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77.外崎宏太

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ボイスレコーダーの音声は全て聞いた。だが、あれからまだ実は喜一とは連絡をとっていない。今連絡をとってもどうしようもないし、あいつがしてしまったのは事実だ。少なくとも今の俺が出来るのは、あのボイスレコーダーの内容を客観的に理解することと、秋奈が死んだ原因の究明だ。少なくとも喜一は三浦を逃がしたことは後悔していて、なんとか三浦の身柄を確保しようとしているのも事実だ。それに……そんな余計なことを考えようとした自分の耳に音声が流れこんで、俺は耳はそっちに集中する。あれから殆どベットに横になることもなく、ここで俺に拾える範囲の全ての耳を確認していた。眠気は薄くて眠れば悪夢を見るのが分かっているから、延々とほぼ二十四時間耳だけに集中している。

卒倒することは、恐らくもうない。

何しろあのトラウマを引き起こした声の主が進藤だとハッキリして、俺が怯えた希和ではないのだ。死にかけた意識で刻み込まれた反応で不快感はこれからだってあるだろうが、それでもこれまでのように意識を失うほどショックを受けることはないに違いない。

三浦は元は何処にでもいるような、良いところの坊っちゃんでしかなかった。

最初の印象が残っていないのは、店には似合わない大人しい人間だったに違いない。いつの間にかあいつはあの部屋で暴君にはなっていたが、それだって社会で一人で生きる段階になった時には無意味な虚勢に変わった筈だ。それをこんなモンスターに変えたのは進藤隆平の底知れない悪意と、真名かおるの気紛れの悪戯と、俺の容赦の無い躾。それは確かで、俺にも原因の一端があるのは事実だ。確かに俺はその対価を自分の体で支払ったが、だからといって今のあいつに責任がないと言い張るには些か気分が悪い。

それに、自分の体が切り裂かれる感触は痛感してるしな……

だけどそれを息子が受けたと知った喜一がどう考えるかまで、俺は考えていなかった。そう所謂身内感情ってやつだが、大体にして俺は妻が自殺してもなんとも感じない感情欠如のある人間なのだ。それでも一応妻に関しては、時折今も自分が悪かったのだろうと考えはする。同じ目に合わせてやりたいと最後に叫んだ妻の憤りが、何だったのかを知りたいとは今でも思うから希和の荷物も殆どそのままにしてきた。流石に動くのに邪魔な調理器具なんかは捨てちまったが、それでもあの時に希和が何を考えて自分の舌を切り目を抉って、喉や腹にナイフを突き立てたのか聞けることなら直接聞きたい。同時にこの体になる直前に死んだ希和の弟にも、なんで死ぬ道を選んだのかと聞きたい。ああ、言わなかったな、希和の弟は希和が死んだ時は全くの健康体だったが、三浦事件のちょっと前に死んでいる。病気じゃあない。ある意味自殺みたいなもんだが、実はそれにも俺自身も関わっている部分もあって、少しは罪悪感を感じていた。

なんで死ぬことを選ばないとならないんだ?

死んで相手を遺す理由はなんだ?社会的抹殺か?でも、相手は元気に生き残るんだぞ?例え死んだら地獄に堕ちるかもしれないが、それでも俺は生きてるし、その理由さえ理解できない。
そんな時にあの真名かおるが現れたんだ。
自分では分かってなかったが、俺自身少しは自暴自棄になっていたに違いないとは思う。なんでかって?そりゃこんな大層な御面相にされて、長い付き合いの人間も失ったしな。

《……ホントにいいの?大丈夫?》

それにしてもほぼ二十四時間・聞き続けているが、世の中ってのは本当に何処もかしこも生存本能のままに生きているもんだよな。俺自身死んでもいいかと常々考えていたのに、この傷を追って死にかけた途端死にたくないと必死になったんだから笑えるだろう。ずっと希和が俺を殺しに来ると心の何処かで考えていて、希和の弟が死んで、もういいと思っていた筈の俺がなんで死にたくなかったのかだって?なんでかな……ちょっと心の中に浮かんだ人間がいたんだ。ここだけの話、相園に頼んでラブホテル関係者に幾つか耳を仕掛けされてもらったのも……まあ、本音はそいつが何処かに来るかもなんて考えたってのもある。あいつも大概自由奔放なやつだからな。

