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6月
閑話4.真見塚孝
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4月に新しいクラスになって委員長になって直ぐに、担任の土志田先生から転校生がいるのだとは聞いていた。でも、家庭の事情と体の問題があって直ぐには出てこないと言われ、5月になる時にはすっかりその話し自体忘れかけていた自分がいる。かといって登校してきた転校生がどんな風に過ごそうと気にもしていないし、気にかけてもいない。本当はそう思っていても、優等生はけしてそうは言わないものだ。
「真見塚、ちょっといいか?」
土志田先生が廊下を通りかかった自分を呼び止め、孝ははいと返事をしながら面倒だなと心の底で思いつつ優等生の仮面は外さない。案の定転校生に年間の行事予定表を渡して説明しておいてと頼まれた。土志田先生は案外細かいところに気がつく先生だから、予定表を渡してないのはきっと態とで話しかけられる切っ掛けにしたのだと内心思う。その思いが少し目に出たのだろうか、先生は目を細めてニッと笑うと頼むなと孝を椅子から見上げた。
少し話しかけてみると香坂は、それほど嫌な感じはしなかった。嫌な感じというと曖昧だが、孝に言わせれば会話が噛み合わない位幼いとかファッションや女の子の話だけに片寄るとかっていうことのないという事なのだ。
「香坂はあまりそういうことに興味なさそうだな。」
思わず口をついた言葉に足の悪い彼は、座ったまま真っ直ぐに孝の事を見上げ微かにレンズの向こうで目を細めた。色素の薄い光彩が少し橙がかったレンズでより紅茶のように見えるところを見ると、恐らく本当の目の色はもっと薄い茶色なのだとわかる。
「君ほどじゃないと思うけど?真見塚。」
「ん?何がだ?」
「君の方こそ僕よりはるかに周りに興味がないだろ?」
驚いて彼の事を真正面から見つめる。
中学の時の経験がきっかけで孝は、周囲というより他人にあまり興味が持てなくなった。自分が何かしたわけではないが、世の中というものは案外悪意に溢れていて隙があれば襲いかかってくることを知った時他人は人を簡単に貶めるのだと驚かされる。それは別に孝が普通に過ごしていても容赦がない。訳知り顔で簡単に忍び寄ってきて、笑いながら貴方の家にはこんな恥ずかしい汚点が有るのですよと態々伝える神経が分からなかった。今になれば汚点と呼ばれた人が、本当は素晴らしい才能を隠して身を引いたこと自体間違っていると考えている。だからと言って周りがそれを認めるには、周囲は悪意に溢れすぎていて子供の孝に出来ることはあまりない。
そのせいもあって孝は日々隙を作らないように、優等生の顔でそつなく過ごす事にしていた。今ではそれに気がついているのは時々意味ありげな視線で自分を見る幼馴染みの少女くらいなものだとたかを括ってもいて、彼女と接しなければ周囲にバレない自信がある。そう思っていたのに登校して数日の転校生は自分を見上げながら、見透かすことなど容易だと言いたげに事も無げに問いかけてきたのだ。
※※※
「委員長、少しいい?」
硬い表情で声をかけてきた若瀬透に、ついに来たなと孝は表情も変えずに視線をあげた。
普通の授業をしている間は大きな問題にはならないだろうけど、テスト期間になったら恐らく数人がこう言う話をしてくるとは思ってたのだ。
クラスの女子の1人須藤香苗の行動が、し常識的に箍が外れた感じなのは見ているだけでも分かった。何かにとりつかれているみたいに相手の言葉も聞かずに、壊れたラジオみたいに噛み合わない会話をしている。それなのに本人には、自分が頓珍漢だと全く自覚がないのだ。こういう状態になるのは自分で状況を理解できないのに、何かもっと別なものに振り回されてその言葉を自分のものだと思い込まされているのだと思う。
