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第三章 鬼
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三河中入り部隊の先鋒に立った「鬼武蔵」こと森勝蔵長可は、おそらく織田家中においても、もっとも凄まじい戦歴に彩られた武勇の士であったろう。雄偉な美丈夫で、野陣にて鍛えられた筋骨があちこち隆々と盛り上がっており、鎧兜で完全武装しても、なおそのはち切れんばかりの生身の体格をうかがい知ることができるほどである。
彼が戦場において常に手放さぬ大身の上鎌十文字槍は、名工・二代目和泉守兼定に鍛えさせたという業物で、塩首の面と裏にそれぞれ「人間」「無骨」と銘が刻んである。彼の抜群の膂力で突けば槍、払えば薙刀となり、そしてぐいと引けば鎌の如く自在に敵兵を殺傷することができ、哀れな標的はふかふかとした骨のない肉袋のように、ただずたずたに千切れ飛ぶ。事実、この槍の初陣となった伊勢長島の一向一揆衆との接近戦では、わずかの間に二十七もの人体を、物言わぬただの肉塊にした。
その後の戦歴も、赫々たるものである。設楽ヶ原、越中攻め、三木城攻め、甲州攻め、美濃攻めなどで軍の先頭に立ち、次々と功名を上げ、まさに無敵の魔将として織田軍団による数多くの鏖殺、虐殺に関与した。
視野が狭く我儘であり、自己陶酔癖があり、敵はもちろん、味方でも目下の人間に対しては残忍粗暴そのもの。しかし独特の美意識を持つ一面があり、見目の良いもの、わけても美麗な武具や名馬、茶道具の収集などに目がない。また意外なことに能筆であり、計数の才があり、占領地や所領の統治や経済政策などにおいてもきわめて有能であった。
彼の感性、彼の才能は、どこか主である織田右府信長と相通ずるところがある。事実、彼は信長による度を越えた偏愛を享けた。彼が前線で幾度も犯した過剰な残虐行為が、主より咎められたことは一度もない。度重なる自己中心的な軍記違反にも、味方軍の和を乱した場合にのみ、ただ形ばかりの叱咤はあるが、公式に責任を問われるような大事に至ったことはない。
彼の父親は、軍内最古参の猛将・森三左衛門可成である。八幡太郎義家の嫡流を自称し、「攻めの三左」と呼ばれ各地の戦で活躍したが、元亀年間の危機の際、浅井・朝倉の大軍と寡勢にて戦い討死を遂げた。その大功に報いるため、主の信長は家督を継いだばかりの勝蔵を若年より優遇したが、彼は、おそらくは人間としての倫理をのぞくすべての面で、主の期待に十二分に応えてみせたといって良いであろう。
そして重鎮・池田勝三郎恒興の娘を妻とし、齢わずか二十七にして、独自に数千の軍を率い、舅の軍を先導してこの野心的な撹乱機動作戦の鋒となっている。
勝蔵は、これまでの華やかな戦士としての人生において、敗北らしい敗北というものを経験したことがない。
父は、元亀年間、四面楚歌だった織田家により見捨てられる格好で、少しの援兵も受けること無くむざむざと討ち取られた。勝蔵は、その残酷な運命と理不尽に対する怒りを心のうちに溜め込み、対面する敵にその鬱憤をすべてぶつけ、情け容赦無く叩き潰し、ただ殺戮と勝利を重ねた。
その後の織田家という巨大軍事勢力の急速な勃興と同期して活動したため、彼自身がもとから具える勇気や知略に、時流の海練や勢いまでもが加わって、妨げとなる敵勢を残らず吹き飛ばし、刃向かう者を悉く死骸に変えてきた。百戦百勝。完全無欠の阿修羅神である。
並の武将の何生分もの合戦や虐殺に明け暮れ、ただ猛り、吼え、飛び散る血飛沫を全身に浴びて他の人間を殺めるだけの歳月を重ねてきたが、しかし、最近はひとかどの武将として認められ、妻子を持ち、たまには落ち着いて茶を喫し、花や名馬を愛で詩を吟じるような余裕も出てきた。もはや若武者ではなく、一門をまとめ、織田家を支えて行くべき三十歳前の青年武将である。怒りに任せてただ、獣のように闘い続けておればよいという立場ではない。
安らぎを覚えてしまった獣。彼は、みずからが森勝蔵であることに、ようやく疲れを覚え始めていた。
