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89.風間祥太

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狂気。
進藤隆平の存在はそんな一言で表現するには、絶対的に物足りない。両親から望まれずに産まれたと言うことだけでも不幸なのに、物心ついた時には父親から聞かされた呪詛に支配された男。
何故そんな人間が産まれたのか、何故そんな風に育ち、母親も誰もそれを引き留めなかったのか。俺にはどんなに考えても、その答えになるものなんかない。何故ならそんな物語のような生活、俺が育ってきた場所には存在がないことだからだ。

きっと、あの男の気持ちは、その状況に居るものにしか分からない。

進藤の話を聞いて俺が感じたのは、先ずそういうことだった。上原杏奈の苦悩にも似た信じられない時間、それから一歩も逃げることも出来ずにそこで堪えるだけ。想像できないが現実にあったことなのだと思うと、強くておぞましい不快感が胸に広がってくる。そんな家系だったと一言で済ますには余りにも最悪過ぎるとしか言えない、実の祖父の筈の都立総合病院の院長・倉橋健吾の思考と行動。
自分の息子には異常なほどと俺には思える愛情を持ったが、その孫にも曾孫にも愛情も温情すらも一欠片も与えられない。薄情の一言で済む話ではない、息子が暴力をふるって出来た孫を日陰者にしたままだったのは事実だ。確かに倉橋俊二が人を二人も殺して植物状態になったのは確かだが、進藤が産まれたのはまだ最初の交通事故の後の話なのだから。幾らでも方法はあった筈だが進藤の母親と倉橋俊二は結婚していないし、子供として認知されたかどうかもハッキリしない。
それなのに聞けば唆されたとはいえ、倉橋健吾は倉橋俊二の子供を作ろうと三浦夫妻の人工受精に進藤の精子を使った。聞いただけで吐き気を催すが、大体にして二十六年前既に意識のない寝たきりの人間の精子を、どうやって確保したのか俺には想像もできない。

精嚢から直接採取したんじゃねぇかな?それもとまだ体だけは反応したとか?あー、事前に保管って方法もあるけどよ。

そんなふうに四倉梨央は言うが、どちらにせよ狂気の沙汰としか思えない。結局進藤にそれを利用されて曾孫が出来たわけだが、それがばれないよう三浦の妻を言い込めて本当の事をひた隠しにしたのだ。正直進藤だけがおかしな悪意の塊なんじゃなく、倉橋健吾も完全に狂人で悪意の塊だとしか俺には思えない。それになんで次男だけに過剰に愛情を注いだのか?そう四倉梨央に問いかけると、四倉梨央はそれに予想外の答えを返した。

確か倉橋健一って、連れ子だったって聞いたことがある。

そう聞いて尚更不快感が強くなったのは言うまでもない。優秀で医者になり人柄もよく次期院長と目された青年は、健吾にとっては実の子供ではなく年上だった妻の連れ子。つまりは倉橋健吾にとっては俊二が最も大事な息子で、だから溺愛し子孫を残そうとした。その行為は倉橋俊二が自殺未遂から四年後で回復が望めないのを認めた後で、倉橋健一がホテル火災で死ぬ三年も前のことなのだ。

倉橋健吾の息子が悪人なのは、倉橋健吾のせいなんじゃないのか?

酷い言い方かもしれないが、そう思っても仕方がない。そうして一族朗党を抹殺するような子孫を放置して、更に新たに凶悪な悪意の塊に成り得る種を作り出した。
それでもそれを殺すための薬をだ、祖父が孫に曾孫を殺すための薬を入手させる。そんな気の狂った話があっていいものだろうか?だけど倉橋健吾より倉橋俊二より、進藤隆平の方が悪意はより純粋でより狡猾で質が悪かった。進藤に逆手にとられているとも知らずに、三浦の体のリミッターを外して化け物に変える手伝いを自らしていた倉橋健吾。それに気がついた時には三浦は隔離された場所から逃げ出して、行方を眩まし、しかも進藤が証拠隠滅を図ったのを警察にも言えない。
自分自身で墓穴を掘って、しかも自由になった三浦は少なくとも自分を覚えている。そんな状況では生きた心地はしなかった筈だが、倉橋健吾が自殺したと思われるのは竜胆が爆弾テロを起こした日だ。その日だった理由は何だったんだろうか。何かしらの理由があったのだろうか?
俺はそれを考えながら、密かにやって来た杉浦陽太郎が轢き殺された場所を見下ろして立ち尽くした。

