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自由落下を続けるアイの眼前に、やがて、大きく暗い裂け目が見えてきた。それはまるで、巨大な魔物がカロンの氷原を鋭利な爪で引っ掻いてつけたような傷で、両側の縁がみみず腫れのように盛り上がり、中は一面の闇になっていた。すでに地表面近くの高度になっていたため、その裂け目は、これまでのゆっくりとしたペースとは桁違いの速度でずんずんとアイの目の前にせり出してくる。アイはあわててスラスターをあちこち作動させ、落下速度を細かく調整した。
従属体は地表面の高さをそのまま過ぎて、直接、裂け目の中に進入して行った。蒼く透き通った壮大な氷壁が、窒素と凍結したメタンとで形成される不毛の大地から直接落ち込み、そしてどこまでもどこまでも続いている。それらは鏡のようにつるつるしてはおらず、物言いたげに淀み、くすみ、そして歪み、あちこち老婆のような皺が寄っていた。皺の襞に当たった光が深く濃い影を作り出し、氷壁はそのところどころに、まるで良からぬなにかを潜ませているかのような気配すらあった。
裂け目の幅は、おそらく数キロメートルもある。地球のグランド・キャニオンを数倍したような、そして土色を蒼黒く透き通った氷壁の色に塗り替えたような、まさに空前絶後の大峡谷だった。深さは、正確にはわからない。宇宙の彼方からの微弱な光は、峡谷の下方には全く届いていないのだ。そこはただ漆黒の闇だった。
アイはまた、氷壁の上を吹き荒ぶ風の音を聞いた。わずかばかりの大気を有する冥王星と違い、地表がそのまま宇宙の真空に剥き出しになったカロンに風など吹くわけはない。遠く太陽から、プラズマを帯びた宇宙風が吹き渡ってきたのだとしても、その密度は希薄で、この何もない辺縁で体感できるほどの圧力を伴っているはずもない。
現に従属体の物理的な聴音装置は全く何も計測せず、制御指令室のパネルには何も表示されていないはずだ。鋭敏に作られたそれは、別途、ただ遥かな虚空を征くかすかなパルサーの痕跡を捉えただけである。しかしスレイヴに完全転移した彼女の意識は、頭上でたしかにその音を聴いた。それはまるで、誰かある種の美意識を持つ者が意図して吹いた笛の音のようだった。
ぴい、ぴゅう。ぴい、ぴゅう。
歓迎だったのか、なにかの警告だったのか。それともそれは沈黙を破った訪問者に対して、数十億年もの孤独から解き放たれたこの氷の衛星が、ただ喜びの調べを聞かせたかっただけなのか。アイにはわからなかった。
風の音は数十秒のあいだ続き、やがて徐々に小さくなり、熄んだ。
さらに降下すること数十分で、アイはやっと大峡谷の底に接地した。従属体の足裏に装着されたクローラが、粘り気のあるトーションバー・サスペンションを効かせて接地の衝撃を緩和した。数十億年ものあいだ積もり続けた塵が、クローラに砕かれた細かな氷のかけらとともに舞い上がり、キラキラと輝く不思議な霧のように暗闇の中を漂った。不思議なことにいざ接地してみると、そこには仄かに光があった。遥か谷の上方に差し込んだ星々のあかりを、蒼黒くよどんだ氷壁が反射し、壁に寄った皺や歪みがさまざまな方向に乱反射させて、この深い谷底まで微かに光を届けているのである。
もちろん、もし肉眼であれば、そこはただ闇のままであろう。だがわずかばかりの光源があれば、それを数百倍もの照度に調整できる従属体の視察カメラは、余裕をもって周辺の地形を偵知し、限定的にではあるがアイの進むべき進路を正確に照らし上げることができる。
アイはスレイヴを操り、そのままどんどん谷の中へと分け入っていった。平坦地ではクローラを動かし、起伏の激しい部分は両腕やスラスターの力を借りながら、走り、跳ね、飛び、そして時には四つん這いになった。どこまで進んでも氷壁はその表情を変えず、あちこちに光の池と闇のたまりを作り、そのまだら模様の中をスレイヴは進んでいった。