問題なのは彼女が他人の席を我が物顔で使うから、話しに巻き込まれたものも席を奪われているものも迷惑するということなのだ。そこを退けと須藤に言うと逆に変に絡まれ面倒だから、若瀬も宮井も大分我慢してきたのだろうと理解はしている。
面倒なことになったな。
ここ最近は宮井も付き合いきれないのだろう、遂に須藤を放置して志賀さんの傍に行くようになった。逆に須藤は同じ系統の木内と連れだって歩く事が増えたようだ。
「分かった、一先ず土志田先生に相談してみる。」
それは自分が言っても無駄だと分かっているという事で、若瀬には可哀想だが大人に任せる方が早いだろうということでもある。溜め息混じりに若瀬が肩を落とすのに、孝はまいったなと心の中で呟いていた。
案の定土志田先生に若瀬の訴えを伝えにいくと、既に何人か席替えを希望しているのだと土志田先生が溜め息混じりに呟いている。
「須藤は真見塚から見ても、そんなに様子がおかしいか?」
土志田先生が真っ直ぐに目を覗きこむのが、実は孝は得意ではない。この先生は他の先生と違って心の中を見透かしてくる見たいに感じるし、何処か昔の自分を知っている気がするのだ。
「僕はあまり関わりがないので分かりません。クラスで迷惑に感じてる者は多いみたいですけど。」
「そうかぁ、1番一緒に居るのは宮井か?」
そうかもしれませんと答えると土志田先生は微かに目を細めて、やがて何時ものようにニッと笑うともういいぞと孝に告げる。
気には止めていない訳ではないが、その後の中間テストの最中須藤がカンニングで土志田先生に見つかったのに正直呆れてものが言えないと孝は思った。カンニング自体やろうと考える時点でどうかと思うが、土志田先生は見た目ほど凡庸ではない。柔道部の生徒達に聞けば土志田悌順は背中に目がついてると、誰しも口を揃えて言うのは有名な話だ。勘が良く運動神経もいいから、有段者が突然組かかっても無駄だからそう言われているらしい。そんな相手にテストなんて皆が同じ様な姿の中で少し普通でない動きをしたら、簡単に見抜かれてしまうのが分からないなんて。よほど須藤は間が抜けているのかおかしいのかどちらにかなのだろうと孝は無表情のまま考えていた。
※※※
最近頻繁に連絡を取るようになった隣にいる青年の姿を眺め、孝は少し感慨深い思いで見上げる。隣にいる鳥飼信哉は物心ついた時から実はよく知っていて、最初は実家である道場の伝説みたいな人だった。彼が高校の辺りほんの少しの期間だが一緒に住んだこともある。
孝の実家の道場は基本は合気道を教えているが、表書きは『古武術真見塚流』だ。古武術は昔の武士が使うもので実践的な攻撃が基本だから、現代では簡単には教えてもらえない危険な技も多い。それでも孝の家の道場が古武術と表書きが変わらないのは、道場主の父が師範として認めた特定の者にだけ伝承という形で古武術・武芸十八般と呼ばれる物の中から特別に組討術・和術を教えているからである。隣にいる信哉が道場で伝説なのは、小学生になったばかりで、それを父から教えられたという稀有な才能の持ち主だからだ。
やっぱり歩いていても、全然隙がない。凄いなぁ。
思わず心の中で感嘆する。
複雑な事情があり公にはしていないが、実は横にいるのは孝にとっては兄。異母ではあるが血の繋がった兄なのだ。しかも、近隣の口さがない人から彼が異母兄だと聞かされ、実はまだ時々自分が学校の間など人気のない時には道場に来ることがあると教えられ最初は妾腹の兄に戸惑い強く拒絶する気持ちに部屋に数日の立て籠りまでした。
その立て籠りの真っ最中朝まだ早い時間の道場で、偶然にも彼が1人道場に姿を見せたのに居合わせた。彼の方でも孝に気がついておらず、孝は窓の隙間から息を詰めて眺めていたのだ。一通りの演舞を舞うのに息を飲む、演武ではなく、本当に溜め息の出るような見事な演舞を孝は産まれて初めて見た。
師範である父ですら同じ一通りの演武をすれば、息が上がり汗を流すし足捌きの畳の音が響く。なのに目の前では無音のまま、自分達も着る胴着の擦れる音すらしない。