あの時の映像。
十月末の都市部での大規模地盤沈下による停電と、都市機能の停滞。その最中の混乱で起こった一つの交通事故。後から他の店舗からの画像を確認していて、杉浦がその一寸前一人で歩道を駆け出し一つの白いバンに体当たりして揉んどりうって倒れた姿が僅かに映っていた。つまりあの時の鼻血は自分自身の不注意で車に体当たりした自滅だったのだが、バンの方は完全に停車していて杉浦が前を見ないでぶつかっただけなので法的な問題にはまあ恐らくは問われない。何しろ溢れんばかりの人混みの上に、画面のほんの僅かな大きさでギリギリ映っている状態では、車体に何と記載されているかも見えないし、正確な車種も割り出すには時間がかかる始末だ。しかも直後にデータが過電圧でショートしてしまっていて、その先でその車が何処に消えたかも分からないのだ。ただ他にだが久保田惣一が見せてくれた画像に三浦和希と思われる人物の他に、密かに映っているのを見つけた人間がいる。あの時の何百人もの画像の中に、三浦と自分達三人と、実は一緒に倉橋亜希子がいたのだ。
この間杏奈と話した時に倉橋亜希子に直接会っていなかったら、俺だって全く気がつかなかったと思う。三浦の直ぐ近くに立つ彼女は、何であの場所にいたのか。でも、何故杏奈があの時姿を消したのかもこれで理解できた。

あの時、彼女を杏奈が見つけていたのだとしたら?

その後の三浦が歩く画像にも倉橋亜希子らしき人物は映っていて、同じ方向に向かって歩き去っていく。ただ小柄な彼女は三浦と違って、あっという間に人波に紛れ込んで消えた。

倉橋亜希子の役割は一体なんなのだろう。

恐らく真名かおるを知っているかと俺に背後から問いかけたのも彼女ではないかと今は思うし、画像では三浦の後を追って歩いているとしか思えない行動。それこそ自分の身元も濁して暗躍している姿は、真名かおるに似ていると思う。だけど真名かおるが彼女なら俺に問いかける必要なんかないし、三浦から真名かおるの影を消したい進藤がただで済ますとも思えない。
杉浦陽太郎の事故からは既に半年。
今では誰もここで無惨な事故があったとは思っていないし、場所柄花すらも供えられないまま。悪意だけが脈々と進藤に受け継がれて、しかも三浦にまで引き継がれてしまっただけ。

それでもまだ、三浦には真名かおるの存在がある。

今では真名かおるの存在は、違う意味で大きくなりつつある。進藤には心酔するようなものはなかったから、その意味では三浦にとっては唯一の弱点とも言える。真名かおるは実在していて外崎宏太ですら偶々の心の隙を突かれて、真名かおるの悪意にあっという間に呑まれた。進藤隆平と同等に思える強い悪意なのに、狂気に呑み込んでもまだ人を強く惹き付ける。

上原杏奈とは全く違う。

真名かおると『縣』の繋がりは、どう考えても《random face》だけだった。真名かおるは店では三浦和希以外とは明らかな交流がなかったと、外崎は証言しているし何人か声をかけられても全く靡かなかったという。つまり二つ点の繋がりは恐らく三浦和希、三浦を心酔させた真名かおると最初は仲間で裏切ったから殺された縣孝喜。となれば今になって真名かおるの名前で『縣』が呼び出される理由も恐らくは三浦和希なのだ。
既に死んだ縣幸喜の携帯は保管庫にはなかった。
埃を被った証拠品の保管ボックスには、入っている筈の五つの携帯がなく返却されたとも書いていない。つまり密かに誰かが盗み出して、今もワザワザ死んだ者達の携帯を何かに利用している。

