華闘記  ー かとうき ー

早川隆

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第十章  使嗾

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太田又助は、いま自らの隣に座る顔のない男が、静かに口を開き、上座で興奮して先走る新たな覇王をたしなめるさまを、じっと見ていた。

「あいや、お待ちくだされ。尾張がくまなく統一されるまでには、稲生原いのうはらの決戦のあと、二年半あまりを要しました。」
顔のない男はそう言ったが、覇王は、ただ憎々しげに吐き捨てた。
「そうかよ。そうじゃろ!そりゃ、そうじゃろ。話してみろよ、弥三郎さん。いや、弥次右衛門やじえもんさんと呼んだほうがいいか?それとも蔵人くらんどか?」

いったん会話が途切れ、間をつなぐため又助は思わず碗を手に取り、ぬるい茶を喫したが、やがて弥三郎がまた淡々と話し始めた。
「拙者、あくまで祝弥三郎重正でござる。他に幾つかの名や顔を持っていたことはござるが、いずれももう遠い昔のこと。今は、弥次右衛門も蔵人も、もはやどこにもおりませぬ。」



「わしゃ、悔しいんじゃ。なんでか知らぬが、とにかく悔しいんじゃ・・・いや、弥三郎さんよ、あんたが悪い訳じゃねえ。あんたは、ただ総見院様に命ぜられたまま、いろいろに化けて、いろんな相手をたぶらかしてただけじゃろ。そん時は、そうせにゃ、ならんかったんじゃ。その程度の分別は、この藤吉郎にもつくで。だがよ!」

「筑前守に、過去の真実をお知らせしておくには、良い機会と思いました。」
弥三郎は言った。
「拙者はすでに老い、もはやあの時のような働きはできませぬ。今の拙者は、あくまで祝弥三郎であるのみ。筑前守の庇護のもと、稲葉宿を預かる領主にすぎませぬ。が、とにかく、尾張平定が成るには、あと少しばかりの間がございました。そのこと、あと少しだけお話しとうございまする。」

そう言って、許可を求めるように秀吉のほうを見た。覇王は、苦しげに頷いた。



「稲生原の手痛い敗戦のあと、戦場より末盛城に逃げ延びた勘十郎様は、生き残りのため、大方殿にすがられました。当時はまだ、土田御前どだごぜと呼ばれてござった。」
「そして今は、あの三介のもとじゃい。」
秀吉は言った。信長の死後、「大方殿おかたどの」と尊称された彼女は、目下のところ秀吉と対峙する敵、織田信雄 (三介)の庇護下にある。

「さよう。考えてみれば、さきに喜六郎 (秀俊)様を亡くされ、そのあとも総見院様、岐阜中将 (信忠)様、小谷 (於市)殿を亡くされ、そしてこれからお話し申し上げるように勘十郎様も。お生まれになられたお子の殆どに先立たれ、誠においたわしい限りにござる。」
弥三郎は言ったが、その言葉には秀吉はなんの感情も示さなかった。つい先年、於市を、北庄で柴田権六勝家とともに討滅したのは、他ならぬ彼自身であったからである。



「ともかく、大方殿の口ききで、総見院様もいったんは赦免の意をお示しになられました。ただし条件がひとつだけ出され、末盛から清洲まで、勘十郎様と重臣二名が歩行かちにて詫びを入れに来ること、と。」
「歩行にて・・・そうか、たしかそうであったな。儂はそのとき清洲の城中に居たが、役目ありその場は見ることができなかった。確か、三者とも墨染の粗衣で現れたそうな。」
又助が言い添えた。

「又助さんの言われる通りでござる。まるで乞食僧のようないでたちで数里の道を歩ませ、哀れなそのさまを民草どもに見せつけ、尾張の王は誰なのか領内にくまなく知らしめる意図でござる。拙者と権六殿は、墨を顔にまで塗りたくられました。」
「待て。そうか・・・付添の重臣二名とは、柴田権六と津々木蔵人。」

秀吉が気付き、今度はニヤリと笑って面白そうに言った。
「で、蔵人はよ、自分からわざと墨を塗って顔を隠したんじゃろ?」



弥三郎は、覇王の鋭い読みに苦笑しながら答えた。
「まさに。図星でござる。拙者が以前の面のまま清洲に参れば、かつての梁田弥次右衛門であったことが必ず露見してしまいます。よって、反省と恭順の意をより強く示すためと称し、自ら墨を塗りたくり、それにお人の良い権六殿も付きおうてくれました。」

