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二度目の6月
閑話91.○年一組
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一年一組・如月亨。
去年僕が高文祭という年上の年代の広域文化祭みたいなものを見に行ったのは、自分の父がそこに呼ばれていると聞いたからだった。開会式の後の特別講演でこれからの学生における文化的活動なんて、正直訳のわからない演題の講演をするというのだ。勿論息子と言っても僕は父・成田哲の正妻の子供ではなく、名字も違うっていうのは見ただけで分かること。小学生の頃はよく母に問いかけたが、母は包み隠さず自分は成田の妾で正式な奥さんは別にいるし僕には年の離れた兄までいると話してくれた。正直なところ僕はあの父が好きではない。来る度母を奴隷のようにかしずかせて、やりたい放題する成田哲をどうしても父として尊敬することができなかったんだ。でも僕はあの男の息子で、母はお妾さんなのは変えようのないことだった。僕が講演を聞きに行ったのも、父のご機嫌を取るためで自分が聞きたかったからじゃない。ご機嫌をとっておかないと家にきた時、母や僕が面倒なことに巻き込まれる、だから可能な限りご機嫌をとるのが僕と母の日常なだけなんだ。そんな中で僕は偶々、あの絵を見ることになった。
『夕景』
そう題名をつけられた何処かの校庭らしい風景画。
別段珍しい題名じゃないし、画題も珍しい訳じゃない。それなのにその夕景の校庭は広くて凄く穏やかな日常に見えて、僕はそんな世界に暮らせるのが心の底から羨ましいと思った。綺麗で穏やかで、それなのに沢山の人が見えるような不思議な印象。人は描きこまれていないのに、話し声とか校庭で過ごす気配がする。僕はあっという間にその絵に惹き込まれて僕もこんな絵を描いてみたいと思ったから、都立第三高校を受験することにしたんだ。
そうして僕はこの学校に来て、須藤先輩に出会った。
背が高くてスレンダーで、格好いい。僕の母はどちらかというと小柄で気弱そうだから、母とは全く違うタイプの先輩は風景画を描いてみたいといった僕に私も風景画を描くのが好きなんだと笑いかけてくれた。三年の須藤先輩は他の先輩達とも凄く仲が良くて、普段は宮井先輩や香坂先輩と一緒にイーゼルをたてている。でも美術部の部長だから、部員の様子もよく見ているんだ。だから僕が同級生に妾の子供だとか、母がふしだらと揶揄されていたのを聞き付けて一喝してくれた。
「くだらない噂話が好きみたいだけど、そう言うのが楽しいと思ってるなら大間違いなんだからね。いつか大人になって痛い目にあうんだから、今から少しは考えて話なさいよ。」
僕の親の事を揶揄する同級生二人に一喝してくれた須藤先輩は、強くて凛々しくて凄く格好良かった。ただいつも穏和で微笑んでる宮井先輩が僕の頭を撫で須藤先輩に落ち着きなよと口を挟んでくれなかったら、須藤先輩の怒りはちょっとやそっとじゃ解けなかったような気がする。何であんなに須藤先輩が怒ったのかは、後から噂話だけど耳にはいったんだ。
須藤先輩は去年の今頃は不良だったって
その意味がよく分からないけど、須藤先輩は不良で結構問題を起こしてたんだって噂話では言う。そんな噂は僕の話とは違って本当に噂話だとおもうんだけど、それだからって今の須藤先輩が綺麗で格好いいのは変わらない。しかも、先輩達は大人だから僕の境遇を聞いても、逆に家の母の方が苦労していることを労ってくれる位なんだ。
三年生って大人なんだな……
僕はそんな風にいたく感動すらした。実は僕の母は僕が高校に入学する直前に妾さんを辞めたんだ。気弱だと思っていたんだけど、本当は僕の母は気弱どころかとんでもなく策士だった。僕が生活するのに困らないように色々手を尽くして、時期を見計らっていたんだ。なんの時期かって?父との縁を完全に切るのに最適な時期だよ。それでも僕の父が成田哲なのは変わらないけど、僕はあんな人間にはなりたいとは思わない。
「如月?」
駅前を歩いていた僕に遠目に声をかけたのは、香坂先輩で隣には宮井先輩と志賀先輩、そして須藤先輩がいる。香坂先輩は一年の女子に既にファンクラブみたいなのが出来たと友人が話していたし、須藤先輩達三人は校内だけじゃなく有名な三人組なのだとここ二ヶ月くらいで知った。学校外でその四人揃っているのはかなりの圧巻で思わず緊張してしまう僕に、宮井先輩がお茶しにいくんだよと笑いかけてくれる。しかも一緒においでと誘われてついていったら、ファーストフードなんかじゃなく確りした喫茶店に四人は入るのだ。
流石…高校生って……違うんだな。
そんなことに妙に感心してしまうけど、先輩達は常連みたいにカウンターの奥の身なりのいい男性にこんにちわと声をかけている。シックで蓄音機があるような、喫茶店はあまり今まで利用することのない世界。カウンターの他のお客さんも、そこらのファーストフードで騒いでる高校生なんかじゃなくて大人ばかり。
「あ、こんにちわぁ、了さん。」
「よぉ、ハムちゃん。学校帰り?」
「あー。ハムちゃん、新作出来たんだけどさぁ?」
