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10月
閑話35.志賀早紀
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ここ最近になって関係が劇的に持ち直した成果なのだが、孝は合気道の大会に行っても早紀に声をかけてくれるようになっていた。勿論9月の大会のような大きなものだけでなく、小規模の練習をかねたものにも可能な時は早紀は顔を出している。タオルを差し出しても以前のように視線を背けられることもないし、話しかけるのも幼い時と同じように出来るようになった。でも、早紀は良くわかっている。この素晴らしい変化は、正直なところ早紀自身の力では全くないのだと。早紀は自分では孝との間に出来た壁に何も抵抗できなかったのに、それを意図も簡単に崩したのは友達で親友の宮井麻希子の力なのだ。だから、他の人が思うよりもずっと、早紀は良くわかっていて、良く見ている。
「おはよう、孝君。」
「おはよう、早紀。また、智美の分迄お弁当作ったのか?」
甘やかしすぎるなよと言う孝に、孝の分もあると告げると苦笑いして早紀の持つピクニックのようなお弁当を孝が受け取ってくれる。朝の修練で早い真見塚家に孝の分もお弁当を作りますと声をかけているので、孝のお弁当は自宅では準備されていない。わかっているからこその苦笑だが、最近は孝の分だけ他の容器にしないといけないのは正直なところ寂しく感じる。少し孝が疲れたような溜め息をついたのに気がついた早紀は、彼が寝不足の様子なのに気がついた。
「寝不足?生徒会の仕事でもしてたの?」
「いや、昨日少しアクシデントがあって、そのせい。」
生欠伸をする孝なんて殆ど見たことがない早紀は、アクシデントという言葉に心配そうに見上げる。
「アクシデントって?怪我とかじゃないのよね?」
「ああ、何でかな人にぶつかっちゃって相手のスマホの液晶を割っちゃったんだ。」
合気道をやっている孝が、早々人とぶつかって物を壊すなんて話は珍しい。それも丁度文化祭シーズンで普段より忙しい上に、最近の告白騒動も含まれているに違いないだろう。
「最近、中々一緒に食べれなくて皆心配してる。」
「参るよ、本当。何で最近急にこうなんだろうな。」
彼自身の自覚がないだけで、孝はもうずっと以前から女の子の注目の的だった。小学校の時だって中学の時だって、高校になってからも、それは変わらないのは知っている。でも、最近の急激な彼の変化は他人の目を惹くのだ。彼の異母兄に良く似た笑顔は、彼が普段あまり感情を表に出さないように努めていたせいで誰の目にも鮮やかに焼き付く。彼自身そうしようとしていなくても、時折皆と話していて不意に微笑んでいるのに気がつくと見とれてしまう子は山ほどいる。でも、早紀には同時にどんな時に微笑むかが分かってしまうからこそ、彼が何を感じているのか分かってしまう。
幼馴染みってこういうとこが嫌よね。
心の中でそう呟きながら、早紀は彼を見上げる。その視線に気がつかない孝の横顔が、微かに険しく歪んだのに早紀は気がついた。困惑がその顔に広がり、やがて戸惑いが浮かび上がる。
「おはよう、真見塚君、一緒に学校行かない?」
初めての出来事に、隣にいた早紀まで一緒に目を丸くした。今まで登校中に女の子が待ち伏せしていることはあっても、こんな風に親しげに話しかけられる事はない。早紀の存在をまるで見ない彼女の様子も、早紀は驚かざるを得なかった。
「小坂さん、何で?」
同じ学校の制服だが接点がない彼女の名前を孝が知っていて、少し驚くが孝の声がここにいる筈がないと言っているのに気がつく。恐らく昨日のアクシデントはこの子に関連した事なのかと、心の中で呟きながら早紀は溜め息混じりに孝の事を見上げる。孝もどうしたら良いのか分からないようで、答えにつまっているようだ。確かに今から向かう学校迄の道のりを一緒に行こうと言われたら、別に良いよと答えるしかない。彼女はその後も完全に早紀の存在を無視して、孝の横に並んで歩いた。無視しているというより、孝しか目に入っていないといった風の彼女に孝の困惑は深まるばかりだ。早紀だって存在を完全無視されるのは不快だが、孝が困惑しているくらいなのだから何かをするべきではないのだろう。
