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12月
閑話51.宮井麻希子
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これが夢だと自分自身でも良く分かっていた。何故かって自分が凄く小さくて、見上げると背の高い雪ちゃんがいるから。
あいつ等…絶対に許さない…。殺してやる。
駄目だよ、そんなこと言ったら。
雪ちゃんは私の声に視線を上げて子供の私をきつい視線で睨む。その瞳の理由は子供の私だって分かってる。雪ちゃんの大事なものを奪った人達は他の家の泥棒として捕まったけど、雪ちゃんのお家に関してはあまりにもお家が燃え上がり過ぎて証拠が見つけれなくなってしまった。
あいつ等は反省なんかしていない。
怖い目で呟く雪ちゃんは、黒い影になってしまったみたいなのにギラギラした瞳で宙を睨み付けている。私はどうしたら雪ちゃんが黒い影に飲み込まれないのか、必死になって考えていた。
早くしないと雪ちゃんが、おかしくなっちゃう。
私は必死だった。何処に行くにも雪ちゃんの後をついてまわって、今日は顔色がおかしいと思えば高校にだってついていったんだ。
何でついてくんだよ、鬱陶しい!
そう言われても私は、雪ちゃんから目を離すわけにはいかなかった。大好きな従兄のお兄ちゃんが別人になって消えてしまうかもしれないなんて、おじちゃんもおばちゃんももういないのにどうしたって嫌だったんだ。お花が好きで穏やかなお兄ちゃんに、これ以上おかしくなってほしくない。
雪ちゃん!
うっさい!着いてくんな!
最初の数週間はこんな風に邪険に扱われて、走って行っても追い付けないで街の中で泣き出したことだってある。ワンワン泣きながら雪ちゃん雪ちゃんって叫んでたら、呆れたように雪ちゃんの友達だったセンセが拾いに来てくれたことがあるんだ。
ゆーき、お前の名前連呼して泣いてたぞ?
はぁ?だから着いてくんなってんだよ!
つっけんどんな口調の雪ちゃんに涙でベショベショになった私の事を両脇を手で持ったセンセが、ほれと雪ちゃんに突き出す。そんな事を何回繰り返したんだろう。
やがてあの時道でこけて泣いていた私を呆れたように見下ろした雪ちゃんの瞳は、まるで琥珀色に清んでいておばちゃんの入れるアイスティーみたいだったのを覚えてる。
おい、雪、チビが。
あっ、まー。
同じ制服の背の大きなセンセが振り返り雪ちゃんに声をかけて、驚いた雪ちゃんが慌てて戻ってきて困ったようにしゃがみこむ。見事に転んでいた私に、雪ちゃんが慌てながら泣くなよと言い困った顔で覗きこんでくる。その時初めて私は初めて背の高い雪ちゃんの顔を真っ直ぐに見ることができたんだ。私は泣いていた事も忘れ、ベショベショの顔で感動したように雪ちゃんに話しかける。
雪ちゃん、綺麗なお目めだね、まーの目真っ黒なのに雪ちゃんのお目めコーチャの色だよ?
私が力一杯に興奮して雪ちゃんの瞳の色を誉めると、彼は驚いたように私を見つめて突然笑いだした。それに戻ってきてくれた雪ちゃんの2人の友達の鳥飼さんとセンセが、笑いこける雪ちゃんの姿に目を丸くしている。
何だよ?雪、どうした?
だ、だって、今までビービー泣いてた癖に突然人の目見て、紅茶色って、ワケわかんないな、まーは
何時までも止まらない雪ちゃんの笑いに、つられて笑いだした私にセンセ達まで笑いだす。そこから雪ちゃんはほんの少し私に優しくしてくれるようになって、歩いていても彼が見えなくなることが少なくなっていく。
やがて、あの夜雪ちゃんがこっそり家を出ていこうとしていたのを、引き留められたのは沢山偶然が重なったからだと思う。あの日に何が起きていたのかは私は子供過ぎて知らないけど、雪ちゃんは学校から帰ってきて部屋に籠って夕飯にも出てこなかった。何度も声をかけても返事もなくって、最近は少し笑顔もみせてくれるようになっていたから私にはかなりショックだ。ママはそっとしておいてあげなさいって言うけど、夜に雨が降り始めたのに目を覚ました私は隣の雪ちゃんの部屋のドアを開いた。そこにいたのは制服ではなくて、普段の身軽な服装にバックを肩にかけた雪ちゃんの姿。
雪ちゃん?お出かけ?
