華闘記  ー かとうき ー

早川隆

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第四章  罠

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さいしょに餌食となったのは、後尾で矢田川をようやく渉り終え、白山林はくさんばやしと呼ばれる南側の小高い丘の上に散って休息していた形ばかりの総大将、三好孫七郎信吉の大軍であった。

前衛の池田隊・森隊と違い、練度と経験に欠け、後方への警戒をまるで怠っていた彼らは、突如襲来した徳川方の榊原さかきばら小平太 (康政)、水野和泉守らの軍勢による激しい攻撃を受け、即座に潰乱した。

徳川勢を戦場まで案内してきたのは、つい先ほど岩崎城で討死した十六歳の守将、丹羽次郎氏重の実兄で、本来は彼に代わって城主として討死すべきだったはずの、丹羽勘助 (氏次)という男である。彼は、戦闘の焦点とはなり得ぬと思われた岩崎城を出て、多くの部下を連れ小牧山の本陣に進出していたのである。

秀吉の甥である孫七郎は、戦闘指揮を執る間もなく遁走とんそうせざるを得なくなり、彼の逃走の時間稼ぎのため、数名の忠良な家臣が散った。

いっぽう、彼らよりも前方に陣し、森勝蔵と池田勝入斎しょうにゅうさいによる岩崎城攻撃の予備兵力として待機していた堀久太郎秀政は、後方より聞こえた銃声によって即座に状況を判断し、そのまま反転、これを迎撃に向かった。

勝ちに乗じた徳川軍が香流川かなれがわの流れを越えるよりも先に対岸の高台に兵を伏し、敵が射程距離に入るや銃隊に一斉射撃を命じて、大打撃を与えた。出鼻を挫かれた榊原ら徳川軍先鋒は逆に潰乱し、ここであえなく撃退されてしまう。

しかし、後尾の本軍壊滅と主将の行方不明という深刻な状況を憂慮した堀久太郎は、またも即座に決断した。彼は、三好隊の敗残兵を収容しつつ、いま来たばかりの道を戻り、身一つ、得物も持たず歩行かちの有様で逃げる孫七郎を見つけ保護すると、この危険な敵地からいちはやく撤収していった。



そして、堀に見捨てられた池田隊と森隊は、敵戦線背後の奥深くで、退路のない全くの孤軍となってしまったのである。

徳川家康と織田信雄。敵軍のそれぞれ領袖りょうしゅう直率じきそつされる大軍が、北へ向け退却していく堀隊と入れ替わるように水を蹴立てて香流川を続々渡河してきた。このときに至ってようやく主隊の壊滅が伝わり、池田・森隊はにわかに方向を変え撤収を試みるが、敵軍の動きの迅速さは、彼らの予想以上のものであった。

その手ごわい敵軍は、首狭間にすぐと侵入はせず、羽柴方の帰路をふさぐが如く、そのまま谷間を見下ろす数箇所の高地に布陣した。歴戦の池田恒興も、そしてもちろん鬼武蔵勝蔵も、このときには、自分たちが巧妙な敵の罠にはまったこと、そして眼前の強敵を実力で排除、粉砕することなしに、北への生還はあり得ないことを既に悟っている。

羽黒での慣れない敗北と気の迷いから、しばし集中力を喪い、往年の覇気を鈍らせていた鬼武蔵こと森勝蔵長可であったが、この、のっぴきならない危機に臨んで、意識が覚醒し、ふたたび否応なしに全身の筋肉に力がみなぎるのを感じた。



「首狭間と申すか・・・ここは。」

森勝蔵長可は、高所に陣取る敵勢のおびただしい旗指物の群れを見上げながら、そう口に出した。誰かが答えた。
「いかにも。入口の狭い、首根くびねくびれたような地形ゆえ。」

勝蔵は、ふっ、と笑い、言葉を継いだ。
「まさに、今の我らが置かれている立場、そのままじゃな。」

周囲数名の部下たちから、どこか乾いた、低い笑いが起きた。そのとおり。我らの首にはすでに粗縄がかかり、眼前に陣取る敵軍が、今にも総出でその縄を一斉にグイと引こうとしている。

