鵺の哭く刻

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予後

155.

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ヤネオシュンイチは先んじて手を出して殴ったのに反射的に相手から殴り返されて、しかも反動で背後に倒れ込みゴヅンとアスファルトに頭を打ち付け道に不様に大の字に転がっていた。昔からそうなのだ、威勢はよくても腕力で敵わなければ、シュンイチはただのお坊っちゃまで何の力もない。虚勢を張って強く見せかけるだけで、その本質は臆病な人間なのだ。もし街中で絡まれたら、逃げると豪語するような弱い人間の癖に、女や子供にだけは暴君になる。そう思ったと同時にシュンイチはアスファルトに寝転んで大の大人が、駄々っ子のように奇声をあげ始めていて周囲は不快そうに眉を潜めている。この騒ぎに誰かが通報でもしてくれたのか、遠くから制服の警官達が駆けてくるのが見えた。酔っているわけでもないし周囲にも随分目撃者もいるが、この男は一体なんなんだと誰もが呆気にとられて見下ろしているのにシュンイチは気がつきもしない。

こんな男のせいでアキコは死んだ、何度も何度も繰り返して苦しんで、死んだ

そう頭の中で思った瞬間、カザマショウタの背後に庇われ突然アキコは声をあげて笑い始めた。甲高くある意味狂気すら感じられる高い笑い声に、一瞬誰もが恐怖で彼女もおかしくなったのかと焦りながらアキコに視線をむける。しかし、そこにはギラギラと瞳を輝かせてはいるものの、男を冷え冷えと凍った硝子玉の視線で笑うアキコの理知的な顔がある。決して狂ったわけではない、完全に男を観察して侮蔑に満ちた視線。

「なんなの?あなた、その情けない格好。」

冷たく吐き捨てるようなアキコの言葉が、シュンイチの行動を凍りつかせた。そうして男はポカーンとしたように彼女の事を見上げたまま、何も言えずに駆け寄ってきた警察官二人に引きずり起こされる。真正面に見据えられた男を、アキコはカザマの肩越しに上目遣いに睨み付けた。ここにいるのがカザマではなくシンドウリュウヘイだったら良かった、そう思うのは自分の中でも良く知りもしない男の背後に隠れて偉そうにとは思うからだろう。同時にリュウヘイだったらなんて考えている自分は、リュウヘイに特別な思いもあるに違いない。

「あなた、その情けない姿でまだ私をどうにかできると思ってるの?馬鹿なの?それともおかしいの?」

過去に『アキコ』をあれ程までに支配していた頃のシュンイチは、身嗜み位は酷く気にかける人間でアキコにも好みの服を着せようと煩いほどだった。日々髪の毛を気にして天然のうねりが嫌で常にキツいストレートパーマをかけて、アキコの何十倍も見支度に時間をかけていた筈の男。ところが今のシュンイチは髪もボサボサで服もこ汚く、無様で無力で醜いだけ。

「アキ……。」
「言ったでしょ?その気持ちの悪い呼び方しないで、人にたかるしかない屑の癖に。」

アキコの吐き捨てた冷ややかな言葉にシュンイチはハッと我に返って、自分の両側を押さえる警察官に目を向け突然暴れ始める。カザマに庇われるようにして立つアキコの氷のような視線でその姿を見据えてかるのに、シュンイチは尚更子供のように駄々を捏ねて叫び続けた。結局シュンイチは最終的には引きずられるようにして警察官に引き摺られて行く破目になり、こちらまで身分証明をしてカザマと一緒に事情を説明に行くことになる。



※※※



警察に事情を話すのはやむを得なかった。
ヤネオシュンイチがクラハシアキコの元夫なのは、少し調べれば分かることだ。しかもアキコはシュンイチの性的暴行を含むDVの後遺症で、数年前にもPTSDの診断も受けている。お陰で既に別れてからは十年以上が経つのに、未だに男性の怒鳴る声を聞くだけで体調を崩したりしてしまうのは事実だ。それでもここ近辺今になって暮らしていたのは訪問看護師の仕事をしていて、偶然在宅の看護を必要とするクラハシシュンジの夜間看護を受けたのが切っ掛けと説明した。まさか正直に自身のスピリチュアルな世界の話を進んで警察にするほど、アキコも間抜けではない。

「あの男は、私を暴力で支配して金銭までむしりとっただけでなく、私を奴隷として契約書を書かせようとしてました。何年も支配されていたので、あの男の性格は分かってます、だから避けてはいたんです。」

