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11月

閑話43.宇野智雪

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この間の停電のお陰で、校閲終了の大事なデータが一気に8割もクラッシュしてしまったのは大きかった。バックアップのデータの方が過電圧か何かでファイルが開かないと気がついた時には、悲鳴をあげたくなくても悲鳴しか出ない。底から這い上がるのに、ここまでの十日は麻希子の文化祭もあったのに散々だ。しかも、午前中は奥さんがクリニック勤務で時差出勤にしていた菊池が、昼過ぎにやっと出てきたと思ったら仕事を始める前に半分死んだようにぐったりしている。

「何で仕事前から、もうゾンビだよ?」
「うちの息子、俺をパパから直人に最近格下げしたんですよ。」

散々名前で馬鹿と言われたらこうなりますとゲンナリしている菊池に、うちの衛はそんなこと言わなかったなぁと呟く。子供の成長は千差万別だろうが、衛が大人しすぎる位だったのは母親が病気だと幼くても理解していたからかもしれない。
黙々と文字を確認して誤字や脱字がないかと何度も読んでいる文章を眺める作業に、次第に2人の間の話題だけが際どくなってしまうのはもう仕方がない。

「最近奥さんどうなの?」
「つわりで、時々イラつくみたいです。お陰で奏多がそれを真似するんですよ。」
「ははぁ、それで奏多の必殺直人の馬鹿か。」
「今日なんて嫁のクリニックの前で連呼。しかも馬鹿ですよ?モンスターには敵わないですね、全く。」
「二人になったら掛ける2だな。」

その言葉に菊池が、それは地獄ですねと呟く。
書籍は出版社によって編集者の仕事の範囲は違うのだろうが、中規模な雪達の出版社では企画から始まり、出来上がった原稿を校閲迄終了して印刷所にデータを渡さないと終わらない。大手の出版社のように部所として校閲担当がいるわけではないから、二人や三人で必死に確認作業をこなすのだ。勿論その合間には装丁のデザイン等も検討するが、それはもう済ませてある。後は中身を終えるだけ、それがまだ終わらない。

「そう言う宇野さんの可愛い彼女はどうなんです?」
「合鍵を渡した。」
「やっとですか?遅いですね。」
「悪かったな。」
「相手の親公認ですか?」
「いや、まだ…。」
「おっそ。」
「お前ねぇ、くそ、腹立つ。」
「腹立つのは図星だからですよ。」

くそと何度も呟きながら、お互いに目だけは必死に文字を追っての確認作業だ。ここまで必死に確認していても、3人目が誤字やら脱字を見つけることもあるのだから人の目の危うさには辟易する。

「終わりそうですか?」

背後からかかった声に振り返ると総務課の竜胆貴理子が、にこやかに微笑みながら差し入れの袋を片手に立っている。総務課は本来出版作業自体には関わらないのだ。しかし、先日クラッシュしたデータの復旧に上がった悲鳴に、以前システム関係で働いていたという彼女が手を貸してくれたのだ。彼女が手を貸してくれなかったら、恐らく今の半分の作業は後退していて印刷所にも待ったがかかった。そうならずに済みそうなだけでも、正直今は彼女に頭が上がらない。手伝いますと彼女が再びにこやかに申し出てくれたのに、そんな状況で2人とも断る理由もなかった。



※※※



「終わったー!」

やっとのことで印刷所へデータを送信まで漕ぎ着けたのに、菊池が溜め息混じりの声を上げる。結局3人目の校閲が終わるのに1日係で、更に一人が手伝ってくれ総勢5人での作業だった。打ち上げに行きましょうと声がかかったのに、何時ものように時計を見下ろした雪は家に帰るんでと爽やかに遠慮する。竜胆が菊池のことを口説き落として、珍しくマイホームパパが参加する気になったのは午前中の息子の猛攻のせいも半分あっただろう。

「菊池さんも行くんですよ?少し行きましょうよ。」
「あ、でも家に子供一人なんで。」

そう言えば何時もは誰も引き留めないのに、今日に限って竜胆がそれを打ち砕く余計な一言を発した。

「そんな、打ち上げも出られないなんて宇野さんが可哀想。」

一瞬はぁ?と言い出しそうになった。しかし、社会人としての嗜みは一応面目を保つことはしないとならないと理性が引き留める。いいんですよと心の底から言っているのに、更なる竜胆の追い討ちはだめ押しだった。

「じゃ、宅飲みにしましょ?宇野さんのお家で。」

それは正直出来れば一番避けたかった。だけど、最後の砦の菊池が打ち上げの話に乗ってしまっては、多数決で雪の意見はマイノリティだ。
酒を飲むのが嫌なわけではない。ただ雪はその場では酔いはするが、実はどれだけ酔っても記憶を失うことのないタイプなのだ。勿論社会人の嗜みで酔って忘れたふりをすることはあるが、基本的に記憶は完全に残る。記憶は残るのに酔うと酔ったなりの行動はするので、雪は余り人前で飲みたくない。何せ酔って自分がした行動を、素面になって全て覚えているのほどやるせないモノはないとは思わないか?だから、酔って本性が出ても構わない人間だけとなら、つまり信哉となら正直に喜んで飲む。だが、相手がこと職場の人間で、しかも自分の家で飲むとなったら出来ることなら全力で拒否したい。衛がこういう時に菊池奏多のように我儘をいってくれたらいいのだが、うちの衛は頭が良すぎて空気を読む能力に長けすぎているのだ。

