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二度目の5月

閑話84.宇野智雪

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長い長い眠りの中で、沢山の夢を見ていた。
幼い子供の頃から、ずっと長く続く一繋ぎのような長い夢。それが夢だとわかるのは第三者のように佇み俯瞰で、自分自身を含めた辺りを眺めていたからだ。子供の頃から過ごしてきた時間の長さは二十九年なんて数字で考えるよりも、とても沢山の出来事を記憶の中に包み込んでいたのに自分でも驚いてしまう。
幼馴染みと駆け回ったり、悪戯を企んだり、笑ったり泣いたり怒ったり。勿論仲が良くても喧嘩をしたこともある。
人間っていうものの記憶はこうしてみると案外と何もかも鮮明なのに、思い出せるのはあやふやでボンヤリとしている。こういうのを全部鮮明に記憶するのが、父親や衛や、あのもう一人の香坂なんだろう。
それにしても自分の夢の中なのに、自分でもあれ?そうだったっけと思うことが幾つも出てくる。
自分の初恋は麻希子だと俺自身が記憶しているのに、幼稚園の時の女の子の隣の席がどうこうで悌順と風間祥太と喧嘩をしていた。それに幼稚園の女の先生と手を繋ぐのに、信哉と取っ組み合いの喧嘩になっていたり。まあ、まだ自分が幼稚園の時には麻希子は産まれていなかったし、幼稚園の時の上原杏奈という少女は当時クリクリとした瞳で真っ直ぐ見てくるところが麻希子によく似ている。そんな言い訳をしてみるが、まあたいしたことではない。
それにしてもずっとたいした喧嘩をしたことはないと思っていたのに、信哉と悌順と取っ組み合いで喧嘩をしていた自分。当時は信哉はまだ合気道を始めたばかりだし、悌順はまだ柔道を始めていない。

「何だよ!!この男女!」
「何だと!この外人!!」
「うるさい!ばーか!!」

思わず笑ってしまうような理由の喧嘩。それでも子供の頃は必死だったんだろうが、語彙の少なさには笑うしかない。自分のお菓子が少し少ないとか、そこに座るのは自分だとか、そんな他愛ない喧嘩。そんなの一回・二回のことじゃない、それからも何度も飽きずに喧嘩をしていた。そんなに喧嘩ばかりなのに、記憶の中では離れもせずに一緒に過ごして大人になっていく。

「俺、上原杏奈のこと好きだな。」
「悌順じゃ祥太に勝てないって。」
「うっせぇ!」

小学生での初恋の話に、三人で笑う。上原杏奈と言う少女には、風間祥太という幼馴染みのいつも一緒にいる奴がいた。そういえば最近風間には再会したけど、上原杏奈は今頃どうしてるだろうか。

「超可愛いんだって、おばちゃんちの子供。」
「赤ん坊だろー?」
「天使だよ、超可愛い。」

麻希子が産まれた途端、俺の一番は正直麻希子だった。産まれたばかりの天使が俺の手を握り、嬉しそうに微笑んでくる。弟や妹とか言うのとは全然違う、無邪気で清らかな天使。

「雪は麻希子にべったりねぇ。」
「だって、超可愛いよ?麻希子、可愛いね。」

小学校や中学校、途切れることのない記憶。まあこんなに記憶が残っていたんじゃ頭がパンクしてしまいそうなものだと、夢だというのに一人苦笑いしてしまう。麻希子が産まれた後に俺は呼ばれてもいないのに、何でか三人で遊びに行ってたなんて今では微塵も覚えてもいなかった。

何で、こんな夢みてんのかな……俺は。

何が起きてこんな長い長い夢を見ているのだろうか。もしかして、長いと感じているだけで、ほんの一瞬でこの長さの夢?それにしては髄分と夢だという自覚が強すぎるし、ここから先は夢でもみたい記憶じゃない。両親がいなくなる夢も、麻希子を散々泣かせる夢も、進藤隆平から真実を聞かされる夢も正直ごめん被りたい。

あなたは紅茶色の瞳、ハルとおんなじよ?Fée des neiges.