アキコは穏やかに淡々とそう告げる。勿論噛み合わない部分もあるだろう。過去に関東から逃げだしていたのに、何故今になってまたここに戻ってきたのかと聞かれてもこれ以上の説明はしないつもりだ。何しろ本音はシュンイチの生死を確めに来たのと、このアキコと言う皮を被ったモノが飢餓に負けたのだとは説明のしようがない。それに相手の生死を確めていて動向まで探りだしておいてアキコがその後も東北に戻らなかったのは、正直言えばアキコの後者の理由もあるのだとは当然説明できないのだ。

リュウヘイやカズキがいるからここにいると言って良いのだけれど

何しろシンドウリュウヘイもミウラカズキも警察にとっては、確保するべき人間なのは十分理解しているからアキコとしては中々この場では説明できない。恐らくはカザマはアキコが二人に関係しているのを既に知っているのだけど、アキコがここにいる理由までは知る筈もない。

…………滓のためだけ…………とも言いきれない…………

実は滓が誰にでも存在する可能性に気がついてはいた。つまりは東北に戻っても上手くやれば、飢餓には陥らない方法は存在するかもしれないのだ。滓にもアキコが喰らえるものと喰らえないものがあるけれど歩いていて滓である影を見分けられる目を持ってしまえば可能性はあるが、それでもここからはなれないでいるのは

…………今はリュウヘイのことが気になる……

もし、今度姿を見せたのなら実はリュウヘイに確めてみたいことがある。そんなことを独り頭の中で平行に思考しながら、警察官の同情の視線を浴びていたのに気がつく。確かにあんな無様な中年男に暴力で支配されて搾取されてきた女ですと自分からのべているのだから、憐れに思われても仕方がない。

「貢げとかなんとかと言うのは…………?」
「元々あの男は勤労意欲がないので、私や夫婦の貯金を遊興費にしてましたから。使い込んで両親には私が使い込んだと言っていました。使える金が無くなったところに、運悪く見つかったんだと思います。」

嘘は何一つ言っていない。アキコの貯金だけでなく夫婦の貯金を使い込み、自分の親にはアキコが盗み使い込んだとシラをきるような人間。尚且つアキコの給料で暮らし遊び歩き自分は働かなくていいように、アキコを脅し抑え込み追い込もうとしていた。それの証明があのおぞましい奴隷契約書たが、聞けば聞くほどあの男なんなんだと誰もが唖然とした顔をしている。嘘はつかないし、感情的にもならない、化粧っ気もないのにツルリとした玉子のような肌をしたアキコは、周囲の視線が実は訝しがっているのにもその時になって気がついてしまった。

…………そりゃそうよね、取り押さえた老人に差し掛かったみたいな男と、私は一つしか年が違わない。

童顔なのでと誤魔化しようにも、こんなにも冷静に淡々と話すようでは重ねてきた年月の存在は誤魔化しようもない。それでも実年齢と見た目が噛み合わないのは昔からずっと言われ続けてきたことだけど、ここ最近は身の回りが騒がしいから尚更なのだ。ただ結局カザマがアキコのことを知っているのもあって、お陰でアキコは早々に解放されていた。

「ご迷惑おかけしました。」

丁寧に頭を下げてから視線をあげたアキコは気がついたように、思わず家が直ぐですからと呟く。言われたカザマは言葉の意味が分からなかった様子だったが、アキコが殴られたところと呟いたのに手当てをすると言っているのだと気がついたようだ。既に半年ほど前になるのだが、まだアンナとルームシェアをしていた頃、カザマは一度アンナに会いにアキコのマンションに来ている。結果としてはアンナを泣かせたのをみたからアキコに喧嘩腰でマンションから叩き出されたこともあるのだ。それでも真面目なのか何か他に意図もあるのか、カザマは素直に従って今のマンションまでやって来た。以前アンナと一緒にいた場所より、遥かに狭く質素で簡易的な部屋の床にカザマは大人しく言われるまま座る。看護師の手慣れた手つきで救急箱を片手に、アキコは一つ深い溜め息をついた。

