鵺の哭く刻

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発病

58.

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目に見えないところで、………………嵌められていたのだ。

アキコと比較すれば、もっと長い期間前の本院から移動してきて働いているスタッフは数多くいた。そちらはもっと現状の把握をしているから簡単に退職はしないだろうし、大体にして慣れた職場をみすみす辞めることもない。何よりアキコと先に辞めた友人のようにまだ期間の短い勤務しかしていない方が、病院としても退職金も払わなくて済む。

つまりアキコから退職を言い出せば、後腐れなく辞めさせ追い出すことができる

目の前の上司の目の中にそれを感じとれるのは、何故だろう。ただその思考はあからさまで妄想とは思えないし、偽りでもないと思うアキコはそれを改めて考える。
経営不振で給料の支払い滞納が続いている病院で、大きな収入源である患者を切る筈がない。それよりは蜥蜴の尻尾のように簡単に切れる状況にいるのは、アキコでありアキコの友人であり、他の職種の退職したスタッフ達だった。そして恐らくは嫌がらせのように、辞めたのだからさっさと出ていけと言われている。アキコは必死に冷静さを保つよう勤めながら、数日でいいから猶予を下さいと頭を下げる。気が狂いそうな怒りと悔しさで眼がくらむような気がした。チカチカと頭の中で憎悪が瞬き、それが自分の身の内を炙って焦がしていく。

腹が立つ

そんな言葉だけでは堪えられない。頭を下げて顔を見ていないのに何故か相手の顔が見えていて、ゾワゾワと毛が逆立つような感覚が全身を包み込む。頭を下げて頼んでいる内容はほんの少しだけの退去までの猶予だというのに、相手は意地悪く笑いながらさっさと出ていけと言う。

見ていないのに、見える

これは自分の妄想だろうかと怒りに震えながら考えるのに、何故か膝を見つめる自分の瞳がキュウと変化したような気がした。視界が突然広がり、視覚というよりも温度で世界が感じとれていくのは、まるで蛇が周囲を確認しているかのよう。

相手の愉悦が温度になって目に視える。

アキコを追い詰めてネズミをいたぶっているような、こちらの立場の弱さに付け入る憂さ晴らし。でも、それは本当の眼球で見ているわけでなく、アキコの体の奥底から突き出された蛇が視る世界だった。

お前…………このままでは、済まさない

何故かそう言ってるものがアキコの頭の何処かにいて、それが聞こえたみたいに突然目の前の上司が凍りつく。まるで蛇に睨まれた蛙のように蒼白になって、まるで誰かが自分の墓の上を踏みつけて行ったような顔をして。不意にアキコは視線をあげ、その顔を真っ直ぐに見た。それは妄想ではなく確かに視ていたものと同じ恐怖に包まれた顔で、アキコは冷えきった心でならさっきまで意地悪く笑っていたなと囁く。

お前…………嗤っていたな?私が頭を下げているのを見て、嗤っていたな。

凍りついた心の声が聞こえているように、相手の恐怖の顔が苦痛に歪むのを見た。アキコが苦しめと願うからなのか相手はまるで息が詰まってしまったように苦悩の顔を浮かべていて、アキコがただでは済まさないと蛇のように睨んでいるからかおぞましい恐怖に飲まれている。

「い、一週、間。」

ハッとその言葉でアキコの方が我に返り、相手もやっと苦痛から逃れたように深い息を吐く。そして何が起こったか分からないというボンヤリとした口調で、相手はまた一週間だけ待ちますと告げた。

一週間。

決して長い期間ではないが、即日と言われたのを延ばしたのだから。そしてその後には深く強い悲しみが、アキコの心に影をさす。アキコは怒りの余り無意識に相手を睨み憎悪して、それが相手にバレてしまったようだった。一体自分はどんな目で相手を睨んだのかと考えるとアキコにもよく分からないが、相手は恐怖に凍るような顔つきだったと考える。

それでもこんな理不尽な話はない。

アキコは必死に涙を堪えながら、同僚達の見つめる前で自分のロッカーの私物を自分のバックに押し込む。もう誰からも声をかけられたくなかったし、誰にも声もかけたくなかった。

馬鹿にして……。

自分が切り捨てられたのだという現実が何よりも痛かった。何時かは生え変わるから切れてもかまわな蜥蜴の尻尾と同じ。アキコは再び燃えるような怒りの浮かぶ瞳で、今や元と名のつく同僚を一瞥し、それぞれの瞳の中にアキコが思っているのを肯定する光を見る。アキコは同情の思いが浮かぶ視線に、もう何も口を開こうともせずに踵を返した。
病院をでた途端、病院の目の前でシュンイチに電話をかけて、全ての顛末を話す自分の声が何時になくヒステリックに聞こえてアキコ自身うんざりした。だが、いつもとは違ってただ全てを聞いていたシュンイチは、アキコが息を切らして話を区切ると静かに言葉を紡ぐ。

『頑張ったね、アキ。』

その声は酷くアキコの心に響き、瞳から堪えていた涙が溢れ出した。誰も助けてくれなかったが、それでも唯一の相手には認めてもらえた事で怒りや悔しさが涙に代わるのを感じる。これからどうしたらいいかも分からないが、少なくとも何か行動をおこさなければならない。そう思った瞬間、電話の向こうで緊張した声が言葉を放った。

