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10月

閑話34.須藤香苗

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夏休みのいざこざの後、自分の視点が大きく変わったのは気がついている。香苗自身驚くほどに前よりはるかに冷静に周囲の事を見られるようになったし、前よりずっと物事が理解できるようになった。自分でも理由はよく分からないが、凄く冷静に物事を見て考える事をするようになったのだ。

多分、あの時自分で考えなきゃ駄目だって言われたから。

そう言った相手は今日も部活動の朝練で爽やかな汗を流しながら、他の生徒の倍もランニングしている。普通なら一緒に走らずにトラックの真ん中に立って、叱咤激励するのが体育教師だと思うのだが。当の土志田悌順は最初っから一緒にランニングをはじめて、時には最初の生徒、時には最後の生徒に声をかけていた。香苗がここで窓辺から土志田の事を眺めているのを、恐らく土志田は気がついていない。何故なら香苗は美術部で朝練とは無縁だし、早朝に学校に来る必要性もないのだ。だから、いる筈がないのに、態々早く来て窓からこっそり眺めている。この癖は2学期に入ってからの事で、駅の反対側の公園に行くのと同じようなもの。そんなことを考えながら香苗は呆れたように、土志田の事を眺める。

おかしくない?あんなに走っててケロッとしてるの。生徒の倍も走ってるんだけど。

体育科の必須なのか基礎体力が違うのだろう悌順は汗はかいているが、息もあげずに生徒を激励しながら走っている。その後のストレッチも他の生徒よりはるかに柔軟で、現役選手の学生なんかよりはるかに動きもいい。あれを毎朝こなしてからの学校って、そりゃ眠くなるし授業を居眠りして結果運動部って脳筋って言われても仕方ないと香苗は窓に頬杖をつきながら眺める。唐突に汗だくの悌順が無造作にシャツを脱いだのに、香苗は驚きに目を見開いてしまう。朝日の中で上半身裸の悌順がバテている生徒にホースで水をぶっかけはじめて、生徒達が声をあげて笑っているのに香苗は目を細めた。

正直楽しそうな声が羨ましい、あの中に自分も最初からいたらよかったけど。

ホースの先から迸る水がキラキラと光を反射して、小さな虹を作る。あんまり水遊びしてると教頭先生に怒られるんじゃって考えた瞬間、予想通り福上教頭の声が校庭に響く。



※※※



学校帰り1人でつい公園に来てしまうのは、偶然でも会えたらいいなんて何処かで思っていたからだと思う。ベンチに踞っている女子高生は少し奇妙だとは思うけど、1度位ここで会えたらここに来るのは諦めも出来そうな気がする。夏よりも少しずつ早く沈み始める陽射しを見上げながら、ファミリータイプのマンションを見上げた。公園に次第に闇が落ち始めると、流石に不安も忍び寄ってくるから香苗はパタパタとスカートを払って立ち上がって歩き出す。

大体にして、平日この時間で先生が帰ることないんだよね。

そう思うと朝の方が出会いそうな気もする。朝だったら学校に向かうんだから、一緒に歩けるかもしれない。そう心の中で考えた瞬間、腕に痛みが走って香苗は悲鳴を上げた。通りすぎ様に突然腕を掴まれ、後ろにねじあげられたのだ。

「久しぶりだな、カナ。」

思わず喉の奥で息が張り付くのを感じながら、香苗は凍りつくような悪寒に肌が粟立つのを感じた。腕を握り乱暴に引き上げたのは、あれから顔を見なかった矢根尾俊一だったのだ。何時もの生活圏では見かけなくなったし、塾も閉鎖されていたからと安堵していた。でも、生活圏が変わった確証はなかったし、最近は1人で出歩いたりもしていなかったのだ。嫌らしい臭いを口から垂れ流しながら、奥歯を噛んで笑う男の顔に前は見えなかった皺が見える。夜の闇で見えない筈の皺が年輪のように酷く鮮やかに、香苗には見て分かるようになっていた。腕が軋むほど力を込めて握られ、香苗は苦痛に顔をしかめた。そうだった、この男は言うことを聞かせる為に、痛いことや怖いことをして相手を抵抗できなくする。公園はもう人の気配もないし、誰かに助けを求めるには人気が無さすぎた。こんな時間までボヤボヤしていた自分が悪いのだけど、このままではまたこの男の好きなようにさせてしまう。

