女の思秋期

岡部麒仙

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高校教師の日常

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「それじゃあ、これで終わり。夏休みだからって浮かれずに少しは勉強するようにね」
 早見千恵がそう言って締め括ると、開放感のようなものがその場に走った。そして喜んだような素振りを見せる生徒たち。
 ここは東京のある高校だ。千恵は高校の国語の教師で二年二組の担任もしている。職歴は二十年近くベテランの域に達しつつある。もっとも、だからと言って生徒たちを勉強に燃えさせることができるわけではないのだが。ベテランになっても何が変わるわけでもなく、ただ年月が過ぎただけなのだ。
 高校の教師とはそんな職業だ。教えることの内容も変わらないし、新しい事業を始めるわけでもない。これが会社なら課長、部長、専務と年功序列で出世していくのだが、高校では平以外の役職は校長と教頭ぐらいしかなく、年季が長くなっても地位や役職が変わるわけでもない。千恵は何かを象徴するように変化に乏しい世界の住人になってしまったのだ。
 職員室に戻ると、先ほどの教室とは空気が違っていた。教師は夏休みにも仕事があるせいか、開放感はない。多くの教師はこれから酷暑の中、出勤するのがいかにもしんどいといった表情をしていた。
 そんな中、その中の一人がこんなことを言い出した。
「それにしても高校って何のためにあるんですかね?」
「勉強するためじゃないですか?」
 千恵は即答した。
「一昔前まで日本は学歴社会と言われていました。しかし、今やそれも崩壊して一流大学を卒業したからといってエリートコースに進めるわけではなくなりました。同時に少子化の影響で高望みしなければ、そこそこの大学に入れるようになりました。こんな時代に必死になって勉強する必要があるんですかね?」
「でも、大学を卒業すれば、高卒に比べると将来の選択肢が広がりますよ」
 常識的なことを指摘した千恵に彼はこう答えた。
「官僚や大学教授になりたければ一流大学卒でないと出世できないし、医者になりたければ難関とされる医学部に合格する必要があります。何かの職業に就きたければ、それを見込める学校に入学する必要があり、それができなければあきらめざるをえなくなります。学校はあきらめさせるためにあるんじゃないですか?」
 それを聞いて千恵は社会学者のピエール・ブルデューが唱えた、学校はふるい分けの装置だという説を思い出した。
 近代以来、身分制度が崩壊して誰もが上流階層に成り上がれるチャンスが生まれたが、全員がそうなることはありえない。そこで新たに身分序列や階級格差を再生産するための装置として、学校は機能しているのだ。そこでは成績評価という選別が繰り返され、優等生と劣等生に分離され、落ちこぼしが作られる(学生が落ちこぼれるのではない)。その過程で自分はもうエリートコースには進めないと悟って、それをあきらめることを決意した時、学生生活は終わりを告げ就職することになるのだ。
 そして、落ちこぼされた者の受け皿はない。高校は一人では自立できない無力な子供を一人前の社会人に育成するためではなく、落ちこぼしを作るためにあるのかもしれない。そんなニヒリスティックなことがふと心に浮かんだ。

 帰宅すると、まだ誰もいなかった。夫の俊夫は別の高校で、やはり国語の教師をしている。娘の沙樹は高校三年生で、受験という通過儀礼を迎える立場にあるが、切迫感はさほどなく、今日もピアノのレッスンに行っている。
 ピアノは五歳の頃から習わせている。自分は音楽の素養はなく音楽教育を受けたこともないから、音楽教育への憧れのようなものがあり、娘には音楽教育を受けさせたかったのだ。沙樹のピアノ歴は十二年になり、先生からもプロ級と太鼓判を捺されるほどの腕前らしいが、それが本当なのか誇張したお世辞なのかは知る由もなかった。
 夕食を作っていると、先に沙樹が帰宅した。
「ただいま~。明日から夏休みね」
 高校最後の夏休みをどう過ごすのかは本人次第だが、これから受験の天王山を迎えるんだという実感はないようだ。
 沙樹はなぜか楽しそうにこう尋ねた。
「高校の先生も夏休みは楽しいの?」
「先生は夏休みにも仕事があるのよ。遊んでいる暇はないの」
「高校生だって夏期講習とか夏休みの宿題とかあって、ずっと遊べるわけじゃないのよ」
「給料をもらって働く方は立場が違うわ」
「そうね。それだと遊びモードに入れないかもね。それより私の誕生日の件、よろしくね」
 沙樹は七月二十六日に十八歳の誕生日を迎える。今回はそれを祝うホームパーティーを行うのだ。夏休みの最中に誕生日があるため、なかなか友達からその日に祝ってもらえないのだが、今年は彼氏の葛西直紀を招くことになっていた。
 直紀は沙樹と同じ高校に通う同級生で、沙樹に彼氏が出来たと初めて知らされた時は驚いたが、娘もいつの間にか大人になっていくんだと実感した。そして、千恵と俊夫も二人の仲を温かく見守ろうという気になったのだった。

