敵は家康

早川隆

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1巻

1-3

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「ところがよ」

 言葉を継ぐと、おことのほうを見つめた。

「ブエイ様が、取り締まりをきつくしてきた。津島は、尾張のいちばん大切な湊じゃけぇ、あの信秀とかいう織田のお侍が、なんもかも綺麗に掃除しようと、こえぇ代官さ置いたんだ。大学だいがくとかいう男だよ」
「それで、どうなっただよ?」

 久しぶりに、おことがねずみに口をきいた。弥七は、そのことに少しホッとした。

「どうもこうもねえ。もうまいないも効かぬ、女子も効かぬ。一度なんぞ、抱かせようとした女子を、その代官が斬り捨てるような始末じゃ。女子に罪はねえのにな」

 だんだん言葉に熱が入ってきた。昔の憤りが、埋火うずみびのごとくまた胸の内に燃えてきているようだ。

「どうも、あたりに見せしめのつもりでやったことらしいよ。でも、その女子がかわいそうじゃろ。じゃから、わし、仕返ししてやろうとしたんだ」
「その、大学様にか?」

 おことが目を丸くして聞いた。

「そうじゃ。奴の屋敷に忍び入って、刀でも兜でも、目につくもの盗んでやろうと思った。誰かに見つかれば、いっそ斬ってやってもいいと思った。盗ったんが値打ちもんなら、親玉に渡せば金子をくれる。いや、金子なんぞいらん。船着場近くの、辻のあたりに掛けておいてもいい。大学の奴のづらを見てみたかったんじゃ。わし、誰よりもすばしっこいさけ、大丈夫だと思った」

 少し笑った。

「ところがな、とんだ勘違いじゃった。それまでわしが捕まらなかったのは、ただ代官が賂で転んでいたからじゃ。大学は、そんなのと違っただ。屋敷のなかで、刀さ持った怖ぇ侍どもが、たんと待ち構えていたよ」
「どうなったんよ、斬られるでねえか!」

 弥七が叫ぶと、ねずみは、

「あほ。斬られたら、今ここにおれるわけがねえわ」

 と、少し笑って、その顛末を語った。

「ほうほうのていで、何も取らずに逃げ出した。でもな、不思議だったのは、わしが忍び込むいうことを、あらかじめ皆知っているようだったことよ。そのあとすぐにわかったことなんだが、猪蔵の親玉が、わしを売っていただ。大学に、盗賊のわしを成敗させて手柄を立てさせる。そして自分だけ罪を逃れる。そういうことだった」
「おみゃあの親分がねえ……悪い奴じゃな! で、そのあとどうなったんよ」

 おことが聞くと、ねずみは答えた。

「どうもこうもねえ。仲間の一人がわしを逃してくれた。もうあちこちに手が回っていて、境川を越えても追っ手がかかる。安祥に行っても追っ手がかかる。どこまでも追いかけられるから、仕方なしに陰に逃げ込んだのじゃ。それからはずっと陰にいて、出られぬままよ」
「今は、出られたな」

 弥七が言った。皆、少し笑った。
 ねずみはおことのほうに向き直って、改まった口調で、こう言った。

「わしが言いてぇのは、人は信用ならんいうことよ。あれほど可愛がってくれた猪蔵の親分だって、我が身可愛さに、わしを売った。逃げる途中もいろんな奴にだまされたよ。陰に行ってからも、村の奴らや寺の坊主どもに散々ひどい目に遭わされた。もう人は信用ならん、わしは思った。ところがよ」

 ねずみはここでいったん言葉を切り、弥七と目を合わせた。
 そして、二人の男は同時におことの顔を見つめた。ねずみは言った。

「おみゃあは、ちがう。おみゃあは、他所者のわしらをかくまい、飯までくれた。気の利かねえわしがひどいこと言っても、怒りはするが、誰にも売らん。何か、安心したよ。なんと言っていいのかわからないが、礼だけ言うよ」

 すでに、おことの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「馬鹿だね、あんた。そげなこと言われても、なんと言っていいか、うらもわからんよ」

