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丁度色々と気にかかったりすることが次々と身の回りに起きていて、シュンイチとしても多々ストレスが溜まっているところだったのだ。何とも表現のしにくい事ばかりが自分の身の回りに起きていて、それは実は下手をすると自分の頭がおかしいのか、それとも現実なら異世界にでも紛れ込んだのではというようなことばかり。バイト先の塾の講義中に滑って利き手の骨を折ったり、何だか不気味な道で道に迷うというか通り抜けてるというか妙な現象を経験したり、勤め先の塾が火事になって潰れてしまったり。まあ、火事の件は密かに放火犯の疑いをかけられたてもいるのだが、その前の道を通り抜けるという不思議体験のお陰で火災が起きた時刻に現場周辺にはいられないのがあっという間に証明されて助かったのだから強ち悪い事とばかりは言えないが。
大体にして骨を折ったのもおかしな事態で、ただ講義をしながら教壇で動いたら一瞬足元が抜けたのだ。意味が分からないだろうが、歩いたらスコンと足元が真っ黒な穴になっていた。そして足をとられて倒れ込んで起きたら、何と足ではなくて手首が折れていたのだ。当然講義中だからと全力で労災をアピールしても、生活に大きな支障があるわけではないからと入院もなく手当ても貰えていない。
馬鹿にしてやがる…………
そして最近あの性奴隷二号を失ってからというものの、シュンイチの身の回りはまた少し奇妙な空気に飲まれていた。勿論土蔵の夢は相変わらず見ないままで、あの子供達は現実には姿を表さない。それなのに何故か何かが、周囲を彷徨いているような感覚がある。
そして更に奇妙な出来事が幾つか身の回りで起き始めていた。一番奇妙なのは時々子供にしか書けないような、大人には見えないような高さに書かれた文字をシュンイチが見るようになったことだ。しかもそれた見た後、妙なことに自宅までの帰宅時間が短縮される。馬鹿な話をしている?短縮されるならいいことじゃないかって?どうだろうか、本来三十分とか四十分とかかかるべき距離が、測ると十分とか五分で移動してしまう。次第に短くなる時間の理由も分からないのに、続く不可思議な現象にシュンイチはこのまま何時かは自分が行方不明になりそうで不安になっていた。
見ないようにしても接しないようにしてもいつの間にか、近寄ってきていてすぐ傍にいる。
ある意味それはアキコのようだと時に思うことがある。気がついたらシュンイチの居心地のいいように外堀を埋められていて、気がついたら泥沼のように沈み混んでいて、当人は自分を笑いながら見下ろしているような。そんなことがジリジリと繰り返されて、他にも幾つも奇妙なことだと感じることも多い。それなのに自分は巻き込まれても何とかなるのではとも、何故か考えてもいる。だからなのかアキコをもう一度手に入れたらもとの生活に戻れるという考えも捨てられないし、アキコは必ずこの街に戻ってくるとも考えていた。
アイツは…………絶対に戻ってくるとも
何故確信をもってそう言えるかは分からない。既に離婚して十年が経っているし、その間一度も連絡を取ってもいないのに、何故か生きていようが死んでいようがあの女は必ずこの街に戻ってくると予言めいた確信をもっていた。最近では薄情な事に友人だけでなく家族も自分に構いもしないけれど、それでもそう信じてこの街から離れず暮らしているのはそのためなのだ。
まるで……呪われてるみたいだ…………
時には自分の事をそう思う理性もあるが、それでもアキコをもう一度手にいれるのは自分にとっては揺るぎない目標になっている。だからこそこのままここで待ちながら調教の腕を上げて、アキコが二度と歯向かえないようにしてやらないとならない。
そんな時随分久々にハルカワから唐突にメールが来たのだ。
《ヤネオさん、ご無沙汰しています。今度は星光ゼミナール講師OBで飲み会をすることにしました……。》
突然の連絡だったが、もうコバヤカワ達との縁が遠くなってからも十年もたとうとしていた。シュンイチは電話番号もメールアドレスも変えていないから、送ってこない彼らの方が縁遠くしていたのだが変わった様子もなくハルカワは丁寧な口調でメールしてきたのだ。