私の声に雪ちゃんは、目に見えて分かる何で今来るんだって顔をした。それで私も雪ちゃんが何処かに行こうとしているのに気がついたんだ。飛び付いてヤダヤダって駄々をこねる私に、雪ちゃんは凄く苛立ったように離せと低い声で言う。
ヤダ!離したら雪ちゃん居なくなるもん!雪ちゃんはここにいるの!
その言葉に少し苛立ったように雪ちゃんの表情が変わる。子供の我が儘なんかに付き合うつもりなんかないって、険しいその顔が言っている。
勝手なこと言うなよ、子供の癖に。
そうだ、私は子供で両親もお家も無くした雪ちゃんの辛い気持ちを消してあげることが出来ない。でも、今雪ちゃんを行かせたら、二度と雪ちゃんと会えなくなる気がした。
心配なんて…かっこばかりなんだ…誰もみんな。
そんな事ないってしがみついて言う。私は本気で心配してるよって繰り返す。やっとここにいてくれそうな感じになったのに、どうしてこんな風に出ていこうとしてるのって問い掛けた私の声。雪ちゃんは初めて暗い部屋の中で私の事を見下ろす。
あいつら、俺の両親を殺したくせに、俺の両親のことでは無罪になったんだ…。
その意味は子供の私には良く分からないけど、雪ちゃんを何処かに消す理由ではあるのが分かる。でも、そんな人達に関わるより、雪ちゃんはもっと笑って欲しいしここにいて欲しい。
そんな人たちより、麻希子の傍にいて!
私の言葉に雪ちゃんは唖然としたように、目を見開いた。そんな人達なんかに雪ちゃんの大事な時間を使わないで、ここで幸せにならなきゃ駄目と訴える私を雪ちゃんは不思議なものでも見るように見つめている。
何で、そんなに俺に構うんだよ、お前。
だって、雪ちゃんが好きだもの。ここにいてくれるんなら、雪ちゃんの傍に私がずっといる。雪ちゃんのパパやママのかわりに、雪ちゃんを絶対私が幸せにしてあげるんだから。
そんな約束…しても守れないかもしれないじゃないか。
それでも私は必死に約束しようって雪ちゃんにお願いする。雪ちゃんが笑っていられるように、雪ちゃんがここにいられるように私と約束しようって。そうしたら、きっともう絶対に大丈夫。絶対に大丈夫。私が大丈夫にしてあげる。そう何度も何度も繰り返す。
だから、雪ちゃん、お願い。ここにいて!
そう言った時、初めて雪ちゃんの暗い瞳が涙で揺らいだ。雪ちゃんは崩れ落ちるみたいにその場に座り込むと、何でって呟きながら泣き出した。雪ちゃんがそんな風に泣くのを私はその時まで見たことがないし、家に預けられてからも一度も泣いたところを見たことがない。そう、雪ちゃんは一度もこんな風に泣いたところを見せてないんだって気がついたんだ。雪ちゃんは本当はずっと我慢して、1つも安心なんかしてなくて張りつめた気持ちでここにいたんだって。それに気が付いて私はその自分より大きな体を抱き締めた。
大丈夫だよ、雪ちゃんの事はまーが守って上げる!ずっと一緒にいてあげるから、泣きたくなったら良い子良い子ってしててあげるし!
