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24.上原秋奈
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阿鼻叫喚の地獄絵図になった事故現場を離れた私は、心地よいあきちゃんのお家には戻らなかった。優しくて穏やかな彼女のお家でヌクヌクとするには、私の心はざわめき過ぎていて何時もの私ではいられない。だからあのまま、私はここから脱兎のごとく逃げ出した。あの笑っていた女が本当は倉橋亜希子だったかどうかなんて、ちっとも確かめもしていない。何よりも今すぐ、この場所から逃げ出したくてしかたがなかったから。
あきちゃんは凄く心配してそれから何度も電話をくれて、私は遠ざかる電車の中で母親が倒れたみたいなのってしおらしく嘘をつく。あの時私の母親はきっと何も知らずに、何時も通りの春菜の名前の店の中で客と過ごしているに違いない。そんな本当の事を知らない倉橋亜希子がそれを知るわけもないから、彼女に嘘をついたことは私は何も後悔してない。
宏太も普段は私にあんな気のない感じなのに、何でか定期的に電話してくるんだよね。そう言うとこってちょっと狡いよ、変なとこで優しいところを見せるなんて女はそういうのに弱いんだから。流石に一回はインフルエンザにかかったって話すのに出たんだけど、その後は何か言うと宏太の勘の鋭さでは私が何処で何をしているか見抜かれそうだから電話には出てない。それでも定期的に電話をして着信だけでなく留守電まで入れてくるあたり、宏太ってちょっとやっぱり狡い。こっちから聞いたら気にかけてねぇって絶対に言う癖に、人の事をちゃんと見て、おっと失言ね、人の事をちゃんと聞いててわかってるってことなんだろうけど。
まあ、四十過ぎだって言うから、私より遥かに人生経験を積んだ大人ってことよね。酸いも甘いもとかってさ、しかも裏側の人間な訳だし。
宏太達が暮らしている場所よりずっと空気の冷たい場所で、そんなことを考えながら私は独りで立ち尽くす。あの街からはずっと北、人気なんか殆んどないし、夜八時にもなれば辺りは真っ暗で星ばかり見えるような場所だ。勿論泊まるのにはもう少し街に戻るけど、ここは昼間でも早々人に出会うことなんかない。
ここに来た理由の一つはあの時見た女の笑顔のせい。
それはよく分かってる。あの笑顔によく似た笑顔を私は実は知っていて、あれを見た瞬間に怖くて不安になったからだ。こうしてここに来ても何一つ変わっていないのを見れば、少しは安心する筈だから。今までだって何度も繰り返してきた事だったから、そう思ったから久しぶりにここを訪れたのだけど。
来てもここは変わらない……なのに、この不安は消えない
ここに来て何も変わらないのを確認しても、今回の私の強い不安は消えなかった。きっと何時ものような漠然とした不安じゃなくて、あの女が浮かべてたってハッキリとした現実の不安のせいなんだって思うけど。まるで嫌な事が過去から舞い戻ってきたみたいな強い深い不安は、直ぐには消えてくれなかった。だから私は何度もその場を独りで見下ろして、不安が遠退くまであの街に戻る気にはなれないでいただけ。
この不安さえ遠退けば、またもとのように別な名前ですごせばいいだけだから。
そう考えていたんだけど、中々思うように不安が消えてくれない。だから結局私が自分を持ち直すまで、珍しくこんなに時間がかかってしまったとも言える。あの女の歪なのに綺麗な微笑みは、それくらい私にとっては昔の傷を抉り出してくれたんだってこと。この街から離れることは考えないのかって?そうね、それもありかもしれないけど、それは多分しないかな。理由はよくわからないけど。
私が何処に姿を消していたかは、人には言えないことだしこれからも誰にも言う気もない。そんな時にそこで偶然出会った人間のお陰で、私の運命は大分変わった。しかも偶然って本当におかしなもので、その人もあの街から偶々そこに来ていたと言う。そうして、私は色々あって戻ってくることに決めたんだ。本当は上原秋奈もやめちゃおうかなって思っていたんだけど、もう少しだけ上原秋奈でいることにして。
※※※