 途中で言葉もぐしゃぐしゃになった。
 弥七は、自分の目の端からも涙が湧き出てきているのを感じた。

「うらはね、ただ、あんたたちと飯食ってると、旦那が帰ってきたような気がしていたんだよ。で、この子もいるようなね」

 おことは、弥七を見る。

「それだけだよ。なのに、行ってしまうんだ。だから堪らなかったんだよ」

 しゃくりあげながら、なんとか言葉を継いだ。

「でもな、仕方ないよね、追っ手がくるかもしれんもんね。わかってるよ。生きてておくれよ。死んだらだめだよ」



 第五章 安祥


 本当なら夜更けの出発までのあいだ、ふたたび心の通い合うことになった三名で、もう一度安らかな、そして最後の団欒の時が持てたはずであった。ところが、切羽つまった周囲の状況は無情にもそれを許さなかった。
 おことは昨夜、敷地の向こうの端にある主殿の座敷で、この荘園の主が京の公家くげの縁者を迎えてにぎやかな宴を催したことを知っていた。京は打ち続く戦乱で焼け野原になっている。だが、それでもさまざまな文化の香りや権威のきれっぱしを運んでくる彼らを、その地のぜいを尽くして厚くもてなすことは、在地の領主にとって、いわば家門をかけた意地であると言ってよかった。
 昨夜の宴では、土地の酒に加えて真菰やたけのこあわび、そしてはまぐりといった食材がふんだんに振る舞われたことを、厨の使用人と仲のいいおことは知っていた。そして、宴で残った食材は数日貯蔵され、古くなると少しずつ荘園内の使用人たちの日々のまかないに「おこぼれ」として利用されていく。しかし日持ちのしない貝や魚などの海産物は、塩に漬けてそのまま寝かされてしまう。その使用量や保存処理した量などの管理は全体に甘く、いわば厨の使用人の一存に任されている。
 この荘で厨を預かる使用人頭は、善良で実直な女で、主人に対する質朴な忠誠心を持ち、自らが利得を得るためにそうした特権を悪用しようとしたことは一度もない。だが仲のいい、気の毒なおことの願いであれば、目につかないようになんとか少量を都合した。これまで弥七とねずみの舌を楽しませた食事の数々は、女子同士のこの紐帯ちゅうたいによる余得であると言ってよかった。
 おことは、弥七がまだ食べたことのないであろう鮑や蛤の食べ残しに期待をかけた。これを確保できれば、これから危険な旅に立つ弥七の舌を、しばしのあいだでも慰め、楽しませることができるであろう。また、目の端に涙を滲ませながら、うまい、うまい、と言って手掴みで次々と口に抛り込む弥七の姿を想像して、おことの心は躍った。
 ところが鮑や蛤を頼みに厨口に来てみると、使用人頭の女から告げられたのは、次の衝撃的な事実だった。

「おことちゃん、危ねえよ。昨日から東の門のあたりに、見慣れねえもんらがちらちらと現れては、こそっとなかをうかがうそうだよ。けさは、西の門にも現れたそうだ。何人かいるみたい。あの小屋におる二人組、早く逃がさねえと、おことちゃん、とばっちり食らうよ!」

 おことにとって、その事態そのものは想定内である。ただ思っていたよりずっと彼らの足は速い、ということだ。おことは、今さらながら弥七の放った礫の禍々しいまでの暴威を感じた。逃走した河原者たかだか二名を、村をあげてここまで追わせてしまう、その底なしの憎しみと殺意の量とを思い知った。
 東と西の門に姿を現したということは、おそらく周囲の街道沿いには、もうあらかた監視の目が光っていると考えて差し支えない。その態勢を整えた上で姿がちらちらと見えるように出没し、不入ふにゅうの権を保持する安全圏の敷地内から、獲物をいぶし出す。戦から逃げ出した雑兵や落ち武者を狩り出すため、侍どもの追手がもちいる罠と同じだ。狡猾こうかつだが、確実な方法である。
 おことは、即座に決断した。
 そのまま蚕小屋にとって返し、目を丸くしているねずみと弥七へ、すぐに身支度をするように命じた。そして二人の手を引くように小屋を出て、小走りに駆け出した。そしてそのまま敷地の南半分を覆う椚木くぬぎの林のなかに導き入れた。
 この林は、数多く必要とされる蚕棚の製材のために保持されているもので、なかは鬱蒼うっそうと暗く、はっきりとついた道などない。しかしごくわずかの使用人しか知らない踏み跡が縦横に走り、奥のほうには小屋まであった。使用人たちは、そこでくすねた品物を交換したり、酒を呑みながら主人の悪口を言って興じたり、あるいは秘めやかな男女の逢引あいびきなどに使ったりしていた。
 その林を抜けると、破れた築地ついじの割れ目から、街道と並行して走る里道に出る。こちらも椚木の林に負けず劣らず暗い道だが、踏み跡はよりはっきりし、街道を走るのと変わらぬ速さで進むことができる。途中で数本の小川を渡渉としょうしなければならず、また木の根や転がる石に足を取られる危険もあるが、河原者ならば何も苦にしないであろう。
 おことはその里道まで、ねずみと弥七を連れてきた。ぜいぜいと息を切らしながら、きっぱりと言った。

「ここで、お別れじゃ」

 そのまま北の方角を指でさす。

「あちらには、この道と並んで安祥さまに行く街道が延びてる。じゃがそこには、おまえたちを追ってる奴らが、たぶん、うようよいるよ。だからこの道を逃げろ。途中、ほこらさまのあるところで二股になるが、右へ行け。そのまま二里ほど先の街道に出る。奴ら、そこまでは見張っていないはずじゃ。そのまま、まっすぐ街道を駆けろ。おまえらなら数刻で安祥さまに着くはずじゃ。関所は、おまえらでなんとかしろ。うらは、ここまでじゃ。はよう、逃げろ」