雪ちゃんは耐えきれなくなったみたいに私の事をギュウッて抱き締めたまま一晩中泣いていた。その後どうなったかは覚えてないんだけど、朝には2人でくっついて一緒に雪ちゃんのベットで寝ていたみたい。
それからの雪ちゃんは以前みたいに良く笑うようになったし話もするようになったし、凄く私の事を気にかけてくれるようになった。ちょっと私に過保護なんじゃって思うことはあるけど、雪ちゃんとの約束があるから私は気にしない。
背の高い雪ちゃんが優しく私の手をとって歩いている。雪ちゃんと呼び掛けると、彼は穏やかな微笑みで私を見下ろす。その服は孝君や智美君と同じ高校の制服だ。
雪ちゃん
私の声に彼は凄く幸せそうに笑って、ヒョイと軽々と私の事を抱き上げて視線をあわせてくれた。ああ、こんな風に幸せそうな笑顔を前もしてたんだ。私があんなことを言ってしまったから、そう思うと何だか無性に悲しくて雪ちゃんの顔を見ながら泣き出してしまう。
麻希子?
あれ?昔はそんな風に呼ばなかったって思った瞬間、小さかった筈の私はダッコされていた筈の雪ちゃんが私とは違う笑顔で他の人と話している姿を立ち尽くして見つめていた。背の高い雪ちゃんと並んだスマートでスタイルのいい女の人。竜胆さんではなくて、あの人は雪ちゃんの奥さんの宇野静子さんだ。雪ちゃんの手には大人しく赤ちゃんが抱かれていて、それが衛なんだって分かる。結婚しましたって家に唐突な手紙が来て、暫くして何故か街の中で親子で歩いていた雪ちゃん達に出会った時の事だ。
麻希ちゃん?
雪ちゃんの驚いたような声に、私は逃げることもできなくて立ち尽くす。あとちょっとで中学生の私には、大人になってしまった雪ちゃんとその奥さんは奇妙に遠い人に見えた。胸の奥が凄く痛くてその場から駆け出したいのに、雪ちゃんののほほんとした作り笑いに動けない。それを見た驚くほど華奢な宇野静子さんは、私の事を見つめて穏やかに微笑む。
あなたが麻希子ちゃんね?
細身の少し目元がキツい感じの綺麗な人だけど、笑うと凄く人懐っこい感じになる人だ。直にこうして話をしたのはほんの数回しかないけど、優しくて柔らかい声で話しかける人だった。
はじめまして、宇野静子です。
は、はじめまして、宮井麻希子です。
私の不審げな色を隠さない声にも彼女は穏やかに微笑んで、雪ちゃんを振り返ると少し待っててくれると問いかける。雪ちゃんが不思議そうに頷き衛をあやしているのを眺めてから、彼女は私の視線にあわせて腰を屈めた。静子さんは確か私の視線にあわせて、ニコリと少し申し訳なさそうに優しく微笑む。
麻希子ちゃん、雪のこと大好きでしょ?
唐突な問い掛けに私は面食らったように目を丸くした。確かに雪ちゃんの事は好きだけど、その気持ちは忘れなきゃいけないものだ。だって、雪ちゃんの傍に永遠にいられないのに、約束をしていたら雪ちゃんが幸せになれない。そう知ったから私は全部忘れる事にしたのに、どうしてこの人は一目でそれを見抜いてしまったんだろう。
ごめんね、あと少しの間だけ、私の旦那さんに貸してね?
あと少し?