あの大規模停電と杉浦の事故の日から一ヶ月と少し。
この街に戻ってきたら十二月最初の金曜でまだ二十日以上もあるのに何処もかしこもクリスマスのオーナメントとイルミネーションばかりになっていて、馬鹿馬鹿しい程のお祭り騒ぎに街は変わっていた。街を歩く人の中には一際恋人同士が増えて、幸せの絶頂期に手を繋いで歩いてる。
そういえば、祥太とクリスマスってしたことなかった……かな。
あの頃は受験生だしとか最もらしい理由をつけて、折角のクリスマスを避けてふいにしたんだった。勿論その理由は今更言うまでもないあの獣のせいでもあったけれど、私の家は本当の父が病気になってからマトモなクリスマスなんてやったことがない。それが当然だったから余り気にかけたこともなかったけど、あの後もあんな風に手を繋いで並んで歩けていたら何か違っただろうか。どうかな……考えても、その姿すら想像出来ないから無駄よね。それにしたってまるで、あの時の心許ない様子での逃げ惑う人々の喧騒なんて、なかった事みたいにこの場所は穏やかに見える。そんな駅前の和やかな様子に呆れ果てながら、電話を片手に私はそんな周囲を眺めながら何時もの調子で口を開く。
「私ーぃ。うん、もう少ししたら行く。」
駅の北口の面したロータリーも既に歩道まで綺麗に飾られていて、あの時目の前で人が車に轢き殺された場所だなんて知らなければ誰も気がつかない。何しろ既に角には献花すら飾られていないんだから、薄情なのか駅前だから仕方がないのか。大体にして街を歩く人達の顔つきは、もう事故の事なんて欠片すらも残ってないのは見るだけで分かる。無惨に轢かれた杉浦陽太郎の事なんて、誰も記憶してないに違いない。
可哀想ね、何でボーッと突っ立っちゃったかな。あのまま駆けてたら違ったかも知れないのにね。
電話を終えて白い息を吐きながら、真っ暗な夜空を奇妙に染める街の灯りを眺める。数えきれない程の人間が当然みたいに駅を行き交うけれど、誰もベンチにポツンと座っている私の顔を見ることもない。誰もが無関心で関心があるのは自分の事だけ、こんな場所だから十年前にフッと上原杏奈が消えても誰も気にしなかった。誰も上原杏奈が消えた後探して追いかけては来なかったし、私自身もそれで良かったんだし。
実の母親ですら娘の一言二言の電話だけで、家を出た夫の事にかまけていたんだしね。
母親ですらこの無関心な人間達と何も変わらない。この雑踏の中の人間が一人消えるなんて事態も、本当に大したことじゃないんだよね。私は冬の冷たい空気を吸い込みながら駅前のベンチに腰かけたまま、先を急ぐ足を何の気なしに眺める。
この街に不意に戻ってきた私を、倉橋亜希子は疑うこともなく受け入れていた。彼女には母親が死んで葬儀やら何かで時間がかかったと嘘を重ねたけど、彼女は相変わらず疑うこともなくお悔やみ迄口にして涙まで溢す。しかも迷うことなく、私とまたルームシェアすることまで承諾してくれもした。
ほんと、あきちゃんは人がよすぎるね
世の中には稀にこんな風に、本当にお人好しな人も確かにいるってことなんだね。ある意味そういう優しい人に嘘をついて騙してる事には、流石の私でよ心が痛いって気もしなくもない。なにせ知らないけど私の母親は、本当はまだピンピンしてる筈だし。まあもう私的には彼女を親だと思っていないから死んだことにしても、別に私は後悔してない。え?薄情だ?そんなことないと思うんだよね、だって私の事情も知らないでしょ?なら話してみろって?…………そうね。これくらい話しても、まあ許されるかな。あの人はね、私が追い詰められて助けを求めた時にこう言ったの。
それはあんたが甘ったれてるからでしょ?人のせいにしないで、自分で何とかしなさい。