我らは、そうされる前に総軍で斬りかかり、彼らを打倒し、その縄を自力で引きちぎらなければならない。

しかし、今こちらは谷の底、あちらは丘の上。眼前にはさらに大きな窪みが落ち込んでいる。それを踏みわたり、遮蔽物しゃへいぶつの全くない草地の急傾斜を駆け上がるうち、おそらく半数以上は鉛の銃弾と矢雨やさめを喰らい、あえなく命を落とすことになるであろう。

一体、そのあと我らに、あれだけの大軍と格闘し、これを残らず打倒するだけの余力が残っているであろうか。

しかし、北への帰還の道筋は、彼らが塞ぐ、あの丘と丘との合間に伸びる隘路あいろしかない。幅が狭すぎるため、隘路は直接、両側の丘から、狙いすました銃火に晒されてしまう。そこを無理に押し通ることは、すなわち集団による自殺と全く同義である。

どうみても、絶望的な戦況だった。



生来の聡明さを備えていた森勝蔵長可は、三十路みそじを前にして、一軍の先頭でただ勇んで暴れまわるだけの将から、得られた情報を的確に分析し、次に打つべき手を論理的に考えることのできる優秀な戦術家へと成長しつつあった。彼にいま少しの時間があれば、無駄に部下を死なせず、敵をも死なせずに目的を達成する、より偉大な将帥として大成できていたかもしれない。

しかし、残念ながら、彼に残された時間は、あとほんの僅かであった。



勝蔵は、頭をめぐらし、同じ谷底の向こう側に居る義父のことを考えた。

彼の姿はここからは見えないが、いままさに、向こうの斜面の下から彼同様に敵陣を見上げ、内心唖然としていることであろう。そして、自らの動揺を部下に悟られないよう、必死に平静を保とうと努めているであろう。

しかしやがて、全滅とわかっていても、いずれ彼は突撃のさいを振らねばならぬのだ。長年、ともに闘い、ともに苦労してきた部下全員を、死地へ追いやる命令を下さねばならぬのだ。



喉の奥、胃腑いのふの底のほうから、なんともいえぬ苦い味が突き上げてきた。慚愧ざんきの念が、勝蔵の胸いっぱいにじんわりと広がった。



このしゅうとが数日前の夜半、自陣にこっそりと忍んできたときのことを、勝蔵は思い返した。池田勝入斎恒興が、この野心的な、しかし危険に満ちた中入り策を立案したのは、まさに娘婿である勝蔵を救うためであった。

勝蔵が、羽黒の陣で仕出かした、あまりにも無様ぶざまな大失敗。その失地を回復させ、義理の親子同士で、羽柴筑前守が約束した尾張を共同統治する夢を叶えるため、池田は、犬山の奪取に続くさらなる大勝利を必要としていたのだ。

「できる。できるぞ。生半可な軍では無理じゃ。しかし、そちと儂ならば、必ずできる!」
娘婿にというより、ただ自分自身にそう言い聞かせようとする義父の、どこか寂しそうな笑顔を、勝蔵は懐かしく思い出した。まだ、ほんの数日前のことなのに、なんだかひどく昔のことであるような気がする。

おそらくその時、この作戦の無理を、彼もわかっていたに違いない。戦場において必ず起こる、事前の想定を越えた突発事、そして計算間違い。それらのうち、ひとつでも我らに祟ることがあれば、この中入り策は、おそらく悲惨な失敗となって終わるであろう。そしてそれは即座に、敵中における全軍の潰滅を意味する。



そしてまさに、そのあってはならぬ計算間違いが起こった。よりにもよって歴戦の将・池田勝入斎が、敵中で判断を誤った。小勢の岩崎城を陥とすのに空費した、貴重な数刻。うちてておけば。定石どおりに無視して通り過ぎておれば。この袋小路のような谷底で、敵の主力軍にむざむざ捕捉されることは無かったであろう。