胴着の裾までキチンと捌いてるんだ、だから衣擦れの音すらしない。
その後人伝に唐突に自宅まで押し掛け信哉を前に、自分が咄嗟に第一声で「兄さん」と言った時の、信哉の驚いた瞳を孝は今でもよく覚えている。母子家庭で身寄りもなく既にその異母に当たる人は故人だと聞いていたから、信哉にとっては孝は唯一の弟なのだ。最初は不器用に他人だと突き放すつもりだったようだか、最近は電話をするとこうして外でも会って話をしてくれることも増えた。
「兄さん、今度の日曜なんですけど。」
出来ればもう一度道場に来て欲しいと孝は思っている。あの才能を周囲の悪意で失うとは、なんとも愚かな話だ。周囲に興味のない孝だが、事この件に関しては異常なほど熱心だ。実際には熱心どころではなく、本当なら今すぐに兄として家に入って兄弟として生活したいのが本音だ。
この穏やかで優しい兄が道場の表舞台で日の目を見る事に関して出来ることがあるならと思っているのに、信哉はその気がない風で何時もスルリとかわされてしまう。
先ずはせめてもう一度父の師事を受けて欲しいと訴えているが、信哉は何処吹く風で横に広がる公園の中を見つめ立ち止まった。
「兄さん?」
つられて公園の中に視線を向けると、公園の中に見慣れた制服姿があった。今日はテスト明けの休みで制服を着ている彼女は部活か何かだったに違いないが、そのまま放っておいてもいいのに優しい信哉は座り込んだその子を心配しているのが直ぐに分かる。
「大丈夫かい?具合悪いの?」
不満顔の孝を後に連れて歩み寄り信哉が優しい声をかけるが、その子はピクリとも反応しない。気でも失っているのか確かめようと肩に触れると初めて気がいたように顔をあげ、孝はやっとそれがクラスメイトの宮井だと気がついた。
「あれ…?もしかして宮井さん?」
「ん?知り合いか?孝。」
孝の声に信哉が微かに安堵したように息を吐いて彼女を見下ろす。真っ直ぐに孝と信哉を見ていたクリクリとした丸い瞳が不意にウルウルと潤んで揺れ始め、信哉が驚きながらハンカチを差し出した。玩具みたいに大粒の涙をボロボロと溢れさせる姿に、心配した信哉にクラスメイトなんですと小さく教える。暫くは泣き止まないかと思ったのに、孝の様子を見た宮井が泣きながら笑いだしたのに気がついた。
「何?何か可笑しかった?」
信哉の前で無愛想にして無愛想な奴なんだと思われるのは嫌だし、かといって宮井に優しくするにも普段の自分がちらつく。それを知っていてか泣き笑いしている宮井に笑いの意図を孝が問い詰めると、宮井は半べそのまま更に笑いだした。
「委員長…別人みたいだよ。何時ももっとつんけんしてるし、話し方怖いもん。怖い人だと思ってた。」
「なっ…、そんな事ないよっ。」
思わずそれを兄の前で言うなと心の中で孝は呻く。お前どんな高校生活を送っているんだという目で信哉が自分を見るのに、孝は心底泡を食ったように信哉に向かって説明を始めていた。
その後も事有る毎に何故か宮井麻希子が関わると、孝は優等生のままでは過ごせない出来事に巻き込まれるのに気がつく。信哉にお礼がしたいとクッキーを焼いてきたりするところは好感が持てるが、孝としてはあまり信哉に関わってほしくはないのにどうも彼女と信哉がよくあっている気がする。
大体にして須藤の事といい宮井自身その意図はなくても、かなりの巻き込まれ体質なのではないだろうかと正直孝は思う。この間なんて須藤の嘘泣きに巻き込まれて土志田先生から、生活指導室まで連れていかれていた。その挙げ句がこれだ。
廊下の先で立ち竦んだ宮井が、オロオロしながら周りを見渡していた。
「どうしたの?宮井さん。」
不意に背後かけた声に宮井は勢いよく振り返って、孝の頭から足までを不躾に眺め回す。何となくその視線は凄く自分に失礼な値踏みだった気がしたが、宮井は咄嗟に孝の腕を掴み胸元に抱え込むと窓際に引き寄せた。突然な宮井の行動で面食らった自分の仮面が剥がれ落ちる。
女の子なのに無造作に男の腕を抱え込むな!宮井!