ええ。私ね癌なの。もう後何ヵ月か何年しか生きていられない。だから、その間だけ。ごめんなさい、酷いことしてるって分かってるけど。
雪のことを旦那さんに貸してねと悲しげに言う微笑みに、私は愕然とした。だって、私のかわりに永遠に雪ちゃんの傍にいてくれて、雪ちゃんを幸せにしてくれる筈の人が自分からあと何年も生きられないなんて言うんだもの。そんな意地悪しなくてもいいのにって、その時正直私は宇野静子さんを好きになれないと思った。しかも、その間だけ雪ちゃんを貸してなんて、雪ちゃんを物みたいに扱わないでって。
今なら彼女が何であんな風に言ったのか分かる。
静子さんは確かに雪ちゃんのことを好きにはなってくれたんだろうけど、雪ちゃんは本当に好きだった香坂衛さんの変わりだったんだろうって。静子さんは本当に衛さんのことを愛してて、その子供の衛を育てて生きたかったのに。自分が後少ししか生きられないって知って、絶望してたんだと思う。
そこに衛さんと瓜二つの雪ちゃんが現れて、静子さんが亡くなっても衛を育ててくれるって約束してくれた。でも、静子さんは同時に雪ちゃんから、私の話も聞いていたんだと思う。だから、あの時私に貸してね、ごめんなさいって言ったんだ。
麻希子ちゃん、ごめんなさい。でも、私が居なくなったら雪のこと頼むわね。
あの時の言葉はそう締め括られていた。そう告げた静子さんは悲しそうで、同時に何だか幸せそうだった。
私がそれを全て忘れたのは、自分でも忘れたかったから。雪ちゃんを大事に幸せにしてあげるなんて大口を叩いたのに、自分が無知で雪ちゃんにそんな約束忘れたと手酷く裏切った私。そして、同時に永遠に傍に居られないなら、他の誰かにそれをしてもらわなきゃと考えた狡い自分。雪ちゃんが結婚したと教えてくれて安堵したのに、直ぐ様その奥さんである静子さんからあと少しの命だと聞かされた衝撃。どうして宇野さんが雪ちゃんを婿養子にしたのか、静子さんの考えが薄々だけど分かる気がする。ママより年上だった静子さんは、雪ちゃんから話を聞いて私に会わなくても色々なことに気がついていたのかもしれない。
立ち尽くした私に、雪ちゃんが不思議そうに近寄ってくる。
麻希子?
目の前の雪ちゃんの視線は何時もと変わらない。今の私に少しだけ屈みこむように覗きこむ、雪ちゃんの清んだ紅茶色に光る瞳。綺麗な瞳はあの時と変わらなくて、私は嬉しくなる。
ずっと一緒にいるって約束、覚えてる?
うんと頷く私にあの幸せそうな微笑みが向けられて、雪ちゃんの手が頬に触れ撫でていく。
全部……全部思い出したよ……智雪…。
あいつ等…絶対に許さない…。殺してやる。
駄目だよ、そんなこと言ったら。
雪ちゃんは私の声に視線を上げて子供の私をきつい視線で睨む。その瞳の理由は子供の私だって分かってる。雪ちゃんの大事なものを奪った人達は他の家の泥棒として捕まったけど、雪ちゃんのお家に関してはあまりにもお家が燃え上がり過ぎて証拠が見つけれなくなってしまった。
あいつ等は反省なんかしていない。
怖い目で呟く雪ちゃんは、黒い影になってしまったみたいなのにギラギラした瞳で宙を睨み付けている。私はどうしたら雪ちゃんが黒い影に飲み込まれないのか、必死になって考えていた。
早くしないと雪ちゃんが、おかしくなっちゃう。
私は必死だった。何処に行くにも雪ちゃんの後をついてまわって、今日は顔色がおかしいと思えば高校にだってついていったんだ。
何でついてくんだよ、鬱陶しい!
そう言われても私は、雪ちゃんから目を離すわけにはいかなかった。大好きな従兄のお兄ちゃんが別人になって消えてしまうかもしれないなんて、おじちゃんもおばちゃんももういないのにどうしたって嫌だったんだ。お花が好きで穏やかなお兄ちゃんに、これ以上おかしくなってほしくない。
雪ちゃん!
うっさい!着いてくんな!
最初の数週間はこんな風に邪険に扱われて、走って行っても追い付けないで街の中で泣き出したことだってある。ワンワン泣きながら雪ちゃん雪ちゃんって叫んでたら、呆れたように雪ちゃんの友達だったセンセが拾いに来てくれたことがあるんだ。
ゆーき、お前の名前連呼して泣いてたぞ?
はぁ?だから着いてくんなってんだよ!