恐らくは石倉拓也が、他の被害者の身内と連絡をとっていた。

全ての携帯は誰かが、携帯料金を数ヵ月前まで支払っていた。今も支払いを続けているのは縣のモノだけで、後の四人の物は石倉の死亡後に未払いだったり解約されたりしている。つまり密かに被害者の身内の誰かが、五人で連絡を取り合っていたに違いない。
何のために?
いや、答えは簡単、石倉が死ぬ直前にしていた事だ。性的な暴行、退行して子供になっていると思われていた弱い患者を、多人数で押さえ込み患者の仲間がしたようにレイプする。だけどこれには、一つ疑問があるのだ

外崎にそう躾られ女王様が以前廃棄したとはいえ、勝手に他人が手を出したら真名かおるは本当に不快に思うだろうか?

正直いうと俺にはこの一点が、今まで聞いてきた真名かおるの印象からは噛み合わないでいる。自らが手放したものを真名かおるは、惜しがるような女だろうか。
真名かおるは別に目的があったようだというが、それはなんだったのだろう。三浦を手放しても問題のない事だったのだろうか、そう俺は現場から離れながら考える。手駒としての三浦が何か気に入らない事をしたから、真名かおるは三浦を廃棄処分にした。自分の目的の邪魔をしたから手放す、しかも手放しても口を開かないように仲間達に襲わせる。
残虐だが、真名かおるが三浦にレイプされた女性の親族だとすれば、納得できる行為ではある。誰しもがそうなのだろうと考えていたし、真名かおるが偽名なのはそれを裏付けたと思ったのだ。だけど外崎から真名かおるの印象を何度か聞くと怨みの執着を何も感じないやり口で、本当にただ気にくわないから棄てた。子供のような思考過程で、廃棄したものを惜しがるような印象は全くない。
だが殆どの人間は真名かおるは、被害女性の親族と思っている。勿論警察の殆どの人間もそう考えている筈だ。その真名かおるが不快に感じるとしたら?廃棄したモノに対してではなく、行為自体を不快に感じると考えはしないだろうか?

弱者をレイプしたから、やり返した。だけど、子供になって弱者になった三浦をレイプし続けるのは、三浦が最初にしたのと同じこと。

真名かおるがそんな風に不快に感じる筈だと考えているのは、彼女が親族怨恨で動いたと考え呼び出される方の心情がそれに則して考えると判断したのだと言うことになる。それを理解していてわざと、杏奈は真名かおると名乗って『縣』を一人で呼び出したのだ。

『縣』が今では後悔しているのを知っている、不安に感じているのを知っていて真名かおるを名乗った。

そして上原杏奈が真名かおるを名乗って縣へのメールを送ったのは、恐らく縣の名前を使って遠坂がそれをしていたのを知ったから。性的な暴行で人生を狂わされた上原杏奈には、同じことをする遠坂は許せなかったんじゃないだろうか。だから真名かおるが不満に感じる事を、縣の方もしたと考えているから呼び出しに応じた。そうだとしたら遠坂は性的暴行を行ったと言うことになるし、しかも進藤は三浦への性的暴行を知っている事になる。

だけどあの日、石倉拓也が一人裸になって部屋に入ったのは何故だ?

幾ら三浦が華奢で力がなくても、男は男なのだ。どんなに隔離室の中では大人しくても五人も惨殺した事実は変わらないし、三人を襲って重傷を負わせたのも変わらない。駅の構内を通り抜けて和やかな駅前の道を歩きながら考える・石倉が夜の闇の中で全裸で扉を開ける姿は不快で仕方がないが、何故他の三人のうち誰かがその時居なかったのか。
不意に視界の先で見慣れた都立第三の制服が目に入り視線を向けると、三年生だろうか艶やかな黒髪の少女と背の高い青年が二人だけの世界で手を繋いでいる。まるで昔の自分と杏奈のように、並んで歩いている姿。

恋人同士か……幸せそうだな。

仲睦まじい姿にハッとする。石倉拓也が三浦への怨みではなく、愛情を感じ始めていたらどうなんだろう。石倉の弟が妻帯者なのに三浦和希をホテルに連れ込んだのと同じで、あの中性的で危うくすら見える容姿で三浦が意図して一人で入ってくるよう誘っていたら。一年以上も大人しく行為を受け入れ反抗もせず素直に従い続けて、やがて石倉が一人で入るのに慣れ始めたのを待ち構えていたのだとすれば。

石倉は殺される運命だったのは分かったが、なら他の四人は?