視線の先の中心にいるのは直ぐ誰か分かった。今日は久々に登校した香坂をグルッと剣呑な雰囲気で囲んでいる。中心はクラスメイトの近藤で他のクラスの男の子達もいて、どうみても穏やかな雰囲気とは言えない。
近藤はまあ一昔の虐めっこがそのまま成長したみたいな奴だから、香坂や若瀬みたいな頭脳派タイプとは交遊は深まらないだろうな。
兎も角自分より大柄な男子に囲まれた香坂は足が悪いから逃げるのも無理そうだと考え直す。大事になる前に土志田先生にでも伝えるかと考えていた孝に、本当は怖いのだろうにブルブル震えながら宮井が泣きそうな顔で見上げてくる。
「真見塚君っ…あれってとめたほうがいいよね?!どうしたらいい?」
真見塚君の優等生の仮面の事なんて我関せずで勢い込んで指差しながら慌てて裏返ってしまう宮井の声に、孝はふっと何時もと違った気持ちで窓の外を眺める。
あれくらい対した事はないんだ、だからそんな顔しなくても大丈夫だよ。
そう孝が心の中で呟くと、宮井は黙り込んだままその顔を見あげてきて、孝はスルリと宮井の手から抜け出して、目の前で無造作に廊下をスタスタと歩きだした。
面倒だから関わりたくないんだけど、宮井は本当に巻き込まれ体質だよな。
そう思いながら廊下の角を曲がると目の前には古風な虐めの真っ最中だ。足の悪いか弱そうな転校生を頑強な体躯の数人で取り囲むなんて、お前たちカッコ悪いとかかんじないのかと心の中で呟く。窓ガラス越しに青ざめてオロオロしまくっている宮井が見えて、何だか少し孝は可笑しくなってくる。
「君たち、何してるんだい?」
「委員長は関係ないからあっちいってろよ。」
沢山の人数で囲んでいる近藤はガタイがいいから、香坂も自分も細くてか弱そうだとたかを括っている。確かに体重は大差はないのかもしれない。だけど近藤の動きは凄くトロいから、自分に延びてくる手がよく見える。手首を捌いてその勢いを横に受け流してやると、見事に近藤が地面に飛び込むのが分かる。
「…なにやってるんだい?そんなに寝たかったの?」
可笑しくて賑やかに聞こえる程明るい声で孝が言うと、その場にいた男子達が振り返り香坂まで一緒に目を丸くする。でも、その瞬間に孝は、自分の加勢は必要なかった事に気がつき目を細めた。視界の中の香坂はどうみても反撃できる体勢に杖を持ち変えていて、相手が飛びかかった瞬間に痛い目をみたに違いない。
当の寝転んだ近藤は何が起こって自分が寝転んでいるのか分からないみたいだけど、怪我するよりは泥まみれなだけで済んで感謝してもらわないと。
2人目の他のクラスの男子が我にかえって飛びかかって来たのを、冷静に見つめていた途端背後で窓ガラスが動いた。
「先生!!!あそこで喧嘩!!!!」
不意に叫んだ声は宮井じゃなくて、聞き覚えのある早紀の声だった。
そう言えば最近は宮井とよく一緒にいた彼女を思い出すともう一度「先生こっち!」と叫ぶ声がする。慌てたように目の前の男子が、バラバラと解散して散っていくのを見やりながら彼女の声に1つも慌てた気配がないのに孝は苦笑する。振り返ると窓越しに宮井と並ぶ彼女が見えて、幼い頃に還ったような気分に小さく肩をすくめる。
「志賀さん、ありがとう。」
彼女は少し頬を染めていいよと笑ってから安心したように宮井を見る。当の宮井は志賀の声に先生は何処にいるんだろうとキョロキョロ辺りを見回しているのが分かって孝は可笑しくて吹き出した。
「宮井さんが気がついたんだ?」
「ああ、そう。宮井って本当巻き込まれ体質だよな。」
隣に来た香坂に思わず言うと、香坂も同じように感じたのだろう小さな笑い声が溢れる。しかも、安心したせいか宮井が志賀の隣にたったまま唐突にあの大粒の涙を溢し始めるのが見えて、思わず目を丸くする。
「だいじょうぶ?麻希ちゃん?ビックリしたの?」
「どうしたの?」
窓越しに覗きこむともうボタボタという表現が的確なほどに宮井は泣き出していて、ビックリしたんだよね?と言う志賀の声に更に一回り大きな粒が出来る。