勿論その時の母が精神的に凄く辛かったのは分かってる。再婚して五年半の最愛の夫が、突然得体の知れない若い女と逃避行したばかりだったしね。夫を探すにもあのオットリした母には探す方法もなかったろうし、この先の事を悩みもしてたんだとは思う。でも、それと私のSOSはまた別な話でしょ?私はその時助けて欲しいと先にちゃんと口にしたのよ?大体にして、甘ったれて人のせいなんかにもしてないの。だって助けて欲しいのと私が一言口にしただけで、母の方から説明も聞かずにそう口にして叩きつけるように電話を切ったんだから。そうなのよね、私が何を相談したかったか、それすら彼女は今も知りもしないのよ。流石にそれってどうなのって思わない?せめて話くらい聞いてくれてもいいと思わない?それまでずっと私は一度も母が困るような迷惑もかけなかったし、ずっといい子でいたのよ?私だって完璧に助けてもらえると考えた訳じゃなかったけど、少なくとも耳を傾けてくれるんじゃないかって思ってた。義理の父親がどっかの女と姿を消して落ち込んでたのは知ってるけど、母親は母親だと何処か信じてたの。まさか四十三にもなる母から、女であることが先に出るなんて思いもしなかった。
でも、女って幾つになっても女なのよね。
女に生まれたらどんなに小さくても女だし、歳を重ねても女は女な訳。それを母親から教えられるなんて思いもしない事だったけれど、まあ一つの勉強にはなったわ。勿論私の母が、元々よくある馬鹿な女の類いだったってのは事実だと思う。男にいいように仕える女は、相手が悪い男なら地獄よね。あきちゃんのように途中でそれに気がつけばいいだろけど、五十三になっても私の母は変わらない。相変わらずスナックと小料理屋の真ん中みたいな店で、中年男性にチヤホヤされてご機嫌に過ごしているんだもの変わりようがない。つまりは子供がいようがいまいが、あの人は自分が女だってことを忘れないのよ。それに愕然として、私は更に追い詰められて絶望したんだもの。
それから私は一度母とも縁を切ったようなものだったけど、やっぱり親子だから何処かで話をしたいと思ってたみたい。数年して連絡をとったら奇妙よね、あの人は当然みたいに普通に話しかけたの。
久しぶりね、元気にしていたの?連絡もくれないから心配してたのよ。
馬鹿みたいだとおもわない?相手が私に放った言葉は等の昔に忘れ去られていたの。その時私はつくづく思ったのよ、あんたもただの雌犬にすぎないのねって。あのろくでもない獣が好きなんだもの、あんたも獣じゃないの。ならその子供のあたしも獣ってことなのよね。そう皮肉めいて考えたら、私は期待することも止めていただけの事。
「上原。」
その言葉に私は視線を上げもしなかった。この街に戻ってきて、しかも駅前だもの。こうやって出会う可能性はあったのよね、以前何年も会わないで済んでいたのが本当は不思議なくらい。視線をあげるとそこには目を丸くした風間祥太が立ち尽くしている。私は祥太を見上げたまま口を開く。
「久しぶり。」
「探してたんだ、何処にいたんだ?上原。」
そんなことを口にする祥太の表情には嘘がない。多分本当に探してはいたんだろうけど、だからと言って何か変わるわけでもない。何となくその純粋そうな顔を見ていたら、酷く意地悪な気持ちになって相手を傷つけてやりたくなる。
「私、あんたと付き合ってた時、他の男と寝てたわ。」
嘘ではない。望んだ訳じゃないけど、アイツとセックスしてたのは本当の事だし、祥太とはキスまでしかしてない。私の言葉に祥太は傷ついたような、悲しそうな顔を浮かべた。そうよね、祥太は何も知らないし、こんな話を突然聞かされる必要なんてない。元々祥太は私と純粋な恋をして、付き合ったとしか考えてないんだもの。クリスマス一色の街の中で聞かされるには、史上最低最悪の告白よね。
「全然気がつかなかったでしょ?」
私の意地悪な言葉に、祥太は言葉もなく立ち尽くしたまま。誰にも気がつかれないよう必死に隠したのは私の方だったけれど、それには限界があっただけ。祥太が遠くに行ってしまうと知って絶望してたし、その上相手がのうのうと私の生活も心も体も更に蹂躙しつくした。
「あんたはそのまま遠くに行くし、隠してるの面倒で嫌になったの。」
破綻の時がきて、私が選んだこと。それを思うと私の顔には歪な笑顔が浮かんでくる。私は分かっていて、祥太に歪な笑顔を浮かべて見せ微笑む。そう、私があの女の笑顔に見たのは私自身のこの笑顔。私があそこで捨ててきた筈の、私自身の笑顔だったのよ。私は目の前で人の死を見つめながら笑顔を浮かべるあの女にそれを見て、まるで過去から私が私の事を探しにきたように感じた。だから一度あそこに確認しに行かないとならなかったの。
「上原……。」
