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末期
129.
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「そうして実家に戻ったの。」
そう彼女は長い長い物語を一旦語り終えた様子で一つ深い息をついた。ベットの上で長く語り流石に疲れたのだろうかと思わず覗きこむと、乾いた唇を湿らせるようベットサイドに置かれた水の入ったペットボトルにアキコは手を伸ばした。
「…………どうしてあなたにこの話を聞いてほしくなったか、気になっているのでしょう?」
確かに。目の前で困惑したように彼女を見つめる視線に、アキコはほんの少し子供のように悪戯な笑みを溢した。彼女との出会いはアキコが小学生の頃だ。高校を過ぎて、一時県外の学校に進学したアキコとは疎遠になった時期もある。県立病院勤めた辺りにはまた少し交流があって、最近彼女が実家に帰ってから交流は頻繁に再開した形になっていた。
「………………もう少し話をしないといけないの。」
彼女はふうと息をついて背後の枕に体を預けていう。長く起きていて話すには、アキコの体は余りにも窶れ果てているのだ。昔のアキコの容貌を知っているのだとすれば、今のアキコは一時期の夫の傍で窶れていたのよりも遥かに酷い窶れかただった。それを指摘すると、彼女は穏やかに微笑んで話を続ける。
「まずは、そうね、その後の私…………ね。」
※※※
やっと…………タガアキコに戻った。
名前の呪縛は案外と強い。ヤネオに嫁いだということが、どれだけ呪縛になっていたかアキコ自身気がついていなかった。名前が変わったことを喜んだ事もあったが、元に戻った事に今は心から安堵している。
もうヤネオとは何の関係もない、それだけで随分と心が軽くなるのを自覚しながら、アキコは実家に戻って静養がてら家事をして過ごしている。両親と弟との四人暮らしで四人分の食事を食材を考えながら、量も検討して手際よく作るのはいいリハビリになった。
最初は午後一杯かかっておかず二品・汁物一品を作る。やがて同時に作業が行えるようになり、時間が短縮され食材の重複も減り、やがては一時間ほどで夕飯の支度が可能になって、疲労も目立たなくなり、買い物にも自由に出られるようになった。同時に最後の自殺未遂後も継続して通院していた精神科からの処方薬が減り、大量服薬のつけだった肝機能障害も改善に向かっていく。そうして最終的に通院の期間が長くなり、処方の内容も減っていった。
「さて、これで薬に頼らず一ヶ月になるけど調子はどうかな。」
診察に訪れた病院で、かかりつけ医の声に私は穏やかに大丈夫ですと答える。
実は夫の暴力の後遺症は、アキコが自由になって実家に戻ってから如実に現れたのだ。アキコは追いかけられたり殴りかかられたりする夢に再三魘され、夜中に飛び起きて泣き出すようなことが続いていた。そのせいで再び不眠症になったアキコは、日中も突然襲われる不安感に動けなくなってしまうことが続いたのだ。そのため暫くの間は家族の誰かが付き添い外出しないとならなかった。もう二度と会わないはずとわかっていても、あの離婚届を提出する時の行動や発言の不気味さ、何かを思い立った彼が突然やって来て襲いかかってくるのではと不安でならなかったのだ。実際にそんなことをするほどの力も根性もないと頭で理解していても、その不安はどうしても拭えない。拭えないのにも理由があるかのだが、それは医学には説明ができなかった。
時々彼は夢の中に現れる…………
以前と違いアキコの夢は、大概が鮮明に記憶の奥底で刻み込まれる。古めかしい土蔵の扉は閉じられ真新しい錠がかけられていて、アキコは錠前の鍵をネックレスのように首にかけて陽射しの中で立ち尽くしていた。目の前では土蔵の木製の格子戸が突然ガダガダと内側から揺すりあげられて、内側にいる男が悲鳴をあげている。
出してくれ!!ここから!!頼むぅ!!
