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16.上原秋奈

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それはあっという間の変化だった。目の前で見る間に血の気を失って青ざめた宏太が何処かに行こうとするみたいに立ち上がって、ほんの数歩前に進んだ。かと思うと空を掴むように手を伸ばしたまま、その場に崩れ落ちたのに私は呆気にとられていた。大きな音ではなかったけれど床に倒れ込んだ音は、機械の音が微かに響くだけの室内に奇妙なほどに乾いて成り響く。

「コータ!?」

咄嗟に冷たい脂汗をかいて倒れた宏太に駆け寄って抱き起こそうにも、背が高くて私より二周り大きな宏太の体は重くて女の力ではどうやっても抱き起こせない。宏太に何が起きたのか判んないけど何か発作みたいと咄嗟の頭で考えながら、これってどうしたらいいのって頭が繰り返す。

「コータ?!コータ!」
「………る………。」

何かを答えたって言うより、誰かを呼んだのかもしれないけどその言葉はハッキリしなくて私は必死でその体をひっくり返した。こういう時って声かけながら揺さぶっていいのか分かんない。けど、一先ず頭を抱き上げ頭の下にクッションを当ててから氷みたいな宏太の額に触れる。呼吸してるかどうかは何とか確認できた、息は弱いけどしてるし手足は額よりもっと冷たくて何か強ばってるみたい。握った指先なんてスッカリ血の気がないけど、これって一体何が起きたの?貧血?意識なくない?どうしよう、救急車?救急車ってどうやって呼ぶんだっけ?
地味にあまり出会うことのない事態だから、私は一人プチパニック。こんな時って何をどうしたらいいんだっけ?そう考えた瞬間、インターホンがなったのに私は渡りに船と我に帰ったように視線を上げる。このマンションに直接来るのは宏太の顔見知りだけ、仕事の関係でも宏太がある程度の信頼をしていないとここには上げない。なら、このインターホンの相手も宏太の知り合いの筈だ。最悪男なら力になってもらえればいいし。咄嗟に私はインターホンに飛び付くと、一応誰?!と鋭く問いかける。

『誰って随分だなぁ、そっちから電話してきたんだぞ?』
「あんた、この間の刑事の人?!宏太の知り合いね?!」

とんでもなく呑気な返答に自分の甲高い声は嫌いだけど、手早く入り口のオートロックを解除しながら早く来てって怒鳴り付けていた。向こうも私の声で何か起きてるって察してくれたみたいで、インターホン越しに微かに靴音が響いたのが聞こえる。倒れたままの宏太に駆け寄ってズレたサングラスを外すと、初めてその顔を横断する深い傷痕を目の当たりにしてしまったのに気がつく。

きっと元は凄く端正な顔だった。

初めて直にみる顔は傷がある場所以外は凄く整っていて、正直なところ瞼がもう少しマトモな形だったら傷があっても問題ないイケメン。ただ傷が往復するように目元を抉りつけて、鼻梁と瞼を削るように削ぎ落としていた。残された瞼の下に義眼が嵌まっているのは、顔貌自体が様変りするのを防いだからだろう。実は眼球の収まっている眼窩は、眼球を失うと抉れて凹む。それは見たことのない人間には想像もできない姿だと言う。何でそんなことを知ってるかは兎も角、頬に触れても全く反応しないところをみると今は完全に意識がないのだろう。それでも、冷たい汗はまだ噴き出すみたいに額に滲みだす。

「宏太!」

玄関で扉を開け呼ばれた声に私がこっちと叫ぶと、あの時杉浦のマンションのエントランスで飄々と手錠をかけた刑事さんが慌てたようにスーツの前を乱して駆け込んできた。何故か室内をザッと見渡して何かを確認した仕草をしてから、床に倒れ込んでいる宏太に駆け寄ってくる。