「そっか、驚かせたのか。そうだね、なかなか古風な状況だったしね。」
苦笑する孝の横から香坂が差し出す柔らかいハンカチを俯いたまま相手も見ずに受け取って宮井が涙を拭う。拭った後自分のハンカチがあるのに気がついたように、ハッと視線をあげた宮井に香坂が少し嬉しそうに見える笑顔を浮かべた。
「ありがと、宮井さん。」
その姿を眺め、まあ少し位巻き込まれてもいいのかと、孝は心の中で呟いていた。
「真見塚、ちょっといいか?」
土志田先生が廊下を通りかかった自分を呼び止め、孝ははいと返事をしながら面倒だなと心の底で思いつつ優等生の仮面は外さない。案の定転校生に年間の行事予定表を渡して説明しておいてと頼まれた。土志田先生は案外細かいところに気がつく先生だから、予定表を渡してないのはきっと態とで話しかけられる切っ掛けにしたのだと内心思う。その思いが少し目に出たのだろうか、先生は目を細めてニッと笑うと頼むなと孝を椅子から見上げた。
少し話しかけてみると香坂は、それほど嫌な感じはしなかった。嫌な感じというと曖昧だが、孝に言わせれば会話が噛み合わない位幼いとかファッションや女の子の話だけに片寄るとかっていうことのないという事なのだ。
「香坂はあまりそういうことに興味なさそうだな。」
思わず口をついた言葉に足の悪い彼は、座ったまま真っ直ぐに孝の事を見上げ微かにレンズの向こうで目を細めた。色素の薄い光彩が少し橙がかったレンズでより紅茶のように見えるところを見ると、恐らく本当の目の色はもっと薄い茶色なのだとわかる。
「君ほどじゃないと思うけど?真見塚。」
「ん?何がだ?」
「君の方こそ僕よりはるかに周りに興味がないだろ?」
驚いて彼の事を真正面から見つめる。
中学の時の経験がきっかけで孝は、周囲というより他人にあまり興味が持てなくなった。自分が何かしたわけではないが、世の中というものは案外悪意に溢れていて隙があれば襲いかかってくることを知った時他人は人を簡単に貶めるのだと驚かされる。それは別に孝が普通に過ごしていても容赦がない。訳知り顔で簡単に忍び寄ってきて、笑いながら貴方の家にはこんな恥ずかしい汚点が有るのですよと態々伝える神経が分からなかった。今になれば汚点と呼ばれた人が、本当は素晴らしい才能を隠して身を引いたこと自体間違っていると考えている。だからと言って周りがそれを認めるには、周囲は悪意に溢れすぎていて子供の孝に出来ることはあまりない。
そのせいもあって孝は日々隙を作らないように、優等生の顔でそつなく過ごす事にしていた。今ではそれに気がついているのは時々意味ありげな視線で自分を見る幼馴染みの少女くらいなものだとたかを括ってもいて、彼女と接しなければ周囲にバレない自信がある。そう思っていたのに登校して数日の転校生は自分を見上げながら、見透かすことなど容易だと言いたげに事も無げに問いかけてきたのだ。
※※※
「委員長、少しいい?」
硬い表情で声をかけてきた若瀬透に、ついに来たなと孝は表情も変えずに視線をあげた。
普通の授業をしている間は大きな問題にはならないだろうけど、テスト期間になったら恐らく数人がこう言う話をしてくるとは思ってたのだ。
クラスの女子の1人須藤香苗の行動が、し常識的に箍が外れた感じなのは見ているだけでも分かった。何かにとりつかれているみたいに相手の言葉も聞かずに、壊れたラジオみたいに噛み合わない会話をしている。それなのに本人には、自分が頓珍漢だと全く自覚がないのだ。こういう状態になるのは自分で状況を理解できないのに、何かもっと別なものに振り回されてその言葉を自分のものだと思い込まされているのだと思う。
問題なのは彼女が他人の席を我が物顔で使うから、話しに巻き込まれたものも席を奪われているものも迷惑するということなのだ。そこを退けと須藤に言うと逆に変に絡まれ面倒だから、若瀬も宮井も大分我慢してきたのだろうと理解はしている。
