鵺の哭く刻

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発病

67.

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結婚する気ではいると自分の母親に口にするのに、何故かこんなにも躊躇うのは何故だろうとシュンイチは心の中で思う。

「よく考えたの?!」

そして当然のように噛みついてきた言葉に、そう言うだろうと思っていたと考えた自分もいる。何故そう考えるかそれを追求するのは奇妙なほど恐ろしいが、それでもアキコを手放すつもりもないのだ。

「…………考えたのって、もう付き合って四年以上経ってて、同棲してから一年も経ってるんだ。それに、母さんと違ってアキは毎日面倒みてくれる。」
「それは結婚してほしくて胡麻をすってるのよ。結婚詐欺かもしれないわ。」

この母親は何をいっているんだろう。アキコは以前は公務員で、将来が確りした場所で働く看護師だったのだ。それでも自分が結婚を前提にと告げたから、関東に出てきてくれた。しかもちゃんと今も看護師として働いていて、シュンイチがいなくても恐らくキチンと生活ができる人間なのだ。真面目で勤勉で、仕事にも真摯に取り組む人間で、自分に結婚してほしくて何かをするなんてあり得ない。何しろアキコから結婚して欲しいなんて言葉を、一度も聞いたことがないくらいだ。それでも一緒に暮らそうと言った時には本当に安心して嬉しそうに微笑んでくれて、こうしてここで話していても穏やかで可愛く笑う。

「奥さん……息子さんの彼女さんは、すごくいい子ですよ。」

流石にあまりの言い種に我慢できなくなった様子の同室の膝悪い老人が口を挟むと、母親は鬼のような形相で余計な口出ししないでくださいと言い捨て、ほらご覧なさい周囲に色目を使ってるとまで口にした。

…………奇妙だ。

母親はまるで自分の話を聞いていないし、勝手に自分の印象でアキコがアバズレの尻軽女のように話し続ける。だけどその姿がどこかで見たような気がするのに、不快感と共に腹の奥底で怒りが沸き上がった。お前だって同じ女の癖にと怒鳴り付けてやりたいのに、シュンイチは奇妙なほど萎縮してしまって反論もできない。それでも到底母の言動に納得出来るわけでもないから、怯えたように黙りこんで一先ず母の怒りの嵐が過ぎ去るのをただじっと待つ。

ああ、そうか、自分がそっくりな事をアキにしているのか。

納得できない理不尽な言葉を叩きつけられ、文句も反論も飲み込んで嵐が過ぎるのを待っている。家で怯えた顔で自分を見ていたアキコは、今の母の理不尽な言動に堪えている自分と同じなのだ。そしてこの母の理不尽さが疎ましくて家を出てきた自分は、アキコに同じ事をしてしまっている。どれほど贔屓目に見てもアキコは周りが言うように真面目で献身的なよく出来た人で、母が言うような男に色目を使うような人間でもなければ結婚目的ですり寄ったわけでもない。

「アキは、いい子だよ。」

そういう言葉を母親はまるで信じる気もない。だけど大体にしてアキコはハッキリと言ったがアキコに法的に病院で話を聞く権利も何もないと言うことは、同時にアキコがここまで献身的に世話をしてくれる法的な理由もないと言うことなのだ。あの時シュンイチが法的に何も出来ない立場だというのと同じで、同時にアキコが法的にシュンイチに何も責任をとる必要なんかない。

それでもアキは、俺のために全部してくれてる。手続きも、付き添いも何もかも

本当なら自分で何とかするか母親や家族がしてくれる筈の事を、しなくてもいい立場のアキコが全て頼まれずとも十分過ぎるほどにやってくれている。毎日仕事の行き帰りに立ち寄ってシュンイチの体を拭いたり、時間を潰すために本を持ってきてくれたり、何も頼まなくても洗濯した綺麗な下着やタオルを事前に準備してくれているのだ。今は専業主婦で日がな一日家に居るだけの母親が幾ら離れたところに暮らしているとしても、その差は明らかだった。何しろシュンイチの実家を昼に出ても、一時間もしないで母親はここまでこれるのだ。

「…………あんまりアキの事を悪く言うなよ、アキはいい子なんだ。」

繰り返した自分の言葉に、母親が始めて黙りこんだのに気がつく。見上げると赤くなった憤怒の奥歯を噛み締める顔がそこにあって、こんなところまで似ているのかと唖然としてしまう。
そうか、自分の抑え込めないほどの憤怒の感情は、この人からそっくりそのまま引き継いでしまったものなのだ。そして同じような反応を自分はアキコにぶつけていて、アキコを怯えさせて、あの可愛い花のような笑顔を消し飛ばしてしまっていた。そう気がついたら、何故か酷く心が凪いで行くのを感じる。