その声がヤネオシュンイチなことは近づかなくても分かった。何故シュンイチがその中に居るのか、その理由は薄々気がついてもいる。ガタガタ、ガダガダと扉を揺すりなんとか出してくれと懇願している様は、以前はアキコがしていたことでアキコはそこから約束を果たして出てきた。
約束…………
もしかして。そう考えてしまうのは、頭の中に友人の言葉が過るからだ。互いに同じような根源をもっていて互いにそれを感染させて共有してしまったのかもしれないが、この土蔵を共有する可能性はあったのだろうか。ここにいたものは既に外に出ているのに、ヤネオシュンイチがあそこに入り込む可能性は。
何かそこで約束をしたの?あなたは
そう問いかけようにも夢の中ではアキコの声は、相手には聞こえていない。何時までも開けてくれ・助けてくれと叫びながら、扉を音を立てて揺すり続けている。怯えて恐怖に開けてと叫ぶ姿は以前の自分のようで憐れだと心の中で思うが、アキコの足は縫いつけられたようにその場を動かないのだ。それにもし鍵を開けたら、中から出てきてしまう。シュンイチを中から出してしまったら、再びアキコはシュンイチを許すことにもなりそうで嫌だった。
そう思うと鍵を開けることができない。
そして実はこの鍵はあの錠には合わないのではと、実は薄々考えてもいる。何故ならこの鍵はアキコがした約束の鍵で、シュンイチがした約束ではない筈だ。だけど、分かっていてもこれを試したくもない。
おねがい…………ひああぁああ!!ひいいいっ!!ごめんなさい!ごめんなさいいいぃ!!
懇願、そして悲鳴。いつか自分がされていたことを一度追体験させてやったが、それはたった一度だけの事で、やったあとはとても疲労して数日体を動かすこともできなくなった。だからそれは二度としなかったが、こうなってくるとシュンイチ自身の過去にアキコにしてきたような経験が存在しているのは間違いないと思う。
ごめんなさいいいぃ!!おかぁさん!!ママ!許して!!ごめんなさいいぃ!!
不快な言葉にアキコは目を細めて、氷のような眼でそこて気がついたことに顔を歪めた。
タガアキコはタガアキコの理由で罰を与えてくれる人間を求めていて、ヤネオシュンイチは過去の実経験を摩り替えて他人に与えるのを求めた人間だったのだ。お互いが歪で奇妙な噛み合い方をしてしまった憐れな関係。
そこから出るためには約束を果たさないと
アキコは冷えた氷の瞳で土蔵が形を変えていくのを眺めた。アキコの約束はやっと果たされたから、この世界はあれを解放したが、代わりのようにここに入り込んだヤネオシュンイチを助ける気はない。正直に言えばここが何なのか、何処なのかアキコ自身にも答えることはできないのだ。
でも…………この悲鳴を毎回聞きたくはないわ…………
それでも助けたとしてもシュンイチが何を願ったのか分からないから、出てきて再びシュンイチに巻き込まれるのは嫌だった。そう考えてしまうとアキコは、罪悪感を感じるのと同時に恐怖感も感じる。助けない罪悪感とシュンイチの存在への恐怖感、そのせいで夢から飛び起きてしまうし、時には無意識に白昼夢を引き起こした。フラッシュバックが起こり、説明できないが混乱に身動きできなくなる状況が、ヤネオという名前から解放されてから起こっていて、今なら恐らくPTSDと診断がつくのではないだろうか。
あれは夢の向こう、傍にはいない、もう私は私。
そう繰り返しても時にシュンイチが怒号と共に再び飛びかかってくるような恐怖に囚われてしまう。でも少しずつ、時間がそれを解決してくれるのを待つしかアキコにも出来ない。土蔵の存在にも影にも慣れてしまったように、体内のものすらも慣れてしまったように、これだって慣れてくると冷静に見つめられる筈だ。それに自分は約束を叶えるのに随分と時間がかかったし、シュンイチがそれより早い時間で自力で何らかの約束を果たして出てこられるとはアキコは思わない。
彼は自力では何もしない、約束を果たすには、それでは運命次第だ…………
自分は運が良かったとも言えるとアキコは分かっていた。自分に課せられていた約束は偶々運命が彼女を救っただけなのだと知っていたから、アキコはこうして土蔵を外から眺めている。