面倒なことになったな。
ここ最近は宮井も付き合いきれないのだろう、遂に須藤を放置して志賀さんの傍に行くようになった。逆に須藤は同じ系統の木内と連れだって歩く事が増えたようだ。
「分かった、一先ず土志田先生に相談してみる。」
それは自分が言っても無駄だと分かっているという事で、若瀬には可哀想だが大人に任せる方が早いだろうということでもある。溜め息混じりに若瀬が肩を落とすのに、孝はまいったなと心の中で呟いていた。
案の定土志田先生に若瀬の訴えを伝えにいくと、既に何人か席替えを希望しているのだと土志田先生が溜め息混じりに呟いている。
「須藤は真見塚から見ても、そんなに様子がおかしいか?」
土志田先生が真っ直ぐに目を覗きこむのが、実は孝は得意ではない。この先生は他の先生と違って心の中を見透かしてくる見たいに感じるし、何処か昔の自分を知っている気がするのだ。
「僕はあまり関わりがないので分かりません。クラスで迷惑に感じてる者は多いみたいですけど。」
「そうかぁ、1番一緒に居るのは宮井か?」
そうかもしれませんと答えると土志田先生は微かに目を細めて、やがて何時ものようにニッと笑うともういいぞと孝に告げる。
気には止めていない訳ではないが、その後の中間テストの最中須藤がカンニングで土志田先生に見つかったのに正直呆れてものが言えないと孝は思った。カンニング自体やろうと考える時点でどうかと思うが、土志田先生は見た目ほど凡庸ではない。柔道部の生徒達に聞けば土志田悌順は背中に目がついてると、誰しも口を揃えて言うのは有名な話だ。勘が良く運動神経もいいから、有段者が突然組かかっても無駄だからそう言われているらしい。そんな相手にテストなんて皆が同じ様な姿の中で少し普通でない動きをしたら、簡単に見抜かれてしまうのが分からないなんて。よほど須藤は間が抜けているのかおかしいのかどちらにかなのだろうと孝は無表情のまま考えていた。
※※※
最近頻繁に連絡を取るようになった隣にいる青年の姿を眺め、孝は少し感慨深い思いで見上げる。隣にいる鳥飼信哉は物心ついた時から実はよく知っていて、最初は実家である道場の伝説みたいな人だった。彼が高校の辺りほんの少しの期間だが一緒に住んだこともある。
孝の実家の道場は基本は合気道を教えているが、表書きは『古武術真見塚流』だ。古武術は昔の武士が使うもので実践的な攻撃が基本だから、現代では簡単には教えてもらえない危険な技も多い。それでも孝の家の道場が古武術と表書きが変わらないのは、道場主の父が師範として認めた特定の者にだけ伝承という形で古武術・武芸十八般と呼ばれる物の中から特別に組討術・和術を教えているからである。隣にいる信哉が道場で伝説なのは、小学生になったばかりで、それを父から教えられたという稀有な才能の持ち主だからだ。
やっぱり歩いていても、全然隙がない。凄いなぁ。
思わず心の中で感嘆する。
複雑な事情があり公にはしていないが、実は横にいるのは孝にとっては兄。異母ではあるが血の繋がった兄なのだ。しかも、近隣の口さがない人から彼が異母兄だと聞かされ、実はまだ時々自分が学校の間など人気のない時には道場に来ることがあると教えられ最初は妾腹の兄に戸惑い強く拒絶する気持ちに部屋に数日の立て籠りまでした。
その立て籠りの真っ最中朝まだ早い時間の道場で、偶然にも彼が1人道場に姿を見せたのに居合わせた。彼の方でも孝に気がついておらず、孝は窓の隙間から息を詰めて眺めていたのだ。一通りの演舞を舞うのに息を飲む、演武ではなく、本当に溜め息の出るような見事な演舞を孝は産まれて初めて見た。
師範である父ですら同じ一通りの演武をすれば、息が上がり汗を流すし足捌きの畳の音が響く。なのに目の前では無音のまま、自分達も着る胴着の擦れる音すらしない。
胴着の裾までキチンと捌いてるんだ、だから衣擦れの音すらしない。