「だから全部捨てて逃げたのよ。杏奈を捨てたの。」
それだから上原杏奈と呼ばれたくない。何もかもあそこに捨てたから、上原杏奈はあそこで死んだも同然。あそこには永遠に上原杏奈が眠っているのを、私は眺めて余計なものをあそこに置いてくる。
白い息がまるで雲のように細く漂うのだけを見ながら呟いた私の視界が、仕立てのいい高いグレーのトレンチコート一色になる。気がついた時には、ベンチに座ったままで子供の時以来の風間祥太の腕の中だった。高校時代にはこんな風に抱き締められたことは一度もないから、祥太がこんなに大きくなっているとは思わなくて。
「……なに、よ?」
何でこんなことしてんの?そう問いかけようとしたんだけど、何でか言葉に詰まってしまった。
クリスマスの街並みの中で、見た目はまずまずのイケメンだし。身に付けているのは仕立てのいいスーツにコート、そんな男にソッと抱き締められている。年頃の女としては喜ぶべきなのよね、こういうドラマにありそうなシチュエーションって。
十年ぶりにドラマチックに再会した初恋の相手と、言葉もなく鮮やかなクリスマスイルミネーションの中で抱きあう。これってドラマとしては最高の盛り上がりシーンじゃない?でも、残念だけど抱き締めてる相手は杏奈じゃなく私で、祥太はやっぱり祥太なのよね。なんだろうね、祥太はどうかわかんないけど、私の中は何かが欠けて何処かに落としてきてしまったみたいに冷えきっている。
「心配してた。」
心配か、それは有り難う。でも、何もかわらないんだ。
「あっそ。」
私の味気ない返答に初めて祥太の声が曇った。何時ものように正論でも自信ありげでもなく、戸惑いに曇って暗く沈んだ祥太の声。
「……俺は、そんなに…………。」
更に何かを続けようとした祥太の体を突き放すと、私はベンチからおしりを叩いて払いながら立ち上がった。残念な話だけど、ドラマチックな言葉をここから貰うには私自身の中身が変わりすぎだったわけ。余りにもシビアになりすぎてる私は、それ以上祥太に何も言われたくもない。私は立ち尽くしている祥太の横をすり抜けると、さっさとその場を離れるように歩き始めていた。
あきちゃんは凄く心配してそれから何度も電話をくれて、私は遠ざかる電車の中で母親が倒れたみたいなのってしおらしく嘘をつく。あの時私の母親はきっと何も知らずに、何時も通りの春菜の名前の店の中で客と過ごしているに違いない。そんな本当の事を知らない倉橋亜希子がそれを知るわけもないから、彼女に嘘をついたことは私は何も後悔してない。
宏太も普段は私にあんな気のない感じなのに、何でか定期的に電話してくるんだよね。そう言うとこってちょっと狡いよ、変なとこで優しいところを見せるなんて女はそういうのに弱いんだから。流石に一回はインフルエンザにかかったって話すのに出たんだけど、その後は何か言うと宏太の勘の鋭さでは私が何処で何をしているか見抜かれそうだから電話には出てない。それでも定期的に電話をして着信だけでなく留守電まで入れてくるあたり、宏太ってちょっとやっぱり狡い。こっちから聞いたら気にかけてねぇって絶対に言う癖に、人の事をちゃんと見て、おっと失言ね、人の事をちゃんと聞いててわかってるってことなんだろうけど。
まあ、四十過ぎだって言うから、私より遥かに人生経験を積んだ大人ってことよね。酸いも甘いもとかってさ、しかも裏側の人間な訳だし。
宏太達が暮らしている場所よりずっと空気の冷たい場所で、そんなことを考えながら私は独りで立ち尽くす。あの街からはずっと北、人気なんか殆んどないし、夜八時にもなれば辺りは真っ暗で星ばかり見えるような場所だ。勿論泊まるのにはもう少し街に戻るけど、ここは昼間でも早々人に出会うことなんかない。
ここに来た理由の一つはあの時見た女の笑顔のせい。
それはよく分かってる。あの笑顔によく似た笑顔を私は実は知っていて、あれを見た瞬間に怖くて不安になったからだ。こうしてここに来ても何一つ変わっていないのを見れば、少しは安心する筈だから。今までだって何度も繰り返してきた事だったから、そう思ったから久しぶりにここを訪れたのだけど。
来てもここは変わらない……なのに、この不安は消えない