何かをするべき、こんな考え方が良くないのかしら。
常識ら考えたら、彼女の挨拶もないやり方はとても非常識だ。本当ならそれを叱責するのが普通なのか知れない。それをできない弱さが、結局は孝との壁を知りつつなにもしなかった早紀の弱さなのだ。麻希子のように自覚したから直ぐ告白に行くなんて出来ないし、好きな人が何を考えているか分かるから告白も出来ない。
自分に素直に生きるって誓ったのに。
それでも、夏休み前の事件で早紀自身少しだけ変わった。不条理には屈しないと誓ったのだ。でも、孝が関わる事になると、それは少しだけ昔の早紀に戻ってしまう。結局矢継ぎ早に話しかける早紀の存在を無視した彼女の声を孝の横で聞きながら、早紀は学校まで無言のまま横を歩いたのだった。
「ごめん、早紀。」
乗降口で謝りながら弁当を手渡す孝に、少しだけ微笑んで受け取りながらいいのと呟く。本当は少しも良いとは思っていないけれど、そう答えるのが精一杯なのは仕方がない。金曜日でよかった、少なくとも明日はこんな気持ちにならなくてすむ。そう考えていたのに、話は更に尾を引くことになったのだ。
ここ最近はすっかりお昼に参加できないでいた孝が、とんでもなく不機嫌な顔で久々に階段を上がってきた。ちょうど今日は登校してる智美も一緒のお昼タイムで早紀のお弁当を囲み始めたところだ。麻希子がどうやって早紀が智美の分迄お弁当を作るが判断しているのか知りたがったから、前日に明日は来るの?何食べるのって智美にLINEをしてると教えた。そうしたら、それじゃお母さんじゃんって香苗に突っ込まれ笑いが起きる。そんな時に孝が不公平だと言いたげな顔で屋上に上がってきて、真正面にいた麻希子を見上げ目が合う。
「なんかあったの?」
思わず問いかける麻希子に、皆が孝の顔を見上げて目を丸くする。孝は珍しく不満満載の顔で、早紀の隣に座った。孝は今朝の事も含めて訳が分からないと呟きながら、事の次第を話してくれる。
孝は昨日欲しい本があって駅前の書店までいったらしい。その帰り道に朝の彼女小坂真冬とぶつかって、彼女はスマホを落としてしまった。それでスマホの液晶が割れたから次の休みに携帯会社迄一緒に行く約束をしたんだけど、連絡先を知らないと困るから電話番号を交換したのだ。ところが、そうしたらそこから延々と何時間もLINEが来て、結果として明け方近く迄振り回された。途中でスルーしない辺りが孝らしいけれど、朝の修練で早起きな孝にはかなりの痛手だろう。皆は知らないが孝は必ず毎朝4時には起きて朝の修練をするから、今日は恐らくほぼ寝ていないのだ。
「訳が分からないよ、一晩中ホームの写真の夏椿の話とか。もう寝るのとか、もう少し話したいとか。」
女の子にして見れば好きな男の子とLINEできて、気持ちが収まらなかったのだろう。それに振り回されて寝不足の孝は朝から不機嫌なのに、更に追い討ちを彼女はかけたらしい。朝登校途中に一緒に行こうと声をかけられたのは、流石に孝もかなり驚いたのだ。昔からずっとここら辺に住んでる2人にとっては、学区の子は何となくでも大体覚えている。その記憶にない彼女は、違う学区の筈だからだ。
「えっ、こわっ!」
香苗が正直な感想を口にして、孝が素直に僕の方が怖いと言う。早紀は何とも言えない表情で、今朝の事を思い浮かべる。しかも、今日はそれから休み時間毎に小坂真冬が教室の扉の辺りから見ていて、孝も流石に気分が悪くて仕方がないらしい。
「こわぁ、ガチのストーカーじゃん。真見塚。」
「ストーカーって自覚ないっていうけどね、がんばれ孝。」
他人事みたいに言う香苗と智美に、孝は不機嫌な顔で溜め息をつく。スマホの液晶は割れているのは事実だから明日は、一緒に携帯会社に行かなきゃならないのが苦痛でしょうがないらしい。これで2人っきりで携帯会社迄行ったら、相手は違う意味でとりそうだよねと思わず口にした麻希子に孝は驚いたみたいに目を丸くした。
「違う意味ッてなんだ?!宮井!」
「決まってるじゃん、デートだって思うってことだよ、ね?麻希子。」