《ねぇ、早くぅ。》

言っておくが何組ものむつみあいを全部隅から隅まで聞くわけじゃない。俺だってそんなに悪趣味じゃないし、それを聞いたからと言って俺に性的快感が得られる訳でもない。大体にしてあれをちょんぎられたお陰で欲求自体それほど感じないし、秋奈にでかい乳を押し付けられてもなんともないんだからな。人間ってのはおかしなもんだ。

《えーと、幾ら?》

馬鹿だな、お前。やる気の女とホテルに入る前にその算段はしておけよ、女が一気に萎えて声が低くなってるだろ。お前、セックス経験少ないだろ。そう考えながらこれはただの売春だから無駄と判断して、別なチャンネルに切り替える。そんな事を繰り返している俺の手元のスマホが震えだした。

『おーす、トノ。』
「なんだ?宮。誰か入れるか?」
『何か妙な客でさぁ、一応。』

駅前のカラオケボックス・エコーに妙な雰囲気の客が姿を見せたと、宮が言う。実はこの間の車の居場所に関しては、宮としてはかなり不本意だったようだ。車が何処に経由したかなんて分かりゃしないと思うのだが、それでも情報網が上手く誤魔化されたのは宮にすれば納得が行かないという。なんで納得が行かないのかと言うと経由地が、エコーに近いからだというんだから見ていたヤツがいたはずだというのだ。そんな話は兎も角、妙な客は男女のカップルだというのだが、何となく女の方に違和感を感じたのだと言う。

『何かさぁ……普通なら女の子って彼氏と二人なら当然な感じがあるんたけどさぁ。それが全然無いんだよねー。』
「なんだそりゃ?」
『いやぁ、はっきりは分かんねぇんだけど、違和感がなぁ。』

一先ず聞いて電話すると言うと、宮もよろしくと応じる。違和感、日に何十とカップルを見たり、女性客を眺めている宮だから感じる何かは確かにあるかもしれない。何気なくエコーの『耳』を動かすと、カラオケボックスだというのに、まだ曲すら入っていないのに眉を上げる。

《君みたいな人に誘われるなんて……ほんと嬉しいな。》

若い男ははにかむようにそんなことを言う。どうやらカップルではあるが成立直後というようだ、宮の違和感はそのまだ完全に近づいていない関係のせいかもしれない。そう考えたが二人の会話は沈黙を挟みながら続く。どうやらカラオケボックス本来の利用をする気はないらしいが、かといって不埒なことに持ち込む気配でもない。時にはこんな場所でも不埒な行為をする人間はいるもので、この部屋では以前には乱交セックスしてたり、女子高生を人間椅子にした変態が出たりしたことがある。だが、この二人には、そんな雰囲気がまだ生まれない。

《本当に?そう思う?》

男にわりと低くハスキーな声が答える。思ったより相手の方が落ち着いているように感じるし、会話は特におかしなものではないが何かが俺には気にかかった。この二人は奇妙な緊張感をもって、しかも部屋の中で間を開けて座っているようだ。

《本当に、そう思ってるよ。でも、本当なの?》
《うん。》

本当?なにがだ?誘われて嬉しい意外に何が女の方にあるんだ?男の出す条件に見あった相手と言うことなのだろうが、そんなもの世の中には多種多様にある。

《本当なら見せてよ。》

見せる?目で見える何が女にあるって言うんだ?そう考えた瞬間に何故か不快感が味覚の無い筈の舌の上に、苦い薬のように広がるのを覚えながら俺は耳をじっとそばだてる。男の声に応じる微かな衣擦れの音、恐らく立ち上がるソファーの軋み、そしてまた微かな衣擦れの音がしていた。恐らく女の方が立ち上がって、何かを見せようとしている。

