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7月
閑話12.志賀早紀
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テストも終わってやっと気が抜けると思った月曜の朝、下駄箱の中にメモ書きが入っているのに早紀は不快な気分を覚えた。机でもなく鞄でもなく下駄箱にだなんて嫌な予感しかないのに、つい手にとってメモ書きを読んでしまう。溜め息がメモを読んだ早紀の口から溢れ落ち、予想していたとは言え頭が痛くなりそうだった。メモは木内梓からで、昼休みに屋上迄来るようにと書かれている。やっぱりただで済ます気なんかなかったかと内心思う。皆がお弁当を囲んでいる和やかな時間に呼び出され、早紀は少し青ざめはしているけど毅然とした表情で屋上に姿を見せた。
「何か、よう?」
少し自分の声が震えているのが分かる。何人か早紀の事をよく思ってない子を木内はいつの間にか仲間に率いれていて、思ったより多い人数に囲まれていた。でも、間違ったことはしていない。早紀は必死で胸を張った。
「あんた、何様?いっつも偉そうに。」
「私は木内さんが子供じみた事をしたから注意しただけよ。それが気に入らないならあんな悪ふざけしなかったらいいのよ。」
「よく言うよ、香苗の友達とった泥棒の癖に!」
一瞬早紀は何を言われているのか、理解できなかった。それなのに一人で木内は頬を朱に染めて怒り、早紀の事を力一杯突き飛ばす。あまりにも突然で避けきれなかった早紀が屋上のコンクリートに倒れこんだのに、木内は笑いながらカッコ悪いと周りと一緒になって囃し立てる。しかも、調子に乗って倒れている早紀を蹴りつけ、周りの何人かも同じ事をするのに早紀は唖然とした。人を足蹴にして楽しそうなんて、本当なんだろうかと視線をあげる。蹴られている早紀の視線が、真っ直ぐに首藤を見つめたのに気がついて輪に加わっていなかった首藤が後退るのが見えた。暫くして早紀を蹴るのに飽きた木内が「おもい知ったか、バーカ」と言い捨て踵を返す。まるで楽しいゲームでもしているみたいに他の子までキャアキャア言って歩くのに早紀は呆然としていた。
私、これを堪えていられるの?
呆然とそう考えながら立ち上がろうとして、右膝が割れているのに気がつく。右の足首も痛みで立ち上がろうとして、よろめいた早紀に思わぬ声が懐かしい呼び方で早紀を呼んだ。
「早紀ちゃん。」
口から出たのは呼ばれ慣れた呼び方で、暫くぶり彼の口からそう呼ぶのを聞く。懐かしくて思わず泣きそうになるのを、早紀は必死の思いで飲み込んでいた。
※※※
その後何度か孝君に助けて貰ったけど、それは結果としては更に状況を悪くしてしまった。以前から薄々気が付いていたけど、木内はきっと孝君の事が好きなんだと思う。孝君は恋愛とかには疎いから、きっとただ幼馴染みだからって気を使ってくれただけ。そう分かっていても木内にもそう見えるとは限らないことは、痛みで良くわかった。だから、折角友達になった麻希子まで、巻き込まれるのは避けたい。そう思ったから必死で独りで堪えようとしていたのに。
足早に私に歩み寄る麻希子の顔がいつもと違い強ばっている。喉の奥で凍りついたような声を絞り出そうとするみたいに、麻希子の声が次第に小さくなっていく。
「…ねぇ、早紀ちゃん。」
もしこれが麻希子がこのまま泣き出してしまったら、私はどうしたらいいだろうと考える。だけどそう思っても怖くて、言葉を遮ることが出来ない。早紀はまるで自分が道化にでもなったような気分で言葉を待つ。
「うちのクラスで、…誰か虐められているらしいよ?知ってる?」
その時の感情を何と言ったらいいのか、早紀には分からなかった。木内は自分が虐められていると麻希子にばらしたのだろうか?それともこうやって麻希子が聞いてくるように仕向けたのだろうか?もしそうだと言ったら麻希子は優しいから、きっと必死に何とかしようとしてくれるだろう。だけど、そのせいで麻希子が自分のように傷つけられたら?