「うーん、何かそう考えそうな気配だよね。」
孝の顔が今更だがハッキリと青ざめるのに、流石に何だか可哀想になってしまう。相手の女の子の方もある意味可哀想なのだけれど、麻希子達は相手の子は知らないわけでどうしても孝の方に肩入れしてしまう。
「誰かもう一人男の子と一緒にいけばいいんじゃない?」
何気なくいう智美に、孝は名案って顔をした。確かに一緒に来たのが男の子なら角もたたないし、相手も流石にデートだとは思えない。おまけに携帯を変えるのには付き合える。それでも、新しい携帯に電話番号を移されると、電話番号が相手には残ってしまう問題はあるのだが。少なくとも彼女のデートだと信じる心が、ちょっと早合点だとは伝わるような気はする。関係ない顔でサンドイッチを食べている智美の肩にポンと孝が手を置いたのに、智美が仕方がないなぁって顔をした。
「いいけど、喫茶店で奢って貰うよ?」
それが恐らく最適の方法だとわかっているし、もし女子と一緒に行くとしても孝は恐らく一番には自分を選択はしないのだ。わかっているからこそ早紀は黙りこんで、孝の顔を物悲しい気持ちで見つめる。自覚していないのかなと微かに考えるけど、何処か自覚しているのではないかなと思う。だから、自分が告白するのはきっとずっと後か、永遠にないのだろうとも考えている。永遠にしないと早紀が言い切れないのは、打算的で狡い考えも早紀の中には確かにあるからだ。
本当にそうだと確認できたら、もしかしたら、告げる気になるかもしれない。
それは自分の中では酷く狡い方法だと知っているのに、早紀にはそれしか考え付かない。自分の中にもそんな考えがあるなんて知りもしなかったのに、大人になると少しずつそんなものが生まれて来るみたいだ。悲しげに早紀は心の中で、そう呟いた。
※※※
松理が内縁の夫の久保田にお願いして運ばれてきたのは、ブランデーグラスと呼ばれる特殊な形をしたグラスに大量のフルーツが入ったティーパンチというやつだった。勿論早紀達は未成年なのでお酒は入っていないけれど、溢れんばかりの飾り切りされてフルーツパフェ状態だ。目を丸くした後で3人ともイソイソと写真を撮ってしまったのは言うまでもない。全然甘味を足してないって言うけど、アイスティはフルーツの糖分で程よい甘さだ。珍しく何時もは奥に引っ込んでいる調理担当の青年が顔を出して、カウンターを出てきたのに松理が視線を上げた。
「良二くん、これ裏メニュー?」
「試作品作り始めたばかりなんですよね、反応が知りたくなっちゃって顔出しちゃいました。How 's everything?」
この人が料理全般を作ってるんだって麻希子がキラキラした目で見上げている。お菓子作りが得意な麻希子にしてみたら、それを含めて生活している彼は珍しいに違いない。それにしても英語の発音のしかたは長く向こうで生活していたんだと分かる音で、しかも問いかけた言葉は恐らくサービス業で使う筈。つまりは海外でも調理に関して普段から客に呼び出される度に、表に出て接客もする立場にいたということだ。
「んーと、It was amaing!かな?」
キラキラした目で見ていた麻希子が彼に答えると、青年は答えが帰ってくると思っていなかったらしく少しだけ目を丸くしてニッコリと微笑んだ。麻希子の答えはサービスがどうか問いかける彼に、最上級の誉め言葉に聞こえる。
「It’s my pleasure.」
早紀でも何とか会話の意図を追えるが、横の香苗の方は最初っから英語にはタッチしないつもりのようだ。ブランデーグラスは元々お酒の匂いを楽しむためのグラスで、形がチューリップみたいな独特の形をしている。だが、あえてそれを使ってアイスティーに炭酸水を混ぜ、果物を盛り付けるとかなり華やかに見える。キャーキャーしている3人の姿に彼は満足したようだが、松理の冷静な採算とれるのという問いかけに裏メニュー確定ですかねぇと苦笑いした。どうやらメニュー表に乗せて沢山注文されると、このフルーツティーパンチは全く採算はとれないようだ。結局3人で大騒ぎしている間は孝達はやって来なくて、香苗と麻希子が帰った後残った早紀は松理の顔を眺める。さっきの話を切り替えたのは松理の目に、自分の考えていることが見抜かれてしまったからなのだろう。