その後人伝に唐突に自宅まで押し掛け信哉を前に、自分が咄嗟に第一声で「兄さん」と言った時の、信哉の驚いた瞳を孝は今でもよく覚えている。母子家庭で身寄りもなく既にその異母に当たる人は故人だと聞いていたから、信哉にとっては孝は唯一の弟なのだ。最初は不器用に他人だと突き放すつもりだったようだか、最近は電話をするとこうして外でも会って話をしてくれることも増えた。
「兄さん、今度の日曜なんですけど。」
出来ればもう一度道場に来て欲しいと孝は思っている。あの才能を周囲の悪意で失うとは、なんとも愚かな話だ。周囲に興味のない孝だが、事この件に関しては異常なほど熱心だ。実際には熱心どころではなく、本当なら今すぐに兄として家に入って兄弟として生活したいのが本音だ。
この穏やかで優しい兄が道場の表舞台で日の目を見る事に関して出来ることがあるならと思っているのに、信哉はその気がない風で何時もスルリとかわされてしまう。
先ずはせめてもう一度父の師事を受けて欲しいと訴えているが、信哉は何処吹く風で横に広がる公園の中を見つめ立ち止まった。
「兄さん?」
つられて公園の中に視線を向けると、公園の中に見慣れた制服姿があった。今日はテスト明けの休みで制服を着ている彼女は部活か何かだったに違いないが、そのまま放っておいてもいいのに優しい信哉は座り込んだその子を心配しているのが直ぐに分かる。
「大丈夫かい?具合悪いの?」
不満顔の孝を後に連れて歩み寄り信哉が優しい声をかけるが、その子はピクリとも反応しない。気でも失っているのか確かめようと肩に触れると初めて気がいたように顔をあげ、孝はやっとそれがクラスメイトの宮井だと気がついた。
「あれ…?もしかして宮井さん?」
「ん?知り合いか?孝。」
孝の声に信哉が微かに安堵したように息を吐いて彼女を見下ろす。真っ直ぐに孝と信哉を見ていたクリクリとした丸い瞳が不意にウルウルと潤んで揺れ始め、信哉が驚きながらハンカチを差し出した。玩具みたいに大粒の涙をボロボロと溢れさせる姿に、心配した信哉にクラスメイトなんですと小さく教える。暫くは泣き止まないかと思ったのに、孝の様子を見た宮井が泣きながら笑いだしたのに気がついた。
「何?何か可笑しかった?」
信哉の前で無愛想にして無愛想な奴なんだと思われるのは嫌だし、かといって宮井に優しくするにも普段の自分がちらつく。それを知っていてか泣き笑いしている宮井に笑いの意図を孝が問い詰めると、宮井は半べそのまま更に笑いだした。
「委員長…別人みたいだよ。何時ももっとつんけんしてるし、話し方怖いもん。怖い人だと思ってた。」
「なっ…、そんな事ないよっ。」
思わずそれを兄の前で言うなと心の中で孝は呻く。お前どんな高校生活を送っているんだという目で信哉が自分を見るのに、孝は心底泡を食ったように信哉に向かって説明を始めていた。
その後も事有る毎に何故か宮井麻希子が関わると、孝は優等生のままでは過ごせない出来事に巻き込まれるのに気がつく。信哉にお礼がしたいとクッキーを焼いてきたりするところは好感が持てるが、孝としてはあまり信哉に関わってほしくはないのにどうも彼女と信哉がよくあっている気がする。
大体にして須藤の事といい宮井自身その意図はなくても、かなりの巻き込まれ体質なのではないだろうかと正直孝は思う。この間なんて須藤の嘘泣きに巻き込まれて土志田先生から、生活指導室まで連れていかれていた。その挙げ句がこれだ。
廊下の先で立ち竦んだ宮井が、オロオロしながら周りを見渡していた。
「どうしたの?宮井さん。」
不意に背後かけた声に宮井は勢いよく振り返って、孝の頭から足までを不躾に眺め回す。何となくその視線は凄く自分に失礼な値踏みだった気がしたが、宮井は咄嗟に孝の腕を掴み胸元に抱え込むと窓際に引き寄せた。突然な宮井の行動で面食らった自分の仮面が剥がれ落ちる。
女の子なのに無造作に男の腕を抱え込むな!宮井!
