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第三章
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岬の向こう側に沈む大きな夕陽を眺めようと、春川が狭い車道を歩きはじめると、そこで初めて人影を見た。
半ば錆び付いた鉄製の古自転車を抱え、よれよれの麦わら帽子にランニングシャツという遠き昭和の頃のスタイルで立ち尽くす小柄な老人だった。肌は赤銅色に焼け、少し腰が曲がっていた。彼は、車道に立って春川に笑いかけると、少しなまりのきつい発音で、こう聞いて来た。
「にいさん、灯台に、お泊まりなさるのかい?」
「ええ、そうですよ。官舎の跡地に泊まる規程になっています。」
春川は丁寧に答えた。地元住民との応接は、常に丁寧に。横柄な態度や面倒臭そうな受け答えは、トラブルを招き寄せるので厳禁。タックス・ペイヤーの皆さんに払うべき、当然の敬意と礼節を持って。しかし、そもそも、この老人はもはや納税者などではないはずだが。
老人は、すきっ歯を見せてハハと笑い、
「そりゃ、おやめなすった方が良い。」
と言った。
「えっ?なんでですか?」
春川は気軽に答えた。土地により、もし運が良ければ地元の旅館や民家などに泊めてもらえることもあるが、さすがに、この限界集落の島にそのような余裕があるようには思えない。また、泊まって行けと言われても、この老人の家にはお伺いしたいとも思わない。
老人は、構わず言った。
「お戻りなさるからね。」
「お戻り・・・誰が、お戻りになるのですか?」
「あの夫婦だよ。」老人は言った。いま春川が出てきた灯台に併設されている官舎を指さし、
「あすこの、主だよ。たぶん明日あたり、お戻りになる。」
春川には、この老人が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
この灯台が有人だったのは、確か、もう40年以上も昔のこと。それまでは、明治の昔より代々この島の灯台守を勤めた夫婦が二人であの官舎に住み、ずっとこの海の道標を守り続けてきたと聞いている。だが、経費削減と無人化、自動化の波がこの夫婦の生涯をかけた生きるよすがを奪い、以降、官舎はずっと無人のままだ。春川は、その最後の灯台守夫婦がその後、どこでどうなったのか知らない。
「なるほど。引退されたあとも、昔の仕事場やお家が懐かしいと見えますね。大丈夫です、歓迎しますよ、僕にとっては大先輩だ。」
春川は言った。言いながら考えた。ていうか、そいつらいま何歳だよ?もう何十年も前に引退して、こんな辺鄙な島にまだ住んでいるのか?それともわざわざ・・・島外からやって来るのか?
老人は、その春川の答えを聞くとしばらく黙り、そして嘲るような笑いを浮かべた。
「そうかい。怖くねえんか。なら構わない。だけどよ・・・もしかしたら今夜あたり、まずは様子を見に、そっと来られるかも知れないぜ。」
そう言うとハンドルを抱えて古自転車に跨がり、そのままよろけながら道路を進み、緩やかな坂を降ってどこかに行ってしまった。
かなたの斎場の黒い煙突から、煙が吐かれているのが見えた。
「なんだ、ありゃあ?」
再び一人きりになった春川は、そう呟いた。老人は、いつの間にか姿を完全に消してしまい、その無礼な一言が聞きとがめられる心配はない。だが春川には、まだあの汚いなりの老人が残した気配のようなものが、どことなく粘性を帯びた糊のごとく周囲の空気にへばりついているような気がした。
目的だったオレンジ色の夕陽は、まさにその場所から大いに堪能できたものの、老人の妙な言葉に気持ちをかき乱された春川は、すでにそんな気分をなくしてしまっていた。やがて、すぐにストンと夜の闇がやって来る。今日はもう、あの斎場の向こうの谷にある役場に行くこともできないだろう。