「何があった?!ねぇちゃん。」
「突然顔色が悪くなって倒れたの。冷や汗かいてて。」

私の言葉を聞きながら体の横に屈んで手慣れた手つきで首元を触った刑事さんは、覗き込むようにしながら宏太の顔をみると暫し考え込んだみたい。やがて少し安堵したみたいに溜め息をつくと、一先ずソファーにでも寝かすかって呟く。流石に宏太の体をお姫様だっことはいかずに、腕をとり宏太を肩に担ぎ上げる。

「ねぇ!動かして平気なの?!」
「少しすりゃ気がつくよ、前にも何回か起こしてるんだ。」

こんな風に何度も倒れてるの?宏太って独りで暮らしてるのにこんな風に倒れて、どうしてたの?気がつくまでそのまま倒れてたとか?そんなのって酷すぎる。なんで、そんなに倒れてたりするの?

「なんの病気なの?」

思わず私が心配で刑事さんに問いかけると、無造作に担がれながら掠れた声が病気なんてたいそうなもんじゃないと弱々しく呟くのが聞こえた。よかった、一時的に気を失ってただけなんだ。刑事さんに気がついたかよと声をかけられながらソファーに転がされた宏太は、顔の傷を覆うように片手で顔を覆って呻く。

「………ああ…くそ、気分がわりぃ……。」

そんな風に呟く宏太に心配になって頭の傍に私は座り込むと、その横顔を見つめ声をかけた。

「大丈夫?なにか飲む?」
「いい。」

刑事さんは別なソファーに腰かけると私の事を気にする素振りを浮かべながら、横になったままの宏太の様子を伺う。刑事さん曰く宏太のこれは病気といえば病気の一種で、PTSDなんだって。PTSDって事故とかDVとかの後になるやつ?って私が聞くとそうだって。そう言えば昨日槙山と病院で会った時も危なく倒れ込みそうだったっけ。三浦のことを調べに病院で青ざめてたのと同じ症状、しかもこんな風にちょっと症状が強く出ると冷や汗をかいて倒れてしまうって言う。つまり宏太は三浦にされたことがトラウマになっていて、それになにか関係することをやり過ぎると倒れるってこと?何でそこまで嫌なものに面と向かうわけ?それって逃げりゃいいじゃん。私だったら即逃げるって思うんだけど、よくよく聞いたら実は最初は逃げてみたらしい。そうしたらなんと余計症状が酷くなって、逆にちょくちょく倒れる羽目になったから、この刑事さんも倒れるってことは知っているって事みたい。だから、苦肉の策で宏太は安心できる距離を、自分自身で計ることにしたんだって。そういうこともあっての今の仕事な訳?面倒臭いって言ったら悪いけど、面倒臭いっ。

「本当に難儀な性格だよな、宏太は。」
「お前に言われたくない……。」

そう口にした宏太に、刑事さんは改めて私の方を気にする。それに気がついた宏太がこいつは止めても無駄でもう半分首突っ込んじまってると弱く呟くと、ふぅと溜め息混じりに私の事を眺めて口を開く。

「俺は遠坂喜一、二課のっ……て知ってんだもんな?この間の件で。」

遠坂喜一と名乗った刑事は、警察署で私にトノの関係者かと声をかけて連れ出した事を覚えていた様子だ。風間祥太の同僚なのはちょっと気になるとこだけど、彼が元々宏太の知り合いなら仕方がない。遠坂は昔からの付き合いだと話すけど、他の人より砕けた口調になった宏太をみるとただの友達よりもっと親しい人間みたいな感じだ。

「上原秋奈。宏太の彼女でーす。」
「………嘘言うな、……うちの…バイトだ。」

くそ、倒れてるわりにシッカリそこの訂正だけは忘れないか。別にいいじゃん、彼女でもって言うと宏太はもっとマトモな男を探せと両手で顔を覆ってしまった。やってる仕事は確かにマトモじゃないけど、宏太はその傷でも案外イケメンだと思うんだけどなぁ…心の中でそう呟くけど今言うことではないか。