「鈴徳さん、こんにちわ、採算とれてますか?」
驚いたことに宮井先輩は物怖じせずに、そのカウンターの年上の男性客にも声をかけているし、なんでか奥から調理担当の人まで顔を見せてる。宮井先輩は天然の人たらし姫って皆の噂だったけど、きっとこの交遊関係の広さの事を指してるんだろう。他の先輩達もそれが普通なのか全然気にもとめてない様子で、僕は少し驚きながらその人を思わず見つめてしまった。三十歳にはなっていなさそうだけど、なんと言うか綺麗な眼をした人だなんて思ってたら、バッチリ眼があってしまって柔らかな笑顔で微笑まれてしまう。僕は慌てて頭を下げると先輩達の後に追い付いて、先輩達に自分で自分の騒動を終息したのを何故か褒められることになってしまったのだった。
本当は僕は近郊の私立高校に入るように、父から言われていたんだ。そこなら父の意向に添ってたんだと思うし、実際は合格もしてた。だけど、僕は産まれて初めて父のご機嫌をとることより、自分の希望を通したんだ。勿論母には事前に相談してたけど、母は迷わず自分の好きな方を通しなさいって言ってくれたし。しかも僕の腹違いの兄が突然成田の家から居なくなって、どうやら僕を引き取ろうと父はしていたって後から聞かされた。母はだから決意して自分がどんなに酷い目にあってきたか社会的に訴えることにしたし、後から少し自分の仕返しもあったのと僕に謝ってくれたんだ。だから、僕はこのまま自分の好きな事を目指して、ここで過ごそうって思ってる。だってホントに凄くここにいるのは楽しいし、…………僕は須藤先輩の事が好きになってしまったから。
※※※
二年一組・花泉英華。
料亭花泉と言えば近郊では、比較する店舗のない古くからの老舗料亭。竹林の傍に日本庭園を設え、政治家や大企業の理事の会合が日々行われる場に使われるのが当然。祖父は料理人は花板と呼ばれる板場の料理長で、父は脇板という副料理長。方や祖母は大女将で母は若女将。私が後を継ぐのかですか?私には兄も姉もおりますから、私が継ぐことは恐らくないと思います。私に求められているのは、大人しく花泉の名前に泥を塗らない人間であることだけです。それに不満があるわけではありませんし、過不足なく必要なものは与えて育てていただいておりますから文句を言う筋合いではありません。それでもあの時何故かそれが、私には詰まらないことのような気がしたのです。このまま決められたレールの上で、決められた事だけをして決められた結末を迎える。高校一年の時に調理部に入った時、母からは私が調理を学ぶのは問題ないと言われました。
私の姉にはやがて女将になるのだから、調理より接客を学ぶよう助言をしておりましたのに
つまりは私は花泉の今後には不要な人間なのです。暗にそういわれましたのに、私は常々のように疑問を感じておりました。不要な人間なら何故私は自由にしてはならないのかと、思うのは当然だとは思いませんか?名前を汚さないよう学力を維持して、流石に花泉の娘と言われる姿を保つ事だけを求められるのです。男子が厨房を仕切る家庭のため、私は何一つ調理に関して身に付けておりません。それが普通だと思っておりましたし、母も姉も同じですから、今までは気にもとめておりませんでした。でもここに来てふと考えてしまったのは、私は後も継がずこの家から他家へ嫁いだら大丈夫なのだろうかと言うことです。だからこそ調理部に入ってみたのですが、結局誰かのために作っているわけでもなく、自宅へ持ち帰っても誰も食べてくれるわけでもありません。勿論自分でも頂きませんから、結局無駄なのです。
無駄に食材を使うだけですのね
そう実感してしまったので、二年になったら転部を検討しておりました。茶道か華道と思っておりましたが、そんな矢先にあの出来事が起こってしまったのです。あれは別に意図が有る訳ではなく、偶々そこを通ってみたくなっただけでした。真っ直ぐ帰れば良かったのでしょうけど、賑やかで活気の有る気配を少しみてみたくなってしまったのです。
「こんな時間にこんなところ歩いてたら危ないよぉ?おじょーちゃん。」
酔った殿方がそんな言葉とは裏腹に私の右手を掴んで離してくれないのに、私は困惑いたしました。確かに同じ年頃の人間は視界にはおらず、私が場違いなのは承知できたのですが帰ろうにもその方が何故か手を離さないのです。困惑して離していただけませんかと丁寧にお願いしても全く受け入れていただけない上に、何処かに行こうと勝手にお話を進めるのです。
「申し訳ありません、離していただけませんか?」
「わぁマジでおジョー様だね?離していただけませんかだってー!」
そんなことを仰って何故か行こうと腕を引くのです。周囲に助けを求めようにも、どなたも視線を逸らしてしまわれて遠巻きにするだけ。私はとても困りきっておりましたが、腕を掴んだままの殿方はまるで気にされた風でもないのです。そんな時でした。唐突に私の横から大きな手が延びてきて、その方との間に割り込み
「すいません、うちの生徒なんで離してくれませんか?」
「ふぇ?!で、でけえな、あんた!」
一瞬で私の目の前はジャージの大きな背中一色に変わっておりました。私では顔をかなり上げないと、それがどなたなのか全く見分けられないほどです。