正直自分は年齢を重ねた渋さが増したくらいで見た目には殆んど変化がないが、周囲の奴らがどれ程劣化しているかは興味かないわけではない。だから、奴らから「変わらないねぇ」という言葉を聞くのもいいかと、行くと返事をしたのだった。
※※※
「やぁ、ハルカワだろ?お前。」
その言葉が聞こえて、アキコはコッソリとその声の主を物陰から盗み見る。一人でこんな賑やかな居酒屋に入るのは正直ハードルが高かったが、待ち合わせでと言えばスムーズだし実際にここにアキコの知人を呼んであるから嘘ではない。視線の先では先に集まっていたコバヤカワ達を含む数人が小上がりで既に先に飲み始めていて、そこに姿を表しそう声をかけた人間にハルカワが訝しげな声をあげた。
「えっと、どちらさんすか?」
「え?何言ってんだよ……。」
アキコの席からでは上手く見えない来訪者の姿を、身体を反らしてまるで入り口を見る体で盗み見たアキコは、内心ゲッと心の中で自分が不快感の声をあげたのに気がつく。次第に普通以外のものが見て判別できるようになってきているアキコの眼にも、そこにいたのはなんとも異様な姿をしたものだった。
真っ黒…………
真っ黒な影を背中から生やし、まるで背後からもう一人分の頭が肩から覗き込んでいるような珍妙な姿。マトモな人には幸か不幸か背後から生えている頭の方までは見えないだろうが、最悪ちょっとそういうものが見えるような人間には肩にへばりついた黒い人影のように見えるかも知れない。どちらにしてもアキコから数メートルの距離なのに、顔がまるで判別できない真っ黒な影の塊に顔の辺りを飲み込まれた誰かがシュンイチの過去の友人達に声をかけていた。
声は変わらないから分かるけど…………人相は……これじゃ分からないわ…………
とは言えシュンイチの友人達の方はアキコとは違う。だからその黒い影男がシュンイチであれば彼の顔を見て久しぶりと話しだすのだろうと思ったのに、何故かその場には奇妙な空白の無言が漂った。何気なく視線をグラス越しにして見ると、彼らの方も現れた影の塊の男を訝しげに見上げていて言葉を失っているのだ。年を重ねて太ったとか人相が変わったとかの範疇ではなく、完全に不審な人間を見る視線で胡散臭そうに男を見ている。
あれ?…………ヤネオじゃないの…………?
人相や姿は黒い影のせいでアキコにはまるで判別がつかないが声は聞き取れて、しかもアキコは耳も記憶力も抜群にいいのだ。それでもコバヤカワを始めとした彼等は、あのシュンイチの声で話す相手をヤネオシュンイチと認識はしていない。
「間違いました。」
余りの視線の気まずさに咄嗟に取り繕うように告げてシュンイチの声をした男は頭を下げ、そそくさと周囲を探すようにしてその場を離れた。
「おじさん、気を付けなよ?」
アキコの記憶にあるより年を重ねて少し貫禄をつけているコイズミが笑いながらいうのに、アキコは身体を縮めて逃げるように辺りを見渡すふりで歩く男を眺める。男は間違った体で歩いてはいるが実際には誰を探しているわけでもなく、状況が理解できていないだけに見えた。何しろハルカワと名前で声をかけていて、それに間違いましたも何もと思うが。
「…………あー、なんか変な空気だな、変なじいさんに声かけられてさ。」
「あ、俺トイレ。」
数人が連れだって小上がりから腰をあげそんなことを口々に話すのに、アキコは思わず目を細めた。あの黒い影は既に何か普通の人に作用する程に濃いものらしく、どうやら彼らにはヤネオシュンイチらしい男が老人に見えたようだ。そんなことをボンヤリと考えていると、ポンと肩を叩かれて待ち合わせていた男がやって来たのに気がつく。
「捜し人は見つけられたのか?アキコ。」
「そうねぇ…………半分……?……見つけたってところよ。」
なんだそれはと目の前の顔色の悪い背の高い男は、仕立てのいいスーツ姿でアキコと当然のように向き合うように座る。それはまるで恋人同士の待ち合わせに見えなくもない。
男の名前はシンドウリュウヘイと言って、アキコがこの街に戻ってきて直ぐに出会った男だ。