そんな彼にとって、さきの羽黒陣における惨めな敗北は、生まれてはじめての恥辱であった。彼は、敗けることに慣れていない。顔が火照り、流れるはずのない汗が流れ落ち、眼の前がくらくらとして、あの忌々しい三河勢に追い立てられ突き伏せられ、そして逃げる彼の背後で獲物のように次々と狩られていった部下たちの断末魔の叫びが、いつまでも耳の奥から響いてきた。
そんな彼の内面の変化と、はじめて味わう敗北の苦味。そして次にどうしたらわからないという戸惑いが、過去の戦歴において彼が常に示した動物的な嗅覚を、ここにきて、わずかばかり鈍らせた。彼は、意味もなく焦りを覚え、明日起こることに、ただ言いしれぬ恐怖を感じていた。
だから、舅・勝三郎恒興が目を輝かせながら示してきたこの大胆な中入り策に、そのまま無批判に乗っかったのである。彼の心の奥底から、あるいは身体の芯から、なにかが必死に彼の脳髄に囁いた。これは破滅への道だとしきりに説いた。しかし、彼の思考は、彼の生存本能から来るその必死の警告を、無視した。
なぜなら、彼は、森勝蔵であることに疲れていたのだ。
このときの森勝蔵は、自分を喪い、怒りに裏打ちされたあの荒ぶる魂を欠いていた。つまり彼は、ただ虚ろな木彫りの人形と同じになってしまっていたのである。
* * * * *
「いや、儂にも、わからにゃあでよ。ほんとに、わからねぇで。」
秀吉は、刺子の手袋をまた顔の前で振りながら、困り果てたように言った。
「そもそも、いかな精兵だろうと、こっから十数里も離れた岡崎なんぞ、いきなり陥とせるわけがにゃあで。そのこと、もちろん勝入斎 (恒興)殿も勝蔵も充分に、わかっておった。」
ふたたび、顔をしかめ、
「世間じゃ、この儂が、渋る両名に無理やり中入りを強いたなどと、まことしやかに謗る輩も居るようじゃが、わしゃ、断じてそんなことは、しとらん。あの中入り自体、両名のほうから儂に進言して来た策じゃ。そして、敵陣引っ掻き回して、適度な頃合いで撤収するちゅうのも、予め、両名から言うて来おったことじゃ。」
又助が、なにかを言いかけたが、思いとどまった。秀吉は、続けた。
「わしゃ、膠着しかかっちょるこの戦を揺り動かして、狸をひと叩きし、三介殿にお灸をすえるにゃ、それはいい手じゃと思った。夜中に、明かりを用いずに敵勢の横をすり抜け、後ろに廻る・・・難しい行軍じゃが、あの親子なら、やれると思うた。だから、治兵衛も付けた。」
「治兵衛?」
弥三郎が、眉を上げて尋ねた。
「おお、つい、癖で。また間違えてしもうた。孫七郎 (三好信吉)のことよ。治兵衛は、彼奴がまだ中村の農家に居った頃の呼び名じゃい。弥三郎さんの屋敷にも、昔、届け物をさせたことがあるでよ。」
秀吉が、頭をかきながら笑った。
急速な勢力拡張により常に人材不足の羽柴陣営では、新規に召し抱えられる若い家臣が増え、全体にやや統一感なき寄り合い所帯となっている。秀吉が、数少ない身内に箔をつけ身近に置くことは、このばらばらの新興政権に強い求心力をもたせる意味で、死活の大事であると言える。
「ああ、あのときの。確か、京名物の茶を届けてくださいましたな。笑顔の明るい、よき若党でござった。」
弥三郎は納得したように穏やかな顔で頷いた。届け物を受けたのは、たしか岐阜城下でのこと。当時すでに孫七郎は士分であったが、年齢はまだ幼く、実際に手配したのは彼についた傅役の田中久兵衛という男である。それを敢えて本人が届けたように言ったのは、もちろん弥三郎の咄嗟の心遣いである。秀吉も、それを察して微笑んだ。
「ともかくよ、孫七郎よ。総大将として孫七郎も付けた。なに、ひと暴れしたあと撤収してくる味方を収容して、安全に連れて帰るだけの役目じゃい。名目だけじゃが、青二才の大将にゃ、ちょうどいい塩梅の仕事じゃろ?」
そう言って、にっこり笑い、両名の顔を眺めた。
経験不足の身内に与えた総大将の役目が、ただのお飾りの箔付けに過ぎないという本音を、又助と弥三郎には隠さず、そのまま言った。
秀吉は、胸襟を開いていた。そして、こう続けた。
「ところが・・・あんなことになってしもうた。」