「権六らしい。彼奴は、そういう男じゃった。」
秀吉は言い、つい昨年、滅ぼしたばかりの宿敵に思いを馳せるような目をした。そしてまた、ハッと気づいて、こう言い添えた。
「重臣二名を伴って、というのは、おそらく総見院様のれじゃな。そのようにわざと指示して、自らが送り込んだ細作の頓知とんちを試したのじゃ。」

「さすがでござる。」
弥三郎は覇王の洞察を褒めた。秀吉は素直に、嬉しそうに笑い、
「いや、その後、儂もいろいろ深く関わったでよ。ああやって、実はあんたの働きを褒めとんのよ。照れ屋の総見院様が、いかにもやりそうなことだわい。」

「そして、無事に目出度めでたくご赦免、と。」
又助が引き取って言った。弥三郎は答えた。
「まず一旦は。その後、尾張に、わずかな間ですが平和な時が流れました。」






「二年かそこいらの間だけ、か。そん時、儂はどこで何をしとったかいのう。あまりにも惨めな境遇で、もう、思い出しとうもないわ。」
秀吉は皺だらけの顔で笑った。そして少し真面目な目になり、弥三郎に尋ねた。
「で、そのつかの間の平和にも、なにか裏の意味があったのじゃろ?」

「まったくもって、その通りにござる。」
弥三郎は、今度こそ感じいったように大きく頷きながら答えた。
「勘十郎様とその周辺が、いつかまたち、清洲にやいばを向けてくることは、わかっておりました。それを操るのは、末盛勢の背後に居る、隣国の思惑でござる。」

「美濃か。」
又助が言った。弥三郎は頷いた。
「隣国を統べる斎藤義龍よしたつ殿は、覇気に満ちた、英明な君主でございました。実の父君を弑逆しいぎゃくしたあとにも関わらず、国衆をしっかりとまとめ、美濃は大きく乱れず、総見院様にとりては不気味な頭痛の種でございました。」

今度は秀吉が聞いた。
津々木蔵人つづきくらんどは、引き続き勘十郎様に仕え続けたのじゃな。すなわち、総見院様はあんたの目を通じて、美濃と末盛との連絡をずっと監視し続けておった、いうことじゃろ?」
「いかにも。」
「何を、待っておったのじゃ?」

「美濃の使嗾しそうにより、末盛が岩倉と手を組むのを、総見院様はじっと待っておられたのです。」
「なるほど・・・そこで一気に尾張の北半分も大掃除、か。」
秀吉は唸った。岩倉城には、尾張国の上四郡を統べる守護代・織田信安のぶやすが、どの勢力にも与せず、凄絶な内訌ないこうを繰り返す下四郡の形勢をただじっと注視している。だが、地勢的にも近く、岩倉と美濃の通交はもとより頻繁であった。

「まさにその通り。そして、翌年より徐々にそうした動きが出てまいりました。勘十郎様は、亡くなられた喜六郎 (英孝)様と同様、見目麗しく知恵も廻り、また人の心を捉える華のようなものをお持ちでした。いつしか勘十郎様のまわりに人が集まり、北方に大勢力を保持する岩倉と組んで兄君に復仇する機運が生まれいでてまいりました。」
「そして、その背後には、美濃が。」
「まさにその通り。清洲としてはいつまでも放置してはおけぬ、油断ならぬ状況でございます。」

「で、どのように対抗したのじゃ?勘十郎様のお膝元におられた、津々木蔵人殿は?」
又助が、からかうように尋ねた。弥三郎は、すかさず答えた。
「柴田権六殿を取り込みました。数ヶ月かけ、慎重に、ゆっくりと。」

「なるほど!股肱ここうの両将が、実は二人とも敵方に寝返っておるとは・・・あ、いや、すまねえ!弥三郎さん、あんたはころんだんではのうて、元から策として敵の内部に食い込んでおったんだの。」
秀吉が笑いながら、頭をかきかき言った。先ほど見せたような悔しさはすでになく、どちらかというとこの凄まじい軍略を楽しんでいるかのような表情である。

「やがて、復仇の意思を固められた勘十郎様は、いまだ安らかならぬ守山の背後を監視するためと称し、清洲の許可を得て、竜泉寺に砦を築きはじめました。その築造場所はまさに、先年、喜六郎様が誤射された、松川の渡しのたもとでございます。」
「なるほど。まだ、その一件が心に引っかかっておられたと見ゆるな。」



「勘十郎様と喜六郎様は、いずれも見目麗しく、才智に優れ、また互いに仲睦まじいご兄弟でございました。にも関わらず、守山の手の者に討たれた弟君の仇を報ずることできず。また、その変事の責任者であった織田信次殿が逐電ちくでんされたあとの後任人事にも参画できずに蚊帳の外。そして、あろうことか、新たに入場された織田信時殿が角田新五に討たれたあと、兄君は、よりにもよって他国を流れていた信次様を召し出して、再び城主の座につけるという挙に出られたのです。」

