鵺の哭く刻

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悪化

104.

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そこは暗い闇の中だった。
足元は冷たく、周囲に何があるのかも見えないが、暗く冷たい。いつもの土蔵のように湿った臭いもしなれば、あの四つ足もいない空虚な世界に佇み自分の裸足の足を見つめている。歩き出すこともなければその場に立ち尽くして、ただボンヤリとしたまま色の抜けた真っ白な足元をひたすらに見つめていた。

…………あれはね…………

不意に何かが闇の中で話す声が聞こえている。聞いたことのない声なのに何故か知っている声で、闇の奥から密かに聞こえる声。

殺すしか…………ないの…………

あれは湿地に住むと、その声は闇の中で誰かに教える。その『あれ』が何なのかは分からないが、闇の中で話す内容は理解出来つつある自分がそこにいた。殺すしかないものと対峙してしまった人々。そしてここはその湿地の奥でヒヤリと冷えた空気は、湿地が闇に凍る温度に負けて冷えて凍てつくからだ。それを理解している頭と冷えきった身体で、自分はただ足元を見つめ続け辺りを見ようともしないし動くこともない。ここから動きたくないし、何も知らないままでいたいのに、耳は酷く広範囲に音を聴き取り周囲を探るように歩き回る足音を聞き取ってしまう。

殺さないと………………あれは……力の……強い…………

女を先頭にしているように聞こえるが、足音には男も混じる。ザグリ……ジャッ…………と不定期に湿った場所を踏む音が聞き取れて、自分の耳からその足音まではどれくらいあるか無意識に考えてしまうのはそれらが向かってくるのが自分のいるここなのだと知っているからだった。

ホヤゥ…………カ…………イ…………

湿地の起伏なのか、時折途切れる声が何かを告げるのに、闇が深くって自分の足が薄墨のような黒に変わるのを見つめる。冷えきっているのに寒さは感じていないし、その声が自分を目掛けて近づいてくるのを感じながら何もせずに立ち尽くしたまま。何時ものような土蔵の中でもなく、そして空気も何時もと違うと思う。

……タンネ……………………

ザグリと足音が目の前に聞こえ、声の主が目の前に辿り着いて息を飲むのを聴く。それは息を殺したつもりだろうけど、自分の耳には心臓のドクドクと脈打つ音もハッキリと聞こえているのだ。早鐘のような心臓の音はまるでそのまま弾け飛んでしまいそうだなと考えながらも、自分の視線は足元から上がることもなく薄墨色の足を見つめている。
目の前の相手だけでなく、四方を囲む足音
息を殺している気配
震える身体のたてる音
それが項垂れたままの自分の耳には完全に聞き取れているのに、周囲は自分がここで寒さに体温を奪われて眠っているのだと思っていた。何故かそれは分かっていて、確かに心臓の音は周囲のものが聞こえるのに、自分の一番近い筈のものが聞こえないのだ。

殺さなきゃ…………

震える声が囁いて、キリキリと矢を引き絞るのが聞こえた。女を先頭にして他の男達がガチガチと武器を震わせているのは、怖いのか寒さのせいなのかは自分には分からない。男は戦う意図がない訳じゃないのに前に出てこないんだなと皮肉めいた思いで笑うのは、その気配に何故か自分の伴侶になった男を思い浮かべたからで、あの男は他人に絡まれたら助けもせずに逃げると断言したのだと記憶が揺さぶられたからだ。ところが不意に女を先頭にするのは恐らくそれがこれらの巫女なのだろうと、頭の片隅で訳知りめいた声で言う何かがいる。そしてそれは真実で、彼等は巫女が自分を殺す宣誓をして、厄を祓わないと手が出せないと信じてもいるのだ。

古めかしい仕来たりだが、それを守らないと……

長く伝わる仕来たりを否定も出来ないのは、自分が古の理の中で育ったモノだからだと頭の片隅の声は言う。その声を聴いて自分は弾かれた様に思わず視線をあげてしまうが、真正面にいるのは何故か自分自身と同じ顔をして青ざめ緊張した一人の女だった。



※※※



何か…………夢を見ていた…………

そう思うのは目が覚めたという感覚が、自分の中にあったからでアキコは何度か瞬きをしていた。ふっと闇の底から浮かび上がった意識を自覚した時、暗く焼けるような喉の痛みと共に世界は朧気な視界の中に浮かぶ。不意にヌッと視界に影が射して真っ黒な影がそこに迫り出した様に見えたのに、アキコはボンヤリした頭で傍にいたのと思う。それが手を伸ばしてきて自分に触れようとしていて、逃げ出そうにも身体は重く思うようには動かないのにアキコは眉をしかめていた。