* * * * *
秀吉がいまだ困惑するとおり、四月の六日深更に、最前線の砦・楽田城を発し隠密機動を始めた池田・森軍の動きは、どこか不可解なものであった。
馬の口には枚を噛ませ、松明は焚かず、互いの腕や肩に巻いた白布だけを目当てに、兵たちはしずしずと動いた。せいぜい二列縦隊がとれる程度の狭い街道を移動するために、数隊に分割、時間差を持って進発し、森勝蔵長可はその先頭に立った。続いて彼の舅であり、作戦の発案者であり、この軍の実質的な総指揮者の池田勝入斎恒興が続行する。
下弦の月の出は遅く、低い雲が星明かりを覆い隠し、あたりは墨を流したような真暗闇の中。しかし、このように全員が目隠しをされたような状況であっても、破格の練度と団結心を持つ彼らは遅滞なくしっかりと移動することができる。やがてこの恐るべき精鋭軍は、まったく気取られることなく織田・徳川勢の主陣地線の側翼をすり抜けることに成功した。
小牧山城から発し、南東の方角へ蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦そして田楽砦と、合計五塞が土塁に護られた強固な連絡路に結ばれ連なる大陣地帯のなかで、数万の織田兵、徳川兵は心地よい眠りについていた。
昼間、敵陣を指呼の間に望みながらの急速普請は、そうした土木工事に慣れた者ばかりとはいえぬ彼らにとって、大いに骨の折れる重労働である。その疲労と緊張感からの開放が、夜闇に護られた彼らの眠りを、泥のように深いものにしていた。
池田と森の大軍は、そんな彼らの目と鼻の先を、闇のなか音も気配も立てずに、そっと、すり抜けていった。
彼らはさらに南進し、翌日昼頃には庄内川に至っていた。この一帯は羽柴方の支配地域であり、渡河点には有力な砦が数箇所築かれている。池田・森の両軍は、いったん後続の到着をここで待った。全軍をここで集結し、さらに三隊に分かれて庄内川の浅瀬を渡河した。池田・森の精鋭は侵攻方向左翼、すなわち東側を数里、快速でぐんぐんと南下し、完全に織田、徳川連合軍の背後に廻りこむことに成功した。
この領域には、敵の主陣地線から切り離された、哨戒拠点としての小城が配されているだけであり、彼らの進軍を阻むものは、辺りにはなにもない。
敵戦線後方への浸透が首尾よく実現したことで、総大将・池田勝入斎恒興には、魅惑的なふたつの選択肢が用意されていた。
さらに岡崎を衝くふりを見せながら南下してみせても佳し。右に旋回して敵戦線を背後から襲うも佳し。いずれにせよ、失態に気づいて必死に追いかけてくる敵主力軍に捕捉されないよう、常に機動して敵の背後を引っ掻き廻すのである。さすれば敵陣は動揺し、態勢が崩れ、彼らがせっかく急速造成して身を寄せていた小牧山~田楽の防衛線は、やがてほぼ、がら空きとなる。
秀吉率いる主力軍は、この陣地線を越え悠々と南下し、堅陣を出た丸裸の敵軍に追いすがり野戦で撃砕する。数的な優位は、圧倒的に羽柴方。
歴史的大勝利は、目前であった。
ところが、総見院信長の乳兄弟であり、織田家最古参、歴戦の名将である勝入斎恒興は、誰も予想しておらぬ、奇妙な第三の選択肢を択ぶのである。
彼らの進路上に、やがて相次いで二本の河が現れる。矢田川と香流川。そして、その流れを渉った先に、二つの山稜を分かつ、首狭間と呼ばれる不気味な谷が伸びていた。そして、その奥の斜面に、岩崎城という名の織田・徳川方の城砦が在った。
岩崎城は、東尾張の重要拠点として、古くから三河方面への押さえとして重要視されてきた歴史ある城砦である。しかし、今回は主陣地線から遠く離れ、味方領域からも離れた孤立拠点に過ぎない。城に詰める兵も、合計して二百四十名ほど。万を越える羽柴軍の怒涛の進撃を止める力など無論なく、ただ目前を通過する大軍の行動を、味方へ急ぎ急報する程度の対応しか取りようがない。
ところが、わずか十六歳の守将、丹羽次郎氏重は、果敢にも城外へ討って出て、突如現れたこの雲霞の如き大軍に対しまさに蟷螂の斧ともいえる絶望的な抗戦を試みた。