つっけんどんな口調の雪ちゃんに涙でベショベショになった私の事を両脇を手で持ったセンセが、ほれと雪ちゃんに突き出す。そんな事を何回繰り返したんだろう。
やがてあの時道でこけて泣いていた私を呆れたように見下ろした雪ちゃんの瞳は、まるで琥珀色に清んでいておばちゃんの入れるアイスティーみたいだったのを覚えてる。
おい、雪、チビが。
あっ、まー。
同じ制服の背の大きなセンセが振り返り雪ちゃんに声をかけて、驚いた雪ちゃんが慌てて戻ってきて困ったようにしゃがみこむ。見事に転んでいた私に、雪ちゃんが慌てながら泣くなよと言い困った顔で覗きこんでくる。その時初めて私は初めて背の高い雪ちゃんの顔を真っ直ぐに見ることができたんだ。私は泣いていた事も忘れ、ベショベショの顔で感動したように雪ちゃんに話しかける。
雪ちゃん、綺麗なお目めだね、まーの目真っ黒なのに雪ちゃんのお目めコーチャの色だよ?
私が力一杯に興奮して雪ちゃんの瞳の色を誉めると、彼は驚いたように私を見つめて突然笑いだした。それに戻ってきてくれた雪ちゃんの2人の友達の鳥飼さんとセンセが、笑いこける雪ちゃんの姿に目を丸くしている。
何だよ?雪、どうした?
だ、だって、今までビービー泣いてた癖に突然人の目見て、紅茶色って、ワケわかんないな、まーは
何時までも止まらない雪ちゃんの笑いに、つられて笑いだした私にセンセ達まで笑いだす。そこから雪ちゃんはほんの少し私に優しくしてくれるようになって、歩いていても彼が見えなくなることが少なくなっていく。
やがて、あの夜雪ちゃんがこっそり家を出ていこうとしていたのを、引き留められたのは沢山偶然が重なったからだと思う。あの日に何が起きていたのかは私は子供過ぎて知らないけど、雪ちゃんは学校から帰ってきて部屋に籠って夕飯にも出てこなかった。何度も声をかけても返事もなくって、最近は少し笑顔もみせてくれるようになっていたから私にはかなりショックだ。ママはそっとしておいてあげなさいって言うけど、夜に雨が降り始めたのに目を覚ました私は隣の雪ちゃんの部屋のドアを開いた。そこにいたのは制服ではなくて、普段の身軽な服装にバックを肩にかけた雪ちゃんの姿。
雪ちゃん?お出かけ?
私の声に雪ちゃんは、目に見えて分かる何で今来るんだって顔をした。それで私も雪ちゃんが何処かに行こうとしているのに気がついたんだ。飛び付いてヤダヤダって駄々をこねる私に、雪ちゃんは凄く苛立ったように離せと低い声で言う。
ヤダ!離したら雪ちゃん居なくなるもん!雪ちゃんはここにいるの!
その言葉に少し苛立ったように雪ちゃんの表情が変わる。子供の我が儘なんかに付き合うつもりなんかないって、険しいその顔が言っている。
勝手なこと言うなよ、子供の癖に。
そうだ、私は子供で両親もお家も無くした雪ちゃんの辛い気持ちを消してあげることが出来ない。でも、今雪ちゃんを行かせたら、二度と雪ちゃんと会えなくなる気がした。
心配なんて…かっこばかりなんだ…誰もみんな。
そんな事ないってしがみついて言う。私は本気で心配してるよって繰り返す。やっとここにいてくれそうな感じになったのに、どうしてこんな風に出ていこうとしてるのって問い掛けた私の声。雪ちゃんは初めて暗い部屋の中で私の事を見下ろす。
あいつら、俺の両親を殺したくせに、俺の両親のことでは無罪になったんだ…。
その意味は子供の私には良く分からないけど、雪ちゃんを何処かに消す理由ではあるのが分かる。でも、そんな人達に関わるより、雪ちゃんはもっと笑って欲しいしここにいて欲しい。
そんな人たちより、麻希子の傍にいて!