そんなことを目の前の担当医に説明するのは、正直難しい。穏やかな福福とした担当医は穏やかにアキコの瞳を覗き、やがて満足したように笑う。本音を言うとアキコは、この担当医が再びアキコを診てくれるというとは思わなかった。彼は一度目の自殺未遂の後に、アキコが治癒どころか自分の事を現実的にとらえていないことを見抜いていて、またおいでと言った医師だ。アキコは自殺未遂後に一度クリニックの医師から拒絶されてもいたし、流石に三度目で死にかけた自分を診ては貰えないと思っていたのだ。ところがツキノという医師は、再びアキコの担当医になって辛抱強くアキコに付き合ってくれている。
「そうかい、では、心療内科もこれで卒業だねぇ。」
肝機能障害は暫く前に回復したと御墨付きを貰っていたし、薬がなくとも一ヶ月生活することができた。それを判断基準に、結局あの死にかけて以来だいぶ長く通った心療内科も遂に通院終了となったのだ。アキコは素直に、長い間担当してくれたツキノ医師に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。」
そうして、アキコはアキコとしてもう一度、一人で立ち上がろうとしている。
※※※
「それから、また看護師を始めたの。」
彼女は穏やかに話す。近郊の病院に勤め初めて、日々は何事もないように穏やかに過ぎていく。職場は特に人間関係が良いわけでも悪いわけでもなく、別段大きな問題が起きるわけでもない。淡々と日々が過ぎていく、それは当然の事のようにすら感じていたのだ。それなのに彼女は今再び窶れ果てて病の床についている。
「……もしかして、元旦那から、何かされたのか…………って?」
こちらが聞きたかったことを先に彼女が自分から口にする。恐る恐る続きを待つのは、そんな続きがありそうな気がしたのだが、アキコは答える前に穏やかに微笑む。
「一度だけ…………電話がかかってきたことがあるけど、直接は、……話さなかったわ。」
あの後一度だけ見慣れた携帯電話の番号からの着信があった。奇妙なもので番号も消してあったし、自分の携帯番号だって余り覚えられないのに、残念ながらその番号は一目で誰の番号か思い出せてしまった。
それは離婚してから二年程が過ぎていて、その後歴史に残った大きな地震があった時のこと。
その巨大な地震は今でも爪痕を残しているのだが、近年ではもっとも巨大な地震で沿岸部では津波が押し寄せていたし多くの人命が失われていく。同じ東北の内陸部に住むアキコの実家では、揺れの後の電気が復旧するまで約三日間かかっていたから、当然沿岸部では多くの被害が爪痕を残していることすらその時点では知るよしもなかった。実は津波の映像を始めてみたのは電気が復旧してからで、被災から丸四日後の事なのだ。
シュンイチから電話がかかってきたのは、丁度その辺りのこと。
でもアキコはかかってきたのも気がつかなかったし、気がついてからも折り返しもしなかった。たけど被災から一ヶ月して生活がジワジワと通常に戻ってからアキコが先ずしたのは、その携帯電話を解約することだったのはここだけの話だ。という辺り二年もそのままにして使っていたの?と驚かれそうだが、その内半分はPTSDの治療中だったし、おまけに相手からは着信どころかメールもなかったのだ。被災を期に電話をしてきたのに、ハタと向こうはまだ電話をしてくるつもりがあったんだと驚きすらした。さっさと解約して、しかも別な携帯会社に乗り換えたのは、夢の中は兎も角表だっての縁を完全に切りたかったのもあるし、その携帯会社は東北圏では不便だったからだ。その程度にドライに考えられらる程度にアキコは変わっていた。やがて少しずつ夢をコントロールも出来るようになって、だからあの男が今どうしているか、今生きているかすらアキコは知らないし知るつもりもない。
それならば何故今になって全てを話したくなったのかと思うと、彼女は穏やかに口を開く。
「そうね、知りたいわよね。」
まるで考えていることを瞳から読み取られているように、彼女は穏やかに話を続け始めている。ここに来て自分から口を開いた事はあっただろうかと、心のどこかで考えながら彼女の話にまた耳を傾ける。
「ねぇ、私が最初に話したこと覚えてる?」
物語の始まりは、彼女がまだ幼い時の事。そして、彼女と出会ったばかりの頃の事だった筈だ。