敵地撹乱を主任務とする池田勝入斎恒興が、ほんらい採るべき方策はひとつ。この、ちっぽけな挑戦を黙殺して通過し、あとに彼らの行動を拘束するための警戒兵力を少数、残しておく。これのみである。
ところがこの歴戦の名将は、ここで、まるで理解不能な愚かしい選択をした。この十六歳の子供の挑戦を正面から受け、単なる通過点に過ぎないこの小城を陥とすのに全軍を投じ、敵の懐深くであたら貴重な刻を空費してしまったのである。
空費した、といっても、二百四十名の孤軍が全滅するまで、一刻半 (三時間)ほどしか掛かっていない。岩崎城兵は果敢に抗戦し、甲州流の馬出を備えた城郭の縄張を巧みに利用して小勢を効率的に進退させ、この大軍の攻撃を二度までも撃退したが、攻めあぐむ舅の軍に「鬼武蔵」勝蔵が加勢すると、一気に崩れた。
勝蔵は、傘下の鉄砲隊による一斉射撃を繰り返しながら突撃し、「人間無骨」の十文字槍を振るって、軍の先頭に立った。やがてこの勇敢な小城は、文字通りの屍血山河と化した。勝蔵にとっては、いつもの、見慣れた光景である。城兵は、守将丹羽氏重以下、ひとりも生き残らなかった。
数年前までの勝蔵なら、特にどうとも思わなかったであろう。彼の赫々たる戦歴に付け加えられた、小さな勝利のひとつに過ぎない。しかし、今の勝蔵は、昔の鬼武蔵ではない。彼は、この意味もない攻城戦を断行した舅の馬印のほうを見やり、ため息をついて、ただうんざりしたように首を振った。そして、大成功を収めるはずのこの「中入り」なる壮挙に、もくもくと黒雲のような凶運がまとわりついてきていることを、その膚でもって感じた。
彼のその予感は、正しかった。思わぬ道草を喰った彼らのあとを、敵の主力軍が、密かに、そして迅速に追従して来ていたのである。
注)枚 馬のいななきを押さえるために噛ませる木切れのこと。
彼が戦場において常に手放さぬ大身の上鎌十文字槍は、名工・二代目和泉守兼定に鍛えさせたという業物で、塩首の面と裏にそれぞれ「人間」「無骨」と銘が刻んである。彼の抜群の膂力で突けば槍、払えば薙刀となり、そしてぐいと引けば鎌の如く自在に敵兵を殺傷することができ、哀れな標的はふかふかとした骨のない肉袋のように、ただずたずたに千切れ飛ぶ。事実、この槍の初陣となった伊勢長島の一向一揆衆との接近戦では、わずかの間に二十七もの人体を、物言わぬただの肉塊にした。
その後の戦歴も、赫々たるものである。設楽ヶ原、越中攻め、三木城攻め、甲州攻め、美濃攻めなどで軍の先頭に立ち、次々と功名を上げ、まさに無敵の魔将として織田軍団による数多くの鏖殺、虐殺に関与した。
視野が狭く我儘であり、自己陶酔癖があり、敵はもちろん、味方でも目下の人間に対しては残忍粗暴そのもの。しかし独特の美意識を持つ一面があり、見目の良いもの、わけても美麗な武具や名馬、茶道具の収集などに目がない。また意外なことに能筆であり、計数の才があり、占領地や所領の統治や経済政策などにおいてもきわめて有能であった。
彼の感性、彼の才能は、どこか主である織田右府信長と相通ずるところがある。事実、彼は信長による度を越えた偏愛を享けた。彼が前線で幾度も犯した過剰な残虐行為が、主より咎められたことは一度もない。度重なる自己中心的な軍記違反にも、味方軍の和を乱した場合にのみ、ただ形ばかりの叱咤はあるが、公式に責任を問われるような大事に至ったことはない。
彼の父親は、軍内最古参の猛将・森三左衛門可成である。八幡太郎義家の嫡流を自称し、「攻めの三左」と呼ばれ各地の戦で活躍したが、元亀年間の危機の際、浅井・朝倉の大軍と寡勢にて戦い討死を遂げた。その大功に報いるため、主の信長は家督を継いだばかりの勝蔵を若年より優遇したが、彼は、おそらくは人間としての倫理をのぞくすべての面で、主の期待に十二分に応えてみせたといって良いであろう。
そして重鎮・池田勝三郎恒興の娘を妻とし、齢わずか二十七にして、独自に数千の軍を率い、舅の軍を先導してこの野心的な撹乱機動作戦の鋒となっている。
勝蔵は、これまでの華やかな戦士としての人生において、敗北らしい敗北というものを経験したことがない。
