鵺の哭く刻

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「……私?」

リュウヘイの予想外の言葉にアキコが眉を潜めると、なんでかリュウヘイは空の青さが目に染みる窓の外を一瞬見やりまたゆっくりと言葉を選ぶ。病室の中は奇妙に静かで誰も人が来る気配もない。勿論看護師としてアキコ自身が巡視をしない筈の時間を狙ったのはあるし、ここにリュウヘイがいると教えた刑事が今は監視をしているから人が寄らないようにはしてくれている。それでもある筈の病棟の中の喧騒が、今はとても遠い。

「奇妙なことだよ、あの時…………ああ、おたくに、また怒られるなと思って…………。」

リュウヘイの片方の面しか知らなければ確かに叱りつけるなんて無理だろうけれど、実際にはリュウヘイは一度もアキコに暴力を振るったことがない。というよりも本音をいうとリュウヘイは確かに格闘技を身に付けてはいるけれど、それは全て防衛のためで攻撃を目的としていないのは明らかだ。合気道は詳しくないけれど、攻撃目的なら空手とかボクシングの方が有利だとアキコは思う。合気道にしても他のものにしても身を守れる程度の技能がついた頃には、自分は死にたいのに何をやってるんだろうと慌てて辞めたなんて間が抜けたことをしていたなんて話はアキコしか知らないらしい。

「あら、怒られるようなことをした自覚があるの。なら良かったわ。」
「おたくくらいだ…………俺に説教なんてすんのは…………。」
「当然でしょ?できの悪い息子なんですもの。」

静かにそう笑いながらアキコが言うと、リュウヘイは苦笑いしてアキコの事をまたジッと眺めた。頭はよくて才能もあるのにそれを間違った方向でしか使わないから、出来の悪い息子って言われるのよ。そういいきられてリュウヘイは奇妙な顔をする。何かそうじゃないと言いたげなその表情は、やがてまた元の憂いを滲ませてリュウヘイは低く呟く。

「…………捲き込んで悪かった…………、クラハシのこと。」
「前にも謝って貰ってるわよ?忘れたの?」
「でも、クラハシじゃなかったら…………。」

じゃなかったら何よと眉を潜めたアキコにリュウヘイは今はまでに見たことのない穏やかで綺麗な微笑みを浮かべて、何故か唐突にアキコを引き寄せると驚くアキコの唇に口付けた。アキコが目を丸くしているのにリュウヘイは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔だと低い声で面白そうに笑う。そしてその後リュウヘイは暫くアキコの手をとったままでいたが、思い出した様子で口を開く。

「アキコ、ここいらに残るならカズキのこと頼むな。あいつも長くは生きられないだろうけど。」
「…………言われなくても分かってるわよ、なつかれて可愛くないわけないでしょ。孫よ?」

意味のわからないキスをした癖に理由も告げず、しかも話を変えられアキコが不満そうに言うとリュウヘイはホッとしたようにまた穏やかに笑う。その笑顔は綺麗だけどアキコは本当は、リュウヘイのその笑顔がとても好きじゃない。何もかも諦めて終わりを迎えようとしている笑顔に、何で今更そんな顔で笑うのと怒鳴り付けてやりたいし、何でまたキスなんかしたのと問い詰めたい。また来るわと立ち上がったアキコの背に向けて、リュウヘイはその笑顔のまま突然言ったことのない言葉を口にした。

「なぁ、母さん。」

一度だってそう呼ばれたことはないし、大体にしてアキコとクラハシシュンジは夫婦としての実態のない契約結婚。一応リュウヘイはか影では認知はされていて彼にすれば義理の母ではあるが、年も近い二人は元セフレだ。だから今までもアキコは兎も角、アキコとかおたくとしか呼ばなかった男に、急に母親呼ばわりは正直不快を通り越して奇妙すぎて笑える。思わずアキコは何よ・急に気持ち悪いと笑いながら、振り返ってそのベットの上の男を眺めた。
その瞬間。
寸前にアキコはリュウヘイが、気にかかる言葉を放っていたのに気がついてしまう。
アキコがシュンイチと初めて出会った頃には、リュウヘイは既に完全な悪人として街の裏側で生きていて接点は全くないのだった。それでも今でも分かる通りリュウヘイはしなやかで綺麗な顔をした男前で、病床で窶れて見えてもそれは余り変わらない気がする位である。ただ以前のような黒い怨念めいた滓はなく向こうが透けてしまいそうな程に無垢で、アキコは思わず眩しげに目を細めてしまう。まるで生まれ変わろうとしている蛹のように、そして儚く散りかけている花のように脆く触れたら壊れてしまいそうだ。

