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二度目の7月

閑話97.須藤香苗

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花泉英華のことが気にならないと言えば大きな嘘になる。
清楚で大人しく志賀早紀とは違うタイプだが、大和撫子で良家のお嬢様・花泉英華。
その彼女が本気で基本中の基本といえるラブストーリーの王道みたいな、積極的アプローチをここ暫く悌順にしているのだ。それに比べて自分は何でか悌順には素直にはなれないし、面と向かえば悪態か憎まれ口ばかりで女らしいところなんて殆どない有り様だ。せめて他の男からラブレターを貰える女らしいとこを悌順にアピール出来たら違うのだろうけど。

出来ないし……

土曜の家庭教師の後に送ってくれて二人っきりで会話をすることが増えても、そんな時の話は笑い話ばかりで女っぽさなんて皆無。しかも香苗はなんちゃってだし巻き卵は焼けるようになったが、基本的に料理は才能がないから出来ないし、裁縫も駄目・編み物も下手ときている。花泉英華の激マズなクッキーは作り方が不味いだけで、焼き色をみれば恐らくこの上達の余地はあると香苗は思う。ところが香苗ときたら麻希子の手助けがないとお菓子に関しては壊滅的腕前だし……よくよく考えてみれば、花泉と香苗ではスタート地点から全然違う。向こうは清く正しい大和撫子、それに比べて

私は去年ろくでもない男に体を許してて、子供を流産までしてて……。

泣きたくなる。これを考えると現実は残酷で、香苗が悌順の傍にいたいと思っていても何一つ自分が悌順にふさわしいなんて思えない。それに香苗がどんなに好きでも香苗は悌順にとっては一人の生徒にすぎないし、去年から香苗は嫌というほど迷惑ばかりかけている。そう考えてしまうと花泉の件にはもう何も言えないし、写真とはいえ花泉の肩に手をかけた悌順の姿を目にしてからは気持ちは落ち込むだけ。

顔を見るのも……辛い……

そう思うと毎日の楽しみだったホームルームすら辛くて、俯くしか出来なくなっていく。そんな香苗の様子を気にかけてくれる麻希子のフワフワ頭を撫でて癒されはしているけど、自分の浅はかな過去を思うと嫌になってしまう。出来ることなら一年前に戻って、矢根尾の尻を蹴飛ばして大事なトコを蹴り潰してやりたいけど、そんなこと出来るわけでもないし、あの屑男に大事な香苗のバージンをあげたのは事実なのだ。

「香苗……。」

大人しく撫でられてくれている麻希子が心配そうに上目遣いに言うけど、過ぎてしまったことは仕方がないし、自分がお嬢様になれないのも事実。無い物ねだりをしても虚しくなるだけだから、笑いながら大丈夫と答えて見せる。

それにしても校内で二人っきりになるなんて……まあ、自分だって生徒指導室で二人っきりだったんだし、人の事は言えないか。

そう香苗は苦く思いながらもう一度大丈夫だよと、強ばった顔で麻希子と早紀に笑って見せたのだった。



※※※



そんな状況でも家庭教師を休めないのは、もしかしたらまた二人で歩けると思って密かに香苗自身が期待してしまうから。勿論そうでなくても悌順の自宅に入って、悌順の部屋に入って本を借りるなんてこともできてしまうのをみすみす諦めるなんて難しい。そんなわけで土曜日の午後は黙々と勉学に勤しみ、夕方夕食迄一緒に過ごさせて貰ってしまう。そして雨が降りだしたのを見ても悌順が当然のように立ち上がって、何時ものように行くぞと言ったのに香苗はイソイソと立ち上がる。

悌順は花泉の事はどう思ってるのか……。

二人きりになってからも学校の話は何一つ出てこないし、傘をさしかけてくれている悌順は何時もより少し疲れているようにも見える。花泉の件もあるだろうけど、ここ暫く仁が休んでいてその事もあるに違いない。悌順の家にいた忠志も義人も普段通りだけど仁の事には触れないようにしているみたいで、やっぱり記憶喪失ってしんどいなと香苗は歩きながら思う。

「仁……まだ学校これない?」

オズオズと香苗が見上げると、悌順が少し驚いたように目を丸くして香苗を見下ろした。何でそんなに驚くのと思うが、暫く考えた悌順はもう少ししたら出られると思うとポツリと言う。それに香苗は小さく笑って、不思議そうに自分を見下ろす悌順に呟く。