 ねずみは、おことにかける言葉を探していた。が、咄嗟には何も出てこない。弥七がそれを補った。

「あんがとうな、あんがとうな。うら、おことに会えてよかっただ」

 おことは笑い顔を作って言った。

「今夜はたんとうまいものを持ってきて、おまえに食わしてやろうと思ってたんよ。だが、できなかったわ。心残りじゃ」
「そりゃ残念じゃ。でも、ほんに、あんがとうな」

 ねずみも、ようやく自分が言うべき言葉を見つけたようだった。

「わしら、なんのお返しもできん。助けてもろうてばかりじゃ」
「いいんだよ。文なしの河原者から、代金取るわけにもいかんじゃろ」

 少し笑って懐中に手をやり、口を縛った小さな巾着を取り出した。

「少しだけじゃが、足しにしろ」

 ねずみに渡した。ねずみは驚き、それをつき返した。

「受け取れるかよ! 戻せ。わしらもう消えるよ」
「こりゃ、けったいな話もあるものじゃ。盗人が、貰える金を、いらんと言うら!」

 おことは笑って弥七のほうを向き、それをそのまま手にぎゅっと握らせた。

「わかったな、ぜったいに、死んじゃだめだぞ」

 目を見て、言った。弥七は黙って頷いた。
 そのとき彼方で、誰かが誰かを呼ぶ声がした。一帯を監視している村人が、もしかするとこの一本裏に入った里道の存在をぎつけたのかもしれなかった。もはや一刻の猶予ゆうよもないことは明らかだった。おことは、二人の男の尻を叩き、

「さ、早よ行け! 走れ!」

 と言った。
 弥七はすっ飛ぶように走り出した。ねずみも続こうとしたが、やにわに振り返り、おことに言った。

「おみゃあの旦那な、粟田村あわたむら平蔵へいぞうな。まだ、そんなに遠くには行ってねえような気がするんだ。わし、安祥さま行ったら、何かないか探してみるよ。ほとぼりが冷めた頃、また戻ってくる。できれば連れて帰るよ。それが、恩返しじゃ」

 そう言って、闇に向かって駆け出した。
 あとに残されたおことの頬を、ひと筋、つと涙が伝った。

「ああ、そうだな。まだ近くにいるかもしれねえな。あてにはせんけど、待ってるよ」

 闇に向かって呟いて、椚木の林に戻っていった。


 このおことの機転によって、二人は文字通り命を拾ったのであった。
 村人たちは、ねずみの想像を遥かに超える執拗さと賢さ、手強さを持っていた。おことが二人と里道で別れたまさにそのとき、村が放った追っ手の代表は、この不入の権を持つ荘園内に堂々と踏み込み、川向こうの代官所と、村の属する寺院の高僧の筆による書面をかざして、荘園の主人に不埒な河原者二人の逮捕と身柄の引渡しを要求していた。
 本来は荘内の検断権を持つ主人は困惑し、今夜も逗留とうりゅうしている京の公家の縁者の耳にこの田舎じみた騒ぎが届かないか、そればかりを気にした。
 すぐさま荘内の使用人たちに対する尋問が行なわれ、「蚕小屋に潜む他所者二名」の存在が明らかとなった。やがておことが呼ばれて、殺気立つ村人たちの前に引き出された。おことは、しゃんと背筋を伸ばして座り、すました顔で言った。

「そのような不埒者とは知りませんでした。なにぶん、面倒を見る蚕小屋の数が多く、自分一人では手が回りません。蚕棚の世話が行き届かなければご主人様に迷惑をおかけすることになるため、自分で手配りして、ときどき行き場のない流れ者やら近在の水呑みずのみ百姓やらを雇い、蚕小屋に寝かせ、わずかな飯を食わせて仕事を手伝わせておりました。届をせず、誠に申し訳ございません。以後きちんとご主人様に届け出いたします」

 そして、不埒者二名の行方についてはこう説明した。

「おとといの朝より、姿を消しました。銭だけ取られ、ろくに働きもしねえで、ほんに迷惑なことで。しかし、これも身勝手な人つかいをしていた不徳のいたすところでございます。このたびはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ねえことでございます」

 そうして、村人たちにではなく、自分の主人に対して両手をついて、びた。
 荘園の主人は、おことが蚕を育てる上でもっとも優秀な働き手であることを知っている。思うように人を集められず、彼女にかなりの重労働をいていることも知っていた。そして彼女がいなくなることは、そのままこの荘園の、もっとも割のいい事業である養蚕ようさんによる収益が目に見えて減ってしまうことを意味している。
 そこで、両者を取りなすようにこう言った。

「そういうことじゃ。おことに罪はない。おこともその不埒者に騙された。ぜひおぬしらに追捕ついぶを頼みたい。おそらく安祥や、もっと西の尾張へ逃げたのであろう。ついては、路用にいくばくかの金子を渡すゆえ、必ずその者らを捕らえてきてほしい。今夜はもう遅いゆえ、ここにて休め。さあさ、出陣のささじゃ、酒を持て。この者らに酒を与えよ!」

 村人たちの健脚と獰猛どうもうな殺意とが、酒の力でしばし止められていた頃、弥七とねずみは、月のあかりを頼りにして、夜道を駆けに駆けていた。
 おことの言うとおり祠の右手を曲がり、里道から街道に出ると、一刻もせぬうち、行く手にまちのあかりが見えてきた。

