鵺の哭く刻

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悪化

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外の温度は感じられない管理された温度。それでも窓越しの日差しの中で、微かにだが窓の向こうには強い夏の熱気を感じていた。気が付かなかったが、今は初夏で東北の一都市とは言え既に夏なのだ。それにすら気が付かずにいたのは、アキコがどれだけ閉じられた状況にいたかの証明のような気もする。
病棟を移動したのは、その前日だった筈。
真っ白な壁の真っ白い光に二十四時間照らし出される空間から逃れられたのは嬉しいことだが、様々な拘束は取り去られたわけではなかった。一度でなく死にかけてしまったらしいアキコの身体は、まだ眠りに落ちると呼吸を止めてしまうらしいのだ。なので夜中は顔にフェイスマスクタイプの人工呼吸補助機器をつけて眠らないとならないから、それを無意識に外さないよう両手はベットに縛られたまま。ベットから離れることも出来ないアキコには、尿管が入り点滴も常にされたままなのだ。それが全てとれるにはまだ時間が必要だったが、それでも日中は手の拘束は解いてもらえるようになって、ベットを少しずつ起こしてもらえるようにはなった。そんな最中白衣の医師がアキコの傍に立ち、アキコに声をかける。そしてアキコが冷静に返答できるのに、医師はカルテを手にして口を開いた。

「…………何を……飲んだのか教えてくれるかな?」

穏やかに問いかける医師の言葉に、ベットの上で軽く上半身を起こした体勢でアキコは医師に視線を向けている。今までは病床のアキコの意識がハッキリしなかった為にアキコが何をしたのかの全貌を聞けないでいた医師は、周囲の音を吸いとってしまったような静かな声音で問いかけていく。

記憶は朧気で…………自分がアキコだと認識していても、まるで他人の事のよう…………

そう感じているといったら奇妙だと思われるだろうが、今アキコは自分に起きたことを考えるとそう感じてしまう。そんな状況でもアキコは霞のかかる記憶を探るようにしながら、自分の中にある記憶の全てを少しずつ手繰り寄せていく。

「…………私…………は…………。」

目が覚めて無理矢理に身体に呼吸をさせようとしていた人工呼吸器が外れて、喉の奥まで射し込まれていたチューブの抜かれた後、アキコの声はしわがれた老婆のように掠れてしまっていた。しかも喉を痛めた後のように大きな声を出すことは全くできなくなっていて、こうして問いかけに答えるのでも切れ切れにしか話せず息が切れる有り様だ。

「…………を百錠…………、……を百五十錠前後…………、を四十錠…………、それ以外の物は覚えていません。」

包み隠さず自分が飲み下した薬の数を口にするが、目の前の医師は馬鹿なことをしたなという風には顔には全く伺わせずにそれをどうやって入手したのかと更に問いかけた。アキコはその質問にも何も隠すこともなく、関東で病院にかかり意図的に不調を訴え処方を受けたものと、市販の薬剤であると答えていく。

何も隠すこともないし、嘘をつくことでもない…………

移動したのは精神科の病棟で、最初に入院した救急病棟とはまるで違う作りではあった。それでも精神科の病棟だけあって自殺企図の患者の集められた病室には、縊死の危険性のあるナースコールは存在しない。つまり今の声の殆んど出ないアキコには、何かがあっても病室に看護師を呼ぶ術もないのだった。そして問いかけに答えれば答えるほど、自分が自分で自殺を意図して行動してきたと説明しているのに他ならない。下手をすれば自分が危険な状態であると判断されかねないのだが、それでも自分には不利になることを目の前の医師の質問にアキコの返答には淀みがなく明確な意思があるのがみえてもいた。それに気が付いた医師は、ふっと眼を細める。

「では、…………何故飲んだのかいえますか?」

その質問に以前のアキコであったらなんと答えたろう。そう今のアキコは朧気な感情を手繰り寄せながら、言葉にするためにとそれを考える。だが、以前のアキコならと突き詰めると、答えはこうなってしまうのに気が付く。

多分…………答えなかった………………

恐らく以前のアキコであったら、何故飲んだのかと問われても答えられなかった。シュンイチが許せなくて、自分が嫌いで消してしまいたかったからであっても、それは薬を飲む理由…………死にたかった理由とは言えない。何故死にたかったのか、でも何故死にたくなかったのか。