「あのさぁ?ここに来てんだから、遊びに来たわけでしょ?あんたに俺と彼女がなにしようと関係ないし?」
「申し訳ありませんが、子供なんで。」
「しつこいなぁ!あんた、離せよ。」
その時初めて私の腕を握る相手の腕を、目の前の大きな背中が掴んでいるのに気がつきました。しかも突然相手の方が私の手を離したのは、その大きな手がギュッと力を込めたからなのも見ていればよく分かることです。酔っていた殿方は顔をしかめて顔をあげるとあからさまな舌打ちをしてもういいと立ち去って、目の前の大きな背中は呆れたように振り返りました。
「何やってんだ、花泉。こんな時間に。」
「……土志田先生?」
予期せぬ相手の顔に私は唖然としながら、見上げてしまいました。私を助けてくれたのは生徒指導の土志田先生で、しかもこんなに間近に先生の顔をみたのは初めてのことだったのです。いつも全校での集会や他と生徒に囲まれている姿を遠目にみるくらいで、こんな傍でしかも私の名前を覚えていらっしゃるとは思ってもみませんでした。そう感じた瞬間、私は自分の鼓動が激しく脈打ったのに気がついてしまったのです。
それが恋だと気がつくまでは、それほど時間は必要でもなくて。私は同級生から好きな方へどのようなアピールをするべきなのか伺って、様々挑戦いたしました。それでも流石に教師の立場もあるせいか、全く土志田先生は菓子も弁当も受け取ってはいただせません。それに好きだと伝えても、感謝は口にされても受け入れていただけないのです。
「人との関係は物じゃないんだから、他人に聞いた方法でどうにかしようなんて間違ってるよ。花泉。」
私とは違い土志田先生の方から笑顔を向けられて名前で呼んでいただけている須藤香苗先輩は、同じことを求めていた私にそんなことを仰ったのです。でも、私はそのための方法をしりたいのに
「どういう意味です?」
「本当に仲良くなりたい人には、人から聞いた方法なんか何も役に立たないよ?自分が必死で考えて、選んで行動しなきゃ届かない。」
その言葉に私は呆然としてしまいました。私は昔から母に何か学びたい時には人に教えを請いなさいと教えられて、過ちを犯す前に正式な手順と作法を身につける事を教えられました。母は祖母からそう育てられ、姉も私も同じように育てられたのです。自分で考えて、自分で選んで行動する、それは一体どんなことなんでしょう。そう考えていると志賀先輩と須藤先輩の背後から、小柄な宮井先輩が微笑みかけて私に綺麗な薄紅色の洋菓子を手をとって懐紙と一緒に手渡してくれたのです。
「甘いもの食べると少し元気になるよ、どーぞ。」
「あ、ありがとうございます………先輩。」
頂いたマカロンは甘酸っぱい苺の味がして、とても美味しかった。でも何故か私には、先輩達との差を見せられたような気がしてしまったのです。たった一年歳が違うだけなのに先輩方はとても大人びていて、私はとても幼く拙い。
それを一体どうしたらいいのでしょう。
※※※
三年一組・若瀬透。
同級生は皆ライバルと母が着けた大学生の家庭教師は言っていた。ところが今ではその家庭教師は、お飾り同然で来ても殆ど仕事をしていない。母が居ないときなんかは、サッサと帰る始末なのだが透は別段気にもしていない。もしバレて辞めることになったら自業自得だと思うし、個人的には学力では家庭教師は物足りないのだ。塾に新しく通うのも既に馬鹿馬鹿しいのは、クラスメイトの二人が塾もなし家庭教師もなしで余裕で目の前の家庭教師より高い学力を得ているから。
勉強はやり方次第だろ?得意な面を伸ばして、枝葉を伸ばす。
そう薄いブルーライトカットの眼鏡越しの瞳を意地悪く微笑ませて、これを家庭教師に質問してみろと海外大学入試レベルの問題を差し出す香坂智美。勿論目の前の家庭教師はそれを手渡したが解くことが出来ず、結果体調がとかなんとか関係ない言葉で濁した訳で。
面白いと感じるところからやっていけば、いいんじゃないかな。
そんな風に暢気にいいながら世にも珍しいことだが、記憶喪失のせいで何でも面白いという澤江仁。記憶喪失のせいなのかポカッと記憶領域が空いていて、そこに何でもかんでも知識をいれているのかと思うほどの勢い。つまりは何でも本人の感覚次第で、この二人に挟まれ勉強なんかしてたら、塾にいくのも面倒になって塾は辞めて家庭教師だけにしたのは半年前の話だ。
勿論その時には過保護な母は金切り声で抵抗したんだけれど、
「塾の勉強が遅すぎて退屈だから、家庭教師でどんどん進みたいんだ。」
そう言ったら母は上手く絆されたし、図書館で勉強していますと連絡すれば文句も言わない。しかもここのところの校内テストや模試ではどんどん学力が上がっているから、文句のつけようもない筈だ。そんなわけで、透は今になって日々楽しく同級生二人と遊ぶことを覚えた。
「ラーメン屋の十玉、いつ行く?」
「最近行ったばかりだし、沖縄ソバも食べたばかりだしなぁ……。」