「早紀。」
珍しく名前で呼ばれて視線を上げると、不思議な穏やかさを称えた瞳で松理が自分の事を見ている。今年40になった筈の叔母は、見た目だけいえば奇妙な程に若くみえた。
「何を選んでもいいけど、後悔に飲み込まれないようにね。」
「飲み込まれる?」
「後悔に飲み込まれるとね、ぜーんぶいやんなっちゃうの。」
静かな声で告げる松理は珍しく茶化す様子もない。それは松理が経験した何かを思い起こしているように見えて、早紀はその姿を見つめた。
「ぜーんぶ嫌になって家族も友達もぜーんぶ捨てちゃって、また凄く後悔するのだけは、あんたはしちゃダメよ。」
「松理ちゃん。」
松理の存在を未だに両親に告げられない理由は、松理が望んでいないように感じるからなのだと早紀は気がつく。松理はにこやかに笑いながら、若いって良いわよねぇと呟き意味ありげに頷く。後悔は必ずするけど、それに飲み込まれるのは駄目。そう心の中で呟いた早紀の視線の先に、疲れきった顔の孝と智美が姿を見せたのはそんな時だった。
※※※
告白の事は頭の中で何度も浮かんではいた。横を並んで歩くことはできても、これは幼い頃と変わらない只の幼友達の延長線としか孝は考えていない。それを変えたければ自分が動くしかないのも分かっているが、早紀はふと孝の顔を見上げた。孝がその視線に気がついたように、早紀の顔を見下ろししながら可笑しそうな表情を浮かべる。
「宮井、エクレア迄作れるんだな。」
「そうね。」
麻希子が以前エクレアは作るのは簡単だけど、運ぶのに崩れるのが嫌と話していたのを思い出す。それを孝に教えると孝は柔らかい笑顔を浮かべながら、可笑しそうに笑う。そんな風に笑う孝は余り見たことがない。早紀は正直なところ、そんな風に孝を微笑ませる麻希子が羨ましいと思うのだ。
「喫茶店の方が良かったんじゃないかな、宮井がいたら。」
「そうね、麻希ちゃんがいたら、お菓子は問題ないものね。」
ふと早紀は自分達の会話を考えながら、孝の事を見つめた。幼い頃の孝のよく話していた話題と、今の話題を思い浮かべているうちに早紀はその事実に気がついて目を丸くする。
昔からそうよね、タカちゃんは。
そう考える自分の思いには、彼は全く気がつかない。それはずっと孝が当然のように傍に有りすぎたからかもしれないのだと心の中で呟く。
「孝君、告白されてるけど、する気はないの?」
何気なく、そして一番狡い聞き方だと、早紀は自分でも思う。そうは思うけど一番確かな聞き方だった。
「おはよう、孝君。」
「おはよう、早紀。また、智美の分迄お弁当作ったのか?」
甘やかしすぎるなよと言う孝に、孝の分もあると告げると苦笑いして早紀の持つピクニックのようなお弁当を孝が受け取ってくれる。朝の修練で早い真見塚家に孝の分もお弁当を作りますと声をかけているので、孝のお弁当は自宅では準備されていない。わかっているからこその苦笑だが、最近は孝の分だけ他の容器にしないといけないのは正直なところ寂しく感じる。少し孝が疲れたような溜め息をついたのに気がついた早紀は、彼が寝不足の様子なのに気がついた。
「寝不足?生徒会の仕事でもしてたの?」
「いや、昨日少しアクシデントがあって、そのせい。」
生欠伸をする孝なんて殆ど見たことがない早紀は、アクシデントという言葉に心配そうに見上げる。
「アクシデントって?怪我とかじゃないのよね?」
「ああ、何でかな人にぶつかっちゃって相手のスマホの液晶を割っちゃったんだ。」
合気道をやっている孝が、早々人とぶつかって物を壊すなんて話は珍しい。それも丁度文化祭シーズンで普段より忙しい上に、最近の告白騒動も含まれているに違いないだろう。
「最近、中々一緒に食べれなくて皆心配してる。」
「参るよ、本当。何で最近急にこうなんだろうな。」
彼自身の自覚がないだけで、孝はもうずっと以前から女の子の注目の的だった。小学校の時だって中学の時だって、高校になってからも、それは変わらないのは知っている。でも、最近の急激な彼の変化は他人の目を惹くのだ。彼の異母兄に良く似た笑顔は、彼が普段あまり感情を表に出さないように努めていたせいで誰の目にも鮮やかに焼き付く。彼自身そうしようとしていなくても、時折皆と話していて不意に微笑んでいるのに気がつくと見とれてしまう子は山ほどいる。でも、早紀には同時にどんな時に微笑むかが分かってしまうからこそ、彼が何を感じているのか分かってしまう。