「安祥じゃ。安祥さまじゃ」

 ねずみは言うと立ち止まり、そのまま道を外れて脇の小川の流れに下り、ざぶと足を浸けた。

「汗をかいちょる。まず汗を冷やせ。ここからはゆっくり、歩いていくんじゃ」

 はあはあと、荒い息を吐く弥七は、黙ってねずみに従った。

「巾着さ、わしに渡せ」

 ねずみは命じた。弥七は少し逡巡したが、懐から大事に抱えてきた巾着を渡した。
 ねずみはしばらく、巾着の中身を月の光にかざしてためつすがめつしていたが、やがて、とろとろとした黒い小川の流れに足を浸しながら、こう言った。

「関所は、なにほどのこともなか。避けるには、このあたりから脇の山に入って道を探すんだ」
「こんな、前でか?」

 弥七は目を丸くした。

「そうだよ。関所が近づいてきたところで、脇によけて通ろうとしても無駄じゃ。そんなこと、誰でも考える。関所のぼんくら役人も考える。で、大抵、関所の脇にはそういう、抜け逃げを塞ぐ役目を持った奴らがそっと控えちょう」
「そういうもんかい」
「そうだ。夜中に関所を避けて邑に入ろうとする奴ぁ、大抵、ろくでもないもんよ。盗人、落人おちゅうど、他国の忍び、いろいろじゃ」
「忍び、って、なんじゃ?」
「まあ、知らんでもよいわ。ともかく、いろんなんがこそっと入ろうとするけ、当然、関所もそれには目を光らせちょる」
「このまま、関所を通っちゃだめなのか?」

 弥七が聞く。

「まあ、そうだな。やめたほうがよかろ。もしかしたらもう手配が回ってるかもしれんしな。村の奴ら、思ったより手ごわいけぇ、やりかねんわ。それにな、どう見ても河原者か、せいぜい水呑のどん百姓みたいな二人組が、懐にこんなもんじゃりじゃりいわせて関所さ通ったら、なんと思われるかよ」
「おことはそんなに、銭を入れてくれたんか?」
「おうよ、たんとあるわ」

 手のひらで巾着を揉んで音を立てながら、ねずみは答えた。

「あいつ、たぶんひと月かふた月の稼ぎを全部わしらに渡しおったぞ」

 弥七は黙った。別れてからまだ少ししか経っていない。だが、弥七はおことと別れたのがもっとずっと前のような気がした。

「おことのことは、もう考えんな」

 ねずみは、ぴしゃりと言った。

「気がなまるぞ。気を張れ、こっからが本番じゃ」
「うん」
「とにかくな。また山に入るだ。必ずどこかに道がある。そういう道は大抵関所の向こうに抜けているもんだ。もともと盗っ人だったわしが言うんじゃから、本当じゃ」

 やがて小川から上がって、すたすたと歩き出した。
 弥七も慌てて、あとに従った。


 月の光だけを頼りに進み、思ったよりも遠回りになっていた迷路のような抜け路に悪戦苦闘させられ、夜更けになってやっと、ねずみと弥七は安祥の邑に入った。
 弥七は、邑に入るのは生まれて初めてである。夜更けなのでみち行く者は少ないが、宿や酒場が何十も軒を連ね、まるで蛇のように板屋根の建物がうねりながら続いているさまは、そんな弥七を圧倒するのに充分だった。

「ほえ、こりゃ、凄ぇ!」

 目を丸くして言うと、ねずみは答えた。

「安祥さまはな、ブエイ様の邑のなかでは、せいぜい何番めか、つうくらいの大きさじゃ。いちばんは清洲きよす、つぎに津島じゃな。熱田さまのまわりも、いろんな店が集まっちょる。東でいえば、駿府すんぷが大きいそうじゃ」
「ここより、でっけえ邑があるだか!」
「そうじゃ。わしはよう知らんが、西国には、とんでもねえでかい邑や湊が、わんさとあって、唐と船で行き来しとるそうじゃ。あ、あと、戦で焼け野原になっちまったが、京の都もでっかいそうじゃぞ」

 弥七は、きょろきょろする。陰しか知らない彼にとって、その世界の外に出て、目にする物事すべてが新鮮である。
 彼方には、月を背にしてこんもりと盛り上がった丘と森が見え、その上にも建物の影がいくつもそびえていた。邑の店とは違い、まるで「お寺さん」のような堂々とした形の屋根が天を指すようにピンと立っていた。

「ああ、あれは、安祥のお城じゃ。今は、今川さまが入っちょる。おことの旦那が虜にされたとこじゃな」
「じゃ、旦那はあそこにおるのか?」
「いや、おるまい。別のところじゃ」

 まだ何軒かの酒場にあかりが灯っていたが、彼らはその場所を避け、朝の早い荷馬の馬丁ばていたちがやすむ溜まり場を見つけ、銭を払って片隅に居場所を確保し、やっとひと心地ついた。
 荷馬はすぐ裏の厩舎につながれていたため、まわりはまぐさと馬糞の臭いが立ち込めていたが、馬丁たちは、ほぼ全員が寝につき静かだった。溜まり場の世話役からは彼らの安眠の邪魔をしないように申し含められていたので、ねずみは弥七と小声で話した。