しかし、舅のその判断間違いも、ひとえに勝蔵の失点を取り返すために欲した、ついでの勝利を得ようとしてのことだったのに違いない。すべての原因は、自分にある。断じて、舅の所為せいではない。

わかっていた。これは、最初から極めて危うい賭けであった。しかし、追い詰められた親子はそれに賭けた。そして案の定、その賭けに負けた。



歴戦の部下たちに動揺はなかったが、それは、彼らが眼前に広がるこの絶望的な光景を見て、既に静かに死を覚悟しているからであった。万にひとつの勝機もない。だが、怯む様子を見せる者も、将を責めるような眼をする者もなかった。彼らはみな、一騎当千の精鋭であった。

勝蔵は、思った。

連戦連勝の栄光に満ちたこの軍団の戦歴の末尾に、全滅という汚点を残すのだ。兵どもには、なんの責任もない。彼らは誇るべき精兵だ。だが、将が阿呆だった。私情に流され判断を誤った主将と、その凡暗ぼんくら婿むこが、揃いも揃って敵の仕掛けた罠に嵌まってしまった。敵はすべてあらかじめすべて予知していたかのように、我らをこの首狭間という忌まわしい谷間に追い込むことに成功した。

そして、そのすべての原因を作った凡暗ぼんくらな婿が、儂だ。鬼武蔵などと自称し、怖いものなしでそこらを闊歩かっぽし、十文字槍を振るい、ただ気分のままに人を見下し、嘲り、傷つけそして斬った、この森勝蔵長可だ。



勝蔵は、ひとつ溜息をつき、改めて谷底から頭上の敵どもを見上げた。次いで、これから共に死地につく勇敢な味方を見廻した。そしてそのあと、誰にともなく、小さくこうつぶやいた。
「あやつの口車にさえ、乗せられなければ、な・・・。」

しかし彼のその呟きは、川のほうから首狭間を吹き渡る寒風に乗せられ、誰もいない谷の奥へと消えていってしまった。



 * * * * * 



「とにかく、不思議なのはよ。」
秀吉が、言った。
「なぜ池田勝三郎恒興ほどの将が、あそこであんな道草喰ったか、いうこっちゃい。」

勝三郎とは、勝入斎の名乗りをする前の池田恒興の通称である。当時の地位の高下からして、秀吉が、この通称で恒興を呼べることはなかったはずだが、いまや天下一等の出頭人となった彼は、もはやそのようなことに何ら頓着とんじゃくしてはいない。

「なにしろ、織田家でも最古参の将じゃ。戦陣にあっての経験も豊富。脇にはあの鬼武蔵が控えちょう。たしかに両名とも勇猛果敢で、いささか猪突する風はあるが、あのとき、なにが一番大切なのかは、わかっていたはずじゃ。」

「よもや、背後から敵軍に追われているなどとは考えてもおられなかったのでしょうな。夜闇に紛れての敵前移動がうまく行き過ぎたが故、完全に敵の裏をかいたことで、小城のひとつふたつ踏み潰す程度の余裕はある、と勝入入道しょうにゅうにゅうどうは判断なされたのでしょう。」
又助が言った。彼は恒興を、出家後の尊称で呼ぶ。

「じゃ、いささか、軽忽けいこつであった、ということかよ。」
秀吉は、少し不満そうに言った。
「確かに、そうかも知れぬ。だけどあの親子は、本当に織田家きっての名将ぞ。戦において、今なにが一番大切か、そこを見誤るような愚将じゃ、にゃあでよ。そんな奴らなら、この筑前も、初めからああまで大事な役割なんぞ、任せんわい。」



「岩崎の城が、帰り路の邪魔になる、とお考えだったのかもしれませんな。」
弥三郎が、又助に助け舟を出した。
「今は小勢なれど、帰る頃には援兵なぞ入っていささか厄介になるかも知れぬ。邪魔者は、あらかじめ潰しておくのが得策、と。」

たしかに岩崎城は、小牧山より連なる織田・徳川方の城砦線から外れ東南に孤立した城砦で、もっとも隣接する味方拠点からも遥かに離れている。ここさえ潰し、逆に味方の哨戒拠点としておけば、その周囲数里にわたり、ひとまず帰路の安全を確保することができる。