幼馴染みってこういうとこが嫌よね。
心の中でそう呟きながら、早紀は彼を見上げる。その視線に気がつかない孝の横顔が、微かに険しく歪んだのに早紀は気がついた。困惑がその顔に広がり、やがて戸惑いが浮かび上がる。
「おはよう、真見塚君、一緒に学校行かない?」
初めての出来事に、隣にいた早紀まで一緒に目を丸くした。今まで登校中に女の子が待ち伏せしていることはあっても、こんな風に親しげに話しかけられる事はない。早紀の存在をまるで見ない彼女の様子も、早紀は驚かざるを得なかった。
「小坂さん、何で?」
同じ学校の制服だが接点がない彼女の名前を孝が知っていて、少し驚くが孝の声がここにいる筈がないと言っているのに気がつく。恐らく昨日のアクシデントはこの子に関連した事なのかと、心の中で呟きながら早紀は溜め息混じりに孝の事を見上げる。孝もどうしたら良いのか分からないようで、答えにつまっているようだ。確かに今から向かう学校迄の道のりを一緒に行こうと言われたら、別に良いよと答えるしかない。彼女はその後も完全に早紀の存在を無視して、孝の横に並んで歩いた。無視しているというより、孝しか目に入っていないといった風の彼女に孝の困惑は深まるばかりだ。早紀だって存在を完全無視されるのは不快だが、孝が困惑しているくらいなのだから何かをするべきではないのだろう。
何かをするべき、こんな考え方が良くないのかしら。
常識ら考えたら、彼女の挨拶もないやり方はとても非常識だ。本当ならそれを叱責するのが普通なのか知れない。それをできない弱さが、結局は孝との壁を知りつつなにもしなかった早紀の弱さなのだ。麻希子のように自覚したから直ぐ告白に行くなんて出来ないし、好きな人が何を考えているか分かるから告白も出来ない。
自分に素直に生きるって誓ったのに。
それでも、夏休み前の事件で早紀自身少しだけ変わった。不条理には屈しないと誓ったのだ。でも、孝が関わる事になると、それは少しだけ昔の早紀に戻ってしまう。結局矢継ぎ早に話しかける早紀の存在を無視した彼女の声を孝の横で聞きながら、早紀は学校まで無言のまま横を歩いたのだった。
「ごめん、早紀。」
乗降口で謝りながら弁当を手渡す孝に、少しだけ微笑んで受け取りながらいいのと呟く。本当は少しも良いとは思っていないけれど、そう答えるのが精一杯なのは仕方がない。金曜日でよかった、少なくとも明日はこんな気持ちにならなくてすむ。そう考えていたのに、話は更に尾を引くことになったのだ。
ここ最近はすっかりお昼に参加できないでいた孝が、とんでもなく不機嫌な顔で久々に階段を上がってきた。ちょうど今日は登校してる智美も一緒のお昼タイムで早紀のお弁当を囲み始めたところだ。麻希子がどうやって早紀が智美の分迄お弁当を作るが判断しているのか知りたがったから、前日に明日は来るの?何食べるのって智美にLINEをしてると教えた。そうしたら、それじゃお母さんじゃんって香苗に突っ込まれ笑いが起きる。そんな時に孝が不公平だと言いたげな顔で屋上に上がってきて、真正面にいた麻希子を見上げ目が合う。
「なんかあったの?」
思わず問いかける麻希子に、皆が孝の顔を見上げて目を丸くする。孝は珍しく不満満載の顔で、早紀の隣に座った。孝は今朝の事も含めて訳が分からないと呟きながら、事の次第を話してくれる。
孝は昨日欲しい本があって駅前の書店までいったらしい。その帰り道に朝の彼女小坂真冬とぶつかって、彼女はスマホを落としてしまった。それでスマホの液晶が割れたから次の休みに携帯会社迄一緒に行く約束をしたんだけど、連絡先を知らないと困るから電話番号を交換したのだ。ところが、そうしたらそこから延々と何時間もLINEが来て、結果として明け方近く迄振り回された。途中でスルーしない辺りが孝らしいけれど、朝の修練で早起きな孝にはかなりの痛手だろう。皆は知らないが孝は必ず毎朝4時には起きて朝の修練をするから、今日は恐らくほぼ寝ていないのだ。