早紀は凍りついたような思いで、目の前の不安そうな麻希子を見つめた。そんな話は聞きたくないしそんな話はなしちゃいけないよと言う硝子のような早紀の視線が、麻希子に奇妙な安著と不安を一緒に感じさせる。
大丈夫よ。私は大丈夫。
「そう…なんだ。」
早紀がフワリと笑った表情に少しだけ不安を和らげられたように麻希子が笑い返す。だけど、それ以上早紀は麻希子と話すことができなくなっていた。だから、その後お昼休みに入った途端、早紀は姿を消して木内達の前に立つしか出来なかった。
※※※
そんなに一度に虐めが酷くなるなんて思いもしなかった。孝君が虐めの真っ最中に割って入ったのが、木内達の怒りを一気に高めたらしい。それまで微かに彼女の吐息から煙草の臭いがしていたのは、早紀も会話の最中に気がついていた。でもまさか木内が手元に煙草を持ち歩いているなんて、ほんの少しも思いもしない。目の前で格好をつけたつもりか、木内が煙草を咥えて見せる姿に唖然とした。
校内で喫煙なんて教師にバレたら、生徒指導で済まないとは考えないの?
早紀の唖然とした顔に木内が可笑しそうに笑って、突然腕をつかんだかと思うと左の手の甲にその先を押し付けた。早紀の悲鳴に木内の取り巻きの女の子達までが怯えて後退り、自分がしたことに木内自身が微かな怯えを見せる。早紀がそのまま手を押さえてしゃがみこむのに、「死んじゃえ、バーカ」とくだらない捨て台詞と一緒に蹴りが飛んできて早紀は屋上に倒れこんでいた。思わぬ展開に女の子達が怯えて、階段をかけ降りていくのを感じながら早紀は涙で視界が揺れるのを感じる。
私が何したの?ここまでされることって何?
その時早紀は不意に屋上の端に向かって駆け寄っていた。空は嫌になるほど澄みきって高く、視界の中を蒼で埋め尽くす。貯水槽の梯子を使い屋上の柵を跨いで、足の幅しかないコンクリートの縁に降りる。
視界を埋めた澄んだ青空に鳥が翼を広げて舞うのが見えて、自分もそれと同じように宙に飛び上がってしまえそうな気がした。
「そこから跳んでも下は花壇か植木。結果両足骨折で一生車椅子か杖。」
不意にその気分を砕きへし折るような言葉に柵をつかんだまま、早紀は視線を上げた。古い貯水槽の上で転校生の冷ややかな視線が見下ろしていて、早紀は泣きながら真っ直ぐに彼を睨んだ。思わず何も知らないくせに口を出さないでと言いたかったが、相手は足が悪い転校生でその言葉は何処か真実味が滲む。
「飛び降りてみたみたいな言い方ね。」
「残念だけど飛び降りは試したことないね。僕が試したのは、車の前に飛び出しただけ。」
香坂の感情の感じさせない言葉に早紀は泣きながら彼の顔を見つめたまま凍りつく。勢いを削がれた早紀には、既にここから飛び降りることも柵から手を離す事すら出来なくなっていた。目の前で香坂が杖を下に投げ、手を絡めるように梯子を伝い危なげなく下に降りてくる。足を殆ど使わないのに梯子の登り降りなんてと、早紀は呆然とその姿を上手いもんだな等と思いながら見つめた。
「跳んでもいいけど、これからの僕の休憩場所がなくなるのは困る。」
そうおどけたように言いながら香坂はコンクリートに落とした杖を拾う。そして彼は少しバランスを崩しながら、柵を掴む早紀の右手を上から押さえるように握った。早紀が思わずその手を見下ろすと、彼は早紀の反対の手の甲を眺め溜め息をつく。
「助けてって、誰にも言わないの?早紀」
「言って……どうなるの?」
「少なくとも、独りではないよ。辛くてもだ。」
彼が自分の名前を知っているとは知らなかった。彼の名前は何だっただろう、香坂としか今は思い出せない。
その言葉は酷く心に刺さり早紀は、初めて真正面から彼の瞳を覗いた。今まで見たことのない澄んだ瞳は、同時に何故か酷く年老いているように見え目の前の彼が同じ年だと言うことを忘れさせる。まるで、何十年も生きて早紀よりはるかに色々なことを経験した瞳にみえたのだ。その彼の言う言葉は酷く重かった。