アキコは酷く窶れた姿なのに、こけた頬にエクボをつくり朗らかに笑いながらじっと見つめている。外に溢れる日の光を遮断した薄暗い中でベットに横になっているとは思えないほど、穏やかで朗らかな微笑みが微かな違和感を感じさせた。
「小学生のころ。覚えている?」
小学生の頃の話をアキコは何と話しただろうか。祖父の病気を見舞うために、伯父の家に預けられた話をしてはいなかったか。そして、闇の中で不快な思いをさせられた彼女は何と言われていたかと記憶を手繰っていると、彼女は静かに目を伏せた。
「私はお祖母さんのせいで呪われてるって…………そう、伯母は言ってたわ。」
そうだ。確かに彼女はそう言われていたのだった。
そう彼女は長い長い物語を一旦語り終えた様子で一つ深い息をついた。ベットの上で長く語り流石に疲れたのだろうかと思わず覗きこむと、乾いた唇を湿らせるようベットサイドに置かれた水の入ったペットボトルにアキコは手を伸ばした。
「…………どうしてあなたにこの話を聞いてほしくなったか、気になっているのでしょう?」
確かに。目の前で困惑したように彼女を見つめる視線に、アキコはほんの少し子供のように悪戯な笑みを溢した。彼女との出会いはアキコが小学生の頃だ。高校を過ぎて、一時県外の学校に進学したアキコとは疎遠になった時期もある。県立病院勤めた辺りにはまた少し交流があって、最近彼女が実家に帰ってから交流は頻繁に再開した形になっていた。
「………………もう少し話をしないといけないの。」
彼女はふうと息をついて背後の枕に体を預けていう。長く起きていて話すには、アキコの体は余りにも窶れ果てているのだ。昔のアキコの容貌を知っているのだとすれば、今のアキコは一時期の夫の傍で窶れていたのよりも遥かに酷い窶れかただった。それを指摘すると、彼女は穏やかに微笑んで話を続ける。
「まずは、そうね、その後の私…………ね。」
※※※
やっと…………タガアキコに戻った。
名前の呪縛は案外と強い。ヤネオに嫁いだということが、どれだけ呪縛になっていたかアキコ自身気がついていなかった。名前が変わったことを喜んだ事もあったが、元に戻った事に今は心から安堵している。
もうヤネオとは何の関係もない、それだけで随分と心が軽くなるのを自覚しながら、アキコは実家に戻って静養がてら家事をして過ごしている。両親と弟との四人暮らしで四人分の食事を食材を考えながら、量も検討して手際よく作るのはいいリハビリになった。
最初は午後一杯かかっておかず二品・汁物一品を作る。やがて同時に作業が行えるようになり、時間が短縮され食材の重複も減り、やがては一時間ほどで夕飯の支度が可能になって、疲労も目立たなくなり、買い物にも自由に出られるようになった。同時に最後の自殺未遂後も継続して通院していた精神科からの処方薬が減り、大量服薬のつけだった肝機能障害も改善に向かっていく。そうして最終的に通院の期間が長くなり、処方の内容も減っていった。
「さて、これで薬に頼らず一ヶ月になるけど調子はどうかな。」
診察に訪れた病院で、かかりつけ医の声に私は穏やかに大丈夫ですと答える。
実は夫の暴力の後遺症は、アキコが自由になって実家に戻ってから如実に現れたのだ。アキコは追いかけられたり殴りかかられたりする夢に再三魘され、夜中に飛び起きて泣き出すようなことが続いていた。そのせいで再び不眠症になったアキコは、日中も突然襲われる不安感に動けなくなってしまうことが続いたのだ。そのため暫くの間は家族の誰かが付き添い外出しないとならなかった。もう二度と会わないはずとわかっていても、あの離婚届を提出する時の行動や発言の不気味さ、何かを思い立った彼が突然やって来て襲いかかってくるのではと不安でならなかったのだ。実際にそんなことをするほどの力も根性もないと頭で理解していても、その不安はどうしても拭えない。拭えないのにも理由があるかのだが、それは医学には説明ができなかった。
時々彼は夢の中に現れる…………
以前と違いアキコの夢は、大概が鮮明に記憶の奥底で刻み込まれる。古めかしい土蔵の扉は閉じられ真新しい錠がかけられていて、アキコは錠前の鍵をネックレスのように首にかけて陽射しの中で立ち尽くしていた。目の前では土蔵の木製の格子戸が突然ガダガダと内側から揺すりあげられて、内側にいる男が悲鳴をあげている。
出してくれ!!ここから!!頼むぅ!!