視線の先の中心にいるのは直ぐ誰か分かった。今日は久々に登校した香坂をグルッと剣呑な雰囲気で囲んでいる。中心はクラスメイトの近藤で他のクラスの男の子達もいて、どうみても穏やかな雰囲気とは言えない。
近藤はまあ一昔の虐めっこがそのまま成長したみたいな奴だから、香坂や若瀬みたいな頭脳派タイプとは交遊は深まらないだろうな。
兎も角自分より大柄な男子に囲まれた香坂は足が悪いから逃げるのも無理そうだと考え直す。大事になる前に土志田先生にでも伝えるかと考えていた孝に、本当は怖いのだろうにブルブル震えながら宮井が泣きそうな顔で見上げてくる。
「真見塚君っ…あれってとめたほうがいいよね?!どうしたらいい?」
真見塚君の優等生の仮面の事なんて我関せずで勢い込んで指差しながら慌てて裏返ってしまう宮井の声に、孝はふっと何時もと違った気持ちで窓の外を眺める。
あれくらい対した事はないんだ、だからそんな顔しなくても大丈夫だよ。
そう孝が心の中で呟くと、宮井は黙り込んだままその顔を見あげてきて、孝はスルリと宮井の手から抜け出して、目の前で無造作に廊下をスタスタと歩きだした。
面倒だから関わりたくないんだけど、宮井は本当に巻き込まれ体質だよな。
そう思いながら廊下の角を曲がると目の前には古風な虐めの真っ最中だ。足の悪いか弱そうな転校生を頑強な体躯の数人で取り囲むなんて、お前たちカッコ悪いとかかんじないのかと心の中で呟く。窓ガラス越しに青ざめてオロオロしまくっている宮井が見えて、何だか少し孝は可笑しくなってくる。
「君たち、何してるんだい?」
「委員長は関係ないからあっちいってろよ。」
沢山の人数で囲んでいる近藤はガタイがいいから、香坂も自分も細くてか弱そうだとたかを括っている。確かに体重は大差はないのかもしれない。だけど近藤の動きは凄くトロいから、自分に延びてくる手がよく見える。手首を捌いてその勢いを横に受け流してやると、見事に近藤が地面に飛び込むのが分かる。
「…なにやってるんだい?そんなに寝たかったの?」
可笑しくて賑やかに聞こえる程明るい声で孝が言うと、その場にいた男子達が振り返り香坂まで一緒に目を丸くする。でも、その瞬間に孝は、自分の加勢は必要なかった事に気がつき目を細めた。視界の中の香坂はどうみても反撃できる体勢に杖を持ち変えていて、相手が飛びかかった瞬間に痛い目をみたに違いない。
当の寝転んだ近藤は何が起こって自分が寝転んでいるのか分からないみたいだけど、怪我するよりは泥まみれなだけで済んで感謝してもらわないと。
2人目の他のクラスの男子が我にかえって飛びかかって来たのを、冷静に見つめていた途端背後で窓ガラスが動いた。
「先生!!!あそこで喧嘩!!!!」
不意に叫んだ声は宮井じゃなくて、聞き覚えのある早紀の声だった。
そう言えば最近は宮井とよく一緒にいた彼女を思い出すともう一度「先生こっち!」と叫ぶ声がする。慌てたように目の前の男子が、バラバラと解散して散っていくのを見やりながら彼女の声に1つも慌てた気配がないのに孝は苦笑する。振り返ると窓越しに宮井と並ぶ彼女が見えて、幼い頃に還ったような気分に小さく肩をすくめる。
「志賀さん、ありがとう。」
彼女は少し頬を染めていいよと笑ってから安心したように宮井を見る。当の宮井は志賀の声に先生は何処にいるんだろうとキョロキョロ辺りを見回しているのが分かって孝は可笑しくて吹き出した。
「宮井さんが気がついたんだ?」
「ああ、そう。宮井って本当巻き込まれ体質だよな。」
隣に来た香坂に思わず言うと、香坂も同じように感じたのだろう小さな笑い声が溢れる。しかも、安心したせいか宮井が志賀の隣にたったまま唐突にあの大粒の涙を溢し始めるのが見えて、思わず目を丸くする。
「だいじょうぶ?麻希ちゃん?ビックリしたの?」
「どうしたの?」
窓越しに覗きこむともうボタボタという表現が的確なほどに宮井は泣き出していて、ビックリしたんだよね?と言う志賀の声に更に一回り大きな粒が出来る。
「そっか、驚かせたのか。そうだね、なかなか古風な状況だったしね。」
苦笑する孝の横から香坂が差し出す柔らかいハンカチを俯いたまま相手も見ずに受け取って宮井が涙を拭う。拭った後自分のハンカチがあるのに気がついたように、ハッと視線をあげた宮井に香坂が少し嬉しそうに見える笑顔を浮かべた。
「ありがと、宮井さん。」
その姿を眺め、まあ少し位巻き込まれてもいいのかと、孝は心の中で呟いていた。
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