「悌さんって、嘘下手。」

じっと見ていればそれが真実ではなくて、悌順の希望や期待から出た言葉なのが分かるようになってしまった。仁の調子はそう簡単には割りきれないもので、義人が香苗達に話した記憶の問題は大きいのだろう。何かを思い出した代償に何かを忘れる、そんなこと起きてほしくないが、ほんの一部それが起こってしまったのだと香苗は考えている。それに仁は迷っているのだろうし、それに戸惑って外に出られなくなっているのだと思うのだ。

「もし、何かを思い出す変わりに、悌さんのことを忘れるとしたら……、私は思い出すの…………やだな…………。」

シトシトと音をたてる雨の中でふと呟いた言葉に、悌順の足が止まる。こんなこと言ったらいけないと咄嗟に思ったけど、もう口に出して言ってしまったことは消しようがない。ごめんね、変なこと言ってと俯き口にするが、悌順が歩き出そうとしないのに香苗は戸惑いながら視線をあげた。そこにはじっと香苗のことを見下ろしている黒い宝石みたいな瞳、とても真っ直ぐに自分を見ていて何を考えているのか問いかけたくなる。

同じような瞳で花泉を見つめたの?

そう悌順に聞きたくなるのは、そうだとしたら嫌だなと自分が思っているからだ。こんな風に教師でも何でもなく一人の男性として立っているみたいに感じる表情を、花泉にも見せているとしたら本当は凄く嫌だと感じている。このまま卒業まで変わらなかったらと以前言われたけれど、このまま花泉が悌順にアプローチし続ける姿を我慢していかないとならないのは本当は凄く辛い。

「聞きたいこと……ないのか?」

不意に悌順がそう呟いた言葉に香苗は息を飲んでしまう。そんな聞き方は凄く狡いし、それに香苗がなんと聞けばいいのか。
花泉のことをどうおもってる?私のことをどう思ってる?
そんなこと聞けるんだったらとっくに聞いているし、そんなことは聞けないって香苗だってちゃんとわかってるから。

「香苗……。」

調子にのってこんな風に二人きりで一つの傘に入って歩かなければ良かったと、ふと思ってしまう。傘が違えばこんなに間近に悌順の瞳なんて見なかったし、こんなことを感じなかったのに。そう思った瞬間、不意に大きな手が頬に触れて指がそっと拭うのに気がついた。

「泣くな…………、香苗。」

低く囁くような声がそう告げて、自分が泣いていたのに気がつく。そんなの悌順が狡い質問するからと言いたいけど、口を開いたら泣き声が出てしまいそう。だからなにも言わずにその大きな手に瞳を瞬かせていると、悌順の瞳が少し緩んで近づいたのに気がつく。優しく頬に触れて傘の下でそっと重なる唇に何でかボロボロと涙が溢れだして、悌順が戸惑うように香苗のことを胸に抱き締める。

傘の下だけど、外だよ……?先生……だよ?

驚くほど熱くて、それでも安堵してしまう腕に抱き締められ、香苗は戸惑いながら胸の中で目を閉じてドキドキと早鐘みたいな心臓の音を聞く。

「……俺は…………。」

この心臓の音は自分のものなのか、それとも悌順のものなのか分からない。だけど驚くほど早く脈打っていて、香苗も戸惑ってしまう。それにこんなに誰かの体温が高いなんて知らないと、香苗は戸惑いながら押し付けていた胸から視線をあげた。するとまるでそれを待っていたみたいに悌順と真っ直ぐに視線があって、香苗はその顔に見とれているのに気がつく。

見たことない……な、こんな顔してるの……。

戸惑っているのに言わないとと焦っているような、そんな不思議な表情をした悌順は初めてだった。間違いなくそんな顔で自分とこんな場所でキスをしたのは、目の前の悌順なのだ。

「……花泉から、何か受け取った?悌さん。」

思わず口に出た言葉に一瞬悌順が呆気にとられた顔をして香苗のことを見下ろすが、やがて傘を肩に乗せた格好で悌順は苦笑いを浮かべる。

「…………なんで、それだよ?聞きたいのそこか?普通違うだろ。」

普通って何って言いたいけど少なくとも頭の中がゴチャゴチャで、一先ず口に出たのがそれだったんだもんとだけ香苗が呟く。実は段々我にかえって逞しい腕に抱き締められたままなのに香苗自身気がつき始めていて、余計に混乱し始めているなんて言えないし。

「俺は……生徒からは何も受け取らない。」

生徒が作ったものを皆と一緒に食べることはあっても、確かに個人的な贈り物を受け取っているのは見たことがない。それに生徒から何かを受け取ったなんて話は実際には内川くらいしか聞いたことがないし、悌順が何か受け取っているなんて噂すら聞いたことがなかった。それでも自分のクリスマスやバレンタインは直に家まで届けたり、直に手渡しだったからで、同じことをすれば他の生徒からも受けとるのだと思った。自分が問題児でカラオケボックスなんかで、はしたない下着だけの格好でいるのを助けてくれたから。一年からすれば学力もとんでもなく低下したから、だから自宅に入れてくれたし、家庭教師だってしてもらえて

でも、それって香苗だけだよね?