この男は本当に奇妙で何時も災厄を周囲に身に纏っているような人間で、密かに苦しんでいたアキコには渡りに船。しかもアキコが普通と違うのも容易く理解した上で、そのまま友人として平然と交流してくる。その体には常に滓のように災厄に纏わる恐怖や怨みがこびりついていて、思わずアキコの目の色が変わるほど。そんなシンドウリュウヘイはその災厄の気配を自分から生み出して身につけ、自分が早く死ぬのを待っているという途轍もない変人だ。
「また悪どいことしてるの?」
「俺はしてねぇよ、計画して唆すだけだ。」
「それが悪どいの。」
社会的に完全に違法の範疇に生きている男なのだが、何故かアキコにはその類いのことは何もしてこない。しかも気が向いたのか何故か自分の身の上話まで聞かされて、その人生を何と無く可哀想にとアキコは思ってしまった。
ある意味ではリュウヘイの親からの扱いはシュンイチとも似た部分があったのではないかと思うし、それに抗おうとして今のように育ってしまったがリュウヘイなりに基準は明確だ。今のこの仕立てのいいスーツ姿も、リュウヘイがしてきた努力の結果でもある。彼の半生は恐らくアキコが知っている誰よりも遥かに残酷で無慈悲で、しかも死にたいのに死ねない男。
…………おたくこそ、ロクデナシの世話をやいて苦労するのが性根にしみついている。
反対にアキコの半生を聞いた、リュウヘイの感想がこれだ。リュウヘイに言わせれば、自分だったらそんな屑は煮ても焼いても役に立たないからさっさと始末するし、録でもない親にはキチンと代償を支払って貰う。アキコが何も反撃しなかったのはお人好しにもほどがあるし頭がいいのに時間の無駄遣いとまで言われたのだ。思わずそうかもねと納得して笑うアキコと、死にたがりのリュウヘイはそこから持ちつ持たれつの関係を続ける事になった。
互いのことをキチンと理解しているから余計な干渉はしないし、性関係は本能的に欲しくなった時程度
シュンイチとの関係がこの形だったら、もしかしたら今も二人は別れずに夫婦として暮らしたかもしれないと時には思う。ただ性的に言えばリュウヘイはSMに興味がないから最初の前提からして無駄な話ではある。
※※※
顔を見て相手が誰だかしっかり分かっていて話しかけた。それなのに何人もの眼が硝子玉のように無機質に自分を見つめて、シュンイチは背筋が冷えるのを感じて咄嗟に間違いだと言って逃げ出す。名前を呼んだのに間違いなんてあり得ないのは分かりきっているが、誰一人としてそれがおかしいとは感じていない。まるで見た目も何もかもそっくりなのに自分だけがいない異世界に投げ込まれたような、そんな凄まじい恐怖。そしてコイズミにおじさん気を付けなよと笑われて、まるで子供が虐めを受けているかのような扱いだと悔しさが滲む。シュンイチは呆然としたまま、トイレに駆け込むと個室に駆け込んで嗚咽をかみ殺した。
わざとなのか?わざと自分を知らないふりで嘲笑うつもりなのか?
独りで奥歯を噛んで顔を覆っていると、やがてどやどやと先程も聞いた声がして数人がトイレで大声で笑い声を響かせ始めていた。
「何なんだよ?ハルカワ、さっきの爺さん知り合いか?」
「いや、初めて会った。誰と間違ったんだろう?同窓会に呼ばれた先生とかかな?」
「でも、多分ハルカワって言ったぜ?なんか気持ち悪い笑顔だったな。」
「あ、あれそうなの?モゴモゴ言ってて、聞こえなかったんすよね。」
その言葉にシュンイチは両手で顔を覆いながら、息を殺して話に耳を澄ませていた。シュンイチを嘲笑ったつもりじゃないし、彼等は本当に自分がシュンイチだと気がついていないのに、両手の合間からトイレの床を睨みシュンイチは震えだしていた。彼らが再びトイレから出ていくと怯えた様にシュンイチはトイレから這い出すと鏡にソロソロと歩み寄る。十年会ってないだけで顔もわからないなんてと、鏡を覗きこむとボヤけた顔に目を細めた。
鏡の中の自分の顔がよく見えない。
なんとかシンクに手をついて震えながら乗り出すようにして、薄汚れた鏡を覗きこんでシュンイチは思わず目を丸くして息を詰めた。
これは誰だ?