不意に聞こえた言葉に振り返ると、まだ幼い自分の顔を覗きこみ母が笑う。

ハルはね、私のヒーローだったのよ?Fée des neiges.

警察官だった父に助けられたのだという母に、香坂智春は自分の方が助けてもらっているのだと何時も笑っていたという。頭の中が痛い記憶で一杯になるのを、母だけが引き留めて暖かくて幸せな記憶に塗り替えてくれる。まるで真っ白な雪で覆い隠したみたいに、消えなくても忘れさせてくれたという。その下に汚いものがあるのは分かっていても、真っ白で綺麗な世界に一時変えてくれて生きていられるといった父の言葉の意味は確かに理解できる。

大事なFée des neiges.あなたはハルとコーチの子供よ。

浩一という発音が苦手で、そう宮井の父を呼ぶ母親の幸せそうな顔。まるで父の事を紅茶といっているみたいで可笑しくて俺はよく笑った。それが不思議だと母は首を傾げ、何がおかしいの?と父に問いかけている。

Fée des neiges.

後に少し成長して調べたら実は女の姿の妖精で母に抗議したが、母は暢気にお前は可愛い妖精だもの仕方ないでしょと笑うだけ。そんな風に何処か子供のような面をもつ母だったし、それを包み込むような父だった。それをまた失うのは、夢の中でも繰り返すのはごめんだ。

なんでこんな夢を見てるんだ?

霞んでいるような認識。もう自分は両親をなくして随分時がたっている筈だし、俺には息子の衛もいるし麻希子はもっと大人になっている筈だ。そう考えた瞬間、不意に声が聞こえる。

絶対。

そうだ、麻希子がそういうと大概絶対そうなるんだ。
あの時だって麻希子が絶対と泣いたから自分は出ていけなくなった上に、可愛い麻希子に抱きつかれたまま泣き出してしまった。両親が死んでから一度も泣かなかったのは、泣かないと誓ったからだったのに。両親を殺したやつに復讐するまで自分は泣かないと誓っていたのに、麻希子が暖かくて優しくて、それでも自分を絶対守るよっていうのに負けた。負けて麻希子から離れられなくて、進藤との約束をその時初めてで唯一破ったんだ。

絶対だよ?

幸せにしてあげるなんて十一歳も下の子供に言われて、脆くも陥落した自分。純粋で可愛い天使から、悪いことはしちゃいけません、私が幸せにするからねって言われて一撃で心臓を矢で撃ち抜かれたんだ。産まれた時から、この子は天使だと愛でていた俺に抵抗できるはずがない。

約束したよ?ね?絶対、だよ?

分かってる。だって麻希子は俺の事を幸せにしてくれるから、傍にいさせれくれるし、大事な事を沢山教えてくれるから。ちゃんと約束する、傍にずっといるって。静子さんとの約束は衛が穏やかに大人になって、ちゃんと幸せになるようにしてやることだ。でも衛の方が俺に言うくらい

雪、早くまーちゃんを奥さんにしてよ。

何だか最近、子供の癖に生意気になったんだよ、静子さん。衛の奴、運動会に父親だけじゃ嫌だからなんて言い出すんだよ。僕だってお母さんもお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも欲しいんだけど、なんて突然言い出したんだ。

