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4月

閑話75.須藤香苗

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それは忘れていた訳じゃないし、忘れるはずがない。日常の中ではそれに関して考えることはないけど、忘れられるはずもないことだ。

日々は案外何事もなかったように過ぎていくし、あの後自分の環境は大きく変わった。友人も増えたし親友も増えた、好きな人もいる。思っていたよりもずっと充実した高校生活に色々な事を知って、高校ならではの催しを皆で過ごす。去年は予想外の事件も幾つか、それに自分以外の関わる事件も幾つか。
そんなことを経験して成長していく日々。
麻希子は三月の事件の後少し何事にも慎重になったみたいで、話をすれば変わりなく見えるけど普段は少しおしとやかになった。少し大人びた笑いかたをするようになったし、前より行動の前に考え込むようになっている。従兄さんとの仲は順調そうだけど、麻希子が慎重になったら余計進まなそう。従兄さん、頑張れ。
早紀は真見塚と二人でデートする機会が少し増えて、以前より女の子らしい行動が増えた。真見塚は相変わらずに見えるけど、デートに誘っているのは真見塚のほうらしいから内心驚きだ。デートの場所が基本定番の映画館とか水族館なのは真見塚だもんなぁ。
智美はまあ、麻希子の過保護は仕方がないかなって思う。もう、告白は無理だとわかってるんだろうし、今では保護者の気分なんじゃないだろうか。五十嵐の押しの強さは確かに麻希子では、中々回避が難しそうだし。
智美はここのところグンッと背も高くなったし、若瀬とか仁とかとも出歩く機会が増えてるみたい。この間両親と行ったラーメン屋に、チャレンジメニュー成功者の写真があったのには正直呆れたけど。あいつら三人でここら辺近郊の大食いメニューを制覇してるって噂は、どうやら本気のことらしい。それにしたって皆も少しずつ変わって成長していくのに、私は何にも変わっていないのだ。
受験に向けてもう少し家庭教師は延長してもらえて家に通い続けられたけど、悌順は普段は完璧に教師なわけ。そうそう麻希子に教えてもらって作ったバレンタインのお返しは、勿論ちゃんと本人から貰えた。貰えたけど進展がある訳じゃないのは、悌順が教師だからだ。溜め息をつきたくなるけどこればかりはどうしようもないから、相変わらず眼下を早朝練習で走っている悌順を眺める。

名前でも早々呼んでもらえないしなぁ、こっちが悌順って呼ぶのもなぁ。

春先だと言うのに既に半袖で走っている悌順は、相変わらず一回り近く年下の生徒より体力に勝っている様子で柔道部の面々がダッシュに負けている。これで美術部の部長でなければ兼部でマネージャーという手もあったかもしれないが、それも今更というところだ。最近ではジャージでも格好いいなんて考え始めた辺り、自分でも呆れてしまう。そんなことを苦笑いしながら考えていたら、不意に眼下の悌順が視線を上げて目があってしまった。ニッと笑いかけられて思わず胸が高鳴ってしまう自分に、香苗はそういう不意打ちが狡いんだよと心の中で呟いた。



※※※



LINEでお呼びだしがあったよと麻希子に誘われて、早紀と三人で『茶樹』に足を向ける。相変わらずの穏やかな珈琲と紅茶の香り。妊婦さんにカフェインって駄目なんじゃと一瞬考えたが、村瀬に変わった真希先輩は心得たもので柑橘のデトックスウォーターを飲んでいた。最近妊婦さん用にメニュー入りしたが、他の店舗のデトックスウォーターに比べると破格に安いのは以前はバックヤード専用メニューだったからだそうだ。
朗らかに手をふってみせる真希先輩は、たった一ヶ月ちょっと会わないでいだけなのに、驚いた事にお腹が少し目立ち始めている。ウェディングドレスを着ていたのは二十日ほど前の筈なのに、こんなに変わるなんて。

「五ヶ月半になったんだよー。もうね、動くの。」

爽やかにそう言う真希先輩の顔はスッカリ悪阻も治まったらしく、穏やかな母親に変わっていて胸の奥がチクリと痛む。検診に行ってきたと笑っている先輩が、羨ましいと思ってしまうのは自分でも間違っていることはよく分かっている。

「もう性別分かってるんですか?真希先輩。」
「うーん、産婦人科の先生が教えてくれないタイプなんだよね。」

早紀の質問におおらかに答えた先輩の言葉に、自分が出来なかったことが胸に刺さる。

「エコーの写真見る?」

先輩が鞄から出した母子手帳の間から、白黒のエコー写真を見せてくれるのに思わず息が詰まる。香苗にはこんなエコーの写真を撮ることすら、できなかったと心の中で皮肉に囁く。白黒の写真の中には不鮮明だけど、赤ちゃんらしき顔が映っていて顔の前には小さな手が握られている。

「これって……先輩の赤ちゃんですか?!」
「すごーい!もうお顔だぁ!」

早紀と麻希子が目を丸くして覗き込んでいるのに、香苗は躊躇いがちに一緒になってその写真を見つめる。何も知らない無垢な存在が写真には体を丸めていて、鋭く胸が痛んでいた。