「勘十郎様としては、お立場が無いの。面目丸つぶれじゃ。」
又助が同情するように言った。
「もちろんこれは、そうした勘十郎様の心情を読み切った、兄君の策略でございます。」

「実に巧みな挑発じゃな。さすがの一言じゃ。そして、それを主導したのは、ずっと勘十郎様ご本人のお膝元に控えていた弥三郎さん、あんたに違えねえ・・・実に悪辣じゃ。だが、見事じゃ!」
又助とは違い、覇王はひたすら感極まったように眼前の弥三郎を褒め称えた。

「もちろん、竜泉寺に砦を構えたは、ただ単に松川での遺恨の当てつけだけではありません。そこから庄内川を渡れば、当時、清洲にも末盛にも岩倉にもまつろわぬ独立勢力として威を張っていたここ犬山の勢力圏内でございます。犬山の織田家は当時、すぐ背後に控える斎藤と昵懇。すなわち、竜泉寺に砦を築くことは、末盛の勘十郎様が、誰にも邪魔されず美濃と連絡をつけられるということを意味します。」
「そして、義龍が仲立ちをして、岩倉と勘十郎様を結びつけたというわけか。そうやって、また尾張が上下かみしもに分かれて乱れてくれれば、なるほど、美濃にとってはどこまでも好都合じゃわい!」



「しかし、総見院様と弥三郎さんが一枚上手じゃった。そうなることを見越して、いや、敢えてそうなるように事を仕向けて行った。」
秀吉に較べれば察しの悪い又助が、ここでようやく話に追いついてきた。秀吉はニヤリと笑って大きく頷き、弥三郎に話の続きを促した。

「美濃とのやりとりの内容は、実は、手前どもにはいちいち筒抜けでした。間に占位する守山の城に、我らの息のかかった勢力がおり、竜泉寺砦から中継される美濃からの密報は、末盛城の勘十郎様の手元に届く頃には、既に我らの知るところとなっていたからでございます。」

「息がかかっとった勢力いうんは、もちろん、信次様じゃろ?」
秀吉が、きょとんとした顔で言ったが、弥三郎は黙って首を横に振った。
「しばらく他国にて流浪なされていた信次様は、そのとき手元になんら配下も軍勢もお持ちではございませなんだ。勘十郎様を挑発するため、いわばお飾りの城主として総見院様に送り込まれていただけのこと。その時、実質的に守山を差配していたのは・・・。」

「丹羽!」
秀吉と又助が、同時に声をあげた。

「さよう。丹羽源六げんろく氏勝殿でござる。遠く岩崎城からわざわざ援軍を寄せ、いまにも清洲と末盛に挟み撃ちで皆殺しにされようとしていた守山城に駆けつけたは、単なる義心に非ず。あらかじめ我らと示し合わせた上での、予定の行動でござった。」



「なんてえ、遠慮深謀じゃ!」
秀吉は、大きな声を上げた。耳をすませてずっと話に聞き入っていた彼方の崔槌頭さいづちあたまが、ビクッとして眉をあげるのが見えた。
「呆れかえりゃあ!なんじゃ、そりゃ!ならよ、そもそも何年も前の守山を巡るいくさ騒ぎからして、あんたたちの筋書き通りだったというわけじゃにゃあか!」

それを聞くと、弥三郎は、どこか艶のあるなまめかしい視線を送って、覇王に向かいニコッと笑いかけた。

又助はその笑顔を真横で目撃し、なぜか背筋がぞくりとするのを感じた。





「するとよ。」
ふと、秀吉が気づいた。
「あの守山のいくさ騒ぎの発端、喜六郎様が河原で洲賀才蔵に射殺された一件も、ひょっとして・・・いや、さすがにそれは違うじゃろうの!総見院様にとっては、実の弟君。しかも同腹どうふくじゃ。」

弥三郎はそれを聞くと、フッと笑い、その涼やかな目を畳に落とした。先ほどまで、朽木のようにしなびていた痩せぎすの老人のはだに、なぜか血の気が通い、そこはかとなく艶々しくなっている。