「気分が悪いついでに、余計悪くするようで悪いけどよ?宏太。」

宏太の頭の傍で床に座ったままの私を気にしながら、遠坂がどう言ったもんかなと呟くと宏太は改めて深い溜め息をつく。遠坂の口調に宏太も気がついたみたいに手探りでサングラスを探す様子を見せたから、私はその手にサングラスを拾ってきて手渡す。傷を隠すようにサングラスをかけた宏太はそれでも体を起こせない様子で、深呼吸なのかな、また深い溜め息をついている。

「……秋奈。」
「ん?」
「お前、……今日は帰れ。」

結局遠坂と宏太は二人で話があるからって、結果的に私は追い出されてしまった。ここまで話したらもう気にしなくていいじゃんって思わなくもないけど、流石に話したら不味いものもあるみたい。つまりは宏太の友達だけあって、遠坂も表向き刑事の癖に半分はアンダーグラウンドの人間ってことだ。

これって…祥太は知らないんだろうな。

刑事になった風間祥太はそういう面では極端に潔癖だと言えるタイプだから、アンダーグラウンドなんてものは容認しない筈。そんなことは分かりきっているんだけど、そこまで純粋に生きられるって点では祥太が羨ましくもある。渋々帰途につきながらフッと視線を上げると夕暮れ近い雲の早い空が妙に赤く見えて、私は思わず道端で立ち尽くした。
秋の夕暮れ。
それに何処か強くなりつつある冷たい風。
ふと、宏太が倒れるくらいのPTSDってやつは、本当は誰にでも大なり小なり存在しているのかもと何か考えてしまう。勿論私の中にも存在していて、私の中のはある意味ではアンダーグラウンドの闇より深い。深くて重くて、向き合うのはごめんなん

「あんた、杏奈?!」

ギクリと私の体は震える。
闇を思い出させるような甲高い声に、私は思わず振り返ってしまっていたのだ。少し気が緩んでしまっていたんだと思うんだよね、本当ならこんな時間にここらを呑気に歩き回ったら出会う可能性が高いのは分かっていたのに。
自分より十八歳年上の中年女性…今年四十六歳の上原春菜が、そこに驚きに目を丸くして立っている。

「何時戻ってきたの?!杏奈!」

喜びに駆け寄ってくる上原春菜が抱き締めようとする腕を、あからさまにならない程度に避けて私は無表情の顔で頭を巡らせた。何とかこの場を取り繕って、早くこの人から離れなきゃならない。私、この人と馴れ合う姿を誰かに見られたくないんだ。

「チョット用事があって偶々来たの。まさか母さんに会えるとは思わなかったわ。今から仕事?」
「そうよ。ああ、店に寄っていきなさい、何か食べるくらい…。」
「ごめんなさい、もう戻らないと。まさか会えると思ってなかったから会えて嬉しいわ。」

自分の言葉が棒読みだと分かっていても、そう言うしか私にはできない。実はたいしてここ周辺から付かず離れず生活していて、母の生活時間帯を理解してあえて避けて生活しているなんて絶対に言うわけがない。小料理屋とスナックの中間みたいな店を営業している私の母・春菜は、私の言葉を素直に受け取った様子で残念そうに私の顔を眺める。次第に年を重ねると母に似てくる自分が分かって、私は夕暮れの中で言葉もなく久々の彼女を眺めた。

「忙しいのね、良いことだけどあんまり無理しないで、たまには帰ってくるのよ?」
「………分かってる、母さんも無理しないようにね。」

まさか娘がずっと何年も嘘をついて自分を避けているなんて、お人好しのこの人は気がつきもしない。
父が小学生で死んで女手一つで私の事を育てていた母。三年後に母があの男と再婚しなければ、もしかしたら今の私には、それどころかこんな状況にすらならなかったかもしれない。
上原は実は最初の夫の名字のままなのだけど、再婚の時は相手が婿養子になったから私の名前は変わらなかったんだ。それが良いか悪いかはどうでもいいことだけど、あの男がいなければ。頭の中の思考から逃げるようにそそくさと、母に別れを告げてその視線から脱兎の如く逃げ出す。母の目が私が見えなくなるまで必ず見送るのが分かっているから、早々に角を曲がるなりなんなりして視界から消えるように振り返りもせずに私は歩き続ける。