秀吉は顔をしかめ、少し苦々しげに、頷いた。



ひとまず秀吉を頷かせたとはいえ、又助にも弥三郎にも、今の秀吉の心中は、実によくわかる。彼らは、大軍こそ率いてはいないが、それぞれ織田家中に数十年間も出仕する、熟練の領主であり、軍人なのである。

あらかじめ申し合わせた中入りの作戦目的は、敵陣背後の撹乱かくらんと、敵主力軍の陣地線からの誘い出しである。大地につけたひっかき傷の中へ立てこもる敵どもを焦らせ、さらに背後の味方根拠地を奪われてしまうかもしれないという恐怖を与え、彼らに意図せぬ形での野外決戦を強要し、約三倍の数的優位を誇る羽柴方が、濃尾の野でこれを悠々と撃砕する。

ここまでが、一連の流れである。すなわち、池田・森の中入り軍は、常に機動し、絶えず神出鬼没の活動を繰り返して、敵にその在所を把握させないように努めなければならない。

事前の入念な討議や軍議で、その作戦の第一義をただしく理解しているはずの歴戦の名将二人が、いくら初動が首尾よく運んだからとて、そのことを忘れてしまうほど、敵中奥深くで慢心してしまうものであろうか。



そんな秀吉の困惑が、弥三郎と又助に、直に伝わってきた。



 * * * * * 



森勝蔵長可は、しゅうとの池田勝入斎しょうにゅうさい恒興と常に共同で活動していると世間では思われがちである。それほどまでこの両名の関係性は強固で、信頼も揺るぎないものであると印象されてきた。

個人の関係についていえば、たしかに事実である。だが実際には、池田勢と森勢は、それぞれ独立した領主に率いられた別個の戦闘単位であり、そもそも作戦を発起した拠点からして、ぜんぜん違う。池田勢は、木曽川の向こう側、美濃の大垣城から発して長駆、犬山城を陥落させた。対して森勢は、川岸のこちら側、犬山城の真東数里に在る兼山城が策源地で、実は犬山の攻落には直接には関わっていない。

勝蔵たちが現地に到着したときには、ほぼ空城に近かった犬山は敢えなく陥ち、あちこちに備前蝶びぜんちょうの旗指物が翩翻へんぽんと翻っていた。得意満面で城外へ勝蔵を迎えた舅は、これからともに南進し、一気に小牧山を陥れようと言った。そして、言われるがまま羽黒まで前進し、勝蔵はひとまずそこに野陣を敷いたのであった。



ところが・・・舅の大軍はそのあとすぐに踵を返して犬山に戻り、前線には三千の森軍のみが残された。敵陣からの諜報で、徳川・織田方が予想より素早く反応し、すでに小牧山城へ敵主力軍が到着しているというのである。

その報をもたらした者は、使者を通じ、同時に勝蔵にこう私見を添えた。

とどまるも退がるもご随意に。ただし、ここに留まり敵勢を威圧・拘束できれば、主将・羽柴筑前守秀吉の来着とともに、先陣きって小牧山に攻めかかれるかも知れませぬな、と。



これは、勝蔵にとってこのうえない魅惑的な誘い文句だった。

すでに、舅の池田勢は犬山奪取という大功を成し遂げた。次は自分が破格の手柄を、この「鬼武蔵」の名乗りに恥じぬ手柄を立てる番だ。そして、その勢いのまま前線に出張り、慌てる織田・徳川連合軍に睨みを効かせ、秀吉来着とともに一番槍として挑みかかる。

まさに、完璧な晴れ舞台である。おそらく舅がいったん軍を引いたのも、勝蔵にその栄誉を与えんがための、身内としての気遣いであろう。

勝蔵は、その使者のすすめに乗った。彼は撤退せず、そのまま羽黒に布陣する道を選んだ。おそらく、徳川軍前衛との触接は、明日になるだろう。小勢であろうが、まずは機先を制してこれを容赦なくひと叩きせねばなるまい。