アキコだけが…………

ほんのちょっとの後にアキコがお茶を過買って戻ってきたが、母親は憤怒の顔を崩そうともせずさっさと帰ってしまってアキコの方が困惑している。シュンイチが気にしなくていいと言っても送ってきた方がいいんじゃと困ったように言うアキコに、いいからちょっとここにいてとベットの傍に座らせてその手を握った。

小さな手

自分より小さくて握り込めてしまう程小さい。最初から何も対価を求めることを言わなかったアキコは、シュンイチからは随分酷い扱いをされているのにこうして大人しく傍に居る。

他の誰でもアキコが付き合いたいと言えば、きっと誰も断らない。

それが分かるのにこうしてアキコはシュンイチの傍にだけ居てくれたのに、やっと気がつけた。そんなことに今更気がつかされて、今後のことを一人ベットの上で考えていた翌日今度は唐突にアキコの母親の方が病院に姿を見せたのだった。
アキコは居心地が悪いのかまたお茶を買ってくると売店まで向かってしまい、昨日と同じように二人きりになってしまう。少し気まずいと思うが以前はマジマジとは見なかったけれど、アキコの母親はアキコととてもよく似た風貌の人でベットの横の椅子に静かに腰掛けた。

「調子はどうですか?痛みや痺れは?」
「あ……はい、大分痛みはいいです、痺れはまだ少し。」
「そうですね、若いけど、そこは手術ですしね。リハビリしないとね。」

そうだ、アキコの母親も看護師なのだと、以前アキコから聞いていたのだった。穏やかでアキコとよく似た声質の問いかけは、柔らかくて昨日の棘のある母親の言葉とはまるで違う。詰るわけでもなく問い詰める訳でもなく、もう少ししたら嫌でも歩かされますよと静かに笑うアキコの母親は、自分の母親とはまるで別の人種のようだ。何故それなのにアキコは自分と似ている面があるのだろうと疑問に思いながら、アキコの母親が会話を重ねるのに答える。

「アキコは……随分と……痩せましたね。」
「そ、うですね。」

以前のアキコとは確かにかなり痩せてしまっているけれど、それでも少し前よりは顔色が良くなったのだと答えたらきっと不快に感じるに違いない。そう分かっているからそれ意外答えようがなかったシュンイチに暫しの沈黙の後で、他に聞き方がないと言う風にアキコの母親は問いかけてくる。

「私の娘は……幸せにしてもらえますか?」

自分の母親とこの人が何でこんなに違うのか分からない。それでも、穏やかで静かでアキコが将来がこんな風になっていくに違いないと感じる姿をしていて、この人もアキコのように笑うのだろうかと考えもする。
アキコが以前住んでいたところよりは短くても片道三時間もかけて、看護師の仕事を現役でしている人がここまで来るには仕事を休んで来たと言うことなのだ。それに来た時点でアキコと同じように周囲に会釈して、お見舞いですと持参した冷菓を手渡されもしている。常識的で穏やかで礼儀正しいアキコとよく似た人の問いかけに、シュンイチは素直に答えるしかなかった。

「そうしたいと思ってます……。」
 
そうしたい。今は本気でアキコを幸せにしてやりたいと考えているし、怯えた顔でなく可愛く笑うアキコを見ていたいと思っている。だから正直にそう答えたシュンイチに、目の前でアキコによく似た人はアキコと同じような笑顔を浮かべていた。



※※※



不意に前置きもなく姿を見せたアキコの母親に、アキコも実は面食らっていた。普段なら関東に来てアキコに会うなら数日前から連絡があるのに、今回は本当に不意打ちで前置きなしだったのだ。それに驚きもするが、シュンイチが椎間板ヘルニアで手術を受ける話はちゃんとしてあったから来るのも当然かもしれない。シュンイチの両親と違ってアキコの母親なら、この状況で見舞いに来るのはある意味では予想通りとも言える。

父さんと一緒じゃないだけましか……。

下手すると父親と一緒に来る危険性もあったのだからとアキコは考える。危険性というのはオーバーかもしれないが、父はアキコが関東に出て来るのに反対だったし入院中だからと言ってシュンイチに手加減するような性格ではない。つまりは約束を守らずに一年半もこうしていると、シュンイチに詰めよりかねないとアキコは思うが

詰め寄られて…………なんで困るのかしら……

約束を守っていないのはシュンイチなのだから、別に詰め寄られても構わないのかもしれない。それでもこんな風に考えるのは今更だが、シュンイチにもシュンイチの両親にも不安を感じているせいかもしれなかった。勿論シュンイチに対する不安の大部分は、女性関係と性的なこと、それに暴力。そしてシュンイチの両親にも何処かシュンイチに通じる部分を、今回のことで感じているのは事実だ。
前日やって来たシュンイチの母親がシュンイチと何を話したかは知らないが、戻った時の空気で何か良くないことが起きているのは感じていた。それに同室の患者達の視線だ。