捕まってしまう…………

いや、もう既に捕まっていて、自分の中には蛇がいる。そして記憶の中には夢の片鱗が僅かに残ってもいて、既に逃げても無駄だとも囁くのが聞こえていた。影が伸ばした手は怯えるようにアキコの手に触れてきて、アキコはその手に視線を向ける。視界の中の世界はボンヤリと霞んでいて、何処が何なのかハッキリとは分からないし、その手は何処か滑って湿地のように不快にすら感じる。

「ごめんな、悪かったよ、ごめん。」

空白の記憶の中で影だと思っていた男が、繰り返し繰り返し何かを謝り続けるのをきく。何かを語って何かに向かって謝り続けているのはボンヤリと理解したが、その理由や意図については全て霞のような世界の無垢の意識の世界の中で、形を成さないままに途切れ四散していく。

全ては霞んだ世界の向こうにあった。

その後は再び落ち込んだ混濁した意識の中で、アキコは今度は夢すらも見ないままに途切れ途切れに意識を取り戻しボヤけた世界を見る。世界は時に暗く、時に酷く鮮やかにその視界に浮かび上がるが、全ては何も明確な存在としてはアキコの意識が自覚する事はできなかった。時間の流れも、音を認識して理解することもできない。それどころか何度となく現れる人物の顔を見ても、それが誰なのか判別ができない。何よりアキコは、実は自分自身の自覚すら実はできていなかったのだ。
そして眩い昼らしい光の中で、不意にアキコはポッカリと完全に目を覚ました。
意識はまだ体と遠く離れた場所にあったが、既に体中が痛みに悲鳴を上げているのに気がついてアキコは身動きしようと体を捩る。その時初めてアキコは、自分の体がベットに無造作に白い拘束具で縛り付けられているのを理解した。そして何故かその手元には一番最初にシュンイチが可愛いといって熊の縫いぐるみが、ポツンと何故か置かれて黒い真ん丸な瞳がアキコを見下ろしている。

何でここいいるの……?

ここがアパートでないのは既に周囲の光景から理解できていたし、確かこれは一番最初に処分した筈なのだ。それなのに右手の上に触れるようにしておかれている縫いぐるみの存在が、周囲とはまるでそぐわず異様で理解できない。それを床に大きく払い除けようとして四肢を拘束されたアキコは、自分の意思では手も足も数センチと動かせない事を知った。その縛られた腕をアキコはボンヤリと意味を成さない視線で見つめ、手に触れる縫いぐるみを不快そうに僅かに指で払いのける。

「アキコ………っ。」

ボンヤリしながらも煩わしそうに縫いぐるみを必死に振り払う指の先に、扉を開けて立つ自分の両親と一人の男の姿があることに気がつく。
訳がわからないままアキコは、母親に向かって殆ど上がらない手を伸ばしていた。横に立っていた男を押し退けて歩みよった母親がその縫いぐるみを払い除けてくれてアキコの手を握った瞬間、アキコはその手の熱さに微かに目を見開く。それは昔よく感じた事のある懐かしい温度で、同時に閃くようにその温度がアキコの奥の何かを揺さぶる。

ヒョゥ…………

自分の喉が奇妙な音をたてて、それに一番に反応したのは戸口にいる記憶にないヒョロッとした頼りない男で、少し前に立つ父親すらその男を振り返りもしない。まるでその男がそこに存在しないようにも感じれる扱いだが、その男は現実にそこにいてたっているのだとは分かっていた。それでもアキコの方もそれには構っていられない感覚に支配される。

戻らなきゃ……このままじゃ………………呑まれる…………

何が来るのかも、何に呑まれるのかも分からないが、何故かそう感じている。アキコは心の何処かでそうなることを望んでもいるのに、呑まれるのは何故か酷く恐ろしいのだ。

「……………ぁさん。」

痛む喉を絞ってしわがれ掠れた自分の物ではない様な声が、その口から溢れる。母親は何も言わずに泣きながらアキコの頭を撫でているのに、アキコはその理由すらも分からないままに今思いつくままに口を開いた。