彼は、ひとりほくそ笑みながら、「人間無骨」の穂先をしごいた。



ところが徳川軍は、そうした勝蔵の予想をさらに越えた果敢さと敏活さを持っていた。彼らはなんと、その日の夜半、森勢に奇襲をかけてきた。闇の中からとつぜん飛びかかってきた先手の一千に対し、森勢はよく反撃してこれをいったん撃退したが、次いで松平家忠勢の強力な鉄砲攻撃、さらに徳川家中きっての精鋭、酒井忠次の軍が背後に廻って退路を断つ動きをしたことにより、遂に崩れた。

犬山の城まで、わずかに一里ほど。しかし優勢な敵に追われ、暗闇の中を退がるその距離は、無限に長いものに思えた。そして何より、将の森勝蔵長可が、敵前で退却する経験をしたことがなかった。

鬼武蔵は常に勝ち、常に前進する。敵に背を見せたことは、これまで、ない。それゆえ、当夜の勝蔵の指揮は混乱して適切さを欠き、判断が遅れ、ために多くの命が人知れず次々と夜闇のなかに散っていった。



あの晩、羽黒の陣にやってきた使者の一言。

あの余計な一言に乗せられて、歴戦の勝蔵は、むざむざ策を誤った。迅速な敵軍の反撃を全く予期せず、危険きわまりない突出地にただ孤軍で野陣を張るという自殺行為をしてしまった。

そしてあまたの部下を死なせ、常勝の森一族に、いまだかつてない敗北をもたらして、耐え難き恥辱を味わわせた。

羽黒からほうほうのていで犬山に退却し、恒興に抱きかかえられるようにして介抱されながら、勝蔵はただ、その場であらん限りの怒声と呪詛を吐き散らかした。周囲は、それを恥辱に塗れた猪武者がただ逆上しているだけと捉えていた。



とどまるも退がるもご随意に。

あの余計な一言で!

怒りの焰が、胸の奥深くに立ち上がり、勝蔵の臓腑ぞうふと精神とをいた。次いで、大きな波のような後悔の念が押し寄せてきて、勝蔵はそれに呑み込まれそうに感じた。

しかし、羽黒に留まるという選択をしたのは、あくまで勝蔵である。確かにわしは、敗北の責めを負わねばならぬ。勝蔵は思った。この儂は、人生はじめての敗北に戸惑い、適切な指揮を執れず、死なないでもよい部下を大勢死なせた。そのゆるされざる慢心と油断。

やがて周囲より人が払われ、二人きりになり、彼を慰める舅の腕に取りすがって、はじめて勝蔵は泣いた。悔しさと情けなさと、自分自身に対する怒りとで、涙がただ、とめどなく溢れ出てきた。



そしてその数日後、そんな勝蔵の失地回復のため、舅が持ち込んだこの野心的な中入り策。勝蔵は、そうした身内の気遣いをありがたく思った。そして、冷静に考えればさまざまな危険と無理とがあるこの策に、無批判に乗った。

翌日、本営となった犬山城にようやく着陣した総指揮官・羽柴秀吉も、敵味方の陣地構築合戦で早くも膠着しかかり、長期戦の様相を呈し始めた前線の模様を憂慮して、戦役の短期決着のためこの策を裁可した。



そして今、勝蔵はここ、首狭間に立っている。

勝蔵は、ふっ、と笑った。すべてが、この儂の失策のせいだ。この鬼武蔵の至らなさで。あの余計な一言に乗ってしまった所為せいで・・・八千に及ぶ大軍がこの陰鬱な谷底に押し込められ、蓋を閉じられて、今にも丸ごとられようとしている。

せめて、丘上への突撃の先頭には、儂が立たねば。勝蔵は強く思った。この「人間無骨」の十文字槍を振るって、丘の斜面を駆け上がり、敵の銃火をかわして、丘をまるごと占拠するのだ。低地からなのでよくは視認できないが、前面に展開しているのは、おそらく敵の領袖、三河の徳川家康の本陣であろう。この堅陣を突き破り、敵将を追い落として、せめて舅の軍勢の退路だけでも啓開しよう。