「まずはな、明日、たたらの信三しんぞうという奴を探す」
「たたら?」

 弥七が聞いた。

「そうじゃ。昔、西国でたたらを踏んでいたそうじゃ。たたらとはのう……まあ、なんでもええ。とにかく信三は、知恵が回って耳がさとうて、何でも知っちょう奴や。きっと、おことの旦那のことも知っちょるよ」
「さっきからおことの話ばかりじゃ。おことのことは忘れろと、おみゃあ、うらに言ったでねえか」
「ああ、そじゃった、そじゃった」

 ねずみは苦笑した。

「だがな、恩を受けたでな。やれることはやる。それで何かわかれば、誰かに銭をやってあそこに知らせに行かせるよ」
「いやぁ、道も覚えたけ、うらがちょっとひとっ走り行ってくるよ」

 弥七は言ったが、もちろんだめなことはわかっていた。

「あほ。騙されたと気づいて、たぶん明後日あさってあたりにゃあ、奴らがここまでわんさと追っかけてくらあ。明日のうちにここを離れにゃあならん。だから探すのは明日の昼までじゃ」
「見つかるといいな」
「うむ。明日じゃ。ともかく少し寝ろ」

 弥七は何も答えず、すとんと寝た。蚕の、「さわ、さわ、さわ」は、もう聞こえない。夢に、あの小さな女児が出てくることもなかった。



 第六章 追手


 馬丁の溜まり場に宿を取るというねずみの判断は、きわめて的確なものであった。
 夜明け前、もぞもぞと起き出した馬丁たちが厩舎につないだ馬に水を飲ませ、秣を食わせて一日の仕事を始める準備をしているあいだ、ねずみは、たたらの信三の消息についての情報を聞き回った。数名の馬丁が口を揃えて、こう教えた。

「そいつなら、ようく知っちょる。死んだよ、五年くらい前にな」

 秣をみながら、馬はいきなりぶるぶると震え、時にかすかな鳴き声を漏らす。馬丁たちは、そんな馬の背をいとしそうに撫で、口々にこのようなことを語った。

「なんでも、いぬいの御門あたりで大立ち回りしたらしいよ。新しく安祥の城に入ってきた、今川のさむらいといさかいを起こしてな。よしゃあいいのに刀さ抜いて、へっぴり腰で斬りかかったそうだ。それで返り討ちにあって、手もなく斬られた」
「耳の聡い奴じゃった、この邑のことなんでも知っちょったな。じゃがあまりに多くの噂を知っちょうで、疎ましく思った今川の代官さまにられてしまったっちゅう噂が、そのあとけっこう流れただ」
「どうも織田に通じて、ここいらのこと、あれやこれや知らせとったらしい。それでまことしやかな口実つけられて、斬られた。あくまで噂じゃがな」
「織田の間者かんじゃならば、斬られて当然じゃ」
「ま、どうせわしらもこれから織田様の領内に入って、津島や熱田から荷さ、えっさらほいと、こちら側に運び入れるんだがな」
「あぶねえ、あぶねえ、おまえも斬られるぞ」

 彼らは、どっと笑った。

「ほうよ、生きた心地もせえへん。今川さまはお裁きがきつい。疑われたら、それでしまいじゃ」
「そうだのう」

 政治的には、今は安祥の西、境川の渡し場で三河と尾張の国境線が引かれている。あくまで双方の暗黙の了解をもとにした暫定的な不文律としての国境に過ぎないが、その線を越えたあからさまな軍事行動や挑発行為は、今川と織田ともに行なっていない。それぞれの勢力圏において、それぞれの法や掟に基づく徴税は行なわれている。しかし、この馬丁たちのように、異なった領主の勢力圏を股にかけた経済活動をする者たちは少なくなかった。
 この三河と尾張の国境近くでは、ここ数年目立った軍事衝突はなく、一見安定しているように見えた。が、尾張側の後背地には、山口教継が依る鳴海・大高さらに沓掛の、東西に細長い三角地帯が広がっている。ここは今川方の飛び地として織田の勢威が及ばぬ空白地帯となっており、尾張側に不気味な威圧を加えていた。
 こうした不穏な土地を軽やかに行き来する彼らは、さまざまな噂や情報を身につけ、またそれらを行く先々に撒きながら進む。正しいことも正しくないこともある。また彼らのなかになんらかの諜報活動を行なうような者も紛れ込んでいる。
 話好きの彼らは、ねずみに対しいとも気軽にさまざまなことを教えてくれた。だが、やがて出立の刻限になり、彼らは馬の口を取り、かけ声を上げて次々と溜まり場を出ていった。ひづめの立てる音がポクポクと響き、首に提げた鈴がちりんと澄んだ音を立てた。
 あとに残ったねずみは、困り果てた表情で弥七に告げた。

「たたらの信三いうのはな、実はもともとわしと一緒に津島で盗みさ働いてた仲間じゃ。忍び込むのはわしがうまい。が、信三は、あれやこれや調べたり眺めたりして、屋敷のどこのあたりの目がきつうないなどと、観てとるのがうまいのじゃ。だからいつもわしらは組で盗みに出てた」
「じゃ、ねずみの連れか?」
「そうじゃ、連れじゃ。頼りにしとったよ。じゃが、あの大学の屋敷に忍び入ったときだけは、信三が慌ててた」
「大学って、女子を斬った奴か?」
「まさにその大学じゃ。わしはその女子のかたきが取りたくて取りたくて、もう見境なくなってた。信三はそんなわしを見て、おろおろしてたよ」
「ははーん」