自分が悪いんだ……先輩は、ちゃんと選んでお母さんになろうとしてる。

不意に真希先輩が声を上げて手招きして、三人の手をとるとお腹に当てた。普通の腹部より少し硬く感じる真希先輩のお腹。何だろうと三人が戸惑っているのに反応したみたいに、それは手の下で証明して見せる。

ポコ

軽い振動がお腹の奥から響いてくる。ここにちゃんと居ると教えるような動きに、香苗は胸の痛みが更に鋭くなったのに気がついていた。

私には守れなかった……。

例え父親が誰か分からなかったとしても、自分のお腹にいたのは自分の赤ちゃんだった。産もうかと迷っていたけど、結局自分が間違った道を歩いていたから守りきれなかった命。今だから余計、自分の過ちはハッキリ分かっている。あんな下らない男に自由にされてしまって、自分の大事なものを幾つも失ってしまった。

「かなちゃん?どうしたの?」

先輩の声を聞いた瞬間、自分が泣き出していたのに気がついた。驚いている早紀と真希先輩の横で、香苗が何故泣いているのか知っている麻希子の視線が視界に入る。いけないと思うけど流れ出してしまった涙は止まらなくて、言い訳するしかできない。

「ご、ごめんなさい、なんか超感動しちゃった……、赤ちゃん元気だなぁって思ったら……。」

香苗が慌てて涙を拭いながらそう言うのに、早紀と真希先輩はそっかと安堵したように笑う。気がつくと麻希子までまたあの時公園で泣いた時みたいに泣き出していて、もらい泣き?と泣き笑いしてしまう。

「だって……香苗が泣くからぁ!」
「何で、もらい泣きすんのよー。」

二人で泣きながらそんなことを言い合う私達に、早紀ちゃんと真希先輩が笑い出す。その後真希先輩から新婚旅行のお土産を貰って、真希先輩が気が麻希子に話題を変えてくれたのは正直助かったと思う。
帰り道麻希子を家まで送るって建前で、その足で向かったのは土志田の家だった。既にクリニックは終わっている時間だったから、何時もの笑顔で宇佐川義人はドアを開いて迎え入れてくれる。

「どうしたの?元気ないね。」
「ちょっと落ち込んでて。親には連絡してあります。」

香苗の成績が鰻登りしたのと、土志田先生の従弟で若瀬クリニックの宇佐川さんと知ってからというもの両親は彼のことが大のお気に入りだ。クリニックでのテキパキとした処置と、親切な対応は近隣では有名な看護師なのだとは香苗は知らなかった。勘が鋭く優しく穏やかだが時には厳しいし、案外気さくに色々なことを話もする。そう言う意味でも義人は香苗にとって一番の相談相手だ。

「お茶でいい?夕飯の支度中だから、一緒に食べていくといいよ。」

基本的に土志田家は夕食時に人数が増える事を前提に料理をしている節があって、大概はそれがあたるから今日も槙山忠志が来るのかもしれない。落ち込んだと言っても理由を言いたくない香苗にも、賑やかな食卓は実は都合がいい。自分が選んで間違ってしまった事で先輩に妬んで、泣いて落ち込んだなんて馬鹿馬鹿しいことだと自分でも分かっている。分かっているから、何も問いたださないでくれる方がいい。
やがて当然のように一緒に忠志と帰宅した悌順は、ソファーの上で膝を抱えている香苗の姿に目を丸くした。

「どした?香苗、元気ねぇなあ?」
「ねぇ、忠志って美術部だったの?」
「あ?どっから聞いたんだよ。」

部活の最中麻希子に聞いた話を問いただすと、忠志は本当に美術部だったらしい。呑気な口調で下手だったけどなぁと笑う忠志に、今までの落ち込んでいた気分が少し上向くのがわかった。そのまま何時もと変わらない食卓に参加して、気持ちが落ち着いたのに安堵しながら立ち上がった香苗に予想外に私服に着替えていた悌順が立ち上がる。

「何?悌さん。」
「何じゃねぇよ、ほら、帰んだろ?準備しろ。」

何時もなら家の方向が同じだからと忠志に送られる事が多いのに、今日に限って悌順が送るつもりらしいのに目を丸くする。勿論悌順と一緒に歩けるのが嫌なわけはないが、香苗は学校帰りのままで制服だし夜道を歩いて問題にならない訳ではない筈だ。香苗が素直に戸惑っているのに気にした風でもなく、早くしろと悌順は先に玄関に向かってしまう。どうしようと視線を向けても何でか義人も忠志も呑気に手を振るばかりで、結局香苗は慌てて悌順の背中を追いかけていた。