「いや、それはあるめえ。いくらなんでもな。な、そうじゃろ?そうじゃろ?弥三郎さんよ。儂の考えすぎじゃと言うてくれ!まさかよ、総見院様が実の弟君を、それもまだ若くて罪もない弟御を騙し討ちして有無を言わさず殺しちまうなんてよ。しかも、それを皮切りにあちこちに罠を仕掛けて、別の弟御を追い詰めて、討ち取ってしまうなんてよ!あるわけがねえ、いくらなんでも、そんな酷いこと。な、あれは事故じゃろ?裏はないのじゃろ!事故じゃと言うてくれ。」



「洲賀才蔵は、眉目秀麗で弓にけた武士でございました。」
弥三郎は、まるですがりつくような秀吉の哀願を悠然と無視した。そして言った。
「日頃は守山城下に起居しておりましたが、その弓の腕を買われ、清洲にも、末盛にも、那古野にも、あちこちにばれて織田家や、重臣がたに弓術を指南しておりました。」

そしてゆっくりと又助のほうを見やった。目が合ったあと、観念して又助が続け、秀吉に説明した。
「洲賀才蔵は、まさに当時、尾張きっての弓術の大家。拙者も弓はく扱えますが、拙者のそれは、戦場いくさばで近くに現れる敵に向け続けざまに放つ、いわば速射の弓術。遠くを狙って弓を絞り、小さな的に当てる本来の弓術に関しては、とても当時の才蔵の腕前にはかない申さぬ。そんな才蔵が、いくら出会頭であいがしらの事故とはいえ、誤って喜六郎様に矢を当ててしまうとは、たしかに不自然きわまりない怪事でござる。」

「又助さんも、知ってたのかよ。洲賀のことを。」
「さよう。直接の面識はありませんが、何度か遠目に見かけたあの弓術の巧みさときたら、もう。そんな男が、当時、よりにもよって喜六郎様を誤って射殺すとは、一体どうしたことかと清洲の城中で不思議に思ったものでござる。しかし当人はその場から逐電したまま行方知れず。信次様は戻られましたが、洲賀の行方はその後、ようとして知れませぬ。あまりに昔のことで、拙者もすっかり忘れてしまっておりました。」



「そうか・・・やはりそうだったのか。なんてこっちゃい。要するに洲賀才蔵は、弥三郎さん同様の仕事をしとった、手練てだれの曲者だったというわけじゃな。そして、弓術指南を名目に、まだ世のけがれをお知りにならぬ喜六郎様に近づき、なんらかの甘言を弄して、あの日、ただ一騎で河原に来るよう誘いをかけたんじゃ!」

「そして、自ら射殺いころした・・・。」
茫然としながら、又助が続けた。

「そん通りじゃい!つまりこれは、最初っから総見院様の競争相手となる弟御ふたりを、尾張国内の敵対勢力ごと根こそぎにして打ち倒す、どえりゃあ謀略だったんだて!そして、弥三郎さん、あんた、その尖兵せんぺいとして、別人になりすまして敵中深く斬り込んでいったわけじゃ。そして、まずねやを攻め崩して、敵の大将の尻の穴から順に討ち取っていったんじゃ。そうじゃろ!この筑前守の見立て、図星じゃろ?」

秀吉はそう言って、少し畏敬の念を込めたような目で、目の前に座る痩せた老人を見た。祝弥三郎重正は、ただゆったりと笑い、無言のうちにその天下人の言葉を肯定した。




「尾張を束ねるための仕事は、その最終局面に立ち至っておりました。」
弥三郎は言った。
「美濃からの切り崩し・調略という音なき攻撃は続き、やがて総見院様の腹違いの兄・信広様が反旗を翻され、清洲に反抗する動きを見せ始めました。勘十郎様はいまや完全に隣国美濃に取り込まれ、その王の命ずるがまま岩倉と組み、東と北から兄君を挟み撃ちにせんと図っておられます。」

ここでひとつ、にこりと笑って、
「しかしその膝下には拙者が居り、もうひとりの重臣・柴田権六殿とともに清洲と通じておりました。さらに末盛の味方であるはずの守山城中にも丹羽が居り、美濃との通信の内容をいち早く、密かに知らせて参ります。つまり我らは、勘十郎様よりも少しばかり早く相手の意図を知り、一歩先に手を打つことができました。」

「どういう手を、打ったんだよ?」
又助が聞くと、
「まず、ここを。」
弥三郎は言い、いま自分たちの居る広壮な屋敷を眺め渡すような仕草をした。
「この犬山を、取り込みました。当時はまだ、こんな立派な座敷ではなく無骨な板張りの床でございましたが、まさにこの場に密使を送り込み、織田諸家のなかでどこにも属さず独立と沈黙を守り続けていた織田信清様に実の姉君をめあわせ、莫大な利得をお約束された上で、お味方になさったのでございます。」