 弥七が、目を輝かせて言う。

「おみゃあ、その女子に、懸想けそうしてただな」

 ねずみは驚きを目に表した。

「ほ、図星じゃ。おみゃあ、いつの間にそんなことるようになってきちょる?」

 弥七は、得意げに笑った。

「陰にいたって、女子の姿さ見て、何も感じないわけがなか。それに、ねずみはわかりやすい。さっきだって……」
「さっきだって?」
「おこと、だよ。おみゃあ、おことに懸想してた。おことの旦那を探すだのなんだの、いろいろ言うけど、結局おことを好いちょるから、そういうこと言うだ」
「こら、わかったようなこと言うな、この餓鬼がきが!」

 ねずみは、今更ながら自分が、この弥七という生まれながらの河原者の子供を、どこか甘く見ていたことに気づいた。礫投げの腕前以外、ただ単に陰で生まれ育った、世間のことを何も知らない無知な子供だと思っていた。しかしこの子は物事に対する恐ろしいまでの直感と、繊細せんさいな観察眼とを併せ持っている。
 それは、弥七が生得的に持っていた資質であったかもしれなかったし、河原の石投げや、陰の周囲一町歩(約1ヘクタール)のあいだで起こる、さまざまな理不尽に揉まれて身につけたものなのかもしれなかった。
 ねずみはこのとき、弥七を対等に扱うことを、心のうちに決めた。彼は言葉を継いだ。

「うん……じゃあ、わかるじゃろ、わし、その女子に懸想しとったんじゃ。それが、斬られた。斬られた上に、女子なのにもかかわらず首だけ辻に晒されとった。夏場で、うじがたかって、真っ黒くなって、ひどいありさまじゃったよ」

 あまりのことに、さすがの弥七も黙った。

「まわりの皆は、大学の情け容赦ようしゃないやりように震え上がってたが、わしは違った。大学の奴、いわしちゃると思った」
「ああ、そりゃ、聞いたよ。屋敷じゅう、たぷたぷといた侍たちに待ち伏せされたんだな」
「そうだ。そんとき、信三は逃げおった」
「逃げた?」
「そうじゃ。刀を振り回す侍どもに屋敷じゅう追い回されて、やっと塀の外に逃れたが、奴はどこにもいやせん」
「わかった!」

 弥七は言った。

「その信三、たぶん親分のなんとかと組やったのや!」
「い、いや、それは違うわ」

 ねずみは、少し慌てて弥七の先走りを抑えた。

「ありそうなことではあるけどな。あやつは怖気おじけづいただけじゃ。単にその場から逃げた」
「なんだ、それだけか」
「おうよ、だが、塀の外で待ってるはずの連れに逃げられたわしの身にもなってみろ。もう目の前が真っ暗になったよ」
「それから、どうした?」
「仲間のもとに逃げ込んで、それから折を見て東に逃げた。信三も、ひと足先に同じ方角へ逃げとった。この安祥でばったり顔を合わせたときは、奴をぶっ殺してやろうかと思ったよ。じゃが、連れは連れじゃな。少ししたら、また二人で組んでここで盗みをやっとった」
「その頃は、ブエイ様のくにじゃったのだな」
「そういうことだ。じゃが、わしも落ち目じゃったな。いろいろあって盗みの腕が落ちとった。あるとき失策しくじって、ここにもおられんようになった」
「信三は、どうしたんよ」
「奴はその頃、土地の女子おなごねんごろになっておった。落ち着きたかったんじゃな。だから、わし、罪を皆ひっかぶって、さらに東へ逃げた。着いた先が陰よ。まだちっせぇ、おみゃあがおった」
「……ねずみは、お人好しじゃな」
「どうとでも言え。じゃが、信三にはあんときの貸しがあるけ、奴に聞けばいろいろわかると思った。無駄だったよ。おことに合わせる顔がねえ」
「合わせる顔がねえって、どっちみちもう戻れんじゃろ。で、これからどうするよ?」
「うーん……」