アキコを哀れんで、シュンイチ親子を剣呑に見ている。

そう感じたのは強ち間違いでもないと思う。患者というものは病院に隔離されていて、世界が狭い状態におかれる。同室になると不思議と連帯感が生まれたりするし、友人のようになったりするのだ。そして環境が密接だからこそ、それはあからさまなほど空気に滲む。アキコが同室患者に挨拶を欠かさないのは、そういう意味でシュンイチが過ごしやすくするためでもある。それは上手くいっていたが、シュンイチの母親がいてアキコが戻ってきた時の空気はかなり険悪だった。多分母親が悪態でもついたということなのだろうと、薄々考えるのは強ち間違いではない筈だ。
それとは逆に自分の母なら気を使うこともない筈なのに、正直昨日より居心地が悪いのは約束を守れていない二人の関係が心苦しいからだろう。結婚を前提にといわれてやっと同棲はしたものの、それに向けて何か進んでいるわけでもないし、正直女性関係や中絶の話もアキコは秘密にしている。プラスの報告は何一つないのに、マイナスの事態ばかりなのを言わなくても見抜かれるのが嫌なのだとアキコも思う。
前日と同じようにお茶を買いに行く短い時間の間に、アキコの母親とシュンイチが何を話したかは知らない。ただその後アキコの母親はやはり看護師であることもあってか、出来る範囲の事を手伝いたいとアキコの家に泊まるといって一緒に病院を後にした。横に並んで無言で歩きながら、アキコは一体何を彼と話したのか聴いてみたいのに聞けないというジレンマに陥ってしまう。まるで海中にいるかのような重苦しいような不安を感じる自分に、アキコは小さな自嘲気味の苦笑を浮かべる。

「…………痩せたね。」

不意に夕闇の中でかけられた言葉にアキコは横の母親の姿をみる。元々同じ程度の身長の母娘だが、母は痩せぎすでアキコの方が肉付きがよかったのだ。だが、今はアキコも少しふっくらしている程度になっていたことに気がつく。つまりはそれほど自分の体重が落ちてしまっているのだと、証明しているようなものだ。

「そうかな?…………あまり、気にしてないけど。」
「痩せた。体調大丈夫?…………一人で無理してるんじゃない?」

母親の言葉にアキコは首を降り、そんなことないと否定してみせる。
そう言えば今夜は食べ過ぎないようにしなきゃと心の奥で囁く自分の声がする。
上手くいっていない二人の関係を見抜かれるのも嫌だが、母親に過食嘔吐がばれるのはそれ以上に不味い事だと、アキコの心の声が暗く重く低い声で囁く。何しろ相手は自分より遥かに経験のある熟練の看護師だ。
取り繕うアキコの笑顔をどう感じたのかは分からないが、母親は特に何を話すでもなく翌日には帰途に着いた。それはある意味アキコにとっては肩透かしを食らったかのような状況でもあったが、心の何処かではアキコ自身が安堵していたことも確かだ。
ともあれ、まだ日々は同じように続いて行く。
手術も終えて暫くして傷から縫合の糸が抜けると、シュンイチはベットから離れる事を勧められるようになった。術後の早期離床は基本なのだが、面倒な患者となっていたシュンイチは中々看護師の言うことを聞かない。

「歩かないと筋力が落ちて、本当に歩けなくなるよ?」
「若いから大丈夫。」
「大丈夫じゃないから、ホントにこれ以上寝てたら走れなくなるんだよ?」

フットサルも出来なくなると宥めすかして動くよう説得するのも、結局最終的にはアキコの役目だった。暫くの安静で弱った筋肉と傷の具合と相談しながら、やっとのことで歩行器を頼りに歩き出すまでかなり時間がかかった。若い患者でここまで時間がかかるのはマトモじゃなくて、それはつまり看護師や医師がシュンイチやシュンイチの母親に腰が引けている証拠だ。関わりたくないから積極性が落ちている。そうでなければ救急指定の病院でここまでのんびりと経過を見る筈がない。
二人でゆっくりと中庭まで歩き、もう少し歩けるようになったら退院だから頑張って歩いてねと言うとやっと筋力の低下を実感したシュンイチが素直に頷く。身の回りのことも変わらずアキコだけの仕事で、シュンイチの母親はあれから一度も来ない。経過を報告するために電話を一度かけたが、けんもほろろに忙しいから何もないなら電話しないでといわれてしまったのだ。自分で電話してる?とシュンイチに聞いたら一度もしていないというから、アキコはヤッパリ変な親子関係だとしか思えないでいる。シュンイチのあの独占欲とか暴力は、子供の時に親達からの愛情不足だったからなのかもと密かに考えてしまうくらいだ。
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