そんなことを言う智美に透は苦笑いしてしまう。これは麺類ばかりじゃ飽きると言いたいだけで、食べられないといっている訳じゃないのはよく分かっている。今日は仁が部活だから二人だけだが、三人揃えばなんでかチャレンジメニュー巡りなのだ。チャレンジメニューが普通だとは思わないが、こうやって笑いながら日々を暮らせるなんて去年の今頃には考えもしなかった。
「透ちゃん?!」
その金切り声に透は正直ウンザリしながら振り返ると、不貞腐れた顔をした妹を後ろにつれた母の姿がそこに有る。不貞腐れてるところをみると学校に呼び出されでもしたんだろうけど、そっぽを向いたままの妹を気にするでもなく母は不躾な視線で智美の事を眺めた。
「透ちゃん、この子は?」
「クラスメイトの香坂智美といいます。」
智美は完璧な笑顔で母に頭を下げたが、母は杖を片手にしている智美の事を胡散臭そうな視線で眺め回している。恐らく障害があるなら学力もなんて考えているに違いないが、それを訂正するのも面倒臭い。
「香坂さんってお宅は耳にしたことがないわね?ここら辺の方ではないの?」
そうきたか。思わず顔にウンザリが出たんだろう、智美の視線がチラッとこっちをみたのが分かる。言うまでもなく完璧な挨拶をした智美は躾が良さそうだから、一先ず学力ではなく家系が気になったんだ。何しろ母は地元の一代成金らしく、古くからここら辺に住んでいるような家系に弱い。
真見塚とか志賀とかと気安く話していると聞けば、きっと喜ぶのは分かっているくらいだ。その母の中にある名簿には確かに香坂という名前はない筈だ。
「そうですね、昨年越してきたので。」
「ご両親のお仕事は?」
「母さん!やめてくれよ!」
なんでこんな町中で、他人の家の家族構成を調べるんだと呆れてしまう。しかもそれを聞いて何か母に得する事があるわけでもないし、香坂は学校でも殆ど家族の事を口にしたことがない。
「いいじゃない、お友達なんでしょ?透ちゃんの。」
友達なら何を聞いてもいい訳じゃない。苛立つがこれを制止すると余計にヒートアップしてしまうのもわかっていて、智美の顔を心配を込めて見つめる。智美は自分の親の話を避けている風なのは、ここまでの付き合いでよく分かっているからだ。
「両親は仕事で海外に赴任していますから、今はこの足を心配した親戚の家にいるんです。」
スラスラと賑やかな微笑みで口にした智美の答えに、海外赴任という言葉でマトモなしかも高学歴の家庭を想定した母が笑顔を浮かべた。母は妹を引き連れて満足げに立ち去ったが、透はその顔に見覚えがあって黙りこんだ。やがて声が届かなくなるほど遠ざかった母の背中を眺めてから、透は悪かったと呟く。
「悪い……いやな話させたろ?」
「別に。こっちこそ謝んないとな、殆ど嘘なんだ。」
やっぱりと透が呟くと、智美は少し驚いた様子で透を眺めた。
「なんで?」
「智美は作り笑いして嘘つく癖がある。」
香坂智美は基本的に嘘をつく人間ではないが、何か隠し事をする時ほど完璧な内面を隠す顔をする。一見完璧過ぎて見抜けない程の顔だけど、普段の付き合いが長くなればなるほど分かるようになった。
「僕の両親は死んでる。今いるのは曾祖父の家だが当に死んだし、身内の人間は居ない。でもそう答えたらきっと嫌な顔されるんだろ?透が。」
「うん、…………ありがとう。」
智美が気を使ってくれたのは母ではなく自分自身で、同時に本当の事を教えてくれたのは彼が自分を友達だと思ってくれるからだ。そんな風に付き合える友人なんて今までは一人もいなかった透には、正直智美は格好いいと思う。足に大きな傷があっても全くそれをハンデともしないし、自分を蔑む視線にも負けない。自分には出来ないことを平然としていく香坂智美に、自分が勝てないことは明らかだ。
「それにしても……透ちゃんかぁ。」
ハッと我に返ると智美がニヤニヤと笑っているのに気がつく。しまった、母が自分を呼んだ言葉に、智美が反応している。このままでは学校でも何かしら、智美が悪巧みしそうな気がしてしかたがない。何せ智美は案外悪戯好きなのだ。なんで知ってるかって?そりゃ去年の智美が虐められたあと、自分の糊付けされた教科書をワザワザ三冊揃えて黒木佑のロッカーに置きにいったのを知っているからだ。そう実は三度やられていて、まだ犯人もはっきりしない時点で黒木の仕業だと知っていてロッカーに入れに行った。その他の教科書もキチンとやる度にロッカーだけでなく机の中とかにまで置きに行くし、しかもあの足でバレないものだから黒木が時々気味が悪そうに智美を見ていたのを透は知っている。
お前、お庭番とかついてると思われてるぞ?あれ。
と透が言ったら、実はそうなんだと智美は楽しげにニヤニヤしていたくらいだ。ロッカーは簡単でも、確かに机の中とかバックの中とかに自分が糊付けした教科書が入るのは地味に怖い。智美に聞くと丁度タイミングと言うが恐らくは隙をついて人の視覚を狙っているのだろうけど、それが恐ろしく緻密なので黒木にも気がつかないのだ。香坂智美は抜群の知識と判断力をそんな悪戯でも存分に発揮するのを楽しむ人間なのだから、透の呼び方だってネタにされかねない。
「こ、子供の時からああ呼んでるから、抜けないんだよ!それだけで普段は呼んでないぞ?!」
「へぇー?」
ニヤニヤしている智美を買収する方法はただ一つ。餌でつるしかない、そう透は決心していた。