 ねずみは、顔をしかめ、困り果ててしまった。

「わからん。少し考えよう」


 そのねずみの逡巡、わけても、おことに対する義理を返すことができないもどかしさを吹っ切れず、ついその場で足踏みをしてしまったひとの好い心の弱さが、ふたたび彼らを危地におとしいれることになった。
 荘園での豪気なもてなしで、夜は前後不覚になりぐっすりと寝た村人たちだが、その際、抜け目なく主人に交渉し、屋敷内に飼っている馬を二頭、借り受けることに成功していた。一刻も早く厄介払いをしたい主人は、喜んでそれを認めたのだ。
 追手の機動力は飛躍的に増加した。駄馬に騎乗した経験のある者が、一行のなかに二名いた。村の世話役の息子・伝助でんすけと、まだ十五になったばかりの勘蔵かんぞうである。彼らは、軽装のまま夜明けとともに馬へまたがり、尻に鞭をくれてまず街道を駆け出した。持槍で物々しく武装した徒歩の本隊も、続いてあとを追った。
 ねずみが馬丁たちからさまざまな情報を聞き出していたまさにそのとき、馬上の先遣隊二名はすでに安祥の関所に達していた。不審な二人連れの通行者がなかったか、今川家中から派遣された役人に堂々と質す。
 最初は、百姓の小倅こせがれが居丈高に言葉をかけてくることに激怒した役人たちだったが、ここでも、「お寺さん」の発行した書面の威力は絶大であった。伝助がそれを手にし、彼らの鼻先でひらひらさせると、奪い取って読みはじめた役人たちの態度がころりと変わった。彼らは、安祥での勝手な警察権の行使は厳禁事項であると言いつつも、伝助らが馬を駆って逃亡者を捜索することを、渋々ながら認めざるを得なかった。
 そしてほどなく不審な該当者は誰もここを通っていないことを確認すると、伝助は、河原者どもは行き先を変え、狡猾な知恵を巡らしてどこか別の場所に逃げたのかとしばらく考えたが、やはりなんらかの方法で安祥の邑に入った可能性が高いと結論した。
 徒歩の本隊の到着まで、まだ少しの間がある。本隊の村人たちは、まだ若い先遣隊の二人をあやぶみ、何か行動を起こすときは必ず後続の本隊へ駆け戻り、いったん村の年寄りたちの指示を仰いでからにするよう命じていた。だが、若者らしい前のめりの血気が弾け、そうした迂遠うえんな手順を省くよう、伝助の身体を内側から揺り動かした。
 伝助は、本隊の到着までの時間の空費が、必死の河原者に逃亡の猶予を与えてしまうことを恐れた。また、それまで、いたずらに馬を遊ばせて何もせず待つことに耐えられそうになかった。
 そこで、まずは邑に乗り入れ、様子を探ろうと考えた。そして仮に彼らを発見した場合、自分と勘蔵だけで成敗せいばいすることに決めた。
 伝助のこの判断は、正しかった。
 馬を乗り入れてすぐ、邑の往来で、歩いてくる二人組と鉢合わせをした。お互いに顔は見知った間柄である。陰から土手を越えたこちら側、村の畔道で何度も行き合ったときと同じだった。あまりに唐突に行き合ってしまったため、お互い目が合い、しばし動きが止まった。

「うあぃっ!」

 兄を礫で殺された十五歳の勘蔵が、まず奇矯ききょうな声でわめいた。続いて伝助が、

「こらぁ! 神妙にしやれ!」

 と叫び、反射的に馬の尻に鞭をくれた。
 弥七は、二騎を視認するや否や懐に手をやり、とっておきの礫を取り出した。
 四隅を尖らせ、きときとに削った殺傷力抜群のあの礫である。
 もはや、考える間などない。
 その礫は、人間とは別の何かに操られているかのように弥七の掌を離れ、地面ぎりぎりにまっすぐな軌道を描いて飛び、その平滑な面に風を受け、揚力で少し持ち上がって、ちょうど馬上で喚き散らす勘蔵の頬をえぐり、横に跳ねてそのまま伝助の鳩尾みぞおちに当たった。
 伝助は瞬間、失神して手綱たづなから手を離した。馬は暴れ、その背が激しく上下に揺れた。騎乗はできるが決して慣れた乗り手ではない彼の不運だった。意識はすぐに戻ったが、馬はいななき前脚をはね上げ、もはや制御できない伝助を鞍上から振り落とした。伝助は肘から地面に叩きつけられ、ぼきりと音がし、あたりには濛々もうもうと土埃が立った。
 自分の顔面が突然何かになぐられ、視界一面に細かな飛沫しぶきが立ったことで正気を失った勘蔵は、手にした棒切れを振り回し、河原者二人を馬上から殴ろうとする。だが、狼狽ろうばいした馬の動きを制御することができず、そのままそこでぐるぐると回り出した。
 往来をゆく人々は、突然の出来事に呆然として立ち尽くし、誰もその場を逃げようとしない。あるじを振り落とした馬と、まだ乗せたままぐるぐると回る馬が、蹄でその何名かをね飛ばした。さらに、地面に這いつくばった伝助の腹に蹄が入り、屈強な農耕馬の体重がかかった蹄鉄が、人間の薄い腹の皮膚を破いて臓腑をはみ出させた。
 真黒い血を噴き出し、伝助はぎりぎりと呻き、その場で反り返って痙攣けいれんしたが、土煙に遮られ、そのさまに目を留める者はいなかった。このときになってようやく恐慌が往来の群衆を襲い、右往左往する人と馬とがもつれ合って、現場は凄惨せいさんな様相をていした。
 顔面を血だらけにした勘蔵が、やっと正気を取り戻し、馬の首を掴んで動きを止めた。土埃が収まって路上のすべてのものの動きが止まったとき、そこには、二名の死者と四名の重傷者が転がっていた。