《ああ、ほんとだ………。》

若い男が感嘆の声を上げるのに、女の方が反応して低く湿った笑い声を溢す。その低い笑い声は聞き覚えの無い声なのに、何故か俺は背筋が凍りつくのを感じていた。声は聞いたことがないのに、何処かでその笑い方を聞いたことがある。俺はその女の笑いに息を詰めて、そいつが何を話すのか耳をすます。

《見てどうするの?触る?》

男の喉の鳴る大きな音。呼吸が上がって興奮しているのが分かるが、男の緊張感は興奮に変わってはいないようだ。案外慎重な男のようで、出会って即性行為という単純な快楽を求めるタイプじゃないのかもしれない。

《いや、…………その、……今日は止めておくよ。》
《どうして?》
《君のこと何も知らないから。》

予想外の言葉に、逆に驚いたように相手が口を開く。

《変なの、男としたいから探してたんじゃないの?》
《そうだけど……こんなに綺麗な男の娘だなんて……。》

こんな直ぐ傍にまだ潜んでたかと冷や汗をかくのを感じながら、俺は自分の指が震えるのを感じる。前ほどショックは起こらないが、こんなに容易く出歩いている三浦和希。しかも話が出来ないと槙山は言っていたが、既にそれは回復しているし頭も回る。違法投薬とは聞いていたが随分効果適面な薬だ。それにしても女装の男とやりたい男なんて、どこで見つけたんだか上手いこと引っ掻けたもんだ。

《……ほんと、変なこと言うね。したくないの?》
《したいけど……君のこともう少し知りたい。》

相手は思ったより純粋な気持ちで会ったのか、兎も角気勢を削がれた三浦は可笑しそうに声をたてて笑うと衣擦れの音をさせて晒していたものを隠したようだ。
宮に再度連絡しながら耳をすましているが、二人はさっさと店を後にする事にしていた。恐らく喜一に連絡しても間に合いそうにない。しかも三浦は気勢を削がれ、大人しく本当に彼女のように女を演じて相手と笑う有り様だ。やむを得ず宮には、もう一度二人が姿を見せたら即連絡を貰うことにした。



※※※



いつの間にか浅い眠りに椅子の上で落ちていた。
夢の中で背後に立つ三浦に喉を切り裂かれ飛び起き、痙攣するように体が跳ねる。思わず喉を押さえ呻きながら目を覚ますと、口の中に苦い味が広がっていく。時折こんな風に苦く塩辛い味がするのは恐らく目頭を切り裂かれたために、手術で涙管を別な場所に繋いだからだ。そのままにしておくと涙が傷に浸潤して感染を起こすため当然の手術なのだが、他の味は殆ど分からない味覚障害の癖に涙だけは苦く感じる。これが後悔の味と言われれば納得の苦さで、正直味わう度にウンザリしてしまう。所謂これが後悔というやつだろうという時にばかり、この味は広がるのだ。その癖俺自身は別段後悔していると自覚が持てないのは、後悔という感情も理解できない人でなしだからに違いない。
秋奈が必死で子供を救おうと足掻いて、しかも杏奈の計画の穴に気がついた時、俺の頭に浮かんだのは鳥飼澪だった。澪が何故高校卒業と同時に幼馴染み達の前から姿を消したのか知らないが、あいつが直ぐ傍にいた男に惚れていたのは知っていたんだ。何でその男と結ばれようとしなかったのか、幸せにしてもらえばよかったのにと今でも思う。杏奈も同じだ、風間も自分も惚れてるのに、何で幸せになろうとしない?

俺なんかこんな御面相で、二度と会えもしないのに

そう考えたら苦い味が一気に口中に広がる。
あまり自分でも言いたくないことだが、俺のこの傷があんまりにもグロくて俺の前から姿を消した人間がいる。昔は四六時中会っていたのに急に会えなくなって、俺は密かにショックを受けた。長く付き合ってセックスまでする間柄で、実は自分がそいつに惚れてたかもしれないのに気がつかないなんておかしな話だろ?しかも、実は結婚歴もある癖に人に惚れるなんて経験がないから、それが本当の気持ちなのかどうかも確認できないし理解もできないでいる。だけど余計この後悔の味ってやつは、それを思い出させるんだ。
会えない、会いたい、そう思う度に、お前は会えるんだから幸せになれよと杏奈に言いたくなる。俺があいつにまた会えるなら、相手が俺の傍にいてくれるなら、そう考えるだけで胸が詰まるようになるんだから世も末だ。兎も角この後悔の味がしたから、秋奈の奴を少し幸せにしたくなった。それが慈善事業なんぞを言い出した理由なんだ。

それなのに何でお前は死んだ?俺は何を間違った?