去年僕が高文祭という年上の年代の広域文化祭みたいなものを見に行ったのは、自分の父がそこに呼ばれていると聞いたからだった。開会式の後の特別講演でこれからの学生における文化的活動なんて、正直訳のわからない演題の講演をするというのだ。勿論息子と言っても僕は父・成田哲の正妻の子供ではなく、名字も違うっていうのは見ただけで分かること。小学生の頃はよく母に問いかけたが、母は包み隠さず自分は成田の妾で正式な奥さんは別にいるし僕には年の離れた兄までいると話してくれた。正直なところ僕はあの父が好きではない。来る度母を奴隷のようにかしずかせて、やりたい放題する成田哲をどうしても父として尊敬することができなかったんだ。でも僕はあの男の息子で、母はお妾さんなのは変えようのないことだった。僕が講演を聞きに行ったのも、父のご機嫌を取るためで自分が聞きたかったからじゃない。ご機嫌をとっておかないと家にきた時、母や僕が面倒なことに巻き込まれる、だから可能な限りご機嫌をとるのが僕と母の日常なだけなんだ。そんな中で僕は偶々、あの絵を見ることになった。
『夕景』
そう題名をつけられた何処かの校庭らしい風景画。
別段珍しい題名じゃないし、画題も珍しい訳じゃない。それなのにその夕景の校庭は広くて凄く穏やかな日常に見えて、僕はそんな世界に暮らせるのが心の底から羨ましいと思った。綺麗で穏やかで、それなのに沢山の人が見えるような不思議な印象。人は描きこまれていないのに、話し声とか校庭で過ごす気配がする。僕はあっという間にその絵に惹き込まれて僕もこんな絵を描いてみたいと思ったから、都立第三高校を受験することにしたんだ。
そうして僕はこの学校に来て、須藤先輩に出会った。
背が高くてスレンダーで、格好いい。僕の母はどちらかというと小柄で気弱そうだから、母とは全く違うタイプの先輩は風景画を描いてみたいといった僕に私も風景画を描くのが好きなんだと笑いかけてくれた。三年の須藤先輩は他の先輩達とも凄く仲が良くて、普段は宮井先輩や香坂先輩と一緒にイーゼルをたてている。でも美術部の部長だから、部員の様子もよく見ているんだ。だから僕が同級生に妾の子供だとか、母がふしだらと揶揄されていたのを聞き付けて一喝してくれた。
「くだらない噂話が好きみたいだけど、そう言うのが楽しいと思ってるなら大間違いなんだからね。いつか大人になって痛い目にあうんだから、今から少しは考えて話なさいよ。」
僕の親の事を揶揄する同級生二人に一喝してくれた須藤先輩は、強くて凛々しくて凄く格好良かった。ただいつも穏和で微笑んでる宮井先輩が僕の頭を撫で須藤先輩に落ち着きなよと口を挟んでくれなかったら、須藤先輩の怒りはちょっとやそっとじゃ解けなかったような気がする。何であんなに須藤先輩が怒ったのかは、後から噂話だけど耳にはいったんだ。
須藤先輩は去年の今頃は不良だったって
その意味がよく分からないけど、須藤先輩は不良で結構問題を起こしてたんだって噂話では言う。そんな噂は僕の話とは違って本当に噂話だとおもうんだけど、それだからって今の須藤先輩が綺麗で格好いいのは変わらない。しかも、先輩達は大人だから僕の境遇を聞いても、逆に家の母の方が苦労していることを労ってくれる位なんだ。
三年生って大人なんだな……
僕はそんな風にいたく感動すらした。実は僕の母は僕が高校に入学する直前に妾さんを辞めたんだ。気弱だと思っていたんだけど、本当は僕の母は気弱どころかとんでもなく策士だった。僕が生活するのに困らないように色々手を尽くして、時期を見計らっていたんだ。なんの時期かって?父との縁を完全に切るのに最適な時期だよ。それでも僕の父が成田哲なのは変わらないけど、僕はあんな人間にはなりたいとは思わない。
「如月?」
駅前を歩いていた僕に遠目に声をかけたのは、香坂先輩で隣には宮井先輩と志賀先輩、そして須藤先輩がいる。香坂先輩は一年の女子に既にファンクラブみたいなのが出来たと友人が話していたし、須藤先輩達三人は校内だけじゃなく有名な三人組なのだとここ二ヶ月くらいで知った。学校外でその四人揃っているのはかなりの圧巻で思わず緊張してしまう僕に、宮井先輩がお茶しにいくんだよと笑いかけてくれる。しかも一緒においでと誘われてついていったら、ファーストフードなんかじゃなく確りした喫茶店に四人は入るのだ。
流石…高校生って……違うんだな。
そんなことに妙に感心してしまうけど、先輩達は常連みたいにカウンターの奥の身なりのいい男性にこんにちわと声をかけている。シックで蓄音機があるような、喫茶店はあまり今まで利用することのない世界。カウンターの他のお客さんも、そこらのファーストフードで騒いでる高校生なんかじゃなくて大人ばかり。
「あ、こんにちわぁ、了さん。」
「よぉ、ハムちゃん。学校帰り?」
「あー。ハムちゃん、新作出来たんだけどさぁ?」
「鈴徳さん、こんにちわ、採算とれてますか?」