雪。あんたもちゃんと幸せになってよ?全部、全部衛にあげなくていいから。

痩せて以前の姿ではなくなってしまったけど、静子さんは俺の母親に何処か似ていた。妖精を信じるような子供っぽい母と衛を必死で育ててた静子さんが似てる筈もないのに。

衛の子供だから……産みたかったのよ。

そうか、そういうところが似てたのかも。母もハルの子供だから産みたかったと言っていたから、同じように誰かの生きていた証を残したかったのかもしれない。

だけど、衛だって自分で幸せになる努力が必要だから。全部あんたがあげなくていいのよ?雪。

静子さんは凄く偉い人だ。初めて出会った時に驚かされた、自分の命がかかってても迷いもしない真っ直ぐな思い。そういうのを持てるって言うのは、実は凄く強いってことなんだと思うんだ。そんな人が自分の周りには何人もいる。香坂の父も宮井の父も、母も静子さんも、有希子叔母さんも、浩司叔父さんも、信哉も悌順も、勿論衛も麻希子も。

なんでこんな事を夢の中で考えているんだろう。

夢の出口が分からない。一体何処に辿り着いたら目が覚めるんだろう。そうボンヤリと考えながら、同時に冷えきった体に気がついてしまった。もしかして、これは走馬灯なんだろうか。そう考えた瞬間、自分が麻希子の体を抱き締めた時を思い出した。
振り上げられたナイフ
衛を必死に庇っている麻希子の小さい体
咄嗟に駆け出してその体を抱き寄せた瞬間、焼けつくような電気が体に走った気がする。直後に麻希子達を背後に押しやり、必死に手を翳した先で今度は氷が押し当てられたような感触と皮膚が裂ける感覚がした。狂人の瞳はもう永遠に会わない筈の進藤隆平の瞳に見えて、俺は愕然としながら必死に麻希子達を守る。

大事なのは復讐じゃない!麻希子と衛が大事だ!

進藤が自分に何故あの時親切なふりをしたのか。今ではそんなことはどうでもいいことに変わったけれど、進藤に麻希子達を傷つけさせるわけにはいかない。俺自身はともかく、二人だけは駄目だ。

違うよ、雪ちゃんも無事じゃなきゃ駄目なんだよ?

ナイフに切り裂かれて血が飛び散るなか、何故か麻希子の声だけがハッキリ聞こえる。

雪ちゃんは衛のお父さんでしょ?それに、私のことお嫁さんにしてくれるんだよね?

もう泣くだけじゃないよ、怒るんだからねと麻希子に言われていた。自分のこともちゃんと守らないと、俺の天使から怒られてしまうんだったと苦く思い出す。でも体の冷たさは芯まで凍りついてしまって、出口を探すのに足が動かない。しかも進藤のナイフがドンドン皮膚を切りつけて、血が流れていくのを止められないでいる。

雪ちゃん、月末は衛の運動会なんだよ?

ああ、そうだった。だから衛に早く麻希子を嫁にもらってくれないとなんて言われてて、衛はお弁当を作ってきてくれる麻希子のことをお母さんだって皆に自慢したいんだ。まだ高校生だから無理って言ってあるけど、なんでかそこは理解したくないらしい。麻希子の柔らかい声がとても鮮明に話しかけてくる。

雪ちゃんと一緒にね、角館の桜を見に行きたいな。来年とかその先とか、衛も一緒に温泉に行こうね。凄く沢山桜並木なんだって。

今年は二人で山桜を見に行ったんだった。衛には悪かったけど、二人っきりで旅行なんて初めてで舞い上がってたんだ。それに何よりもその前の週に、麻希子を自分のものにしてしまって。叔母さんには何時か土下座で謝らないとならないだろうけど、本当に幸せすぎて信じられなかった。

雪ちゃんは園芸が好きでしょ?いつか私は喫茶店をやりたいんだ。そのお店のお庭は雪ちゃんが作るんだよ?約束ね?

いいの?本当に?これって夢だからきっと自分が都合よく考えているんじゃないだろうか。でも本当にそうできたら、俺は世界で一番幸せな男だろう。そんな風に考えた俺の目の前で、ナイフを翳していた筈の進藤の姿が霞んでいく。

お庭には苣木を植えておこうね?