ここに来て何も変わらないのを確認しても、今回の私の強い不安は消えなかった。きっと何時ものような漠然とした不安じゃなくて、あの女が浮かべてたってハッキリとした現実の不安のせいなんだって思うけど。まるで嫌な事が過去から舞い戻ってきたみたいな強い深い不安は、直ぐには消えてくれなかった。だから私は何度もその場を独りで見下ろして、不安が遠退くまであの街に戻る気にはなれないでいただけ。
この不安さえ遠退けば、またもとのように別な名前ですごせばいいだけだから。
そう考えていたんだけど、中々思うように不安が消えてくれない。だから結局私が自分を持ち直すまで、珍しくこんなに時間がかかってしまったとも言える。あの女の歪なのに綺麗な微笑みは、それくらい私にとっては昔の傷を抉り出してくれたんだってこと。この街から離れることは考えないのかって?そうね、それもありかもしれないけど、それは多分しないかな。理由はよくわからないけど。
私が何処に姿を消していたかは、人には言えないことだしこれからも誰にも言う気もない。そんな時にそこで偶然出会った人間のお陰で、私の運命は大分変わった。しかも偶然って本当におかしなもので、その人もあの街から偶々そこに来ていたと言う。そうして、私は色々あって戻ってくることに決めたんだ。本当は上原秋奈もやめちゃおうかなって思っていたんだけど、もう少しだけ上原秋奈でいることにして。
※※※
あの大規模停電と杉浦の事故の日から一ヶ月と少し。
この街に戻ってきたら十二月最初の金曜でまだ二十日以上もあるのに何処もかしこもクリスマスのオーナメントとイルミネーションばかりになっていて、馬鹿馬鹿しい程のお祭り騒ぎに街は変わっていた。街を歩く人の中には一際恋人同士が増えて、幸せの絶頂期に手を繋いで歩いてる。
そういえば、祥太とクリスマスってしたことなかった……かな。
あの頃は受験生だしとか最もらしい理由をつけて、折角のクリスマスを避けてふいにしたんだった。勿論その理由は今更言うまでもないあの獣のせいでもあったけれど、私の家は本当の父が病気になってからマトモなクリスマスなんてやったことがない。それが当然だったから余り気にかけたこともなかったけど、あの後もあんな風に手を繋いで並んで歩けていたら何か違っただろうか。どうかな……考えても、その姿すら想像出来ないから無駄よね。それにしたってまるで、あの時の心許ない様子での逃げ惑う人々の喧騒なんて、なかった事みたいにこの場所は穏やかに見える。そんな駅前の和やかな様子に呆れ果てながら、電話を片手に私はそんな周囲を眺めながら何時もの調子で口を開く。
「私ーぃ。うん、もう少ししたら行く。」
駅の北口の面したロータリーも既に歩道まで綺麗に飾られていて、あの時目の前で人が車に轢き殺された場所だなんて知らなければ誰も気がつかない。何しろ既に角には献花すら飾られていないんだから、薄情なのか駅前だから仕方がないのか。大体にして街を歩く人達の顔つきは、もう事故の事なんて欠片すらも残ってないのは見るだけで分かる。無惨に轢かれた杉浦陽太郎の事なんて、誰も記憶してないに違いない。
可哀想ね、何でボーッと突っ立っちゃったかな。あのまま駆けてたら違ったかも知れないのにね。
電話を終えて白い息を吐きながら、真っ暗な夜空を奇妙に染める街の灯りを眺める。数えきれない程の人間が当然みたいに駅を行き交うけれど、誰もベンチにポツンと座っている私の顔を見ることもない。誰もが無関心で関心があるのは自分の事だけ、こんな場所だから十年前にフッと上原杏奈が消えても誰も気にしなかった。誰も上原杏奈が消えた後探して追いかけては来なかったし、私自身もそれで良かったんだし。
実の母親ですら娘の一言二言の電話だけで、家を出た夫の事にかまけていたんだしね。
母親ですらこの無関心な人間達と何も変わらない。この雑踏の中の人間が一人消えるなんて事態も、本当に大したことじゃないんだよね。私は冬の冷たい空気を吸い込みながら駅前のベンチに腰かけたまま、先を急ぐ足を何の気なしに眺める。
この街に不意に戻ってきた私を、倉橋亜希子は疑うこともなく受け入れていた。彼女には母親が死んで葬儀やら何かで時間がかかったと嘘を重ねたけど、彼女は相変わらず疑うこともなくお悔やみ迄口にして涙まで溢す。しかも迷うことなく、私とまたルームシェアすることまで承諾してくれもした。