そうだ、今日はもう終わりだ。早めにもといた官舎へと引き揚げて、備蓄の缶詰をいくつか開け、携帯コンロでパックの飯を温めて夕食をとり、音楽でも聴きながら、さっさと寝てしまおう。あとは明日だ。すべて明日だ。
半ば錆び付いた鉄製の古自転車を抱え、よれよれの麦わら帽子にランニングシャツという遠き昭和の頃のスタイルで立ち尽くす小柄な老人だった。肌は赤銅色に焼け、少し腰が曲がっていた。彼は、車道に立って春川に笑いかけると、少しなまりのきつい発音で、こう聞いて来た。
「にいさん、灯台に、お泊まりなさるのかい?」
「ええ、そうですよ。官舎の跡地に泊まる規程になっています。」
春川は丁寧に答えた。地元住民との応接は、常に丁寧に。横柄な態度や面倒臭そうな受け答えは、トラブルを招き寄せるので厳禁。タックス・ペイヤーの皆さんに払うべき、当然の敬意と礼節を持って。しかし、そもそも、この老人はもはや納税者などではないはずだが。
老人は、すきっ歯を見せてハハと笑い、
「そりゃ、おやめなすった方が良い。」
と言った。
「えっ?なんでですか?」
春川は気軽に答えた。土地により、もし運が良ければ地元の旅館や民家などに泊めてもらえることもあるが、さすがに、この限界集落の島にそのような余裕があるようには思えない。また、泊まって行けと言われても、この老人の家にはお伺いしたいとも思わない。
老人は、構わず言った。
「お戻りなさるからね。」
「お戻り・・・誰が、お戻りになるのですか?」
「あの夫婦だよ。」老人は言った。いま春川が出てきた灯台に併設されている官舎を指さし、
「あすこの、主だよ。たぶん明日あたり、お戻りになる。」
春川には、この老人が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
この灯台が有人だったのは、確か、もう40年以上も昔のこと。それまでは、明治の昔より代々この島の灯台守を勤めた夫婦が二人であの官舎に住み、ずっとこの海の道標を守り続けてきたと聞いている。だが、経費削減と無人化、自動化の波がこの夫婦の生涯をかけた生きるよすがを奪い、以降、官舎はずっと無人のままだ。春川は、その最後の灯台守夫婦がその後、どこでどうなったのか知らない。
「なるほど。引退されたあとも、昔の仕事場やお家が懐かしいと見えますね。大丈夫です、歓迎しますよ、僕にとっては大先輩だ。」
春川は言った。言いながら考えた。ていうか、そいつらいま何歳だよ?もう何十年も前に引退して、こんな辺鄙な島にまだ住んでいるのか?それともわざわざ・・・島外からやって来るのか?
老人は、その春川の答えを聞くとしばらく黙り、そして嘲るような笑いを浮かべた。
「そうかい。怖くねえんか。なら構わない。だけどよ・・・もしかしたら今夜あたり、まずは様子を見に、そっと来られるかも知れないぜ。」
そう言うとハンドルを抱えて古自転車に跨がり、そのままよろけながら道路を進み、緩やかな坂を降ってどこかに行ってしまった。
かなたの斎場の黒い煙突から、煙が吐かれているのが見えた。
「なんだ、ありゃあ?」
再び一人きりになった春川は、そう呟いた。老人は、いつの間にか姿を完全に消してしまい、その無礼な一言が聞きとがめられる心配はない。だが春川には、まだあの汚いなりの老人が残した気配のようなものが、どことなく粘性を帯びた糊のごとく周囲の空気にへばりついているような気がした。
目的だったオレンジ色の夕陽は、まさにその場所から大いに堪能できたものの、老人の妙な言葉に気持ちをかき乱された春川は、すでにそんな気分をなくしてしまっていた。やがて、すぐにストンと夜の闇がやって来る。今日はもう、あの斎場の向こうの谷にある役場に行くこともできないだろう。
そうだ、今日はもう終わりだ。早めにもといた官舎へと引き揚げて、備蓄の缶詰をいくつか開け、携帯コンロでパックの飯を温めて夕食をとり、音楽でも聴きながら、さっさと寝てしまおう。あとは明日だ。すべて明日だ。
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