暖かい声がほんのりと指先に暖かみを落とす。麻希子の声はよく通ってて音楽みたいに俺の夢の中に流れ込んできて、進藤の影を次第に追いやっていくみたいだ。夢かもしれないけど、本当に麻希子が喫茶店を始めて、父のようにその庭を自分で作る。そこにあの苣木の枝を貰って、接ぎ木して育てよう。花が咲くようになったら、久保田さんを呼んで見せないとならないし。そうだ、外崎さんにも

お前はもう少し幸せにならないとな…

外崎さんにもお礼をしなきゃ、あの時気がついて声をあげてくれなかったら、俺も間に合わなかった。それにお礼をしないとあの人、とんでもないこと言い出しそうだ。そうだ信哉も心配しているに違いない。信哉はああ見えて実は気が弱いとこがあるから、早く目を覚まさないと泣くかもしれない。とりとめのない思考が沸き上がり、指先だけだった暖かさがジワリと体に広がる。

どうしてだ?

その声が低く響いたのは、手足に暖かさを確かに感じ始めた時だった。地の底からのように低く冷たい温度のない声の主は、麻希子の声に随分追いやられて遥か遠い。ふとその時、あの時背後から歩み寄って来た進藤の手には、恐らく今見ているのと同じようにナイフがあったのではないかと考える。殺す気だったのに何故か気が変わって、自分を近くに引きずり下ろそうとした。

どうして、来ない?

本当は俺に来てほしかったんだと、何故か確信めいた気分でその影を見つめる。正直なところ似ているとは絶対言いたくないが、自分の中には進藤隆平と似た一面が確かにあった。自分を大事に出来ない破滅しても構わないという刹那的な思考。そうしちゃダメと引き留める天使が自分の直ぐ傍にはいたが、進藤隆平にはそれが居なかった。

あんたのとこには、俺の大事な天使が居ない。俺の息子も居ない。

だからあんたのとこには行けないし、行かない。そう告げた俺の言葉に、進藤の形をした影は驚愕に顔を歪めながら後退る。大事なものがそっちには居ないんだから、行く必要がないし行く気がない。もう本気まじちゃんとわかっているから、これ以上迷うこともないのだ。

夢からもう覚めたい。麻希子に会いたい、衛に会いたい。

ハッキリとそう口にすると更に進藤の影は遠ざかる。次第に戻ってくる体温に、更に重なるように麻希子の柔らかな声が響くのに耳をすます。麻希子の声が聞こえる方に行けばいいんだと、理由もなくそう考えているけど絶対間違っていない。だって、麻希子だし

チューしたらって、………酸素マスクしてちゃできないよ?智雪。

そんな悪戯めいた言葉に、被さる少し疲れたような笑い声。いけない、麻希子が泣き出しそうな気がする。俺が寝すぎて起きないからきっと心配しているのだろうし、いやちょっと待て酸素マスクがなかったら、麻希子からキスして貰えた?そんなことに気がついて、思わず口から残念な気持ちを込めた吐息が吹き出す。

「…そ………か」

吐息と一緒に溢れてしまった声に、真ん丸なキラキラ光る宝石みたいな瞳が俺の事を見つめる。ああ、やっぱり麻希子は綺麗で可愛いな、目映い天使みたいだなと心の中で思う。指先から暖かく感じたのは当然だ、麻希子が俺の手を確りと握りしめていてくれている。小さくて細い指先なのにとても暖かくて、俺は強ばった指先を曲げてその指を握り返す。幸せな気持ちで麻希子を見つめながら、同時に麻希子にキスして貰えなかったのが残念で仕方がない。

「と、もゆき?」

凄いな、麻希子が迷わず名前で読んでくれている。これってまだ夢だとかいうだろうか?でも、とても綺麗で暖かい。そう思った瞬間麻希子の宝石のような大きな瞳から、それこそ大粒の真珠のような涙が音をたてて溢れ落ち始めていた。
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