ほんと、あきちゃんは人がよすぎるね
世の中には稀にこんな風に、本当にお人好しな人も確かにいるってことなんだね。ある意味そういう優しい人に嘘をついて騙してる事には、流石の私でよ心が痛いって気もしなくもない。なにせ知らないけど私の母親は、本当はまだピンピンしてる筈だし。まあもう私的には彼女を親だと思っていないから死んだことにしても、別に私は後悔してない。え?薄情だ?そんなことないと思うんだよね、だって私の事情も知らないでしょ?なら話してみろって?…………そうね。これくらい話しても、まあ許されるかな。あの人はね、私が追い詰められて助けを求めた時にこう言ったの。
それはあんたが甘ったれてるからでしょ?人のせいにしないで、自分で何とかしなさい。
勿論その時の母が精神的に凄く辛かったのは分かってる。再婚して五年半の最愛の夫が、突然得体の知れない若い女と逃避行したばかりだったしね。夫を探すにもあのオットリした母には探す方法もなかったろうし、この先の事を悩みもしてたんだとは思う。でも、それと私のSOSはまた別な話でしょ?私はその時助けて欲しいと先にちゃんと口にしたのよ?大体にして、甘ったれて人のせいなんかにもしてないの。だって助けて欲しいのと私が一言口にしただけで、母の方から説明も聞かずにそう口にして叩きつけるように電話を切ったんだから。そうなのよね、私が何を相談したかったか、それすら彼女は今も知りもしないのよ。流石にそれってどうなのって思わない?せめて話くらい聞いてくれてもいいと思わない?それまでずっと私は一度も母が困るような迷惑もかけなかったし、ずっといい子でいたのよ?私だって完璧に助けてもらえると考えた訳じゃなかったけど、少なくとも耳を傾けてくれるんじゃないかって思ってた。義理の父親がどっかの女と姿を消して落ち込んでたのは知ってるけど、母親は母親だと何処か信じてたの。まさか四十三にもなる母から、女であることが先に出るなんて思いもしなかった。
でも、女って幾つになっても女なのよね。
女に生まれたらどんなに小さくても女だし、歳を重ねても女は女な訳。それを母親から教えられるなんて思いもしない事だったけれど、まあ一つの勉強にはなったわ。勿論私の母が、元々よくある馬鹿な女の類いだったってのは事実だと思う。男にいいように仕える女は、相手が悪い男なら地獄よね。あきちゃんのように途中でそれに気がつけばいいだろけど、五十三になっても私の母は変わらない。相変わらずスナックと小料理屋の真ん中みたいな店で、中年男性にチヤホヤされてご機嫌に過ごしているんだもの変わりようがない。つまりは子供がいようがいまいが、あの人は自分が女だってことを忘れないのよ。それに愕然として、私は更に追い詰められて絶望したんだもの。
それから私は一度母とも縁を切ったようなものだったけど、やっぱり親子だから何処かで話をしたいと思ってたみたい。数年して連絡をとったら奇妙よね、あの人は当然みたいに普通に話しかけたの。
久しぶりね、元気にしていたの?連絡もくれないから心配してたのよ。
馬鹿みたいだとおもわない?相手が私に放った言葉は等の昔に忘れ去られていたの。その時私はつくづく思ったのよ、あんたもただの雌犬にすぎないのねって。あのろくでもない獣が好きなんだもの、あんたも獣じゃないの。ならその子供のあたしも獣ってことなのよね。そう皮肉めいて考えたら、私は期待することも止めていただけの事。
「上原。」
その言葉に私は視線を上げもしなかった。この街に戻ってきて、しかも駅前だもの。こうやって出会う可能性はあったのよね、以前何年も会わないで済んでいたのが本当は不思議なくらい。視線をあげるとそこには目を丸くした風間祥太が立ち尽くしている。私は祥太を見上げたまま口を開く。
「久しぶり。」
「探してたんだ、何処にいたんだ?上原。」
そんなことを口にする祥太の表情には嘘がない。多分本当に探してはいたんだろうけど、だからと言って何か変わるわけでもない。何となくその純粋そうな顔を見ていたら、酷く意地悪な気持ちになって相手を傷つけてやりたくなる。
「私、あんたと付き合ってた時、他の男と寝てたわ。」