「助けて。」
思わず口をついて出た言葉に彼は真っ直ぐに早紀を見つめ、微かに握った手に力を込める。
「痛みを知らない人は、他の人に痛いことをしても、自分が痛いことをしてるって、知らないんだよ、早紀。」
彼の静かに告げる言葉は、酷く彼自身苦痛を感じているように苦くその口から溢れた。ふと彼の言葉は足の怪我と関係しているような気がすると感じる。それを知っているように香坂は、真っ直ぐに早紀の肩越しに青空に視線を向けた。
「だから、せめて自分は痛いことが痛いって知ってる人間でいるんだ。空に還るのはもっと後でも出来る。」
涙で揺れていた世界がクッキリとしていく。目の前の転校生はいったい何を経験して、こんなことを言えるようになったのだろう。早紀は目の前の香坂に興味が湧いたのに気がついた。それを見透かしたように彼は、目の前で爽やかな笑顔を浮かべる。
「そろそろ手が疲れたから、こっちに来なよ、早紀。」
早紀は初めて彼の手が、思ったより強く自分の手を握って離さなかったのに気がついた。実際には飛び降りるかもと懸念して、彼が手を掴んでいたのに気が付いた途端彼の優しさが分かって笑みが浮かぶ。ぎこちなく柵を乗り越えて香坂の隣に足を下ろすと、初めて彼が安堵したように息をついた。
「折角の休憩だったのに、疲れた。」
「貯水槽に登らなきゃもっと休めるんじゃないの?」
「冗談、下にいたら真見塚と一緒ってことだろ?」
予想だにしない言葉に思わず目を丸くすると、香坂は暢気に背筋を伸ばす。それを合図にしたように遠くから午後の始業のチャイムが間延びしたように聞こえている。
「あー、お腹へった。」
「お弁当は?」
「ふふ、この足でここまで何をどうやって持ってくるのさ?」
変なの、と早紀は正直に呟く。人目を避けてお昼に屋上に上がって態々貯水槽にまで登るのに、お弁当は持ってこなくて何も食べてないなんてと彼を眺める。そう言われれば彼が何か食べているのを見たのは、麻希ちゃんがクッキーをあげた時位しかない。もしかして本当にお弁当がない?購買部に行くにも足が悪い彼にはあの人混みに入るのはキツそうだ。
「……助けてくれるなら、お礼しなきゃ。お弁当作るくらいしか出来ないけど。」
ポツリと呟くと彼は驚いたように、早紀の顔を見て少し苦笑を浮かべた。自分が何を察したのか見透かしたように、彼は少し考えると「じゃあ、唐揚げとサンドイッチ」と何気なく呟いて歩き出す。早紀は案外子供っぽいリクエストだなと思いながら、その横に並んで歩き出した。
「何か、よう?」
少し自分の声が震えているのが分かる。何人か早紀の事をよく思ってない子を木内はいつの間にか仲間に率いれていて、思ったより多い人数に囲まれていた。でも、間違ったことはしていない。早紀は必死で胸を張った。
「あんた、何様?いっつも偉そうに。」
「私は木内さんが子供じみた事をしたから注意しただけよ。それが気に入らないならあんな悪ふざけしなかったらいいのよ。」
「よく言うよ、香苗の友達とった泥棒の癖に!」
一瞬早紀は何を言われているのか、理解できなかった。それなのに一人で木内は頬を朱に染めて怒り、早紀の事を力一杯突き飛ばす。あまりにも突然で避けきれなかった早紀が屋上のコンクリートに倒れこんだのに、木内は笑いながらカッコ悪いと周りと一緒になって囃し立てる。しかも、調子に乗って倒れている早紀を蹴りつけ、周りの何人かも同じ事をするのに早紀は唖然とした。人を足蹴にして楽しそうなんて、本当なんだろうかと視線をあげる。蹴られている早紀の視線が、真っ直ぐに首藤を見つめたのに気がついて輪に加わっていなかった首藤が後退るのが見えた。暫くして早紀を蹴るのに飽きた木内が「おもい知ったか、バーカ」と言い捨て踵を返す。まるで楽しいゲームでもしているみたいに他の子までキャアキャア言って歩くのに早紀は呆然としていた。
私、これを堪えていられるの?