驚いたことに宮井先輩は物怖じせずに、そのカウンターの年上の男性客にも声をかけているし、なんでか奥から調理担当の人まで顔を見せてる。宮井先輩は天然の人たらし姫って皆の噂だったけど、きっとこの交遊関係の広さの事を指してるんだろう。他の先輩達もそれが普通なのか全然気にもとめてない様子で、僕は少し驚きながらその人を思わず見つめてしまった。三十歳にはなっていなさそうだけど、なんと言うか綺麗な眼をした人だなんて思ってたら、バッチリ眼があってしまって柔らかな笑顔で微笑まれてしまう。僕は慌てて頭を下げると先輩達の後に追い付いて、先輩達に自分で自分の騒動を終息したのを何故か褒められることになってしまったのだった。
本当は僕は近郊の私立高校に入るように、父から言われていたんだ。そこなら父の意向に添ってたんだと思うし、実際は合格もしてた。だけど、僕は産まれて初めて父のご機嫌をとることより、自分の希望を通したんだ。勿論母には事前に相談してたけど、母は迷わず自分の好きな方を通しなさいって言ってくれたし。しかも僕の腹違いの兄が突然成田の家から居なくなって、どうやら僕を引き取ろうと父はしていたって後から聞かされた。母はだから決意して自分がどんなに酷い目にあってきたか社会的に訴えることにしたし、後から少し自分の仕返しもあったのと僕に謝ってくれたんだ。だから、僕はこのまま自分の好きな事を目指して、ここで過ごそうって思ってる。だってホントに凄くここにいるのは楽しいし、…………僕は須藤先輩の事が好きになってしまったから。
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二年一組・花泉英華。
料亭花泉と言えば近郊では、比較する店舗のない古くからの老舗料亭。竹林の傍に日本庭園を設え、政治家や大企業の理事の会合が日々行われる場に使われるのが当然。祖父は料理人は花板と呼ばれる板場の料理長で、父は脇板という副料理長。方や祖母は大女将で母は若女将。私が後を継ぐのかですか?私には兄も姉もおりますから、私が継ぐことは恐らくないと思います。私に求められているのは、大人しく花泉の名前に泥を塗らない人間であることだけです。それに不満があるわけではありませんし、過不足なく必要なものは与えて育てていただいておりますから文句を言う筋合いではありません。それでもあの時何故かそれが、私には詰まらないことのような気がしたのです。このまま決められたレールの上で、決められた事だけをして決められた結末を迎える。高校一年の時に調理部に入った時、母からは私が調理を学ぶのは問題ないと言われました。
私の姉にはやがて女将になるのだから、調理より接客を学ぶよう助言をしておりましたのに
つまりは私は花泉の今後には不要な人間なのです。暗にそういわれましたのに、私は常々のように疑問を感じておりました。不要な人間なら何故私は自由にしてはならないのかと、思うのは当然だとは思いませんか?名前を汚さないよう学力を維持して、流石に花泉の娘と言われる姿を保つ事だけを求められるのです。男子が厨房を仕切る家庭のため、私は何一つ調理に関して身に付けておりません。それが普通だと思っておりましたし、母も姉も同じですから、今までは気にもとめておりませんでした。でもここに来てふと考えてしまったのは、私は後も継がずこの家から他家へ嫁いだら大丈夫なのだろうかと言うことです。だからこそ調理部に入ってみたのですが、結局誰かのために作っているわけでもなく、自宅へ持ち帰っても誰も食べてくれるわけでもありません。勿論自分でも頂きませんから、結局無駄なのです。
無駄に食材を使うだけですのね
そう実感してしまったので、二年になったら転部を検討しておりました。茶道か華道と思っておりましたが、そんな矢先にあの出来事が起こってしまったのです。あれは別に意図が有る訳ではなく、偶々そこを通ってみたくなっただけでした。真っ直ぐ帰れば良かったのでしょうけど、賑やかで活気の有る気配を少しみてみたくなってしまったのです。
「こんな時間にこんなところ歩いてたら危ないよぉ?おじょーちゃん。」
酔った殿方がそんな言葉とは裏腹に私の右手を掴んで離してくれないのに、私は困惑いたしました。確かに同じ年頃の人間は視界にはおらず、私が場違いなのは承知できたのですが帰ろうにもその方が何故か手を離さないのです。困惑して離していただけませんかと丁寧にお願いしても全く受け入れていただけない上に、何処かに行こうと勝手にお話を進めるのです。
「申し訳ありません、離していただけませんか?」
「わぁマジでおジョー様だね?離していただけませんかだってー!」
そんなことを仰って何故か行こうと腕を引くのです。周囲に助けを求めようにも、どなたも視線を逸らしてしまわれて遠巻きにするだけ。私はとても困りきっておりましたが、腕を掴んだままの殿方はまるで気にされた風でもないのです。そんな時でした。唐突に私の横から大きな手が延びてきて、その方との間に割り込み
「すいません、うちの生徒なんで離してくれませんか?」
「ふぇ?!で、でけえな、あんた!」
一瞬で私の目の前はジャージの大きな背中一色に変わっておりました。私では顔をかなり上げないと、それがどなたなのか全く見分けられないほどです。
「あのさぁ?ここに来てんだから、遊びに来たわけでしょ?あんたに俺と彼女がなにしようと関係ないし?」