「…………やめてよ、急に。」

そう呟くようにいいながら何故かアキコは、頭の中で残酷な結末を囁く声を聞く。リュウヘイは「あいつも」と告げていた。「あいつも長くは生きられない」とハッキリと口にしたリュウヘイは、それより自分が長く生きられないと既に諦めているのだ。そして病とは違うものの理由にそれを否定したくても、アキコはそれが既に確定された真実で覆せないのも本能的に理解できていた。そしてシンドウリュウヘイもそれを知っているように、初めて子供のような明るい微笑みでアキコにこう告げたのだ。

「色々ありがとう。…………母さんのことが、好きだったよ。」



※※※



ヒョウ

物悲しく低く尾を引くように何度も哭く。

好きだったよ

そんな言い方は狡いと分かっていても、あれが彼なりの精一杯だとも分かっている。わかってしまうのは、一時確かに自分は彼の母親になっていたのだったからだ。悲しく憐れな我が子。両親に望まれずにこの世に産まれて、しかも両親に疎まれ、母親に殺されようとした憐れな子供が、最後に好きだと告げたのは実母なのか、それとも義母なのか、アキコなのか。アキコにも本来は産まれる筈だった子供がいて、その子供を疎んで殺したのは実の両親のアキコとシュンイチだったのを思い出してしまう。それを知っていてその子供の言葉でもある気がして、その言葉を残す男が悲しくて愛しい。

ヒョーウ

夜でもないのに力任せに哭きたいだけ哭く。そんなことをしたら危険だと分かっていても、今の自分には力の限りに哭くしか出来ない。きっとあの言葉はそのどれもが当てはまり、あれがひねくれた彼なりの最後の素直さなのだ。そんな風にしか生きられなかったのはリュウヘイのせいではなかったのに、もし以前のアキコが持っていたシュンイチに向けたような固執めいた愛情を、昔からそのままシンドウリュウヘイだけに自分が向けていたら。もし出会ったのがシュンイチではなくリュウヘイだったのだとしたら。そうしたら自分もリュウヘイも、シュンイチですら別な人生を生きたのかもしれない。そんなことは有り得ないとわかっていて、もしもを幾つも考えてしまうのはこの結末が途轍もなく寂しく哀しいからだ。可能なら否定して塗り替えてしまいたいと、この結末を自分は酷く後悔してもいる。

ヒョーウ

どんなに力強く泣こうとしても、もう絶対に戻ることは出来ない過去。それでももし願う通りに過去に戻ってやり直せていたとしても、恐らくそうしたらアキコは関東には来ないし、シュンイチにも出会わないからリュウヘイにも会わないままになる。この結末になる未来を選ぶしかシンドウリュウヘイには出会わないのだから、このリュウヘイの死の結末という運命も何一つ変えられない。
力任せに哭きたいだけ声が嗄れるまで哭く。自分の存在意義がこの声で哭けば悪いことを呼ぶと言われていようと、これ以上の悪いことはシンドウリュウヘイには起こらないし、リュウヘイは死を望んでいて死への恐怖もないからそれを滓として自分が少しでも取り除いてやることも出来ない。自分はリュウヘイにはもう何もしてやれないし、リュウヘイが青い空を見ながら今まさに次第に息絶えようとしているのをこの自分は知っている。

ここ迄して何かをしてやりたいと願うのが、実のところ何故なのか分からないでいた筈なのに

親子だから?セフレだから?様々な理由を思い浮かべたけれど、一番ふさわしいと気がついたのはリュウヘイの残した言葉の示す感情だった。

好きだから…………

純粋に初めて好きだからと言うだけで、他人に何も対価を求めず何とかしてやりたいと願った自分に驚く。シュンイチの時に求めた自分への愛情もいらない、自分の存在意義なんてどうでもいい。こんな時になって彼が好きで愛しいから、何か助けになりたいと願う自分に気がついても遅いのは分かっていた。何故ならもうリュウヘイはリュウヘイとしての、最後の時を迎えようとしているのだから。