呆然とそう考えながら立ち上がろうとして、右膝が割れているのに気がつく。右の足首も痛みで立ち上がろうとして、よろめいた早紀に思わぬ声が懐かしい呼び方で早紀を呼んだ。
「早紀ちゃん。」
口から出たのは呼ばれ慣れた呼び方で、暫くぶり彼の口からそう呼ぶのを聞く。懐かしくて思わず泣きそうになるのを、早紀は必死の思いで飲み込んでいた。
※※※
その後何度か孝君に助けて貰ったけど、それは結果としては更に状況を悪くしてしまった。以前から薄々気が付いていたけど、木内はきっと孝君の事が好きなんだと思う。孝君は恋愛とかには疎いから、きっとただ幼馴染みだからって気を使ってくれただけ。そう分かっていても木内にもそう見えるとは限らないことは、痛みで良くわかった。だから、折角友達になった麻希子まで、巻き込まれるのは避けたい。そう思ったから必死で独りで堪えようとしていたのに。
足早に私に歩み寄る麻希子の顔がいつもと違い強ばっている。喉の奥で凍りついたような声を絞り出そうとするみたいに、麻希子の声が次第に小さくなっていく。
「…ねぇ、早紀ちゃん。」
もしこれが麻希子がこのまま泣き出してしまったら、私はどうしたらいいだろうと考える。だけどそう思っても怖くて、言葉を遮ることが出来ない。早紀はまるで自分が道化にでもなったような気分で言葉を待つ。
「うちのクラスで、…誰か虐められているらしいよ?知ってる?」
その時の感情を何と言ったらいいのか、早紀には分からなかった。木内は自分が虐められていると麻希子にばらしたのだろうか?それともこうやって麻希子が聞いてくるように仕向けたのだろうか?もしそうだと言ったら麻希子は優しいから、きっと必死に何とかしようとしてくれるだろう。だけど、そのせいで麻希子が自分のように傷つけられたら?
早紀は凍りついたような思いで、目の前の不安そうな麻希子を見つめた。そんな話は聞きたくないしそんな話はなしちゃいけないよと言う硝子のような早紀の視線が、麻希子に奇妙な安著と不安を一緒に感じさせる。
大丈夫よ。私は大丈夫。
「そう…なんだ。」
早紀がフワリと笑った表情に少しだけ不安を和らげられたように麻希子が笑い返す。だけど、それ以上早紀は麻希子と話すことができなくなっていた。だから、その後お昼休みに入った途端、早紀は姿を消して木内達の前に立つしか出来なかった。
※※※
そんなに一度に虐めが酷くなるなんて思いもしなかった。孝君が虐めの真っ最中に割って入ったのが、木内達の怒りを一気に高めたらしい。それまで微かに彼女の吐息から煙草の臭いがしていたのは、早紀も会話の最中に気がついていた。でもまさか木内が手元に煙草を持ち歩いているなんて、ほんの少しも思いもしない。目の前で格好をつけたつもりか、木内が煙草を咥えて見せる姿に唖然とした。
校内で喫煙なんて教師にバレたら、生徒指導で済まないとは考えないの?
早紀の唖然とした顔に木内が可笑しそうに笑って、突然腕をつかんだかと思うと左の手の甲にその先を押し付けた。早紀の悲鳴に木内の取り巻きの女の子達までが怯えて後退り、自分がしたことに木内自身が微かな怯えを見せる。早紀がそのまま手を押さえてしゃがみこむのに、「死んじゃえ、バーカ」とくだらない捨て台詞と一緒に蹴りが飛んできて早紀は屋上に倒れこんでいた。思わぬ展開に女の子達が怯えて、階段をかけ降りていくのを感じながら早紀は涙で視界が揺れるのを感じる。
私が何したの?ここまでされることって何?