「申し訳ありませんが、子供なんで。」
「しつこいなぁ!あんた、離せよ。」
その時初めて私の腕を握る相手の腕を、目の前の大きな背中が掴んでいるのに気がつきました。しかも突然相手の方が私の手を離したのは、その大きな手がギュッと力を込めたからなのも見ていればよく分かることです。酔っていた殿方は顔をしかめて顔をあげるとあからさまな舌打ちをしてもういいと立ち去って、目の前の大きな背中は呆れたように振り返りました。
「何やってんだ、花泉。こんな時間に。」
「……土志田先生?」
予期せぬ相手の顔に私は唖然としながら、見上げてしまいました。私を助けてくれたのは生徒指導の土志田先生で、しかもこんなに間近に先生の顔をみたのは初めてのことだったのです。いつも全校での集会や他と生徒に囲まれている姿を遠目にみるくらいで、こんな傍でしかも私の名前を覚えていらっしゃるとは思ってもみませんでした。そう感じた瞬間、私は自分の鼓動が激しく脈打ったのに気がついてしまったのです。
それが恋だと気がつくまでは、それほど時間は必要でもなくて。私は同級生から好きな方へどのようなアピールをするべきなのか伺って、様々挑戦いたしました。それでも流石に教師の立場もあるせいか、全く土志田先生は菓子も弁当も受け取ってはいただせません。それに好きだと伝えても、感謝は口にされても受け入れていただけないのです。
「人との関係は物じゃないんだから、他人に聞いた方法でどうにかしようなんて間違ってるよ。花泉。」
私とは違い土志田先生の方から笑顔を向けられて名前で呼んでいただけている須藤香苗先輩は、同じことを求めていた私にそんなことを仰ったのです。でも、私はそのための方法をしりたいのに
「どういう意味です?」
「本当に仲良くなりたい人には、人から聞いた方法なんか何も役に立たないよ?自分が必死で考えて、選んで行動しなきゃ届かない。」
その言葉に私は呆然としてしまいました。私は昔から母に何か学びたい時には人に教えを請いなさいと教えられて、過ちを犯す前に正式な手順と作法を身につける事を教えられました。母は祖母からそう育てられ、姉も私も同じように育てられたのです。自分で考えて、自分で選んで行動する、それは一体どんなことなんでしょう。そう考えていると志賀先輩と須藤先輩の背後から、小柄な宮井先輩が微笑みかけて私に綺麗な薄紅色の洋菓子を手をとって懐紙と一緒に手渡してくれたのです。
「甘いもの食べると少し元気になるよ、どーぞ。」
「あ、ありがとうございます………先輩。」
頂いたマカロンは甘酸っぱい苺の味がして、とても美味しかった。でも何故か私には、先輩達との差を見せられたような気がしてしまったのです。たった一年歳が違うだけなのに先輩方はとても大人びていて、私はとても幼く拙い。
それを一体どうしたらいいのでしょう。
※※※
三年一組・若瀬透。
同級生は皆ライバルと母が着けた大学生の家庭教師は言っていた。ところが今ではその家庭教師は、お飾り同然で来ても殆ど仕事をしていない。母が居ないときなんかは、サッサと帰る始末なのだが透は別段気にもしていない。もしバレて辞めることになったら自業自得だと思うし、個人的には学力では家庭教師は物足りないのだ。塾に新しく通うのも既に馬鹿馬鹿しいのは、クラスメイトの二人が塾もなし家庭教師もなしで余裕で目の前の家庭教師より高い学力を得ているから。
勉強はやり方次第だろ?得意な面を伸ばして、枝葉を伸ばす。
そう薄いブルーライトカットの眼鏡越しの瞳を意地悪く微笑ませて、これを家庭教師に質問してみろと海外大学入試レベルの問題を差し出す香坂智美。勿論目の前の家庭教師はそれを手渡したが解くことが出来ず、結果体調がとかなんとか関係ない言葉で濁した訳で。
面白いと感じるところからやっていけば、いいんじゃないかな。
そんな風に暢気にいいながら世にも珍しいことだが、記憶喪失のせいで何でも面白いという澤江仁。記憶喪失のせいなのかポカッと記憶領域が空いていて、そこに何でもかんでも知識をいれているのかと思うほどの勢い。つまりは何でも本人の感覚次第で、この二人に挟まれ勉強なんかしてたら、塾にいくのも面倒になって塾は辞めて家庭教師だけにしたのは半年前の話だ。
勿論その時には過保護な母は金切り声で抵抗したんだけれど、
「塾の勉強が遅すぎて退屈だから、家庭教師でどんどん進みたいんだ。」
そう言ったら母は上手く絆されたし、図書館で勉強していますと連絡すれば文句も言わない。しかもここのところの校内テストや模試ではどんどん学力が上がっているから、文句のつけようもない筈だ。そんなわけで、透は今になって日々楽しく同級生二人と遊ぶことを覚えた。
「ラーメン屋の十玉、いつ行く?」
「最近行ったばかりだし、沖縄ソバも食べたばかりだしなぁ……。」
そんなことを言う智美に透は苦笑いしてしまう。これは麺類ばかりじゃ飽きると言いたいだけで、食べられないといっている訳じゃないのはよく分かっている。今日は仁が部活だから二人だけだが、三人揃えばなんでかチャレンジメニュー巡りなのだ。チャレンジメニューが普通だとは思わないが、こうやって笑いながら日々を暮らせるなんて去年の今頃には考えもしなかった。