その声がヤネオシュンイチなことは近づかなくても分かった。何故シュンイチがその中に居るのか、その理由は薄々気がついてもいる。ガタガタ、ガダガダと扉を揺すりなんとか出してくれと懇願している様は、以前はアキコがしていたことでアキコはそこから約束を果たして出てきた。
約束…………
もしかして。そう考えてしまうのは、頭の中に友人の言葉が過るからだ。互いに同じような根源をもっていて互いにそれを感染させて共有してしまったのかもしれないが、この土蔵を共有する可能性はあったのだろうか。ここにいたものは既に外に出ているのに、ヤネオシュンイチがあそこに入り込む可能性は。
何かそこで約束をしたの?あなたは
そう問いかけようにも夢の中ではアキコの声は、相手には聞こえていない。何時までも開けてくれ・助けてくれと叫びながら、扉を音を立てて揺すり続けている。怯えて恐怖に開けてと叫ぶ姿は以前の自分のようで憐れだと心の中で思うが、アキコの足は縫いつけられたようにその場を動かないのだ。それにもし鍵を開けたら、中から出てきてしまう。シュンイチを中から出してしまったら、再びアキコはシュンイチを許すことにもなりそうで嫌だった。
そう思うと鍵を開けることができない。
そして実はこの鍵はあの錠には合わないのではと、実は薄々考えてもいる。何故ならこの鍵はアキコがした約束の鍵で、シュンイチがした約束ではない筈だ。だけど、分かっていてもこれを試したくもない。
おねがい…………ひああぁああ!!ひいいいっ!!ごめんなさい!ごめんなさいいいぃ!!
懇願、そして悲鳴。いつか自分がされていたことを一度追体験させてやったが、それはたった一度だけの事で、やったあとはとても疲労して数日体を動かすこともできなくなった。だからそれは二度としなかったが、こうなってくるとシュンイチ自身の過去にアキコにしてきたような経験が存在しているのは間違いないと思う。
ごめんなさいいいぃ!!おかぁさん!!ママ!許して!!ごめんなさいいぃ!!
不快な言葉にアキコは目を細めて、氷のような眼でそこて気がついたことに顔を歪めた。
タガアキコはタガアキコの理由で罰を与えてくれる人間を求めていて、ヤネオシュンイチは過去の実経験を摩り替えて他人に与えるのを求めた人間だったのだ。お互いが歪で奇妙な噛み合い方をしてしまった憐れな関係。
そこから出るためには約束を果たさないと
アキコは冷えた氷の瞳で土蔵が形を変えていくのを眺めた。アキコの約束はやっと果たされたから、この世界はあれを解放したが、代わりのようにここに入り込んだヤネオシュンイチを助ける気はない。正直に言えばここが何なのか、何処なのかアキコ自身にも答えることはできないのだ。
でも…………この悲鳴を毎回聞きたくはないわ…………
それでも助けたとしてもシュンイチが何を願ったのか分からないから、出てきて再びシュンイチに巻き込まれるのは嫌だった。そう考えてしまうとアキコは、罪悪感を感じるのと同時に恐怖感も感じる。助けない罪悪感とシュンイチの存在への恐怖感、そのせいで夢から飛び起きてしまうし、時には無意識に白昼夢を引き起こした。フラッシュバックが起こり、説明できないが混乱に身動きできなくなる状況が、ヤネオという名前から解放されてから起こっていて、今なら恐らくPTSDと診断がつくのではないだろうか。
あれは夢の向こう、傍にはいない、もう私は私。
そう繰り返しても時にシュンイチが怒号と共に再び飛びかかってくるような恐怖に囚われてしまう。でも少しずつ、時間がそれを解決してくれるのを待つしかアキコにも出来ない。土蔵の存在にも影にも慣れてしまったように、体内のものすらも慣れてしまったように、これだって慣れてくると冷静に見つめられる筈だ。それに自分は約束を叶えるのに随分と時間がかかったし、シュンイチがそれより早い時間で自力で何らかの約束を果たして出てこられるとはアキコは思わない。
彼は自力では何もしない、約束を果たすには、それでは運命次第だ…………
自分は運が良かったとも言えるとアキコは分かっていた。自分に課せられていた約束は偶々運命が彼女を救っただけなのだと知っていたから、アキコはこうして土蔵を外から眺めている。
そんなことを目の前の担当医に説明するのは、正直難しい。穏やかな福福とした担当医は穏やかにアキコの瞳を覗き、やがて満足したように笑う。本音を言うとアキコは、この担当医が再びアキコを診てくれるというとは思わなかった。彼は一度目の自殺未遂の後に、アキコが治癒どころか自分の事を現実的にとらえていないことを見抜いていて、またおいでと言った医師だ。アキコは自殺未遂後に一度クリニックの医師から拒絶されてもいたし、流石に三度目で死にかけた自分を診ては貰えないと思っていたのだ。ところがツキノという医師は、再びアキコの担当医になって辛抱強くアキコに付き合ってくれている。