「家に帰りたい…………連れて……帰って……………、おかぁさん……………。」

その言葉を耳にした母親が嗚咽を溢すのを感じながら、アキコは唐突に意識が戻って初めて熱く苦い涙を零した。その言葉はアキコ自身の心の奥からの本心で、アキコはこのままここにいたくないのだ。ずっとそう思っていたのに何故かそうは言えない状況にいたけれど、今はその普段の枷は現実の白い枷に変わってアキコを縛る力を失っていた。だから今こそ戸口に立ち尽くして青ざめた顔で奥歯を噛み、歯を剥き出す男の事なんて気にかける必要がない。



※※※



背後で扉が開いて恐怖に呑まれた後、暫くの間シュンイチは身動きも取れないまま開いた扉をただ見つめていた。見えたと思った黒い影は目の錯覚だと思えたが、扉が開いたのは現実で、何時までも変わりがないままだ。瞬きをしても扉は閉じることはないし、リビングにしている部屋には今自分が座っている書斎と同じで電気がついていて視界は明るい。見えるのは開いた扉の向こうに脱ぎっぱなしのシュンイチの服が座面に投げられた赤いレザーのソファー、ついたままのテレビはここからでは真横で画面は見えないがテレビの光が点滅してソファーに光る。リビングテーブルには煙草の吸殻の山の出来た灰皿に、呑みっぱなしで置かれたマグカップ。そしてパソコンしか上がっていないアキコ用の小さな机。壁に隠れたところには棚があるけれど、それはここからでは見えない。テレビの画面は見えないが陽気な芸人の何も知らないバカ笑いが流れているのに、まるで笑えないどころか気分すら和まない。気がつくと全身は冷たい汗に濡れて、奇妙な腐臭めいた甘ったるい臭いがしていた。

…………なん、の、臭い…………

分からないが、それが妙に鼻につく。自分の辺りを見渡そうにも身体は凍りついていて瞬きしか出来ない上に、ドクドクと激しく心音がして口元から心臓が飛び出してしまいそうな気がする。何かが起こったし、起こっていると分かるのに、それに対処が出来ない自分が酷く矮小で惨めな生き物の気がしてしまう。

子供のころから…………ずぅっとこうだ………………

何に対しても対処を間違うから、何度も自分は母親に叱責されてお仕置きをされてきた。そう考えてしまう自分にシュンイチは慌てて目を閉じて違うと心の中で繰り返し、今はそんなことを考えるなと自分に怒鳴り付ける。今の自分は大人になって、そう自分が躾る側にかわったのだから、もうこんな不安に呑まれる必要はなにもない。そう信じきれそうになって目を開いたシュンイチは、背筋が奇妙に凍るのを感じていた。

何か…………違う………………

目を閉じる前と変わらないのは幾つかある。やっぱり瞬きをしても扉は閉じることはないし、リビングにしている部屋には今自分が座っている書斎と同じで電気がついていて視界は明るいまま。見えるのは開いた扉の向こうに脱ぎっぱなしのシュンイチの服が座面に投げられた赤いレザーのソファーに鮮やかな黄色の熊の縫いぐるみ、ついたままのテレビはのここからは真横になるで画面は見えないがテレビの光が点滅してソファーに光り続ける。リビングテーブルには煙草の吸殻の山の出来た灰皿に、呑みっぱなしで置かれたマグカップ。そしてパソコンしか上がっていないアキコ用の小さな机。壁に隠れたところには棚があるけれど、それはここからでは見えない。

何が………………

もう一度瞬きしても、これ以上は違和感を感じない。まるで扉が開いた事実すらなかったような気がしてきてシュンイチはもう一度瞬きをしようとして目を閉じた瞬間、違和感の正体に気がついてしまった。

ぬ、いぐるみ………………

書斎の片隅に棚をおいて置かれていた大量の縫いぐるみを片付けたアキコに、部屋の整理をする気になったのかと安堵したのはこの間の話だ。それには当然今目にした筈の一番最初の縫いぐるみも含まれていはしなかったか?しかも、瞬きの寸前にはソファーの上に縫いぐるみはあっただろうか?既に記憶に無いが本当にあったか自信がないし、もし今目を開いてそこになかったら?そこになかっただけでなくて、例えば書斎の扉の内側とかに位置を変えたりしたら?そんな馬鹿げた話があるわけがないと思うが、考えたら考えるほどに恐怖感に呑まれていく。
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