逃げたかった…………

今なら分かる。
アキコは逃げ出したかったのだ。
シュンイチから逃げ出したくて、ヤネオから逃げ出したくて、自分からも逃げ出したかった。ずっとアキコは自分が悪いと言われることから逃げたしたかったのだし、ヤネオアキコから逃げ出したくて仕方がなかったのだ。そして逃げたくて仕方がないのに逃げられないと思ったから自死という方法に固執し縋ったアキコは、それと同時にその全てから逃げ出したくもないとも思っていた。自分から逃げたくはなかったし、全てにおいて何とかしたいと思ってもいたのだ。だが今にして思えばその逃げたくないものからシュンイチは除外されていて、それはシュンイチが自分を裏切ったからでもあった。

彼は…………私だけを悪者にして逃げた…………。

それは一度ではない。何度も何度もアキコだけを悪者にして逃げてきたのに、今は気が付いてしまっていた。それに気が付いてしまったことで、アキコは最後の自殺未遂の前にシュンイチとの関係を完全に放棄していたのだ。そうして自分の手でアキコは死にかけて死の淵から生きて戻った時に、本当は死にたがっていない自分だけがこうしてここに戻ったのだ。そして死の淵からこうして戻ってきたアキコは、死にかける前に関係性を放棄したシュンイチに対する今までのような感情はもう持ち合わせていない。

あの男には…………もう…………

だから何故薬を飲んだのかと問われれば、今のアキコにはこう答えるしかない。それは、もう濁すつもりもない現実で、アキコには逃げる気もない。現実を見れば答えはただ一つ、一人では堪えられなかったからアキコは死のうとしたのだが、もうアキコが死にたくないし堪えられもしないのだから、それを認めてケリをつけるしかないもの。それを言葉で表現するにはこう言うしかない。

「夫婦関係が……………上手くいっていない、からです。」

シュンイチとの関係はもう修復できない状況に陥っていて、アキコはもう堪える事は出来ないし堪えるつもりもなくなってしまった。愛情だと思っていた感情はあの時に崩壊していて、尚且つ死の淵から戻ったアキコには現状を冷淡すぎるほどに冷静に見ることができている。
言葉に滲んだアキコの意思に、医師は穏やかに今後どうしたいのかと問いかけた。
アキコは一瞬目を閉じて自分の心に問いかけるように口を閉ざす。これまではこの現実を認められなかった、アキコとシュンイチが夫婦としてまるで機能していないという現実。奇妙な性癖が結びつけた二人だったから最初からは夫婦としても上手くいかないのだと、アキコは自分に言い訳して何時かは夫婦として過ごせるかもと期待していたのは事実だった。でも、妊娠した辺りから何度も何度も二人は噛み合わない思いをしながら、噛み合わない願いを互いに押し付け求めてきたのだ。
アキコは愛情と夫婦としての穏やかな関係を求めてきたし、シュンイチは何時までも奴隷としての女と従い続けるだけの関係を求めている。対等を求めるアキコと従属を求めるシュンイチが、上手くいかないのは当然だった。それを見ないふりをしてアキコは少しでもシュンイチが喜ぶようにと過保護に世話をし続けやがては愛情を示してくれると勝手に願ったのだし、シュンイチは何時までも性奴隷としてかしづき敬い従う女を求めていたが妻としてのアキコを求めていたわけではないのだ。

あぁ………………今更だけれど………………

以前担当医だった医師がアキコがした返答に不思議な困惑の表情を浮かべた理由が、今更に分かるような気がした。あの時のアキコの答えは何一つ具体的ではなく、アキコ自身が明確な答えを出すことから逃げていたのをあの時の担当医は感じたのだろう。だから、また今度来なさいと言われたのに、アキコは医師の鋭い洞察力に晒されるのが分かってあのまま関東に逃げてしまった。でも、これでもう逃げる事は終わったのだ。アキコはなるべくハッキリと発音できるよう気を付けながら、ゆっくり言葉を発した。

「……今は………………離婚を、考えています。」

それは、自分の中の気持ちにケリをつけたアキコのハッキリとした意思表示だった。医師はアキコの瞳を覗き込んでいたが、やがて微かに頷くとアキコの今の状態を丁寧に説明し始める。それは医師からアキコが既にそれらの内容を理解できる精神状態であるという判断が下されたに他ならなかった。