私の言葉に雪ちゃんは唖然としたように、目を見開いた。そんな人達なんかに雪ちゃんの大事な時間を使わないで、ここで幸せにならなきゃ駄目と訴える私を雪ちゃんは不思議なものでも見るように見つめている。
何で、そんなに俺に構うんだよ、お前。
だって、雪ちゃんが好きだもの。ここにいてくれるんなら、雪ちゃんの傍に私がずっといる。雪ちゃんのパパやママのかわりに、雪ちゃんを絶対私が幸せにしてあげるんだから。
そんな約束…しても守れないかもしれないじゃないか。
それでも私は必死に約束しようって雪ちゃんにお願いする。雪ちゃんが笑っていられるように、雪ちゃんがここにいられるように私と約束しようって。そうしたら、きっともう絶対に大丈夫。絶対に大丈夫。私が大丈夫にしてあげる。そう何度も何度も繰り返す。
だから、雪ちゃん、お願い。ここにいて!
そう言った時、初めて雪ちゃんの暗い瞳が涙で揺らいだ。雪ちゃんは崩れ落ちるみたいにその場に座り込むと、何でって呟きながら泣き出した。雪ちゃんがそんな風に泣くのを私はその時まで見たことがないし、家に預けられてからも一度も泣いたところを見たことがない。そう、雪ちゃんは一度もこんな風に泣いたところを見せてないんだって気がついたんだ。雪ちゃんは本当はずっと我慢して、1つも安心なんかしてなくて張りつめた気持ちでここにいたんだって。それに気が付いて私はその自分より大きな体を抱き締めた。
大丈夫だよ、雪ちゃんの事はまーが守って上げる!ずっと一緒にいてあげるから、泣きたくなったら良い子良い子ってしててあげるし!
雪ちゃんは耐えきれなくなったみたいに私の事をギュウッて抱き締めたまま一晩中泣いていた。その後どうなったかは覚えてないんだけど、朝には2人でくっついて一緒に雪ちゃんのベットで寝ていたみたい。
それからの雪ちゃんは以前みたいに良く笑うようになったし話もするようになったし、凄く私の事を気にかけてくれるようになった。ちょっと私に過保護なんじゃって思うことはあるけど、雪ちゃんとの約束があるから私は気にしない。
背の高い雪ちゃんが優しく私の手をとって歩いている。雪ちゃんと呼び掛けると、彼は穏やかな微笑みで私を見下ろす。その服は孝君や智美君と同じ高校の制服だ。
雪ちゃん
私の声に彼は凄く幸せそうに笑って、ヒョイと軽々と私の事を抱き上げて視線をあわせてくれた。ああ、こんな風に幸せそうな笑顔を前もしてたんだ。私があんなことを言ってしまったから、そう思うと何だか無性に悲しくて雪ちゃんの顔を見ながら泣き出してしまう。
麻希子?
あれ?昔はそんな風に呼ばなかったって思った瞬間、小さかった筈の私はダッコされていた筈の雪ちゃんが私とは違う笑顔で他の人と話している姿を立ち尽くして見つめていた。背の高い雪ちゃんと並んだスマートでスタイルのいい女の人。竜胆さんではなくて、あの人は雪ちゃんの奥さんの宇野静子さんだ。雪ちゃんの手には大人しく赤ちゃんが抱かれていて、それが衛なんだって分かる。結婚しましたって家に唐突な手紙が来て、暫くして何故か街の中で親子で歩いていた雪ちゃん達に出会った時の事だ。
麻希ちゃん?
雪ちゃんの驚いたような声に、私は逃げることもできなくて立ち尽くす。あとちょっとで中学生の私には、大人になってしまった雪ちゃんとその奥さんは奇妙に遠い人に見えた。胸の奥が凄く痛くてその場から駆け出したいのに、雪ちゃんののほほんとした作り笑いに動けない。それを見た驚くほど華奢な宇野静子さんは、私の事を見つめて穏やかに微笑む。
あなたが麻希子ちゃんね?