麻希子の暢気な声が頭を過る。香苗にだけ改めて『学校では先生!』と訂正するのは、それ以外ではいいと思っているから?最初は『須藤』と呼んだのに、香苗って呼んでと口にしてから、今では学校の外なら『香苗』と呼ぶし、時々忘れて校内でも名前になりつつある。
ちょっと待ってと頭が言う。
これ以上こんな風に彼女にするみたいに抱き締められたままこんなことを考えていたら、何時かみたいに思いっきり突き飛ばしてしまいそう。そう考えているのが伝わったみたいに、悌順が少し不貞腐れたように目を細める。

「頼むから……この間みたいに突き飛ばすなよ?……凹むから。」

凹む?突き飛ばされて?って、あの後凹んだの?
生徒からは何も受け取らないのに、香苗からは受け取ったのは?
香苗に二度もキスしたのは?
卒業したらなんて、あんな話をしたのは?
頭の中が混乱しているけど、こんな展開はありなんだろうか。

「……教師失格なのは分かってる……けど…………、な。」

戸惑う悌順が少し顔が赤いし触れている腕も熱いし、バクバクと音をたてているのが悌順の心臓の方だと気がついてしまった。気がついたけど、これはこのまま聞いていていいものなんだろうか?そんな風に頭の隅で考える。

「………………好きだ。」

真剣な声で真っ直ぐにそう告げられて、一瞬で頭が真っ白になって。

「……う……そ?」
「……なんで、嘘だよ。」

不貞腐れた顔のままそう告げる悌順になんて答えていいか分からない。花泉はどうするのと戸惑いながら言うと、やっぱり気にしてたかと溜め息混じりに言われて。やっぱりって?と問い返す。すると花泉の件で意味の分からない噂をたてられているけど、何も受け取りもしないし泣いているのにハンカチは差し出したが抱き締めてもいない。それでも噂が有りもしないことを騒ぎ立てて、香苗の顔が教壇から何時見ても俯いたままなのに悌順の方だって限界があるとおもったのだ。

「花泉には、……誰とは言えなかったが、…………そいつ以外を大事な女だとは思えないと答えただけだ。」
「それ…………、私…………?」

香苗の言葉にグッと言葉に詰まって顔を赤くした悌順が、お前なぁと呆れたように呟いてもう一度ギュッと抱き締めてくる。早鐘のような心臓の音は変わらず、それでもそう考えてなきゃこんなに困るわけないとそっと呟く声が耳元に響く。

俺の女

以前そう口にして守って貰った。それが口から出任せではなくて、本気で、しかも噂で俯いてしまった香苗の姿に堪えられなくなって。シトシトと雨が降り続いていて本当に良かった、傘のお陰で抱き締められてキスしてても見えない。見えないけど、どうしよう、悌順がドキドキしてるのが抱き締められてて直に聞こえるし、今では自分の心臓の音までする。

「でも、……女の子らしいこと……出来ないし、それに。」
「……そのまんまでいい。」

思わず口にしたのに、迷いもなくそう言われて泣きそう。何時もより声が低くて優しくて、抱き締められたまま聞いてていいの?

「でも。」
「何だよ。…………まだ、なんかあるか?」
「……し、処女じゃない。」

呆れたように香苗の言葉にあんぐりと口を開けて、ああ?と思わず声をあげた悌順が暫く何というべきかと思案する様子に香苗は自分でも馬鹿なことを言ったと頬を染める。そんなこと悌順は香苗が妊娠したのも流産したのだって知ってるのに、ワザワザ改めて言うことなんかじゃなくて。そんなことをグルグル頭の中で考えている香苗の頭を、また傘の下でギュッと抱き締めて悌順が囁く。

「馬鹿だな……、全部分かってて、好きだって言ってんだろ。」

泣きたいほどに幸せだと思いながら、その腕の温度を感じとる。出来ることならこのまま全部貰ってって言いたくなるほど、幸せすぎて泣きたい。思わず縋りつくみたいに手を回してしまったのは泣く前に、混乱で悌順を突き飛ばしてしまわないようにするのに必死だったから、なんて絶対言えないなんて香苗は思っていた。






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