「訳が分からないよ、一晩中ホームの写真の夏椿の話とか。もう寝るのとか、もう少し話したいとか。」
女の子にして見れば好きな男の子とLINEできて、気持ちが収まらなかったのだろう。それに振り回されて寝不足の孝は朝から不機嫌なのに、更に追い討ちを彼女はかけたらしい。朝登校途中に一緒に行こうと声をかけられたのは、流石に孝もかなり驚いたのだ。昔からずっとここら辺に住んでる2人にとっては、学区の子は何となくでも大体覚えている。その記憶にない彼女は、違う学区の筈だからだ。
「えっ、こわっ!」
香苗が正直な感想を口にして、孝が素直に僕の方が怖いと言う。早紀は何とも言えない表情で、今朝の事を思い浮かべる。しかも、今日はそれから休み時間毎に小坂真冬が教室の扉の辺りから見ていて、孝も流石に気分が悪くて仕方がないらしい。
「こわぁ、ガチのストーカーじゃん。真見塚。」
「ストーカーって自覚ないっていうけどね、がんばれ孝。」
他人事みたいに言う香苗と智美に、孝は不機嫌な顔で溜め息をつく。スマホの液晶は割れているのは事実だから明日は、一緒に携帯会社に行かなきゃならないのが苦痛でしょうがないらしい。これで2人っきりで携帯会社迄行ったら、相手は違う意味でとりそうだよねと思わず口にした麻希子に孝は驚いたみたいに目を丸くした。
「違う意味ッてなんだ?!宮井!」
「決まってるじゃん、デートだって思うってことだよ、ね?麻希子。」
「うーん、何かそう考えそうな気配だよね。」
孝の顔が今更だがハッキリと青ざめるのに、流石に何だか可哀想になってしまう。相手の女の子の方もある意味可哀想なのだけれど、麻希子達は相手の子は知らないわけでどうしても孝の方に肩入れしてしまう。
「誰かもう一人男の子と一緒にいけばいいんじゃない?」
何気なくいう智美に、孝は名案って顔をした。確かに一緒に来たのが男の子なら角もたたないし、相手も流石にデートだとは思えない。おまけに携帯を変えるのには付き合える。それでも、新しい携帯に電話番号を移されると、電話番号が相手には残ってしまう問題はあるのだが。少なくとも彼女のデートだと信じる心が、ちょっと早合点だとは伝わるような気はする。関係ない顔でサンドイッチを食べている智美の肩にポンと孝が手を置いたのに、智美が仕方がないなぁって顔をした。
「いいけど、喫茶店で奢って貰うよ?」
それが恐らく最適の方法だとわかっているし、もし女子と一緒に行くとしても孝は恐らく一番には自分を選択はしないのだ。わかっているからこそ早紀は黙りこんで、孝の顔を物悲しい気持ちで見つめる。自覚していないのかなと微かに考えるけど、何処か自覚しているのではないかなと思う。だから、自分が告白するのはきっとずっと後か、永遠にないのだろうとも考えている。永遠にしないと早紀が言い切れないのは、打算的で狡い考えも早紀の中には確かにあるからだ。
本当にそうだと確認できたら、もしかしたら、告げる気になるかもしれない。
それは自分の中では酷く狡い方法だと知っているのに、早紀にはそれしか考え付かない。自分の中にもそんな考えがあるなんて知りもしなかったのに、大人になると少しずつそんなものが生まれて来るみたいだ。悲しげに早紀は心の中で、そう呟いた。
※※※
松理が内縁の夫の久保田にお願いして運ばれてきたのは、ブランデーグラスと呼ばれる特殊な形をしたグラスに大量のフルーツが入ったティーパンチというやつだった。勿論早紀達は未成年なのでお酒は入っていないけれど、溢れんばかりの飾り切りされてフルーツパフェ状態だ。目を丸くした後で3人ともイソイソと写真を撮ってしまったのは言うまでもない。全然甘味を足してないって言うけど、アイスティはフルーツの糖分で程よい甘さだ。珍しく何時もは奥に引っ込んでいる調理担当の青年が顔を出して、カウンターを出てきたのに松理が視線を上げた。
「良二くん、これ裏メニュー?」
「試作品作り始めたばかりなんですよね、反応が知りたくなっちゃって顔出しちゃいました。How 's everything?」