俺はそんな風に何度も間違いばかり犯している。希和に希和の弟、上原杏奈もみすみす死なせてしまった。それに幼馴染みの澪も喜一ですら、助けられずにいる。人を幸せにとか助けるなんて自己満足だとは思うが、ほんの少し幸せになるくらいは出来てもいいんじゃなかろうか。それとも俺は人でなしの鬼畜だから、そんなこと不可能なんだろうかと今では思うくらいだ。

何にも関わらない方が、世の中のためなのかも知れねぇよな

そう考えると苦い味が更に強く口の中に広がって、俺自身流石にいたたまれなくなる。手足が凍りつく苦味を一人では消すことができない俺は、気分を入れ換えるつもりである場所に足を向けた。
そうして外に出て、春の気配の匂いが満ち始めているのに気がつく。
冬の冷たい風が暖まり始めていて今更のように、顔をあげて苦い味のする溜め息を放つ。上原杏奈が死んで既に半月、三月の空気には既に桜の花が香る。

あと半月で春だったのに、何でお前はあんな冷たい夜に死んだ……?

とんでもなく苦い。こんなに苦いのは久しぶりで嫌になる。口の中の苦さが消えなくて、俺は深い溜め息をつきながら俺にはもう見えない視線を落とす。俺の目の前には墓石がある。ここは俺のマンションの近郊にある寺院の裏手、ここいらに一族で長く住んでいるような奴等の大部分がここに墓を持っている。勿論幼馴染みの鳥飼家もここに墓所をもっているが、目の前の墓石は片倉家のものだ。俺の妻は戸籍上は外崎のまま死んだが遺骨は親の意向で片倉家に返した。それにここには希和の弟もいる。

どうしてだ?なんで…死ぬんだ?

俺は未だに足掻いているのに、何故お前は死んだんだ?死ぬとどうなる?苦しさから逃れられるか?楽になるか?俺にはそうは思えなかった。深い傷を追って死にかけた時、もういいとは思えなくて、あいつに会いたいと必死に願っていたんだ。そんな風に感じたのは俺がおかしいからなのか?この感情をどうやって理解したらいいんだ?何時もなら引けていく苦さが更に体にまで広がって、どうしようもない。

会いたい……会ってハッキリさせたい……

そうしたら喜一の気持ちだってもう少し理解できるだろうし、上原杏奈が何を思っていたか理解してやれる。だけど俺には会う手段がもうない。
そんなことを考えた瞬間、微かな足音が聞こえる。その足音に聞き覚えがあって、俺はそのまま凍りついた。相手の方も俺に気がついたのか、墓所の小道で戸惑うように立ち尽くしている。あっちも希和の弟と知り合いだから墓参りにでも来たのかもしれないが、俺に気がついても近寄らないのはそれほどに俺の傷が見たくないのだと思うと苦さが再び刺すように強まった。

会えたのに……声すら聞けない……か。

苦くて堪らない。上原杏奈が我が子を遠目に見つめていた気持ちは、これと同じだろうか?でも杏奈は目で見ることが出来るから、心に焼き付けることはできる。俺には知らんぷりで通り過ぎるだけで、他には何も出来ない。体の奥が冷たく感じ深い溜め息が溢れ、馬鹿みたいに突っ立ってる場合じゃないと諦めの苦笑が浮かぶ。
それは偶然だった。俺もかなりボンヤリしていたしマトモに休みもしてなかったから、予期せぬ場所でバランスを崩したのだ。忌々しいが墓地で転ぶなと覚悟を決めたのに、俺には近寄るのも嫌なはずのそいつはバランスを崩したのを見て咄嗟に駆け寄って俺に手を差しのべた。久々に嗅いだ相手のコロンの匂いと、以前は吸ってなかった俺が吸っていたのと同じ煙草の匂いが微かに香る。