父は、元亀年間、四面楚歌だった織田家により見捨てられる格好で、少しの援兵も受けること無くむざむざと討ち取られた。勝蔵は、その残酷な運命と理不尽に対する怒りを心のうちに溜め込み、対面する敵にその鬱憤をすべてぶつけ、情け容赦無く叩き潰し、ただ殺戮と勝利を重ねた。
その後の織田家という巨大軍事勢力の急速な勃興と同期して活動したため、彼自身がもとから具える勇気や知略に、時流の海練や勢いまでもが加わって、妨げとなる敵勢を残らず吹き飛ばし、刃向かう者を悉く死骸に変えてきた。百戦百勝。完全無欠の阿修羅神である。
並の武将の何生分もの合戦や虐殺に明け暮れ、ただ猛り、吼え、飛び散る血飛沫を全身に浴びて他の人間を殺めるだけの歳月を重ねてきたが、しかし、最近はひとかどの武将として認められ、妻子を持ち、たまには落ち着いて茶を喫し、花や名馬を愛で詩を吟じるような余裕も出てきた。もはや若武者ではなく、一門をまとめ、織田家を支えて行くべき三十歳前の青年武将である。怒りに任せてただ、獣のように闘い続けておればよいという立場ではない。
安らぎを覚えてしまった獣。彼は、みずからが森勝蔵であることに、ようやく疲れを覚え始めていた。
そんな彼にとって、さきの羽黒陣における惨めな敗北は、生まれてはじめての恥辱であった。彼は、敗けることに慣れていない。顔が火照り、流れるはずのない汗が流れ落ち、眼の前がくらくらとして、あの忌々しい三河勢に追い立てられ突き伏せられ、そして逃げる彼の背後で獲物のように次々と狩られていった部下たちの断末魔の叫びが、いつまでも耳の奥から響いてきた。
そんな彼の内面の変化と、はじめて味わう敗北の苦味。そして次にどうしたらわからないという戸惑いが、過去の戦歴において彼が常に示した動物的な嗅覚を、ここにきて、わずかばかり鈍らせた。彼は、意味もなく焦りを覚え、明日起こることに、ただ言いしれぬ恐怖を感じていた。
だから、舅・勝三郎恒興が目を輝かせながら示してきたこの大胆な中入り策に、そのまま無批判に乗っかったのである。彼の心の奥底から、あるいは身体の芯から、なにかが必死に彼の脳髄に囁いた。これは破滅への道だとしきりに説いた。しかし、彼の思考は、彼の生存本能から来るその必死の警告を、無視した。
なぜなら、彼は、森勝蔵であることに疲れていたのだ。
このときの森勝蔵は、自分を喪い、怒りに裏打ちされたあの荒ぶる魂を欠いていた。つまり彼は、ただ虚ろな木彫りの人形と同じになってしまっていたのである。
* * * * *
「いや、儂にも、わからにゃあでよ。ほんとに、わからねぇで。」
秀吉は、刺子の手袋をまた顔の前で振りながら、困り果てたように言った。
「そもそも、いかな精兵だろうと、こっから十数里も離れた岡崎なんぞ、いきなり陥とせるわけがにゃあで。そのこと、もちろん勝入斎 (恒興)殿も勝蔵も充分に、わかっておった。」
ふたたび、顔をしかめ、
「世間じゃ、この儂が、渋る両名に無理やり中入りを強いたなどと、まことしやかに謗る輩も居るようじゃが、わしゃ、断じてそんなことは、しとらん。あの中入り自体、両名のほうから儂に進言して来た策じゃ。そして、敵陣引っ掻き回して、適度な頃合いで撤収するちゅうのも、予め、両名から言うて来おったことじゃ。」
又助が、なにかを言いかけたが、思いとどまった。秀吉は、続けた。
「わしゃ、膠着しかかっちょるこの戦を揺り動かして、狸をひと叩きし、三介殿にお灸をすえるにゃ、それはいい手じゃと思った。夜中に、明かりを用いずに敵勢の横をすり抜け、後ろに廻る・・・難しい行軍じゃが、あの親子なら、やれると思うた。だから、治兵衛も付けた。」
「治兵衛?」
弥三郎が、眉を上げて尋ねた。
「おお、つい、癖で。また間違えてしもうた。孫七郎 (三好信吉)のことよ。治兵衛は、彼奴がまだ中村の農家に居った頃の呼び名じゃい。弥三郎さんの屋敷にも、昔、届け物をさせたことがあるでよ。」
秀吉が、頭をかきながら笑った。
急速な勢力拡張により常に人材不足の羽柴陣営では、新規に召し抱えられる若い家臣が増え、全体にやや統一感なき寄り合い所帯となっている。秀吉が、数少ない身内に箔をつけ身近に置くことは、このばらばらの新興政権に強い求心力をもたせる意味で、死活の大事であると言える。