人相の悪い年老いた男が鏡の中で自分を見つめ返している。奥歯を噛み目は細く顔の形は歪み皺だらけで、髪は薄く老人斑が額に幾つも浮いている。しかも、見ただけで嫌悪したくなるような、嫌らしい歯を剥き出す笑顔を顔に張り付かせていた。笑顔は胡散臭く止めようとしても顔がその形で固まったみたいに見え、変えることがどうしても出来ない。思わず手を上げて頬を撫でると、間違いなく手は自分の頬に触れ鏡の中も同じく撫でた。その手を目の前でおろし、まじまじと老人斑の浮いた老いぼれ指の曲がった両手を見つめ、シュンイチはやがて擦れた絶叫をあげていた。
大体にして骨を折ったのもおかしな事態で、ただ講義をしながら教壇で動いたら一瞬足元が抜けたのだ。意味が分からないだろうが、歩いたらスコンと足元が真っ黒な穴になっていた。そして足をとられて倒れ込んで起きたら、何と足ではなくて手首が折れていたのだ。当然講義中だからと全力で労災をアピールしても、生活に大きな支障があるわけではないからと入院もなく手当ても貰えていない。
馬鹿にしてやがる…………
そして最近あの性奴隷二号を失ってからというものの、シュンイチの身の回りはまた少し奇妙な空気に飲まれていた。勿論土蔵の夢は相変わらず見ないままで、あの子供達は現実には姿を表さない。それなのに何故か何かが、周囲を彷徨いているような感覚がある。
そして更に奇妙な出来事が幾つか身の回りで起き始めていた。一番奇妙なのは時々子供にしか書けないような、大人には見えないような高さに書かれた文字をシュンイチが見るようになったことだ。しかもそれた見た後、妙なことに自宅までの帰宅時間が短縮される。馬鹿な話をしている?短縮されるならいいことじゃないかって?どうだろうか、本来三十分とか四十分とかかかるべき距離が、測ると十分とか五分で移動してしまう。次第に短くなる時間の理由も分からないのに、続く不可思議な現象にシュンイチはこのまま何時かは自分が行方不明になりそうで不安になっていた。
見ないようにしても接しないようにしてもいつの間にか、近寄ってきていてすぐ傍にいる。
ある意味それはアキコのようだと時に思うことがある。気がついたらシュンイチの居心地のいいように外堀を埋められていて、気がついたら泥沼のように沈み混んでいて、当人は自分を笑いながら見下ろしているような。そんなことがジリジリと繰り返されて、他にも幾つも奇妙なことだと感じることも多い。それなのに自分は巻き込まれても何とかなるのではとも、何故か考えてもいる。だからなのかアキコをもう一度手に入れたらもとの生活に戻れるという考えも捨てられないし、アキコは必ずこの街に戻ってくるとも考えていた。
アイツは…………絶対に戻ってくるとも
何故確信をもってそう言えるかは分からない。既に離婚して十年が経っているし、その間一度も連絡を取ってもいないのに、何故か生きていようが死んでいようがあの女は必ずこの街に戻ってくると予言めいた確信をもっていた。最近では薄情な事に友人だけでなく家族も自分に構いもしないけれど、それでもそう信じてこの街から離れず暮らしているのはそのためなのだ。
まるで……呪われてるみたいだ…………
時には自分の事をそう思う理性もあるが、それでもアキコをもう一度手にいれるのは自分にとっては揺るぎない目標になっている。だからこそこのままここで待ちながら調教の腕を上げて、アキコが二度と歯向かえないようにしてやらないとならない。
そんな時随分久々にハルカワから唐突にメールが来たのだ。
《ヤネオさん、ご無沙汰しています。今度は星光ゼミナール講師OBで飲み会をすることにしました……。》
突然の連絡だったが、もうコバヤカワ達との縁が遠くなってからも十年もたとうとしていた。シュンイチは電話番号もメールアドレスも変えていないから、送ってこない彼らの方が縁遠くしていたのだが変わった様子もなくハルカワは丁寧な口調でメールしてきたのだ。
正直自分は年齢を重ねた渋さが増したくらいで見た目には殆んど変化がないが、周囲の奴らがどれ程劣化しているかは興味かないわけではない。だから、奴らから「変わらないねぇ」という言葉を聞くのもいいかと、行くと返事をしたのだった。
※※※
「やぁ、ハルカワだろ?お前。」