「何だよ、カナ。俺に会いたかったろ?」

カチンと来た。何故全て自分本意で物を考えられるのかと膨れ上がった怒りと、押し付けられ教え込まれた恐怖感。そして、以前のように大人には見えない相手の顔に、頭の芯が冷えて指先が冷たくなっていく。

「会いたくなんか、ない。」
「いい子にしてたら、また楽しいこと。」
「会いたいなんて思ってないわよ!」

こっちの話なんて聞くつもりもない男の股間を、香苗は全力で蹴りあげる。男は情けない声をあげて屈み込んだが、それでも香苗の腕を掴んで離そうとしない。今の一撃で手を離すと思ったのに、それは予想外だった。逃げ出す気だったのに掴まれた手が更に力を込めたので、痛みに悲鳴が溢れ落ちる。最悪の事態に震え上がった香苗を、自分の痛みに顔を歪め矢根尾が忌々しそうに睨むのが分かった。

「お前…。」
「あんた、その手離しなよ。今すぐに。」

冷え冷えとした声に一瞬呆気にとられて、矢根尾がその影に視線を向ける。気を削がれた矢根尾の手が少し力を抜いたのに、香苗はホッとしながらその声の主を見上げた。土志田先生だと嬉しかったかもしれないが、そこにいるのは目立つ金髪にキツイ目付きの以前ここで出会ったことのある青年だ。

「こっちは知り合いなんで、関係ないでしよ?」

何故か矢根尾が怯えながらそう言うのが聞こえる。槙山忠志は微かに目を細めて、キツイ視線で香苗の方を見た。

「なに、こいつ、知り合い?話しあんの?」
「話し、なんて、ない!」

香苗が必死に声を絞り出すと、忠志が矢根尾の手首を掴んだ。

「どっちが本当の話しかな?俺、彼女の友人なんだけどさ?」

矢根尾の顔が恐怖に歪んだのが分かる。掴まれた手首がミシミシと音をたてるのに、遂に負けた矢根尾が香苗の腕を離した。矢根尾が怯える目で青年を見ているのに、香苗は唖然としながらその情けない姿を見上げる。以前は気がつかなかったが、矢根尾は自分より弱い立場の人間を選んで、その上で偉そうにふん反り返っていたのだ。槙山忠志のように強そうに見える相手に逆らう事の出来ない情けない顔を見られても、矢根尾にはどうにも出来ない。

「どうする?しめとくか?」

低い声で言う槙山忠志に香苗が首を横に降ると、彼はそうかと簡単に手を離した。思わず後退った矢根尾が尻餅をついたのを横目に、槙山忠志は気にした様子もなく香苗の腕を優しくとる。

「あーあ、痣になるとこじゃん、痛くないか?」
「大丈夫。」

何気ない2人の会話に矢根尾が、慌てて這いずった後に駆け出したのを槙山忠志は横目に追った。逃げる事を優先した男の姿に呆れたように溜め息をついて、彼はもう一度心配そうに香苗を見下ろす。

「こんなとこに独りで居たら、あんなのに怖い目にあわされるぞ?大丈夫かよ?本当に。」

矢根尾が姿を消したと分かった途端、震えが体を包んだのに香苗は気がつく。姿を見ないからといって気を抜いた自分が悪いのだけど、まさかまだここら辺で矢根尾と出会うとは思いもしなかったのだ。見る間に涙が溢れ出す香苗に、槙山忠志は驚いた様子で目を丸くした。参ったなあと呟く彼が手を引いて連れて行ったのは、何と土志田の自宅で。香苗は予期せぬ事で再び土志田の自宅に上がり込み、既に自宅に居た宇佐川義人に痣になった腕を冷やしてもらいながら忠志に泣き止むまで心配そうに覗きこまれる。そして、帰宅した土志田悌順の唖然とした顔を見ることになるのだった。


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