※※※



頭の中にはあの時の情景が広がっていた。
来年には中学になる私に、母が引き合わせたあの男。
正直なところあの男も最初はマトモに見えていたし、母が独りで苦労していたのは分かっていたから私は再婚も良いかなと考えていた。あの男は普通の会社ではなかったが、一応会社員・正社員として勤めていたし母とそれほど歳の差もない。後年・母に引き継がれる事になる今も続ける店の常連で、生活パターンもそれほどズレもなくて。正直再婚しても中学・高校と日々昼型の生活をする私と、あいつの間にはずっと目立つ関わりがなかった位だ。

「杏奈ちゃん。」

時にあの男は私をそう呼び、私をずっと完全に娘として扱っていた。
別段相手が嫌いなわけでもなく、私には既に分別もあった中一なんて年頃。母の苦労は分かってるし、母と一緒になった男のお陰で母が独りで苦労しなくてよくなったのも掛け持ちで仕事をしなくてよくなったのもよく理解できている。だから、男と少なくとも上手くやろうと、私なりには努力していたのだ。あの男と母の間に子供が出来なかったのは神様に凄く感謝しているけれど、同時に私個人としては深く神様を怨んでもいる。
あの秋の夜。
既に何年も一緒に暮らした家族の家。
風の強い窓ガラスが軋むような風の中稲光に時折照らされながら、呆然と窓に打ち付ける雨を見つめていた私。地震のような雷の空気を震わせる音の中で、私が上げた悲鳴すら儚く飲み込まれていく。

上原杏奈なんて嫌い、大嫌い。

上原杏奈でなければこんな目に遇わなかった。こんな目に遇わされたのは私が上原杏奈であったからだと、滴っていく窓の雨の粒を目だけで追いながらあの時の私は考えていた。



※※※



ああ、なんでこんなことを今更考えているのかな

角を曲がって母・上原春菜の視界から逃げ出せた途端、自分がそればかりか考えていた事に気がついて私は思わず道端に身を隠して屈み込んでしまった。理由が宏太のPTSDの話を聞いた上に、思わぬ相手に鉢合わせたからなのは分かってる。しかも、最近は何でか昔の事を思い出させようとするみたいに、昔馴染みに顔をあわせ過ぎていた。私が普段なら意図的に直ぐ避ける事ばかり、捲き込まれているとはいえ選んだようにしているからかもしれない。誰かに固執したり、定住したり、人の事を心配したり、祥太と顔を会わせたり、終いに母親とまで顔を数年ぶりに会わせてしまった。もう今母の事は考えたくないと思うと、自然と思考が祥太にスライドしてしまう。

清廉潔白、潔癖で誰もが認める優等生・風間祥太

高校時代の同級生の中には王子様扱いのヤツとかイケメンだとか様々なタイプの男子がいたのは事実。それでもあの頃純粋な気持ちしか知らなかった自分は、同じように純粋な風間祥太の事が確かに好きだった。私は祥太と結婚まで考えて付き合いもしていたのだ。それが今では嘘みたいな気がする。

「杏奈?」

またその名前。
一日に何度もその名前で呼ぶなよ、その名前は大嫌いなんだってば。その名前でなかったらエリカだろうとリエだろうと秋奈だろうと何でもいい。その名前を捨てられるなら心底そうしたい。理由が明確なら名前を変えられるって調べたことはあったけど、そうしなかったのは名前だけでなく存在自体が嫌なのだと気がついてしまったからだ。名前を捨てて過去を捨てても、体は何も変わらないんじゃ意味がない。そう頭の中で無意識に呟きながら、あれ?今の声って誰?そう考えていた。
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