「ああ、あのときの。確か、京名物の茶を届けてくださいましたな。笑顔の明るい、よき若党でござった。」
弥三郎は納得したように穏やかな顔で頷いた。届け物を受けたのは、たしか岐阜城下でのこと。当時すでに孫七郎は士分であったが、年齢はまだ幼く、実際に手配したのは彼についた傅役の田中久兵衛という男である。それを敢えて本人が届けたように言ったのは、もちろん弥三郎の咄嗟の心遣いである。秀吉も、それを察して微笑んだ。
「ともかくよ、孫七郎よ。総大将として孫七郎も付けた。なに、ひと暴れしたあと撤収してくる味方を収容して、安全に連れて帰るだけの役目じゃい。名目だけじゃが、青二才の大将にゃ、ちょうどいい塩梅の仕事じゃろ?」
そう言って、にっこり笑い、両名の顔を眺めた。
経験不足の身内に与えた総大将の役目が、ただのお飾りの箔付けに過ぎないという本音を、又助と弥三郎には隠さず、そのまま言った。
秀吉は、胸襟を開いていた。そして、こう続けた。
「ところが・・・あんなことになってしもうた。」
* * * * *
秀吉がいまだ困惑するとおり、四月の六日深更に、最前線の砦・楽田城を発し隠密機動を始めた池田・森軍の動きは、どこか不可解なものであった。
馬の口には枚を噛ませ、松明は焚かず、互いの腕や肩に巻いた白布だけを目当てに、兵たちはしずしずと動いた。せいぜい二列縦隊がとれる程度の狭い街道を移動するために、数隊に分割、時間差を持って進発し、森勝蔵長可はその先頭に立った。続いて彼の舅であり、作戦の発案者であり、この軍の実質的な総指揮者の池田勝入斎恒興が続行する。
下弦の月の出は遅く、低い雲が星明かりを覆い隠し、あたりは墨を流したような真暗闇の中。しかし、このように全員が目隠しをされたような状況であっても、破格の練度と団結心を持つ彼らは遅滞なくしっかりと移動することができる。やがてこの恐るべき精鋭軍は、まったく気取られることなく織田・徳川勢の主陣地線の側翼をすり抜けることに成功した。
小牧山城から発し、南東の方角へ蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦そして田楽砦と、合計五塞が土塁に護られた強固な連絡路に結ばれ連なる大陣地帯のなかで、数万の織田兵、徳川兵は心地よい眠りについていた。
昼間、敵陣を指呼の間に望みながらの急速普請は、そうした土木工事に慣れた者ばかりとはいえぬ彼らにとって、大いに骨の折れる重労働である。その疲労と緊張感からの開放が、夜闇に護られた彼らの眠りを、泥のように深いものにしていた。
池田と森の大軍は、そんな彼らの目と鼻の先を、闇のなか音も気配も立てずに、そっと、すり抜けていった。
彼らはさらに南進し、翌日昼頃には庄内川に至っていた。この一帯は羽柴方の支配地域であり、渡河点には有力な砦が数箇所築かれている。池田・森の両軍は、いったん後続の到着をここで待った。全軍をここで集結し、さらに三隊に分かれて庄内川の浅瀬を渡河した。池田・森の精鋭は侵攻方向左翼、すなわち東側を数里、快速でぐんぐんと南下し、完全に織田、徳川連合軍の背後に廻りこむことに成功した。
この領域には、敵の主陣地線から切り離された、哨戒拠点としての小城が配されているだけであり、彼らの進軍を阻むものは、辺りにはなにもない。
敵戦線後方への浸透が首尾よく実現したことで、総大将・池田勝入斎恒興には、魅惑的なふたつの選択肢が用意されていた。
さらに岡崎を衝くふりを見せながら南下してみせても佳し。右に旋回して敵戦線を背後から襲うも佳し。いずれにせよ、失態に気づいて必死に追いかけてくる敵主力軍に捕捉されないよう、常に機動して敵の背後を引っ掻き廻すのである。さすれば敵陣は動揺し、態勢が崩れ、彼らがせっかく急速造成して身を寄せていた小牧山~田楽の防衛線は、やがてほぼ、がら空きとなる。
秀吉率いる主力軍は、この陣地線を越え悠々と南下し、堅陣を出た丸裸の敵軍に追いすがり野戦で撃砕する。数的な優位は、圧倒的に羽柴方。
歴史的大勝利は、目前であった。