「……で?何かあったのか?」

並んで歩いていた悌順が唐突に夜風の中で問いかけてきたのに、香苗は思わず俯いてしまった。部屋に入った時点で香苗の様子がおかしいと見抜いていた悌順が、意図して送ると言ったのに気がつかされたのだ。鈍そうに見えるのに、やっぱり従兄弟だけあって悌順も義人程ではなくても勘が鋭いんだと香苗は思う。何気なく視線を向けると心配そうに見える悌順の視線が自分を見下ろしていて、思わず胸がキュッと熱くなる。去年の今頃はこんな風にやがて悌順の事を思っているなんて思わなかった。何しろ去年の今頃は自分が少し大人になるために、大人の恋愛を真似しようと無意味な事をしていたのだ。

「ちょっと……去年の事思い出して……、落ち込んでただけ。もう、大丈夫だよ。」

そう囁くように言って笑って見せると、ふと悌順の視線が曇るのが分かった。教師ではなく大人の男性の眼差しに香苗が一瞬戸惑うと、その視線が温かく緩んで微笑みかけてくる。そうして大きな掌が香苗の頭を優しく撫でるのに、香苗は少し驚きながら笑う。

「香苗。」

先生だから時々しかこう呼んでもらえないけど、優しくそう呼ばれると嬉しくなってしまう。こうして二人でいられる内に好きな人はいるのかとか、恋人はいたのとか、本当はもっと沢山聞きたいことがある。それでも香苗が聞いても、きっと悌順はそれには答えてくれないのは分かっていた。だから聞かないけど、こうして一緒にいられるなら

「あれぇ?」

不意にそんな二人の間に夜風に紛れて響いた声に、香苗は一気に背筋が寒くなるのに気がつく。何でこんな時にと思うのと同時に、あの幽霊アパートは既に更地になったと松尾むつきから聞いてここいらからいなくなったのだと勝手に思っていた。以前も公園で一人で居た時も同じように勝手に思い込んでいたけど、そう苦く考えた瞬間グイと手を引いて香苗の事を背後に庇った悌順に我に帰る。

そうだった、悌さんが一緒だもの。

大きな広い背中に守られて安堵すると同時に、矢根尾は悌順のことが記憶にないのか悌順に絡むように口を開く。

「その女、マゾでやりまんなんだ。あんたの前にも金髪のヤンキーとやってるんだぞ?知ってんの?あんた。」

香苗と矢根尾の間に立つ悌順の拳がギュッと握り締められるのが、香苗の視界に入る。それに気がついていないのか矢根尾は散々に香苗の事を府設楽なアバズレ女だと責め立て、思わず耳を塞ぎたくなってしまう。確かに香苗は言われるがまま、矢根尾の言う通りにしていた。矢根尾に嫌われたくなかったし矢根尾に殴られるのも怖かったから、言うなりになって従って妊娠までしてしまったのだ。言われるのが痛いのは自分が間違っていたと分かっているからだし、悌順に不潔だと思われるのが嫌だから。結局自分が、悌順にいいように思ってもらいたいだけだ。

「その口いい加減とじろ、クズ。」

低い声が一瞬誰のものか分からなくて、香苗も矢根尾もキョトンとしてしまう。ミシリと聞こえた軋みが悌順の拳の音だと気がついて、香苗は驚いて悌順の横顔を見上げた。そこには普段みたことのない冷たい怒気を放つ横顔があって、それでも怒気が自分にではないと分かっているからなのか香苗は息を飲んでその横顔に見惚れてしまう。

「な、なんだ…よ、俺は、本当の。」
「女を大事に出来ねぇクズの言葉なんか聞く耳もたねぇよ、それになその金髪は俺の友人だ、おっさん。」

低く威嚇するような声で詰め寄られ、矢根尾は自分より若く背が高く筋肉質な悌順の体に後退る。どうみても部が悪いのを察した矢根尾は、モゴモゴと何かを呟く。

「あんた、次こいつの回り彷徨いたら本気でぶちのめしてやるからな。」

突然そう言いながら悌順が長い足を、矢根尾の手の指のほんの数ミリ横のブロック塀に叩きつけられる。木の板だったら確実に穴が開いていたと思うけど、ブロック塀も微妙に軋んで揺れていて流石に矢根尾は凍りつく。

「な、なん、何で」
「俺の女に手を出したら少なくとも病院は覚悟してもらわねぇとなぁ。」

低くドスの聞いた威圧の言葉に矢根尾が青ざめて、ジリジリと逃げようとしているのが見える。だけどそれ以上に香苗は悌順の言葉に真っ赤になって、悌順の背中を見つめたまま。

俺の女って言った?矢根尾に脅しかけるだけの言葉でも、俺の女って。どうしよう、不謹慎だって分かってるけど凄く嬉しい。

逃げ出した矢根尾の無様な姿を眺めながら、呆れたように悌順が溜め息をつくと顔あわせてても気かつかねぇのかと呟く。確かにカラオケボックスで一度顔をあわせてるけど、あの時は薄暗かったし悌順は香苗を抱き締めて矢根尾に背を向けていたし。それは兎も角、どうしよう嬉しすぎて顔が向けられない。

「香苗?大丈夫か?」

俯いて顔を覆ったままの香苗の事を、心配したように悌順が覗き込んでくるのが分かる。頭を撫でてもう大丈夫だからと声をかけられても、暫く香苗は顔を上げることができないでいた。

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