「うまい手じゃな。この犬山の大切さは、いま狸と対峙している儂としては、身にしみてようわかる。内戦を繰り返す尾張の野を見渡し、背後から牽制するには、まず絶好の場所じゃ。」
秀吉は言った。すかさず、又助も続けた。
「そして、末盛と美濃との密使の連絡を、妨害することもできますな。」
「うん、そうじゃい。ここを抑えられれば、末盛は、もはや尾張の東にぷかりと孤立する浮島みたいなもんじゃ。又助さんの言うとおり、岩倉との通交も思うようにはいくまい。それにしても、互いにやったりやられたり。いままさにここで儂が日々、狸 (家康)としている駆け引きに劣らぬ、凄まじい調略合戦じゃな。」

「斎藤義龍は、強敵でございました。あの折はまだ彼も美濃国内を安定させることで手一杯、こちらに攻め寄せる気配までは示しませんでしたが、彼にとっては、尾張がいつまでも混沌とし、内乱状態で居続けてくれることが自国の安全を図る上で大切なことだったのでしょう。」

「まさに、隣国としては理想の状態じゃな。息のかかった誰かをちょっと支援し、焚きつけるだけで、自らは傷つくことなく、何年も燃え続ける特上の火種をばらくことができる。そして高みの見物としゃれこんでいる間に、宿敵は二つに割れて殺し合い、やがて勝手に疲弊してくれる。」

「そしてともに疲れ果て、力を失ったところで悠々、国をまるごとりに・・・。」
又助が引き取り、次代の天下人はニヤリと笑って頷いた。しかし、弥三郎は悠然と笑いながら軽く手を振り、二人の先走りを抑えた。
「美濃もそうですが。しかし、わが尾張には、東に、より強力で危険な敵がおりました。」

「三河、いや駿河。今川か。」
秀吉が言い、弥三郎は頷いた。
「まさに。実はそちらのほうが差し迫った大きな脅威でした。美濃はただ、尾張が内訌状態を続けておればそれで良しとするだけのいわば消極的な脅威でしたが、今川は違いました。特に、鳴海なるみ沓掛くつかけ・大高の三城を核とする東尾張の一帯を調略で切り崩したあと、彼らは軍を起こし、さらに西進してくる気配を示し始めました。」

「そうか、その頃はすでに三国会盟が成り、今川には西方以外に敵はいない。」
秀吉は言った。

いわゆる三国会盟による北条、武田、今川の手打ちにより、東方と北方の脅威が無くなった今川氏は、その麾下きかの大軍を集中して、いつでも西進できる態勢にあった。延々と内訌を繰り返し、国が弱った印象を周囲に与えていると、織田の各派閥は、まとめて隣国からの巨大な波に呑まれてしまう可能性がある。弥三郎は、そのことを言った。

「もう、あまり余裕は残されておりませなんだ。」
弥三郎は、とつぜん伏しがちだった顔を上げると、決然とした面持ちで言った。
「尾張は、早々とひとつにまとまり、これらの外寇がいこうに備えなければなりませんでした。諸人一致してただ一人だけの強力な王をいただき、彼の振るさいのもと、団結して動かねばなりませんでした。」

とつぜんの弥三郎の気勢に呑まれ、又助と秀吉は、たじろいだ。
「もはや内訌に身をやつしている場合ではありません。尾張国の中での自分の地位などに拘泥し、小さな名や地位を得ることに惑溺している織田勘十郎ごときの飯事ままごとに、つき合うとる余裕はございませんでした。いや、あろうことか勘十郎は、よりにもよって外敵と手を組み、その意のままに動いて国事を邪魔し、尾張を引っ掻き回すのです。これは、万死に値する重罪と申すべきでありました。」

又助と秀吉は、まだなにも言うことができない。
弥三郎は全く気にせず、ただ決然と己の言葉を継いだ。
「そこで、決めたのです。総見院様と。いや、拙者が。末盛の御城で日々勘十郎様に御仕えする振りをしていたこの津々木蔵人が、総見院様に決断を迫り、弟御への処置を決定したのです。」

もちろん、二人はその処置のことを知っている。だが、聞かずには居れなかった。又助が言いかけたが、先に秀吉が言った。
「弟御を、誅殺すること。だな?」

弥三郎は、間髪を入れず頷いた。
「誅殺すること。そしてそれだけではない。その首を、早贄はやにえとして枳殻からたちの枝に突き刺すこと。」



もはや完全に血の気の戻った艶やかな肌を紅潮させ、目を輝かせ、白い歯を見せ、そしてありし日の若人のように、津々木蔵人は爽やかに笑った。
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