この人が料理全般を作ってるんだって麻希子がキラキラした目で見上げている。お菓子作りが得意な麻希子にしてみたら、それを含めて生活している彼は珍しいに違いない。それにしても英語の発音のしかたは長く向こうで生活していたんだと分かる音で、しかも問いかけた言葉は恐らくサービス業で使う筈。つまりは海外でも調理に関して普段から客に呼び出される度に、表に出て接客もする立場にいたということだ。
「んーと、It was amaing!かな?」
キラキラした目で見ていた麻希子が彼に答えると、青年は答えが帰ってくると思っていなかったらしく少しだけ目を丸くしてニッコリと微笑んだ。麻希子の答えはサービスがどうか問いかける彼に、最上級の誉め言葉に聞こえる。
「It’s my pleasure.」
早紀でも何とか会話の意図を追えるが、横の香苗の方は最初っから英語にはタッチしないつもりのようだ。ブランデーグラスは元々お酒の匂いを楽しむためのグラスで、形がチューリップみたいな独特の形をしている。だが、あえてそれを使ってアイスティーに炭酸水を混ぜ、果物を盛り付けるとかなり華やかに見える。キャーキャーしている3人の姿に彼は満足したようだが、松理の冷静な採算とれるのという問いかけに裏メニュー確定ですかねぇと苦笑いした。どうやらメニュー表に乗せて沢山注文されると、このフルーツティーパンチは全く採算はとれないようだ。結局3人で大騒ぎしている間は孝達はやって来なくて、香苗と麻希子が帰った後残った早紀は松理の顔を眺める。さっきの話を切り替えたのは松理の目に、自分の考えていることが見抜かれてしまったからなのだろう。
「早紀。」
珍しく名前で呼ばれて視線を上げると、不思議な穏やかさを称えた瞳で松理が自分の事を見ている。今年40になった筈の叔母は、見た目だけいえば奇妙な程に若くみえた。
「何を選んでもいいけど、後悔に飲み込まれないようにね。」
「飲み込まれる?」
「後悔に飲み込まれるとね、ぜーんぶいやんなっちゃうの。」
静かな声で告げる松理は珍しく茶化す様子もない。それは松理が経験した何かを思い起こしているように見えて、早紀はその姿を見つめた。
「ぜーんぶ嫌になって家族も友達もぜーんぶ捨てちゃって、また凄く後悔するのだけは、あんたはしちゃダメよ。」
「松理ちゃん。」
松理の存在を未だに両親に告げられない理由は、松理が望んでいないように感じるからなのだと早紀は気がつく。松理はにこやかに笑いながら、若いって良いわよねぇと呟き意味ありげに頷く。後悔は必ずするけど、それに飲み込まれるのは駄目。そう心の中で呟いた早紀の視線の先に、疲れきった顔の孝と智美が姿を見せたのはそんな時だった。
※※※
告白の事は頭の中で何度も浮かんではいた。横を並んで歩くことはできても、これは幼い頃と変わらない只の幼友達の延長線としか孝は考えていない。それを変えたければ自分が動くしかないのも分かっているが、早紀はふと孝の顔を見上げた。孝がその視線に気がついたように、早紀の顔を見下ろししながら可笑しそうな表情を浮かべる。
「宮井、エクレア迄作れるんだな。」
「そうね。」
麻希子が以前エクレアは作るのは簡単だけど、運ぶのに崩れるのが嫌と話していたのを思い出す。それを孝に教えると孝は柔らかい笑顔を浮かべながら、可笑しそうに笑う。そんな風に笑う孝は余り見たことがない。早紀は正直なところ、そんな風に孝を微笑ませる麻希子が羨ましいと思うのだ。
「喫茶店の方が良かったんじゃないかな、宮井がいたら。」
「そうね、麻希ちゃんがいたら、お菓子は問題ないものね。」
ふと早紀は自分達の会話を考えながら、孝の事を見つめた。幼い頃の孝のよく話していた話題と、今の話題を思い浮かべているうちに早紀はその事実に気がついて目を丸くする。
昔からそうよね、タカちゃんは。
そう考える自分の思いには、彼は全く気がつかない。それはずっと孝が当然のように傍に有りすぎたからかもしれないのだと心の中で呟く。
「孝君、告白されてるけど、する気はないの?」
何気なく、そして一番狡い聞き方だと、早紀は自分でも思う。そうは思うけど一番確かな聞き方だった。
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