「…………悪いな…了。」

成田了。可笑しいだろうが、相手は歴とした男だ。そんなことよく分かってるが、なんでかこいつだけは特殊な存在だった。俺は久保田の下で調教師なんて仕事をしてたから、相手が男だろうと女だろうと構わない。だけど性的思考は完全なヘテロセクシャルで、性欲が起こるのは女だけ。その筈なのに何故かこいつだけには昔から妙にそそられるし、実はこいつがまだ高校のガキの頃に初めて手を出した。今じゃすっかり大人の男になったのに、それでも俺はずっと会いたかった。
俺の言葉に反応したみたいに、嗅ぎ慣れた甘い香りがする。この匂いは昔からこいつを抱くと、よく嗅ぐ涙の香り。

「泣いてるのか?」
「……いてねぇ……。」

そう言っても了が泣いているのは分かる。俺の前の姿をよく知っているこいつには、この傷が痛々しくグロいからやっぱりショックでも受けたんだろうと思うと胸が詰まってしまう。手を伸ばし濡れた頬を拭うと早鐘のような了の心臓の音が微かに肌を通して聞こえて、触れられるのも嫌なんだろうなと苦く心が呟いた。

「……悪いな、こんな……間近で………見たくねぇだろ?」

柄にもなく自嘲めいた口調で言ってしまった言葉に、こんなのは俺らしくないと思う。あの感情がなんなのか確かめたかったが、結局確かめられないものだったと気がついてしまったのだ。会いたかったのに会ったら余計に辛い、会ったらもう手離したくなくて狂いそうになっている。こんな筈じゃない、だけど上原や喜一はこんな感情に全部飲まれたのかも知れない。そう朧気に理解したら、不意に了が真っ直ぐに俺を見つめるのを感じる。

「……あんたは、……あんただよ………。」
「まあな、………なんだ、了……煙草吸い始めたのか?ん?」

何とか自分の平静を保とうとするのに、触れた手を頬から離すことも出来ない。拭っても溢れてくる涙は俺のとは違って、甘く香って指に熱い。何が違うのか了の涙は苦く香らないのが不思議だ、味も甘いんだろうかなんて馬鹿な事が頭を過る。

抱きたい……

馬鹿な感情だろ?俺にはもうこいつを抱くことは出来ないし、自分でも性的な欲求は失せたんだともう一年以上考えてきた。それなのに今更のように了の頬に手を触れただけで頭の中にそんな考えが浮かんだんだ。なんなんだ?これは、こんな風に欲しくなったのは産まれて初めてなんだが。

「あんた、………右京のこと愛してたの?」

問いかけられても、それは違う。俺にはこの体になるまで誰かへの執着なんて微塵も自覚したことがないし、唯一執着を感じたのは了だけだ。でもそれが何て言う感情なのか、正直まだ理解できない。理解できないが、お前が酷く欲しい。

「…………俺はな………そういう恋だの愛だのって、感情を知らねぇんだよ。」

片倉右京は俺の義理の弟、こんな人でなしの義兄のせいで生きる道をねじ曲げられた。あいつはそれでも前を見ようとして足掻いて必死だった、それだけが俺に理解できる全てだ。それは了に抱いている感情とは違う。

「あいつをどう思ってんのか、聞かれても………答えらんねぇな……まあ、簡単に言えば気にいってたんだ、真っ直ぐで凛としてて高嶺の花で……な。」

思わずここで待ってるからあいつに会ってこいと了に囁く。素直に手を離して歩いていく足音が何故か何時もより鮮明に聞こえるし、離れた筈の了のコロンの微かな匂いが胸に刺さる。
戸惑うように涙の香りを漂わせる了。
傷を見れば傷つくと分かっているのに、何でかどうしても傍に置いていきたい。正直なことを言えば、了が年末に三課のクラブの検挙に引っ掛かって遠坂にフォローされたのも、仕事を解雇されたのも、住んでいたマンションを出たのも知っている。今までは幾つかのシティホテルに住んでたのもだ。こういうのを世の中ではガチのストーカーと言うんだろうが、正直こんな風に直に触れあえる距離で再会すると思わなかったんだ。

どうする?我慢出来ないぞ?