そしてそれが、鬼武蔵のなすべき、この世で最後の大仕事だ。



自ら死す覚悟を静かに決めると、勝蔵はひとり味方の隊列から離れ、「人間無骨」を地に突き立て周囲の地勢を確認した。丘のうねりや高低をよく観て、駆け上がる通路を頭に叩き込み、何人の味方が生き残れるかを計算した。もはや、谷底に長居は無用。そのまま号令をかけ、全軍に突撃を命じようとした、その瞬間。

眼の前の、草が動いた。

もこりと、丸く草地が盛り上がり、勝蔵の視界に下から急にせり出してきた。草の下の闇にふたつの眼が開き、ぎろりと勝蔵をにらんだ。そしてその草の塊は、なにやら長い棹状のものを前に突き出して、黄ばんだ歯を見せ、ニヤリと笑った。



不思議な瞬間だった。

ほんの僅かのあいだのことであるのに、勝蔵には、まるでときが永遠に止まってしまったかのように思えた。草の塊は、その棹状の火縄銃を構え、至近距離から勝蔵を狙ったまま静止した。周囲の味方兵士や丘の上の敵勢の存在も消え失せた。すべてが止まってしまった世界のなかで、ただ勝蔵の意識だけが高速度で回転をはじめた。



とどまるも退がるもご随意に。

待てよ。勝蔵は、思った。

待てよ・・・あの一言。羽黒の陣で、遣わされて来た使者が言った、あの、さりげない一言。



あの一言に乗せられて、勝蔵は策を誤った。迅速な敵軍の反撃を全く予期できず、危険きわまりない突出地に、ただ孤軍で野陣を張るという自殺行為をしてしまった。そして、それが今に至るすべての悪運のはじまりだった。

もしかしたら・・・勝蔵は、気づいた。もしかしたら。

あの使者は、敵が間近に来ているということを、すでに知っていた・・・・・・・・のではないか?



あの使者は、敵が来ていることを知りながら、実に言葉巧みに、焦る勝蔵にさりげなく魅惑的な餌をちらつかせ、彼を巧みにそそのかし、あおったのではないか。

その場に留まるよう。危険地帯に脆弱な野陣を張るよう。そして、勝蔵がその必然として無様な敗北を喫するよう、わざと仕向けたのではないか?



とどまるも退がるもご随意に。

勝蔵は、使者に命じてこう言わせた、その相手の涼し気なさかしら顔を思い浮かべた。まったく、完璧な目眩めくらましだ。手柄を焦る勝蔵が、敵前で退がるという選択などせぬことを見通し、それをわかっていながら、敢えて使者にそう言わせたのである。

すなわちそれは、羽黒に留まるという選択をしたのは、あくまで勝蔵である、と周囲に認識させるための責任逃れであった。そしてその上で、留まって勝利を得ることによる未来の可能性と計り知れぬ利得とを示して、勝蔵と、三千の部下たちの命を、生き餌として、間近に迫り来たる敵に投げ与えたのである。



味方の中に、敵が居た!

勝蔵は、その本能的な勘と優れた知力で、この恐るべき可能性に気づいた。だが、彼に残された時間は、あまりに少なかった。彼には、優れた指揮官として大成する余裕も、丘上の敵を蹴散らす時間も、そしていま知った、おそるべき真の敵を打ち倒すいとまも無かった。



なぜなら彼は、草木で偽装し、地に伏せて潜伏していた敵の狙撃兵と、いままさに向かい合って立っていたからである。彼に残された時間はもう、無かった。

やがて、止まった世界が動き出し、時がふたたび刻まれ、徳川方・水野勝成配下の鉄砲足軽、杉山孫六は静かに引鉄を引いた。



「人間無骨」を手にした鬼武蔵の眉間に、小さなまるい穴が開き、そこから喰い込んだ鉛弾は、そのまま脳髄を直進して彼の頭蓋骨を破砕し、後頭部が真っ赤な柘榴ざくろの果肉のように四周に弾け飛んだ。
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