せめて、衛の学芸会が延期されていなければ…

学芸会が延期になっていなければ、それを盾に断ることが出来たのに。という建前はさておき、本音は明日は日曜日。もしかしたら火曜日にも顔を出してくれたようだが、朝から麻希子が来るかもしれない。出来たらもう帰って欲しい、そう心で思っても、飲んで盛り上がっている人間達には伝わらない。

「宇野さぁん、もっと飲みましょ~。」
「いや、僕はそんなに飲めないんで。」

そう言っても竜胆ともう1人に話が通じない。結局夜7時から終電がない時間まで粘られてしまったのだ。夜9時から何度お開きにしましょうと言ったことか…。

「宇野さん、泊めてくださーい。床でいいんでぇ!」

正直わかりました、床に寝てくださいと言いたい。しかし、流石に女性の竜胆を床に寝せておいて、自分はベッドとはいかない。本音は他の誰かの家と思う雪の内心を、他の酔っぱらい達は誰も汲み取ってもくれないのだ。子供と妊婦のいる菊池家は勿論論外なのは分かるのだが、他の2人はワンルームマンション。くそと心の中で呻く。そこに泊めるより広い宇野家の方がいいのは目に見えて確かだし、それを他の2人に言われると断りようがない。お陰で酩酊の竜胆を残され気が重いのに、相手は全く気にした風でもなく話しかけてくる。

「宇野さんって鳥飼先生と仲いいって本当ですかぁ?」
「それは菊池の事じゃないかなぁ、竜胆さん、ほらベッド使っていいから。」
「鳥飼先生って、ここら辺に住んでるんですよねぇ?」
「そうなんだ?僕は知らないなぁ。はい、入ろうか。」
「えー、もっとお話しましょうよぉ。」

信哉と雪が幼馴染みだと知っているのは実は社内では菊池一人で、信哉の性格からいってもそうそう新しい担当になることはない。酩酊状態の女の話題の掴めなさに辟易しながら、寝室に彼女を押し込むと雪は廊下で深い溜め息をついた。大分回った酔いのせいで面倒くさいという顔を表に出さないだけでもう精一杯だ。出来ることなら始発で彼女を追い返したいが、飲んでいないなら兎も角予想外に酒量は多くて眠気が襲ってくる。

せめて麻希子が来る前に何とかしないと。

荒れ果てたリビングを眺めながらそう思ったのに、目が覚めた時には完全に大事になってしまっていた。



※※※



文字通りソファーから叩き落とされて目を覚ました雪が、更に文字通り蒼白になったのは二日酔いの為ではなかった。

最悪…あの女…何してくれんだよ。

腹立たしい事この上ない事をしでかして、衛だけなら未だしも麻希子まで泣かせてしまったと知った瞬間。目の前の泣いている衛に、素直にもう一度悪かったと頭をさげる。だけど、目の前の息子は雪の思うよりはるかに大人だった。パンと下げた頭を掌で叩くと、その手で自分の涙を拭いながら言うのだ。

「まーちゃん連れて帰ってきてよ!早くっ!」

うんと思わず雪は頷いて、ワイシャツ姿のまま走り出す。
麻希子が真っ直ぐ家に帰る可能性は無いわけではないが、麻希子のことだから家に帰れば叔母の追求に晒されるのは嫌な筈だ。そうなると途中で彼女が立ち寄りそうな場所を予測して行くしかない。家で泣いていたというから、余り人の目には触れたくない筈、ここから家の間、しかも彼女が立ち寄りやすそうな場所。頭の中で必死に麻希子が考えそうな場所を考え、全力で走りながら辺りを見渡す。

くそ、あの女何してくれんだよ、ほんとに!

二度と宅飲みなんて受け入れるもんか。あんなに信哉の家がどうとか言ってる位なら、喜んで信哉の家に熨斗を付けて贈ってやれば良かった。そうしたらこんな状況で知らない内に麻希子を泣かせる事もなかったのに。視界に麻希子の姿が見つけられない焦りが、次第に深い不安に変わっていく。

麻希子がもういいと、自分の事を嫌いになってしまったら。

今もし二度目の喪失の衝撃が襲ったとしたら。耐えられる自信なんて、今の雪には一欠片もないのを麻希子は気がついているだろうか。必死に麻希子の姿を探している自分がどんな風に見えるか、そんなことすら頭の隅にも浮かばない。視界が公園の中を素早く見渡した時、雪はその姿に全身の力が抜けそうな気がした。
ボンヤリとベンチに座っている姿は、何時もの天使のような微笑みの欠片もない。麻希子にそんな顔をさせたのが自分の不注意なのが、心底腹立たしい。