細身の少し目元がキツい感じの綺麗な人だけど、笑うと凄く人懐っこい感じになる人だ。直にこうして話をしたのはほんの数回しかないけど、優しくて柔らかい声で話しかける人だった。
はじめまして、宇野静子です。
は、はじめまして、宮井麻希子です。
私の不審げな色を隠さない声にも彼女は穏やかに微笑んで、雪ちゃんを振り返ると少し待っててくれると問いかける。雪ちゃんが不思議そうに頷き衛をあやしているのを眺めてから、彼女は私の視線にあわせて腰を屈めた。静子さんは確か私の視線にあわせて、ニコリと少し申し訳なさそうに優しく微笑む。
麻希子ちゃん、雪のこと大好きでしょ?
唐突な問い掛けに私は面食らったように目を丸くした。確かに雪ちゃんの事は好きだけど、その気持ちは忘れなきゃいけないものだ。だって、雪ちゃんの傍に永遠にいられないのに、約束をしていたら雪ちゃんが幸せになれない。そう知ったから私は全部忘れる事にしたのに、どうしてこの人は一目でそれを見抜いてしまったんだろう。
ごめんね、あと少しの間だけ、私の旦那さんに貸してね?
あと少し?
ええ。私ね癌なの。もう後何ヵ月か何年しか生きていられない。だから、その間だけ。ごめんなさい、酷いことしてるって分かってるけど。
雪のことを旦那さんに貸してねと悲しげに言う微笑みに、私は愕然とした。だって、私のかわりに永遠に雪ちゃんの傍にいてくれて、雪ちゃんを幸せにしてくれる筈の人が自分からあと何年も生きられないなんて言うんだもの。そんな意地悪しなくてもいいのにって、その時正直私は宇野静子さんを好きになれないと思った。しかも、その間だけ雪ちゃんを貸してなんて、雪ちゃんを物みたいに扱わないでって。
今なら彼女が何であんな風に言ったのか分かる。
静子さんは確かに雪ちゃんのことを好きにはなってくれたんだろうけど、雪ちゃんは本当に好きだった香坂衛さんの変わりだったんだろうって。静子さんは本当に衛さんのことを愛してて、その子供の衛を育てて生きたかったのに。自分が後少ししか生きられないって知って、絶望してたんだと思う。
そこに衛さんと瓜二つの雪ちゃんが現れて、静子さんが亡くなっても衛を育ててくれるって約束してくれた。でも、静子さんは同時に雪ちゃんから、私の話も聞いていたんだと思う。だから、あの時私に貸してね、ごめんなさいって言ったんだ。
麻希子ちゃん、ごめんなさい。でも、私が居なくなったら雪のこと頼むわね。
あの時の言葉はそう締め括られていた。そう告げた静子さんは悲しそうで、同時に何だか幸せそうだった。
私がそれを全て忘れたのは、自分でも忘れたかったから。雪ちゃんを大事に幸せにしてあげるなんて大口を叩いたのに、自分が無知で雪ちゃんにそんな約束忘れたと手酷く裏切った私。そして、同時に永遠に傍に居られないなら、他の誰かにそれをしてもらわなきゃと考えた狡い自分。雪ちゃんが結婚したと教えてくれて安堵したのに、直ぐ様その奥さんである静子さんからあと少しの命だと聞かされた衝撃。どうして宇野さんが雪ちゃんを婿養子にしたのか、静子さんの考えが薄々だけど分かる気がする。ママより年上だった静子さんは、雪ちゃんから話を聞いて私に会わなくても色々なことに気がついていたのかもしれない。
立ち尽くした私に、雪ちゃんが不思議そうに近寄ってくる。
麻希子?
目の前の雪ちゃんの視線は何時もと変わらない。今の私に少しだけ屈みこむように覗きこむ、雪ちゃんの清んだ紅茶色に光る瞳。綺麗な瞳はあの時と変わらなくて、私は嬉しくなる。
ずっと一緒にいるって約束、覚えてる?
うんと頷く私にあの幸せそうな微笑みが向けられて、雪ちゃんの手が頬に触れ撫でていく。
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