碧い…………吸い込まれそうなほど…………宝石みたいだな…………

何故か途切れていく意識でそんなことを考えながら、希望も何もなかった人生にリュウヘイはほんの一片の小さな後悔を残して死んで行く。アキコのことをかんがえているのか、可哀想な息子のことを考えているのかも教えてもくれない。その後悔が何なのか彼は自分にはひたすらに隠し通す気なのを感じ取って、少しだけその強情さが憎らしくなる。こうやって自分が特別な力でリュウヘイの最後の時を共有して覗き、滓として滲む筈の死への恐怖を拭い去ろうと自分が足掻くだろうということを、リュウヘイはきっと知っているのだ。

狡い。私に何かさせれくれてもいいじゃない。

共有して伝わるだろう想いで囁きかけるのに、リュウヘイは苦く微かに笑うだけでやはり何もさせてはくれない。現実の身体で傍にいて上げられないから、せめてこうして母親として何か出来ることをさせてと自分が必死に願うのに、それすらこの男は叶えさせてはくれないのだ。おたくは母親ではないと言いたげに、その癖自分にこうして最後を刻み込むように見せつけて

もっと………………はや……………………て、………………た……ら…………

鮮やかな空の見える窓を見上げるようにして、リュウヘイは最後の言葉すら濁して遂にこと切れた。ほんの一片の後悔以外には何一つこの世に思いを残さず、手を伸ばしたその魂はまるで羽根のように軽くて、アキコの身内のような黒い影になる気配もなく、本当に滓一つすら纏っていない。まるで赤子のようなリュウヘイの無垢な魂を見つけ、自分は思わずそれを引き寄せ口にした。

………………甘い

自分は人間ではない。そう認めるのは簡単だが、それをして来なかったのは必要がなかったからでもあった。滓を吸収すれば後は人間と何も変わらず食事もして睡眠もとり、生活していけるのだから、人間として生きていても問題がない。少し他の人間と比較して異様に歳の取り方が鈍いのと、感情の起伏が目立たないだけで仕事も出来るし問題も起こしていないのだ。よっぽどヤネオシュンイチよりは人間らしく、扱いやすい存在だった筈。それを根本から覆してしまうのは、こんな風に人の魂と感覚を共有して、しかもその魂を認識して食らうという行為だ。
分かっていて自分が死んだシンドウリュウヘイの魂を飲み込み迷いもなく喰らうのは、それが遠くに儚く消えるのが嫌だったから。自分には天国や地獄なんてものが何処かに存在するのか分からないが、本当のアキコの魂が沈んでいってしまった水面の底に、リュウヘイを一人で行かせたくなかった。暗く暖かとは言え音のない世界に、リュウヘイを独り逝かせるのは嫌だ。同時にアキコの体にアキコとして潜んでからは滓を食らうことはあっても、人の魂まで喰らうことなんてしたことがなかったのを覆す危険性は分かってもいる。この姿で生きられなくなるかもしれないし、アキコでいられなくなる可能性も高いとちゃんと知っていた。

ヒョウ

牙をたてず噛みつくこともなく傷つけないように、ただ柔らかく胎内に納めるようにリュウヘイをそっと飲み込む。その後に訪れた全身が力に満ちる感覚は甘美で、同時に酷く悲しくて切なかった。我が子の魂を喰ってまでここに引き留める鬼のような………………いや生き物ですらない異形の親。それでも彼を独りぼっちにしたくなかったし、彼が居なくなったことが酷く悲しかった。
シュンイチと別れた時には何一つ感じなかった感情。
同時にこれで良かったとも思ってしまうのは、リュウヘイはこれから先は長くは生きられないのを知っているからだ。リュウヘイにはもう生きるつもりがなくて逮捕されて死刑になるのを待つだけで、それが少し彼の願い通りに早く終わっただけなのだと言い訳する。

ヒョウ、ヒョーウ……

それでも言い訳しようと、こんなにも訳もなく酷く悲しい。あの時アキコの胎内にいた子供をいいなりになって殺してしまったのと同じくらいに悲しくて、それ以上に今の自分の中は完全な空虚になってしまったようだ。これが母性なのか、それとも違う感情なのかはどうでもいい。
そう感じながら自分は射干玉の闇に向けて、物悲しく何時までも哭き続けていた。
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