嘘ではない。望んだ訳じゃないけど、アイツとセックスしてたのは本当の事だし、祥太とはキスまでしかしてない。私の言葉に祥太は傷ついたような、悲しそうな顔を浮かべた。そうよね、祥太は何も知らないし、こんな話を突然聞かされる必要なんてない。元々祥太は私と純粋な恋をして、付き合ったとしか考えてないんだもの。クリスマス一色の街の中で聞かされるには、史上最低最悪の告白よね。
「全然気がつかなかったでしょ?」
私の意地悪な言葉に、祥太は言葉もなく立ち尽くしたまま。誰にも気がつかれないよう必死に隠したのは私の方だったけれど、それには限界があっただけ。祥太が遠くに行ってしまうと知って絶望してたし、その上相手がのうのうと私の生活も心も体も更に蹂躙しつくした。
「あんたはそのまま遠くに行くし、隠してるの面倒で嫌になったの。」
破綻の時がきて、私が選んだこと。それを思うと私の顔には歪な笑顔が浮かんでくる。私は分かっていて、祥太に歪な笑顔を浮かべて見せ微笑む。そう、私があの女の笑顔に見たのは私自身のこの笑顔。私があそこで捨ててきた筈の、私自身の笑顔だったのよ。私は目の前で人の死を見つめながら笑顔を浮かべるあの女にそれを見て、まるで過去から私が私の事を探しにきたように感じた。だから一度あそこに確認しに行かないとならなかったの。
「上原……。」
「だから全部捨てて逃げたのよ。杏奈を捨てたの。」
それだから上原杏奈と呼ばれたくない。何もかもあそこに捨てたから、上原杏奈はあそこで死んだも同然。あそこには永遠に上原杏奈が眠っているのを、私は眺めて余計なものをあそこに置いてくる。
白い息がまるで雲のように細く漂うのだけを見ながら呟いた私の視界が、仕立てのいい高いグレーのトレンチコート一色になる。気がついた時には、ベンチに座ったままで子供の時以来の風間祥太の腕の中だった。高校時代にはこんな風に抱き締められたことは一度もないから、祥太がこんなに大きくなっているとは思わなくて。
「……なに、よ?」
何でこんなことしてんの?そう問いかけようとしたんだけど、何でか言葉に詰まってしまった。
クリスマスの街並みの中で、見た目はまずまずのイケメンだし。身に付けているのは仕立てのいいスーツにコート、そんな男にソッと抱き締められている。年頃の女としては喜ぶべきなのよね、こういうドラマにありそうなシチュエーションって。
十年ぶりにドラマチックに再会した初恋の相手と、言葉もなく鮮やかなクリスマスイルミネーションの中で抱きあう。これってドラマとしては最高の盛り上がりシーンじゃない?でも、残念だけど抱き締めてる相手は杏奈じゃなく私で、祥太はやっぱり祥太なのよね。なんだろうね、祥太はどうかわかんないけど、私の中は何かが欠けて何処かに落としてきてしまったみたいに冷えきっている。
「心配してた。」
心配か、それは有り難う。でも、何もかわらないんだ。
「あっそ。」
私の味気ない返答に初めて祥太の声が曇った。何時ものように正論でも自信ありげでもなく、戸惑いに曇って暗く沈んだ祥太の声。
「……俺は、そんなに…………。」
更に何かを続けようとした祥太の体を突き放すと、私はベンチからおしりを叩いて払いながら立ち上がった。残念な話だけど、ドラマチックな言葉をここから貰うには私自身の中身が変わりすぎだったわけ。余りにもシビアになりすぎてる私は、それ以上祥太に何も言われたくもない。私は立ち尽くしている祥太の横をすり抜けると、さっさとその場を離れるように歩き始めていた。
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時に牙を向く天災の存在でもあり、時には生物を助け生かし守る恵みの天候のような、そんな理を超えたモノが世界の中に、直ぐ触れられる程近くに確かに存在している。もしも、天候に意志があるとしたら、天災も恵みも意思の元に与えられるのだとしたら、この世界はどうなるのだろう。ある限られた人にはそれは運命として与えられ、時に残酷なまでに冷淡な仕打ちであり時に恩恵となり語り継がれる事となる。
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