「そうかい、では、心療内科もこれで卒業だねぇ。」
肝機能障害は暫く前に回復したと御墨付きを貰っていたし、薬がなくとも一ヶ月生活することができた。それを判断基準に、結局あの死にかけて以来だいぶ長く通った心療内科も遂に通院終了となったのだ。アキコは素直に、長い間担当してくれたツキノ医師に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。」
そうして、アキコはアキコとしてもう一度、一人で立ち上がろうとしている。
※※※
「それから、また看護師を始めたの。」
彼女は穏やかに話す。近郊の病院に勤め初めて、日々は何事もないように穏やかに過ぎていく。職場は特に人間関係が良いわけでも悪いわけでもなく、別段大きな問題が起きるわけでもない。淡々と日々が過ぎていく、それは当然の事のようにすら感じていたのだ。それなのに彼女は今再び窶れ果てて病の床についている。
「……もしかして、元旦那から、何かされたのか…………って?」
こちらが聞きたかったことを先に彼女が自分から口にする。恐る恐る続きを待つのは、そんな続きがありそうな気がしたのだが、アキコは答える前に穏やかに微笑む。
「一度だけ…………電話がかかってきたことがあるけど、直接は、……話さなかったわ。」
あの後一度だけ見慣れた携帯電話の番号からの着信があった。奇妙なもので番号も消してあったし、自分の携帯番号だって余り覚えられないのに、残念ながらその番号は一目で誰の番号か思い出せてしまった。
それは離婚してから二年程が過ぎていて、その後歴史に残った大きな地震があった時のこと。
その巨大な地震は今でも爪痕を残しているのだが、近年ではもっとも巨大な地震で沿岸部では津波が押し寄せていたし多くの人命が失われていく。同じ東北の内陸部に住むアキコの実家では、揺れの後の電気が復旧するまで約三日間かかっていたから、当然沿岸部では多くの被害が爪痕を残していることすらその時点では知るよしもなかった。実は津波の映像を始めてみたのは電気が復旧してからで、被災から丸四日後の事なのだ。
シュンイチから電話がかかってきたのは、丁度その辺りのこと。
でもアキコはかかってきたのも気がつかなかったし、気がついてからも折り返しもしなかった。たけど被災から一ヶ月して生活がジワジワと通常に戻ってからアキコが先ずしたのは、その携帯電話を解約することだったのはここだけの話だ。という辺り二年もそのままにして使っていたの?と驚かれそうだが、その内半分はPTSDの治療中だったし、おまけに相手からは着信どころかメールもなかったのだ。被災を期に電話をしてきたのに、ハタと向こうはまだ電話をしてくるつもりがあったんだと驚きすらした。さっさと解約して、しかも別な携帯会社に乗り換えたのは、夢の中は兎も角表だっての縁を完全に切りたかったのもあるし、その携帯会社は東北圏では不便だったからだ。その程度にドライに考えられらる程度にアキコは変わっていた。やがて少しずつ夢をコントロールも出来るようになって、だからあの男が今どうしているか、今生きているかすらアキコは知らないし知るつもりもない。
それならば何故今になって全てを話したくなったのかと思うと、彼女は穏やかに口を開く。
「そうね、知りたいわよね。」
まるで考えていることを瞳から読み取られているように、彼女は穏やかに話を続け始めている。ここに来て自分から口を開いた事はあっただろうかと、心のどこかで考えながら彼女の話にまた耳を傾ける。
「ねぇ、私が最初に話したこと覚えてる?」
物語の始まりは、彼女がまだ幼い時の事。そして、彼女と出会ったばかりの頃の事だった筈だ。
アキコは酷く窶れた姿なのに、こけた頬にエクボをつくり朗らかに笑いながらじっと見つめている。外に溢れる日の光を遮断した薄暗い中でベットに横になっているとは思えないほど、穏やかで朗らかな微笑みが微かな違和感を感じさせた。
「小学生のころ。覚えている?」
小学生の頃の話をアキコは何と話しただろうか。祖父の病気を見舞うために、伯父の家に預けられた話をしてはいなかったか。そして、闇の中で不快な思いをさせられた彼女は何と言われていたかと記憶を手繰っていると、彼女は静かに目を伏せた。
「私はお祖母さんのせいで呪われてるって…………そう、伯母は言ってたわ。」
そうだ。確かに彼女はそう言われていたのだった。
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