 徒歩で追捕隊の本隊が到着したとき、安祥の邑は物々しい雰囲気に包まれていた。その二刻(約4時間)前、往来で起こった喧嘩騒ぎが死人を出し、往来の建物の一部を破壊して路上は血だらけになった。役人が出張って野次馬どもを長い竿で押さえ、現場にまだ転がる負傷者を手当てしていた。勘蔵は往来脇で座り込んで泣きじゃくっており、その目線の先には、顔にむしろを掛けられた伝助の冷たい遺骸が横たえられていた。
 追捕隊の村人たちは、勘蔵から不意の遭遇の顛末てんまつを聞き言葉もなく立ち尽くした。勘蔵はこう言った。

「河原者の弥七とねずみが、また襲ってきた。礫を投げ、馬を脅かして伝助を殺した」

 勘蔵は、決して意識して嘘を言ったわけではなかった。畔で兄を殺され、異様な心理状態で追捕にかかっていた勘蔵の前にいきなりぬっと現れた彼らは、あらかじめ意図して待ち伏せをしていたように思えたのである。さらにその後の極限の混乱が彼の記憶を乱し、ねずみの手抜かりによる不意の遭遇が、あたかもすべて計画された殺戮さつりくのように印象され、河原者二人は、きわめて危険で狡猾な殺人者として安祥の邑じゅうに恐怖を広げた。
 しかし、その二人の不埒な河原者の姿は、どこにもなかった。
 役人たちは、今川領国の治安維持能力の信用にかかわるこの恐慌を抑えるため、その日の午後から夜にかけ、住民をも多数動員して安祥の邑を徹底的に捜索した。だが、どこの辻にも、どこの軒下にも、怪しい人影を発見することはなかった。
 関所は固く閉じられ、往来は倍の人数で監視され、さらに郊外の森には松明たいまつを持った者たちが山狩りを行なった。それでも誰一人として、凶悪な河原者どもの姿を目にした者はなかった。
 ねずみと弥七は、安祥の邑で、忽然こつぜんとその姿を消した。
 彼らを血眼ちまなこになって探す数千もの目をかいくぐり、まるで煙のように消えてしまった。
 その二人の河原者から悪夢のような返り討ちに遭い、あまりにも痛ましい犠牲を出した村人たちの追捕隊は、もはや全員の心が砕け、昨夜までの意気軒昂けんこうぶりはどこへやら、捕縛を諦め、伝助の遺骸とともに無言で東へ撤収していった。



 第七章 鉄漿かねの男


 まだ冷たい海風が駿河湾を吹き渡り、駿府の邑の辻々を撫ぜあげて、そのまま、この座敷の柱と柱の間を駆け抜けていく。欄間らんかんに掛かった絹布けんぷがそよぎ、柔らかいしわが寄って影を落とし、あたりにはしおの香りが満ちる。
 遠くの船着場には数多くの舟が繋留され、商人や旅人たちの行き来で邑は殷賑いんしんを極めているが、安倍川あべかわを少しばかりさかのぼったここ今川館いまがわやかたの奥座敷は静かである。座敷の前には鏡のような池の水面みなもが広がり、陽の光を反射してきらきらと輝いている。
 広い座敷には一面に清潔な青畳が敷かれ、まるで京の公家屋敷のようである。
 そして今、そこに二人の男が向かい合って座っていた。一人は中年の恰幅かっぷくのよい悠揚ゆうようたる武士で、もう一人はまだ、とても若い。
 いずれも烏帽子えぼしを被り、着衣はお互いに家紋を染め抜いた直垂ひたたれ。無言のうちに互いの肉体が発散する覇気と威厳は、まさに武家の棟梁とうりょうのそれであった。
 一段高い奥の座に座った中年の男が、まず口を開いた。

「三河から、わざわざ大儀。駿府から見る富士はどうじゃ?」

 男の歯は黒く鉄漿かねがしてある。
 一見、まるで公家のようであったが、その目は烱々けいけいとし、鼻の下から顎にかけてはもじゃもじゃのひげが覆っている。花鳥風月や風雅に生きる貌ではなく、現世うつしよの生臭い日々の営みに、むしろ全身全霊を捧げている男のそれであった。

「駿府は久方ぶり。懐かしい限り。富士はひときわあおく、海も美しゅうございます」

 下座に座る若い武士が答えた。
 こちらは、まだ若衆と称しても通りそうなくらいに滑らかな肌艶のやや小柄な男で、常に背筋をピンと伸ばし、油断のない射るような視線を対座する相手に向けている。
 言葉遣いは丁寧かつ慇懃いんぎん、年齢に見合わぬ落ち着きを感じさせ、考えながら、ゆっくりと喋るしゃべ
 そして彼の歯にも、同様に黒く鉄漿がしてあった。

「なにぶん三河は土臭き田舎にて、同じ海でも山でも、斯様かようおもむきはございませぬ。不思議なものでござる」
「松平殿は相変わらず、控えめなことだの」

 高座の男は笑い、続けた。

「しかし、我らが欲するのは、その三河じゃ」
「はて? 三河はほぼ、大殿おおとのが手に入れられたも同然かと」

 松平と呼ばれた若い男は、まるで親のような年齢の相手に、いぶかしげに尋ねる。
 大殿すなわち、この駿府ならびに駿河、遠江、三河の大半を実質的に統治する領主・今川治部大輔じぶのたいふ義元は、

「なんの、なんの」

 と、手にした扇子を振って松平の言葉を否定した。


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