね」
「人生は一度切りなんだ。やる前にあきらめるのか?」
「あきらめる以前にそんな野望がないのよ。世の中、青春をかなぐり捨ててまで猛勉強して一流大学をねらう人がいるけど、そんなことをして何が楽しいの? 人生が一度切りなら楽しまないと損よ」
「まったく……」
「まあ、いいじゃないの。勉強だけが人生じゃないしね」
 千恵はがっかりしてうつむいた俊夫をなだめた。
 その直後、千恵は切に感じた。教師という職業にありながらも、こういう時に「勉強しなさい」と強く言えないのはなぜだろう。
 一般に成功した人は自分の子が同じ進路に進むことを望むのだろう。社長や開業医は自分の子に跡を継がせたがる。しかし、ヨハン・シュトラウス一世は音楽で成功したが、息子が音楽家になりたいと言い出すと猛反対したという。
 千恵は沙樹にエリートコースに進んで欲しいと思ったことはない。幸か不幸か沙樹は母親に憧れもせず、母親のようになりたいとも思わないらしい。それはそれでよかったと、どこかで安心する自分がいた。
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