墓石に向かっている了の気配を感じとりながら、自分に問いかける。我慢ってなんだ?俺は何を考えているんだ?我慢も何も俺には、だけど我慢出来ない。こいつを手に入れたい。

「了?………まだ泣いてんのか?」
「誰も泣いてねぇよ。勝手なこというな、目見えねぇくせに。」
「おー、一端の口だな?前科一般。」

心を隠すように相手の言葉に皮肉で返すと、了はなんで知ってるんだといいたげに睨み付けてくるのがわかる。そして皮肉では皮肉で返すことに決めたらしい。

「そっちこそ、そんな怪我するような巻き込まれ方ってなんなんだよ?あんた、本当は三浦ってガキに手だしたんだろ?」
「ああ、あれか。高嶺の花をへし折ってみたくてな、ちっと読み違えた。」

その答えに可笑しくなる。流石に俺のことをよく理解している了らしい指摘。何しろこいつが後に三浦和希を連れてくるのに続く一番最初の松下を、《random face》に連れてきた張本人なのだ。

「宏太、調教のテープ残ってんの?三浦の。」
「残念だが、そいつはなぁ残せなくてな、見たかったか?」

俺の答えに呆れたように了は声を落とす。証拠を残さない頭があるなら、襲われるのを回避しろよと言いたいに違いない。

「宏太。あんたさぁ?馬鹿だろ?」
「おお?お前にそんな風に言われるなんて、俺も朦朧したもんだよな。」

ああ、触れたい。足音が傍まで来たのに我慢が効かなくなって、思わず手を伸ばして柔らかな栗色をしている了の髪に触れる。そうしてさっき触れた頬の先で唇が少し熱く腫れていたのを思い出す。以前了には気になる相手がいたのを、思い出したのだ。

「それで?お前は自分の高嶺の花、へし折ったのか?」
「折れなかった……あんたの方法じゃ通用しねぇんだよ。」

その答えに実は酷く安堵しているなんて、正直情けなくて言えはしない。

「はは、そりゃ本気で心底惚れてる奴がいるんだろ?運命の相手って奴は遊び心じゃ折れねぇなぁ。やり方変えねぇと。」
「なんだよ、他にやり方あんのかよ?」
「あ?俺を誰だと思ってんだ?やり方位幾つか他にもなきゃ仕事に出来ねぇだろ?ん?」

なんだよそれと呟きながら、そんな方法あるなら早く教えとけと了に呟かれるが教える気はさらさらない。というより、目下言葉を交わすだけで、密かに痛感している最中なのだ。

「………了、お前……今無職だろ?俺んとこで働くか?」
「はぁ?あんた、今なにやってんの?」

何で無職なの知ってんの?しかもその体で何やってんのと言いたげな了に、俺は苦笑いしながら経営コンサルタントと呟く。脱サラして調教師になって、投資家になって、バーの経営者で、最終的に辿り着いたのが経営コンサルタント。

「うわ、胡散臭ぇ!」
「お前、俺がすること何でも胡散臭いもんだと考えてんだろ?真面目に大人しく稼いでんだぞ?ん?」
「絶対嘘だね、あんたが大人しくする訳ねぇもん。」

その言葉に思わず苦笑いを浮かべてしまう。以前と変わらないこの了の反応、それだけでも十分に心が緩む。口の中にあんなに広がっていた筈の苦味すら感じない。これがなんだと聞かれると、もうこう答えるしかないのだと思う。

恋……というより、既に愛?

なんでもいい、お前を俺の傍に居させられるなら、なんでもしてやる。そう考えてしまっている自分がいるのが分かる。何しろ成田了が仕事がないのも住みかがないのも知っているから、それを与えて絡めとってしまおう。
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