そしてアイはまた、あの笛のような音を聴いた。
ぴい、ぴゅう・・・ぴい、ぴゅう。
従属体は地表面の高さをそのまま過ぎて、直接、裂け目の中に進入して行った。蒼く透き通った壮大な氷壁が、窒素と凍結したメタンとで形成される不毛の大地から直接落ち込み、そしてどこまでもどこまでも続いている。それらは鏡のようにつるつるしてはおらず、物言いたげに淀み、くすみ、そして歪み、あちこち老婆のような皺が寄っていた。皺の襞に当たった光が深く濃い影を作り出し、氷壁はそのところどころに、まるで良からぬなにかを潜ませているかのような気配すらあった。
裂け目の幅は、おそらく数キロメートルもある。地球のグランド・キャニオンを数倍したような、そして土色を蒼黒く透き通った氷壁の色に塗り替えたような、まさに空前絶後の大峡谷だった。深さは、正確にはわからない。宇宙の彼方からの微弱な光は、峡谷の下方には全く届いていないのだ。そこはただ漆黒の闇だった。
アイはまた、氷壁の上を吹き荒ぶ風の音を聞いた。わずかばかりの大気を有する冥王星と違い、地表がそのまま宇宙の真空に剥き出しになったカロンに風など吹くわけはない。遠く太陽から、プラズマを帯びた宇宙風が吹き渡ってきたのだとしても、その密度は希薄で、この何もない辺縁で体感できるほどの圧力を伴っているはずもない。
現に従属体の物理的な聴音装置は全く何も計測せず、制御指令室のパネルには何も表示されていないはずだ。鋭敏に作られたそれは、別途、ただ遥かな虚空を征くかすかなパルサーの痕跡を捉えただけである。しかしスレイヴに完全転移した彼女の意識は、頭上でたしかにその音を聴いた。それはまるで、誰かある種の美意識を持つ者が意図して吹いた笛の音のようだった。
ぴい、ぴゅう。ぴい、ぴゅう。
歓迎だったのか、なにかの警告だったのか。それともそれは沈黙を破った訪問者に対して、数十億年もの孤独から解き放たれたこの氷の衛星が、ただ喜びの調べを聞かせたかっただけなのか。アイにはわからなかった。
風の音は数十秒のあいだ続き、やがて徐々に小さくなり、熄んだ。
さらに降下すること数十分で、アイはやっと大峡谷の底に接地した。従属体の足裏に装着されたクローラが、粘り気のあるトーションバー・サスペンションを効かせて接地の衝撃を緩和した。数十億年ものあいだ積もり続けた塵が、クローラに砕かれた細かな氷のかけらとともに舞い上がり、キラキラと輝く不思議な霧のように暗闇の中を漂った。不思議なことにいざ接地してみると、そこには仄かに光があった。遥か谷の上方に差し込んだ星々のあかりを、蒼黒くよどんだ氷壁が反射し、壁に寄った皺や歪みがさまざまな方向に乱反射させて、この深い谷底まで微かに光を届けているのである。
もちろん、もし肉眼であれば、そこはただ闇のままであろう。だがわずかばかりの光源があれば、それを数百倍もの照度に調整できる従属体の視察カメラは、余裕をもって周辺の地形を偵知し、限定的にではあるがアイの進むべき進路を正確に照らし上げることができる。
アイはスレイヴを操り、そのままどんどん谷の中へと分け入っていった。平坦地ではクローラを動かし、起伏の激しい部分は両腕やスラスターの力を借りながら、走り、跳ね、飛び、そして時には四つん這いになった。どこまで進んでも氷壁はその表情を変えず、あちこちに光の池と闇のたまりを作り、そのまだら模様の中をスレイヴは進んでいった。
そしてアイはまた、あの笛のような音を聴いた。
ぴい、ぴゅう・・・ぴい、ぴゅう。
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