「ちゃんと見つからないようにしていたんだけど、少し気を抜いてました。年が明けて姿を見なかったから……。」

疲れきったその声にアキコが、警察では言わなかったが以前からここいらにシュンイチが住んでいたのは知っていたのが分かるのだろう、それにはカザマも既に気がついていたようだからこれにはなにも言わない。ただ同時に何故かアキコはシュンイチが行方不明で、届け出を出されていたことも知っているかとカザマの視線が自分を見つめている。アキコのここまでの対人関係ではシュンイチの両親とも完全に絶縁しているに違いないのは分かるだろうから、そうなると誰か別な情報源がいるのはバレてしまうかもしれない。話ながらも淀みなく手慣れた手当ての仕方を眺めて、アキコが看護師だったことを実感したのかカザマは何気なく視線を動かした。

そういえば……前の家の時…………

以前のマンションに居た時、リュウヘイに使わなくていいからリビングの目立つところにブランドバックを置くようにと頼まれて置いていたのを思い出すと少し可笑しくなってしまう。まるでゲームのように様々な準備をして置いて相手に見せつけ、相手が自分の思う方向に思考を向けるようにさせる。ミスリードというやつなのだけど、そう言う方法がリュウヘイの好みなのだ。というのもリュウヘイ曰く、人間は自分が確認して考えたことには中々疑うことをしないのだという。幾つもミスリード出来る種を仕掛けて置いて、まんまと引っ掛かるのを待つというのは、潤沢に資金がないと出来ない方法だなと今更気がついて笑いそうだ。

「少し染みると思います、切れてますから。」

そう笑わないようこらえつつ、アキコは静かに言い淡々と手早く処置する。アキコの家の救急箱の中は今時包帯や滅菌ガーゼ、消毒薬など普通の家庭に置かれるには仰々しく潤沢な品揃えだが、アキコは慣れた手付きでそれを迷いもなく使う。それを見た瞬間、カザマは納得したように口を開いた。

「…………アンナの傷の手当てをしてくれたのは、あなたですか?クラハシさん。」

その言葉に視線を向けると、カザマの瞳が真っ直ぐに自分を見ていた。
冬ごろまだウエハラアンナが生きていた頃、彼女から助けてとアキコに電話がきたのだ。怪我をしたから助けてと泣き出しそうになりながら言うアンナを、その時既に一度縁を切ったつもりだったがアキコは咄嗟に助けに行った。

「ええ、彼女から電話を貰ったので助けにいきました。」

もう隠すことでもない。何しろ彼女はそれから暫くして死んでしまったのだから、ここで隠しても何も変わらない。何処まで助けに行ったんですかと問いかけられたから、素直に駅前の北東にある繁華街・通称では花街と呼ばれていてキャバクラとかが並んでいる通りまでと答える。
アンナの怪我はかなり酷かった。それにそれをしたのが誰か聞いたら余計に、病院に任せて放り出す訳にはいかなかった。その傷はカズキがやったのだと言うのだ。それにウエハラアンナは様々な理由があって、そう簡単には病院にかかれない状況でもあったし。

「傷はカズキがやったとは言ってましたけど、カズキが助けてくれたとも言ってました。」

リュウヘイがアンナを邪魔だと感じていて殺そうとしていたから、咄嗟とは言え機転を利かせて足を刺してアンナを逃がそうとしたのだ。ところが、残念なことにカズキは力の加減ができなくて、かなり深く刺してしまったのだと思われる。それでもお陰でリュウヘイの殺気を逸らすことになって、カズキの刺した傷が手加減もないのもだったからアンナは上手く危険を回避できたと話していたという。

「あそこに…………シンドウが?」
「リュウヘイはカズキを迎えに行ったんです。心配だったんでしょうね。」

予想外の言葉にカザマはガーゼを当てられながら目を丸くする。そうだろう、リュウヘイは一見自分を極悪人に見えるようミスリードを仕掛けて装い続けているから、世の中の人間は大概ねシンドウリュウヘイ=血も涙もない極悪人だと考える。しかもアキコの目の前の相手は刑事で、実はリュウヘイやカズキを追いかける側の人間なのだ。

「それ、話していいんですか?」
「リュウヘイは何も隠さなくていいといいましたから。向こうが年上ですけど一応息子なので、言うことは信じることにしてます。」

リュウヘイはアキコに東北に戻るのかと問いかけた時、警察や誰かに自分のことで何かを聞かれたら何も隠さず話していいと告げた。どうしてと問い返すと、自分も隠す気がないし隠したくてやってないからいいのだと言う。確かにリュウヘイは死にたがりで、その準備をしているようなものだからそうなのだろうとアキコも納得したけれど、それでも警察では言わなかったのは自分も巻き込まれるのが分かっているからだ。
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