その言葉が聞こえて、アキコはコッソリとその声の主を物陰から盗み見る。一人でこんな賑やかな居酒屋に入るのは正直ハードルが高かったが、待ち合わせでと言えばスムーズだし実際にここにアキコの知人を呼んであるから嘘ではない。視線の先では先に集まっていたコバヤカワ達を含む数人が小上がりで既に先に飲み始めていて、そこに姿を表しそう声をかけた人間にハルカワが訝しげな声をあげた。
「えっと、どちらさんすか?」
「え?何言ってんだよ……。」
アキコの席からでは上手く見えない来訪者の姿を、身体を反らしてまるで入り口を見る体で盗み見たアキコは、内心ゲッと心の中で自分が不快感の声をあげたのに気がつく。次第に普通以外のものが見て判別できるようになってきているアキコの眼にも、そこにいたのはなんとも異様な姿をしたものだった。
真っ黒…………
真っ黒な影を背中から生やし、まるで背後からもう一人分の頭が肩から覗き込んでいるような珍妙な姿。マトモな人には幸か不幸か背後から生えている頭の方までは見えないだろうが、最悪ちょっとそういうものが見えるような人間には肩にへばりついた黒い人影のように見えるかも知れない。どちらにしてもアキコから数メートルの距離なのに、顔がまるで判別できない真っ黒な影の塊に顔の辺りを飲み込まれた誰かがシュンイチの過去の友人達に声をかけていた。
声は変わらないから分かるけど…………人相は……これじゃ分からないわ…………
とは言えシュンイチの友人達の方はアキコとは違う。だからその黒い影男がシュンイチであれば彼の顔を見て久しぶりと話しだすのだろうと思ったのに、何故かその場には奇妙な空白の無言が漂った。何気なく視線をグラス越しにして見ると、彼らの方も現れた影の塊の男を訝しげに見上げていて言葉を失っているのだ。年を重ねて太ったとか人相が変わったとかの範疇ではなく、完全に不審な人間を見る視線で胡散臭そうに男を見ている。
あれ?…………ヤネオじゃないの…………?
人相や姿は黒い影のせいでアキコにはまるで判別がつかないが声は聞き取れて、しかもアキコは耳も記憶力も抜群にいいのだ。それでもコバヤカワを始めとした彼等は、あのシュンイチの声で話す相手をヤネオシュンイチと認識はしていない。
「間違いました。」
余りの視線の気まずさに咄嗟に取り繕うように告げてシュンイチの声をした男は頭を下げ、そそくさと周囲を探すようにしてその場を離れた。
「おじさん、気を付けなよ?」
アキコの記憶にあるより年を重ねて少し貫禄をつけているコイズミが笑いながらいうのに、アキコは身体を縮めて逃げるように辺りを見渡すふりで歩く男を眺める。男は間違った体で歩いてはいるが実際には誰を探しているわけでもなく、状況が理解できていないだけに見えた。何しろハルカワと名前で声をかけていて、それに間違いましたも何もと思うが。
「…………あー、なんか変な空気だな、変なじいさんに声かけられてさ。」
「あ、俺トイレ。」
数人が連れだって小上がりから腰をあげそんなことを口々に話すのに、アキコは思わず目を細めた。あの黒い影は既に何か普通の人に作用する程に濃いものらしく、どうやら彼らにはヤネオシュンイチらしい男が老人に見えたようだ。そんなことをボンヤリと考えていると、ポンと肩を叩かれて待ち合わせていた男がやって来たのに気がつく。
「捜し人は見つけられたのか?アキコ。」
「そうねぇ…………半分……?……見つけたってところよ。」
なんだそれはと目の前の顔色の悪い背の高い男は、仕立てのいいスーツ姿でアキコと当然のように向き合うように座る。それはまるで恋人同士の待ち合わせに見えなくもない。
男の名前はシンドウリュウヘイと言って、アキコがこの街に戻ってきて直ぐに出会った男だ。
この男は本当に奇妙で何時も災厄を周囲に身に纏っているような人間で、密かに苦しんでいたアキコには渡りに船。しかもアキコが普通と違うのも容易く理解した上で、そのまま友人として平然と交流してくる。その体には常に滓のように災厄に纏わる恐怖や怨みがこびりついていて、思わずアキコの目の色が変わるほど。そんなシンドウリュウヘイはその災厄の気配を自分から生み出して身につけ、自分が早く死ぬのを待っているという途轍もない変人だ。
「また悪どいことしてるの?」
「俺はしてねぇよ、計画して唆すだけだ。」