 それから一週間後、当日の早見家は独特の緊張感に包まれた。千恵も直紀に会ったことはあるが、娘の彼氏をゲストとして家に招くのは初めてのことだ。ぬかみそ臭い生活臭を見られまいと気を使うのだった。
 千恵は部屋の模様替えをして新しいインテリアを買おうかとさえ思ったけど、俊夫からそこまでする必要はないだろうと言われて思いとどまった。
 当日、沙樹はさも楽しみにしているかのような表情で直紀が来るのを待っていたが、千恵は終始そわそわしていた。
 やがて客人が来訪したインターホンが鳴ると、緊張感が弾けてその成分が何かの気流に変わったようだった。「はい、どなた?」と定型的な応対をした千恵に客人は「葛西です」と答えた。直紀が家に上がると、その内側が別世界に変わったようだった。
 緊張しているのは千恵だけではなく、直紀の方がもっと緊張していると思われるのだが、意外とそんな素振りを見せなかった。
「おめでとう、沙樹」
「今日は来てくれてありがとう」
 祝いの言葉をかけた直紀に沙樹もうれしそうに返事をした。
 直紀をリビングに招き入れると、緊張感も和らいでその場の雰囲気ががらりと変わった。
 さっそく千恵はプレゼントを渡した。
「これで大人なんだから相応のレディーになってね」
 沙樹は受け取ると興味深そうにラッピングした包みを開いた。中身は豪華な装飾が施されたネックレスだった。ネックレスとしては安物だろうけど、それでも数万円はするのだから贅沢品と言えるのだろう。
「ありがとう。奮発したわね」
「値段は訊かないでね」
「僕からはこれだよ」
 直紀のプレゼントははやりのバンドが歌うCD。高校生の財力ではそれくらいが限界だろう。
「初めて直紀からものをもらったわね。うれしいわ」
 沙樹は心から喜んだ様子だった。
 それから千恵はケーキを食卓に置き、ろうそくを十八本立てた。これは知らない人が多いのだが、本来は一息で全てのろうそくを吹き消せたら一年間いいことがあるというおまじないなのだ。
「それでは今年もいい年になりますように」
 沙樹はそう言ってみごとに一息で吹き消した。
 テーブルには豪華なパーティー料理が並んでいる。千恵も料理を作る自信がないわけではないが、今日は直紀が来るから宅配業者に注文しておいた。これでパーティーの始まりだ。
「十八歳になったらしたいことはある?」
 直紀が尋ねた。
「これで堂々とアダルトビデオを借りられるわね」
「あはは……」
 力強く語った沙樹に直紀は笑いを漏らした。
 それを聞いて千恵は軽く驚いた。沙樹がアダルトビデオに興味を示したことにではなく、そんなことを彼氏の前であっけらかんと言ったことに。男なら彼女の前でそんなことは言えないだろう。この社会のジェンダーの在り方はどうなっているんだろうと思った。
「十八歳になったら選挙権もあるわね。次の衆院選でジーミン党の候補が落選したら朝まで祝い酒よ」
「何言ってるの。飲んでいいのは二十歳からよ」
「あれ、そうだっけ?」
 千恵が指摘すると沙樹も意外そうな反応をした。そんなやり取りをしながら夜はふけていった。
 宴もたけなわになった頃、千恵は直紀に尋ねた。
「直紀君は卒業したらどうするの?」
「東京の大学に進学するつもりです」
「じゃあ、これからも沙樹と一緒にいてくれるのね」
「はい。できればいつまでも一緒にいたいですね」
 直紀がそう言うと、その場の雰囲気も和やかになった。こんな彼氏も出来て娘が幸せそうでよかったと千恵は心から思った。
 それからディナーも食べ終わって、その場の雰囲気を醸成していた燃料が尽きたような気がしたので、千恵は一同に言い渡した。
「それじゃあ、今日はここまでにしようか。夜も遅いし直紀君はそろそろ帰ったら?」
「あら、だったら最後は私のピアノで締めるわね」
 沙樹がそう言い出したので、一同はピアノが置いてある部屋に移動した。
「今日はありがとう。私からの返礼よ」
 沙樹の指が鍵盤に降ろされると同時に甘美な旋律が響き渡った。これは「トロイメライ」だ。その夢想的な楽想はその場の慈愛と安らぎに満ちたムードに調和した。千恵はピアノを習わせてよかったとしみじみ思った。そして、この幸せが永遠に続くことを切に願った。
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