ところが、総見院信長の乳兄弟であり、織田家最古参、歴戦の名将である勝入斎恒興は、誰も予想しておらぬ、奇妙な第三の選択肢を択ぶのである。
彼らの進路上に、やがて相次いで二本の河が現れる。矢田川と香流川。そして、その流れを渉った先に、二つの山稜を分かつ、首狭間と呼ばれる不気味な谷が伸びていた。そして、その奥の斜面に、岩崎城という名の織田・徳川方の城砦が在った。
岩崎城は、東尾張の重要拠点として、古くから三河方面への押さえとして重要視されてきた歴史ある城砦である。しかし、今回は主陣地線から遠く離れ、味方領域からも離れた孤立拠点に過ぎない。城に詰める兵も、合計して二百四十名ほど。万を越える羽柴軍の怒涛の進撃を止める力など無論なく、ただ目前を通過する大軍の行動を、味方へ急ぎ急報する程度の対応しか取りようがない。
ところが、わずか十六歳の守将、丹羽次郎氏重は、果敢にも城外へ討って出て、突如現れたこの雲霞の如き大軍に対しまさに蟷螂の斧ともいえる絶望的な抗戦を試みた。
敵地撹乱を主任務とする池田勝入斎恒興が、ほんらい採るべき方策はひとつ。この、ちっぽけな挑戦を黙殺して通過し、あとに彼らの行動を拘束するための警戒兵力を少数、残しておく。これのみである。
ところがこの歴戦の名将は、ここで、まるで理解不能な愚かしい選択をした。この十六歳の子供の挑戦を正面から受け、単なる通過点に過ぎないこの小城を陥とすのに全軍を投じ、敵の懐深くであたら貴重な刻を空費してしまったのである。
空費した、といっても、二百四十名の孤軍が全滅するまで、一刻半 (三時間)ほどしか掛かっていない。岩崎城兵は果敢に抗戦し、甲州流の馬出を備えた城郭の縄張を巧みに利用して小勢を効率的に進退させ、この大軍の攻撃を二度までも撃退したが、攻めあぐむ舅の軍に「鬼武蔵」勝蔵が加勢すると、一気に崩れた。
勝蔵は、傘下の鉄砲隊による一斉射撃を繰り返しながら突撃し、「人間無骨」の十文字槍を振るって、軍の先頭に立った。やがてこの勇敢な小城は、文字通りの屍血山河と化した。勝蔵にとっては、いつもの、見慣れた光景である。城兵は、守将丹羽氏重以下、ひとりも生き残らなかった。
数年前までの勝蔵なら、特にどうとも思わなかったであろう。彼の赫々たる戦歴に付け加えられた、小さな勝利のひとつに過ぎない。しかし、今の勝蔵は、昔の鬼武蔵ではない。彼は、この意味もない攻城戦を断行した舅の馬印のほうを見やり、ため息をついて、ただうんざりしたように首を振った。そして、大成功を収めるはずのこの「中入り」なる壮挙に、もくもくと黒雲のような凶運がまとわりついてきていることを、その膚でもって感じた。
彼のその予感は、正しかった。思わぬ道草を喰った彼らのあとを、敵の主力軍が、密かに、そして迅速に追従して来ていたのである。
注)枚 馬のいななきを押さえるために噛ませる木切れのこと。
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揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
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幕府海軍戦艦大和
みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。
ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。
「大和に迎撃させよ!」と命令した。
戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。
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土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
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