「麻希子!」

思わず口をついて出た大きな声に、当の麻希子の方が驚いたように視線を上げたのが見える。どうしたら良いのかわからない風に座ったままの麻希子に、駆け寄った雪は膝に手を置いてゼエセエと荒い息を吐く。

「……何で全力疾走してるの?」
「ちょ……待って……あの、…。」

息が切れて言葉にならない雪の事を麻希子は苦笑しながら見つめる。

「ごめんね、朝御飯途中で放ってきちゃった。」

そんなこといいと言いたいのに、全力疾走過ぎてまだ言葉にならない。いや、良くはない、麻希子に料理を途中で投げ出したくなるような思いをさせてしまったのだ。麻希子は叔母の前ではそう見えなくても、基本的に料理が好きなことくらい分かっている。ボタボタと汗が落ちる雪の姿を、麻希子は何時もとは違う表情で見つめたままだ。

「ごめん、麻希ちゃん。」
「何に謝ってるの?雪ちゃん。」

麻希子の言葉は当然の言葉だ。雪が今何に対して謝っているのか、実際には彼女は職場の同僚で昨夜は5人で飲んで、一人終電がなかったのは不可抗力。でも、麻希子が来たら不快になると分かっていた筈だ。それを知っていたのに自分の不注意で、麻希子を泣かせたのは自分。

「泣かせた。麻希子の事。」

何よりもそれが雪自身に許せない。そう告げたいのに上手く言葉にならない自分に本気で腹が立つ。だけど、目の前の麻希子はその言葉に少し目を丸くして、その後黙り込んでしまった。また泣き出してしまうのではないかと、思わずその姿を見つめていると囁くような声が聞こえる。

「この間…町の中で話してるのも見た…の。」

その言葉にガンとハンマーで頭を殴られたような気がする。愛想笑いでも端から見れば、仲良さげに見えたとしたら。違うと訂正したいのに、何と言って良いのか分からない。どうでも良い相手には適当に話せるのに、麻希子に何て言ったら許してもらえるかが分からないのだ。

「私、ちょっと…やだった……雪ちゃんが、女の人と仲良く…してるの。」

息を詰めて麻希子の俯いた睫毛を見つめながら、足元がグラグラ揺れている気がする。

「でも、雪ちゃん…お仕事の、人とだって…分かってるよ。」
「麻希子…。」
「だから…気にしないで、いようと思ったの…でも。」

ふと麻希子のクリクリの瞳が、潤みながら真っ直ぐに雪の事を見上げた。年が離れているからお互いの立場を分かってると麻希子は言ってくれるのに、情けないほど自分は麻希子を大切にできないでいる。

「ああいうの、…やっぱり…やだ、な…私。」

その言葉に何故だろう、今までの麻希子にはなかったものが見える気がした。大人びて少し切な気な表情に雪が歩み寄ってその手を握ると、麻希子は大人しく手を引かれてベンチから立ち上がる。立ち上がって俯いたままの麻希子の視線は変わらないのに、雪は躊躇いがちに口を開いた。

「麻希子…、ごめん。嫌な思いさせて…。」
「ううん、いいよ、お仕事の人だもんね。」
「良くない。全然よくないよ。」

雪の心底苦い言葉に、麻希子の視線が驚いたように上がる。何よりも大事なのは麻希子なのだと、どうしたら伝えられるだろう。そう思うと雪の硬く強ばるような喉を言葉が滑り落ちた。

「俺は…麻希子が…、大好きで……。」

そんな風に雪が呟くのを目の前の麻希子の瞳が、更に丸くなって見つめている。ああ、ほんとに可愛い。そんな顔で見つめられると、抱き締めてしまいたくなるのを知っているだろうか。

「1番麻希子が大事なんだ……。」

思わぬ言葉に麻希子が困ったように微笑んで、衛も大事でしょと呟く。確かに息子は息子で大事だけど、麻希子の大事とは別問題でそれを説明するのは難しい。こうして微笑んでくれたけど麻希子の心に、自分の思いの半分も伝わっていないと思った瞬間勝手に手が動いていた。抱き締める腕の中で麻希子が少し震えた気がする。

「泣かせてごめん。」

腕の中の麻希子がしゃくりあげるのが分かった。また泣かせてしまうと分かって、雪は鮮やかな陽射しの射し込む公園の中で麻希子の事を抱き締める。暫く人気が無いのが幸いだった、やがて泣き止んだ麻希子が苦しそうに腕の中でもがく。

「雪ちゃん、ちょっと汗臭い。」
「ごめん。格好悪いね、こんな。」

腕を緩めると麻希子が可笑しそうに笑いながら、雪の顔を見上げて少し緊張が緩んだように口を開く。

「そんなことないよ、起きて直ぐ探してくれたんでしょ。」

微笑みながらそう告げられると、困ってしまうくらいに可愛くて雪はそっとその手をもう一度握る。まるでそれが本当に嬉しいことだと言うように、麻希子が頬を染めてはにかんだ微笑みを浮かべたのに雪は少しだけホッとしたように微笑みかけた。

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