※※※



「………………そろそろ…………食事は、出ませんか?」

病室の他の患者の看護をしている看護師に向かって、オズオズとアキコが問いかけたのは医師との会話から数日後。アキコの嗄れた声が発した言葉に、その看護師はそういえばと考えを変えたのが分かった。アキコは自発的にベットの上とは言え体を動かし始めていて、少しずつ溺れそうな音を立てていた呼吸は平常に収まりつつある。何とか楽に動けるようになりつつあるし、これで食事もとれれば回復していると証明することになると思えた。なにしろ食事どころか水分すら、まだ口にしていないのに気が付いたのだ。

なんとか…………少しでも…………

実際には、全く食べ物を受け付けなかったことを幸いにして、かなり体重を落としていたのだろう。そのせいで心臓にかかっていた負担が軽減され呼吸が楽になったのだが、それをおいてもアキコ自身が回復を証明しないとこの男女混合で管理される隔離室から出られない。通常なら病室は男女は別なのだが自殺企図のある患者を一度に見るためにか病室は四人の男女が入り乱れていて、正直アキコだって落ち着かないでいるのだ。
食事が出たのはその翌日の朝だった。
プラスチックの盆に乗せられたプラスチックだけの食器、柔らかなプラスチックのスプーン、中身は三分粥にコーンスープ。形のない野菜の煮物。
それでもいいと口に運んだアキコが思い知ったのは、自分がしたことの大きな罰だった。

…………嘘…………でしょ

口の中が自ら服用した薬を吐き戻したことで焼け爛れてしまい、ただの湯に近い三分粥の味がまるで粉薬のようだったのだ。コーンスープも野菜の煮物も全て同じ味で、何もかもが不味い。ただの水ですら同じで、薬を飲み込んでいるようにしか感じない。苦い味がドロドロと喉を流れ落ちていくのに、回復を証明なんて意気込んでいたアキコは早々にやる気を失ってしまっていた。

「久々だから無理しないで。まだ、味がわからないと思うし。」

割合他の看護師と比較しても優しい対応の夜勤の看護師が、アキコがベットの上のテーブルに向かって固まった様子を見かけて病室の入り口から声をかける。それにしても味がないならともかく、全てが薬の味に感じるなんて、天罰にしては神様もやってくれるものだとアキコは苦く微笑み返しながら食べられない食事を眺めた。その食事は流石に数口しか飲み込めなかったが、その直後病室内で他の患者がベットの上に立ち上がり奇声をあげ暴れたことでアキコは腹を据えてその味を我慢すると心の中で誓う。

ここを出て、元気になって、アイツと離婚しないと。

それだけを心の中で呪文のように繰り返す。その為にはここらか元気になって、退院して、家に帰らないとならないと感じるのは、看護師に確認のために何度も何度も苗字で呼ばれるのに気が付いたからだ。
タガではなく、ヤネオ。
ヤネオさんと呼ばれる度に、そうじゃないと叫びだしたくなる。それでもまだ自分がヤネオアキコなのは真実で、これを変えるには自分が外に出ていかないとならないのだ。だから、苦く薬の味しかしない食べ物を苦行のような顔で、必死に飲み込むしかない。
結果アキコは死の淵の意識不明から回復して一週間、全部の期間とすれば約二週間程で退院したのだった。完全に状態がよくなったわけではない。それでもアキコが退院を切望し両親の経歴を考えて、医師もそれを許可したのだ。勿論アキコ自身の精神状態もそれが可能と判断される材料となったのは言うまでもないが、加分に隔離病室の環境から何とか脱出したいアキコがいたことは事実だ。そして、晴れて実家に帰宅したアキコは、あえて自分の携帯に電源を入れようとはしなかった。
実家で静養するアキコは体調が回復しつつあっても、自ら夫である男とは全く連絡を取ろうとしなかったのだ。携帯電話も電源を入れる事はなく、メールも電話すらも自分からしようとはしなかったのは、実家に帰ってきて気持ちが変化して離婚を諦めた訳ではなく、現実から逃げた訳でもない。アキコはただ自分の中にある感情と現状を見極めようとしていて、この空白の時間は自分を確認するための小休止にすぎなかった。



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