「それが悪どいの。」
社会的に完全に違法の範疇に生きている男なのだが、何故かアキコにはその類いのことは何もしてこない。しかも気が向いたのか何故か自分の身の上話まで聞かされて、その人生を何と無く可哀想にとアキコは思ってしまった。
ある意味ではリュウヘイの親からの扱いはシュンイチとも似た部分があったのではないかと思うし、それに抗おうとして今のように育ってしまったがリュウヘイなりに基準は明確だ。今のこの仕立てのいいスーツ姿も、リュウヘイがしてきた努力の結果でもある。彼の半生は恐らくアキコが知っている誰よりも遥かに残酷で無慈悲で、しかも死にたいのに死ねない男。
…………おたくこそ、ロクデナシの世話をやいて苦労するのが性根にしみついている。
反対にアキコの半生を聞いた、リュウヘイの感想がこれだ。リュウヘイに言わせれば、自分だったらそんな屑は煮ても焼いても役に立たないからさっさと始末するし、録でもない親にはキチンと代償を支払って貰う。アキコが何も反撃しなかったのはお人好しにもほどがあるし頭がいいのに時間の無駄遣いとまで言われたのだ。思わずそうかもねと納得して笑うアキコと、死にたがりのリュウヘイはそこから持ちつ持たれつの関係を続ける事になった。
互いのことをキチンと理解しているから余計な干渉はしないし、性関係は本能的に欲しくなった時程度
シュンイチとの関係がこの形だったら、もしかしたら今も二人は別れずに夫婦として暮らしたかもしれないと時には思う。ただ性的に言えばリュウヘイはSMに興味がないから最初の前提からして無駄な話ではある。
※※※
顔を見て相手が誰だかしっかり分かっていて話しかけた。それなのに何人もの眼が硝子玉のように無機質に自分を見つめて、シュンイチは背筋が冷えるのを感じて咄嗟に間違いだと言って逃げ出す。名前を呼んだのに間違いなんてあり得ないのは分かりきっているが、誰一人としてそれがおかしいとは感じていない。まるで見た目も何もかもそっくりなのに自分だけがいない異世界に投げ込まれたような、そんな凄まじい恐怖。そしてコイズミにおじさん気を付けなよと笑われて、まるで子供が虐めを受けているかのような扱いだと悔しさが滲む。シュンイチは呆然としたまま、トイレに駆け込むと個室に駆け込んで嗚咽をかみ殺した。
わざとなのか?わざと自分を知らないふりで嘲笑うつもりなのか?
独りで奥歯を噛んで顔を覆っていると、やがてどやどやと先程も聞いた声がして数人がトイレで大声で笑い声を響かせ始めていた。
「何なんだよ?ハルカワ、さっきの爺さん知り合いか?」
「いや、初めて会った。誰と間違ったんだろう?同窓会に呼ばれた先生とかかな?」
「でも、多分ハルカワって言ったぜ?なんか気持ち悪い笑顔だったな。」
「あ、あれそうなの?モゴモゴ言ってて、聞こえなかったんすよね。」
その言葉にシュンイチは両手で顔を覆いながら、息を殺して話に耳を澄ませていた。シュンイチを嘲笑ったつもりじゃないし、彼等は本当に自分がシュンイチだと気がついていないのに、両手の合間からトイレの床を睨みシュンイチは震えだしていた。彼らが再びトイレから出ていくと怯えた様にシュンイチはトイレから這い出すと鏡にソロソロと歩み寄る。十年会ってないだけで顔もわからないなんてと、鏡を覗きこむとボヤけた顔に目を細めた。
鏡の中の自分の顔がよく見えない。
なんとかシンクに手をついて震えながら乗り出すようにして、薄汚れた鏡を覗きこんでシュンイチは思わず目を丸くして息を詰めた。
これは誰だ?
人相の悪い年老いた男が鏡の中で自分を見つめ返している。奥歯を噛み目は細く顔の形は歪み皺だらけで、髪は薄く老人斑が額に幾つも浮いている。しかも、見ただけで嫌悪したくなるような、嫌らしい歯を剥き出す笑顔を顔に張り付かせていた。笑顔は胡散臭く止めようとしても顔がその形で固まったみたいに見え、変えることがどうしても出来ない。思わず手を上げて頬を撫でると、間違いなく手は自分の頬に触れ鏡の中も同じく撫でた。その手を目の前でおろし、まじまじと老人斑の浮いた老いぼれ指の曲がった両手を見つめ、シュンイチはやがて擦れた絶叫をあげていた。
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