「透ちゃん?!」
その金切り声に透は正直ウンザリしながら振り返ると、不貞腐れた顔をした妹を後ろにつれた母の姿がそこに有る。不貞腐れてるところをみると学校に呼び出されでもしたんだろうけど、そっぽを向いたままの妹を気にするでもなく母は不躾な視線で智美の事を眺めた。
「透ちゃん、この子は?」
「クラスメイトの香坂智美といいます。」
智美は完璧な笑顔で母に頭を下げたが、母は杖を片手にしている智美の事を胡散臭そうな視線で眺め回している。恐らく障害があるなら学力もなんて考えているに違いないが、それを訂正するのも面倒臭い。
「香坂さんってお宅は耳にしたことがないわね?ここら辺の方ではないの?」
そうきたか。思わず顔にウンザリが出たんだろう、智美の視線がチラッとこっちをみたのが分かる。言うまでもなく完璧な挨拶をした智美は躾が良さそうだから、一先ず学力ではなく家系が気になったんだ。何しろ母は地元の一代成金らしく、古くからここら辺に住んでいるような家系に弱い。
真見塚とか志賀とかと気安く話していると聞けば、きっと喜ぶのは分かっているくらいだ。その母の中にある名簿には確かに香坂という名前はない筈だ。
「そうですね、昨年越してきたので。」
「ご両親のお仕事は?」
「母さん!やめてくれよ!」
なんでこんな町中で、他人の家の家族構成を調べるんだと呆れてしまう。しかもそれを聞いて何か母に得する事があるわけでもないし、香坂は学校でも殆ど家族の事を口にしたことがない。
「いいじゃない、お友達なんでしょ?透ちゃんの。」
友達なら何を聞いてもいい訳じゃない。苛立つがこれを制止すると余計にヒートアップしてしまうのもわかっていて、智美の顔を心配を込めて見つめる。智美は自分の親の話を避けている風なのは、ここまでの付き合いでよく分かっているからだ。
「両親は仕事で海外に赴任していますから、今はこの足を心配した親戚の家にいるんです。」
スラスラと賑やかな微笑みで口にした智美の答えに、海外赴任という言葉でマトモなしかも高学歴の家庭を想定した母が笑顔を浮かべた。母は妹を引き連れて満足げに立ち去ったが、透はその顔に見覚えがあって黙りこんだ。やがて声が届かなくなるほど遠ざかった母の背中を眺めてから、透は悪かったと呟く。
「悪い……いやな話させたろ?」
「別に。こっちこそ謝んないとな、殆ど嘘なんだ。」
やっぱりと透が呟くと、智美は少し驚いた様子で透を眺めた。
「なんで?」
「智美は作り笑いして嘘つく癖がある。」
香坂智美は基本的に嘘をつく人間ではないが、何か隠し事をする時ほど完璧な内面を隠す顔をする。一見完璧過ぎて見抜けない程の顔だけど、普段の付き合いが長くなればなるほど分かるようになった。
「僕の両親は死んでる。今いるのは曾祖父の家だが当に死んだし、身内の人間は居ない。でもそう答えたらきっと嫌な顔されるんだろ?透が。」
「うん、…………ありがとう。」
智美が気を使ってくれたのは母ではなく自分自身で、同時に本当の事を教えてくれたのは彼が自分を友達だと思ってくれるからだ。そんな風に付き合える友人なんて今までは一人もいなかった透には、正直智美は格好いいと思う。足に大きな傷があっても全くそれをハンデともしないし、自分を蔑む視線にも負けない。自分には出来ないことを平然としていく香坂智美に、自分が勝てないことは明らかだ。
「それにしても……透ちゃんかぁ。」
ハッと我に返ると智美がニヤニヤと笑っているのに気がつく。しまった、母が自分を呼んだ言葉に、智美が反応している。このままでは学校でも何かしら、智美が悪巧みしそうな気がしてしかたがない。何せ智美は案外悪戯好きなのだ。なんで知ってるかって?そりゃ去年の智美が虐められたあと、自分の糊付けされた教科書をワザワザ三冊揃えて黒木佑のロッカーに置きにいったのを知っているからだ。そう実は三度やられていて、まだ犯人もはっきりしない時点で黒木の仕業だと知っていてロッカーに入れに行った。その他の教科書もキチンとやる度にロッカーだけでなく机の中とかにまで置きに行くし、しかもあの足でバレないものだから黒木が時々気味が悪そうに智美を見ていたのを透は知っている。
お前、お庭番とかついてると思われてるぞ?あれ。
と透が言ったら、実はそうなんだと智美は楽しげにニヤニヤしていたくらいだ。ロッカーは簡単でも、確かに机の中とかバックの中とかに自分が糊付けした教科書が入るのは地味に怖い。智美に聞くと丁度タイミングと言うが恐らくは隙をついて人の視覚を狙っているのだろうけど、それが恐ろしく緻密なので黒木にも気がつかないのだ。香坂智美は抜群の知識と判断力をそんな悪戯でも存分に発揮するのを楽しむ人間なのだから、透の呼び方だってネタにされかねない。
「こ、子供の時からああ呼んでるから、抜けないんだよ!それだけで普段は呼んでないぞ?!」
「へぇー?」
ニヤニヤしている智美を買収する方法はただ一つ。餌でつるしかない、そう透は決心していた。
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