『縣』が遠坂であれば遠坂は何故三浦と直接会って、骨折という大怪我とはいえ怪我だけですんだのか。外崎は同じことをしてあの体になったのだと本人から聞いたが、遠坂はどうなるのだろう。あの時は無関係の女子高生がいたから、次の機会にしただけか?それとも他に理由が有るのだろうか。

「ママーぁ!早くー!」
「奏多!危ないから、止まって!」

唐突に中断された思考に小さな全力の体当たりが予想だにしない高さで突っ込んできて、俺は咄嗟に転がりそうになるその体を手で掬い上げた。危うく路面に転がる寸前で手におさめたのは、ほんの小さな猫っ毛の黒髪の幼児だ。数メートル離れて慌てて歩いてくる母親らしい女性は、身重なのがハッキリわかる腹をしている。抱えられた幼児はポカーンと俺の事を見上げていて、母親が慌てて声をあげた。

「もう!奏多ったら!すみません!怪我は?」
「ああ、大丈夫ですよ。ボクは平気か?」
「ボクじゃないよ!カナタだよ?カナタね、おぼえてなかったの。」

その言葉の意図が分からず俺が戸惑うと、覚えてないじゃなくて見てなかったでしょと母親が呆れ声で言う。なるほど前を見てなかったと言いたかったのかと俺は苦笑いしながら、興味津々と言う顔で俺の事を見つめる少年を路面におろす。膝より少し上程度しかない幼い子供の見上げる瞳に浮かぶ興味の光に、思わずまた笑ってしまいそうだ。キョトンとしながら俺の事を見る瞳は、初めて三浦を見た時を何故か思い起こさせた。

「ママぁ、このひとだあれー?」
「もう!奏多ったら!本当にすみませんでした。」

ぶつかってきた方から誰かと聞かれて、流石に俺も笑ってしまう。子供特有の無邪気さに触れているのに、頭の中が殺伐としているのは申し訳ないが穏やかに頭を下げる母親が奏多と呼ばれた子供の手をしっかりととる。
その子供の手をひく母親の姿を眺めると、何故か何処か杏奈に似ている気がして俺は少し頬を緩めた。

杏奈もこんな風に子供を育てていたんだろうか?

「じゃあねー、ばいばーい。」

名前しか知らない少年があどけない笑顔で空いた手を俺に向けて振る。幼い子供はあっという間に俺の事自体忘れてしまったように、楽しげな様子で母親に話しかけ初めた。その姿を俺は何とはなしに見送りながら、隔離室の中で子供のようにボール遊びをしていた三浦の事を考える。

記憶……?

三浦は毎日顔を会わせていれば人の顔も記憶していると、進藤は証言していた。期間は二・三日程度で、写真があればまた別だがとも。つまり次第に記憶が保持できなくなって、人物像が薄れていくようなものなのかもしれない。写真はそれを保持するのに使うのだろうが、体で憎悪を感じながら記憶されている石倉は噛み殺されてしまった。なら、同じ事をしていた遠坂は?面会の時石倉と話していた遠坂は、それほど頻繁に来ているようには感じなかったし、三浦だって不思議そうに眺めていた気がする。

だからといってやったことが許される訳ではないが……

幸せそうな二人の姿を見つめながら、俺はそう頭の仲で呟く。いい加減にハッキリさせないと、そう思っても、もし真実を知ったらどうすればいいのだろう。自首を促すか?促されてするか?しなかったら?そんな思考に俺はその場に立ち尽くしてしまっていた。
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