その時早紀は不意に屋上の端に向かって駆け寄っていた。空は嫌になるほど澄みきって高く、視界の中を蒼で埋め尽くす。貯水槽の梯子を使い屋上の柵を跨いで、足の幅しかないコンクリートの縁に降りる。
視界を埋めた澄んだ青空に鳥が翼を広げて舞うのが見えて、自分もそれと同じように宙に飛び上がってしまえそうな気がした。
「そこから跳んでも下は花壇か植木。結果両足骨折で一生車椅子か杖。」
不意にその気分を砕きへし折るような言葉に柵をつかんだまま、早紀は視線を上げた。古い貯水槽の上で転校生の冷ややかな視線が見下ろしていて、早紀は泣きながら真っ直ぐに彼を睨んだ。思わず何も知らないくせに口を出さないでと言いたかったが、相手は足が悪い転校生でその言葉は何処か真実味が滲む。
「飛び降りてみたみたいな言い方ね。」
「残念だけど飛び降りは試したことないね。僕が試したのは、車の前に飛び出しただけ。」
香坂の感情の感じさせない言葉に早紀は泣きながら彼の顔を見つめたまま凍りつく。勢いを削がれた早紀には、既にここから飛び降りることも柵から手を離す事すら出来なくなっていた。目の前で香坂が杖を下に投げ、手を絡めるように梯子を伝い危なげなく下に降りてくる。足を殆ど使わないのに梯子の登り降りなんてと、早紀は呆然とその姿を上手いもんだな等と思いながら見つめた。
「跳んでもいいけど、これからの僕の休憩場所がなくなるのは困る。」
そうおどけたように言いながら香坂はコンクリートに落とした杖を拾う。そして彼は少しバランスを崩しながら、柵を掴む早紀の右手を上から押さえるように握った。早紀が思わずその手を見下ろすと、彼は早紀の反対の手の甲を眺め溜め息をつく。
「助けてって、誰にも言わないの?早紀」
「言って……どうなるの?」
「少なくとも、独りではないよ。辛くてもだ。」
彼が自分の名前を知っているとは知らなかった。彼の名前は何だっただろう、香坂としか今は思い出せない。
その言葉は酷く心に刺さり早紀は、初めて真正面から彼の瞳を覗いた。今まで見たことのない澄んだ瞳は、同時に何故か酷く年老いているように見え目の前の彼が同じ年だと言うことを忘れさせる。まるで、何十年も生きて早紀よりはるかに色々なことを経験した瞳にみえたのだ。その彼の言う言葉は酷く重かった。
「助けて。」
思わず口をついて出た言葉に彼は真っ直ぐに早紀を見つめ、微かに握った手に力を込める。
「痛みを知らない人は、他の人に痛いことをしても、自分が痛いことをしてるって、知らないんだよ、早紀。」
彼の静かに告げる言葉は、酷く彼自身苦痛を感じているように苦くその口から溢れた。ふと彼の言葉は足の怪我と関係しているような気がすると感じる。それを知っているように香坂は、真っ直ぐに早紀の肩越しに青空に視線を向けた。
「だから、せめて自分は痛いことが痛いって知ってる人間でいるんだ。空に還るのはもっと後でも出来る。」
涙で揺れていた世界がクッキリとしていく。目の前の転校生はいったい何を経験して、こんなことを言えるようになったのだろう。早紀は目の前の香坂に興味が湧いたのに気がついた。それを見透かしたように彼は、目の前で爽やかな笑顔を浮かべる。
「そろそろ手が疲れたから、こっちに来なよ、早紀。」
早紀は初めて彼の手が、思ったより強く自分の手を握って離さなかったのに気がついた。実際には飛び降りるかもと懸念して、彼が手を掴んでいたのに気が付いた途端彼の優しさが分かって笑みが浮かぶ。ぎこちなく柵を乗り越えて香坂の隣に足を下ろすと、初めて彼が安堵したように息をついた。
「折角の休憩だったのに、疲れた。」
「貯水槽に登らなきゃもっと休めるんじゃないの?」
「冗談、下にいたら真見塚と一緒ってことだろ?」
予想だにしない言葉に思わず目を丸くすると、香坂は暢気に背筋を伸ばす。それを合図にしたように遠くから午後の始業のチャイムが間延びしたように聞こえている。
「あー、お腹へった。」
「お弁当は?」
「ふふ、この足でここまで何をどうやって持ってくるのさ?」
変なの、と早紀は正直に呟く。人目を避けてお昼に屋上に上がって態々貯水槽にまで登るのに、お弁当は持ってこなくて何も食べてないなんてと彼を眺める。そう言われれば彼が何か食べているのを見たのは、麻希ちゃんがクッキーをあげた時位しかない。もしかして本当にお弁当がない?購買部に行くにも足が悪い彼にはあの人混みに入るのはキツそうだ。
「……助けてくれるなら、お礼しなきゃ。お弁当作るくらいしか出来ないけど。」
ポツリと呟くと彼は驚いたように、早紀の顔を見て少し苦笑を浮かべた。自分が何を察したのか見透かしたように、彼は少し考えると「じゃあ、唐揚げとサンドイッチ」と何気なく呟いて歩き出す。早紀は案外子供っぽいリクエストだなと思いながら、その横に並んで歩き出した。
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