『一緒に住まないか?アキ。』



※※※



それはアキコが知らない筈の話。何故ならアキコはその日既に職員ではなくなったし、午後には院内にも居なかった。そして、それはアキコにワザワザ連絡までしてする話ではない。

透析というものは患者の腕に作ったシャントという血管に針を刺し、そこから透析機械にチューブで繋いで血液を一端体の中から抜きフィルターを透して不純物や不要な水分を少しずつ除去して体内に戻す。
人体から人工的に多量な水分を抜くと、簡単に言えば血管にかかっている圧力が下がる。そのため透析開始時は血圧は高く、後半になると血圧は下がっていく。また不要なミネラルなどを抜くので、カリウムなどの変動で不快感や吐き気等が起こることもある。その上腎臓はエリスロポエチンという造血に作用するホルモンを産生しているのだが、それが低下すると赤血球を産生が刺激されずに貧血を起こす。
兎も角体内に余分に残っている水分を二時間以上かけて、三リットル前後一度に抜き取ることになる
イワキは元々糖尿病からくる腎臓の機能不全だった。何度指導しても透析後の自己管理が出来ず、水分を適切に除去出来る上限以上に飲み、毎回四リットル以上水分を除去しないとならない状態で来院する。しかも、他の患者に比べて少し若いので多少の無理が利くのが尚更、イワキを調子に乗らせていた。

増やしても、水抜けばいいだけじゃん

そう平然といい、それは確かに最初の内は不可能ではなかった。ただし最初の内は、である。年を重ね、それがジワジワと自分の体を痛め付けているのに、イワキは気にもとめず更に調子に乗り初めていた。それが飲酒だ。元々イワキの糖尿病の原因は、過度の飲酒によるものだった。
人間の体に入ったアルコールは胃で二割、残りは小腸で吸収される。そこから血液に溶け肝臓に運ばれるのだ。アルコールは肝臓で代謝されて次第に排泄されるのだが、一部一割程度は体内で処理されないまま尿や汗、呼気となって体の外に排出される。過度の飲酒で肝機能が悪く糖尿病から腎不全になったイワキは、アルコールの代謝が悪い上に、尿でのアルコールの排泄もできない。それなのに透析に飲酒した状態でやってくるのだ。お陰で水分量が体内で下がると酩酊する。本人は透析をするとフィルターでアルコールも抜けると言いはるが、どう考えても酩酊して嘔吐したり挙動不審になったりするのだ。
そう、元々そんな風に問題のある患者であった。
それでも、収入源を優先したのだからその後に関しては、病院と判断と責任。
その日のイワキは来院した時点から様子がおかしかった。目は虚ろで呼気はアルコールをそのまま吐き出しているように強く臭う。

「駄目だよ、イワキさん、そんなんじゃ。」 

そう言われてもイワキはウロウロと辺りを不安げに見渡し、当然のようにベットに横になる。あれ危ないな、とスタッフ同士で目配せしたものの、透析をかけない訳にはいかない。何しろ週三回透析をしてもイワキは規定の体重に戻せない水分の借金を貯めていて、少しでも引かないと心不全や他の病気を引き起こしかねないのだ。
やむをえず少な目に水分を引くように機械を回し様子を見ていたが、酒のせいかものの二・三分でイワキは鼾をかいて寝始めていた。本来ならそういう時は必ず、急激な低血圧による意識消失の危険性があるから看護師は患者に声をかける。もしかすると脳が虚血状態になっている可能性があるからだ。ところが強いアルコール臭と普段のイワキの態度が、それを阻害してしまった。

酔ってるから起こしたくないし、面倒くさい

そう本能的に看護師も医療機器担当者も分かっていて見ないふりをしてしまった。定時的に血圧測定は行われるから、それが変動しなければ大丈夫と鼾をかいているということを聞き流したのだ。

鼾を突然かいて寝てしまう

アルコールがそういう症状を示す事はあるが、病気でも似たような症状を起こすことがある。例えば脳血管系の疾患とか。そして時に血圧が高値を維持する疾患もある、そう例えば脳血管系の疾患に。イワキの体内の血管は長年の自堕落な生活と糖尿病のお陰で、三十代後半にして既に周囲の七十代の透析患者よりも年老いていた。しかもそれをイワキは、まるで気にもしていなかったのだ。



※※※



その人物は疲労困憊で帰途についていた。
朝から面倒な案件を一つ片付けて、少し不満は残るが割合気分よく過ごしていたのに、午後になって状況が最悪な方向に一変したのだ。

透析中の患者が意識を失い、処置しきれずに救急車で運ばれるなんて。

あり得ないことではない。小規模の病院では対応しきれないものは、救急車で救急対応が出来る病院に送るのは普通のことだ。問題は事態が発生してからの経過だった。飲酒して来た患者に非がないわけではないが、それに透析をかけていて経過観察を怠った。経過記録にも書いてあるが鼾をかき始めた時点で声をかけていれば良かったのに、その患者は透析が終わるまでそのままだったのだ。

全く、ほんと透析患者じゃなきゃブラックリストなのに

若い部類に入るその患者は以前からとても問題の多い患者だった。本院に通っていた時も若い看護師にはすべからく異様な行動をするし、その中でも気に入った若い看護師には自宅や寮まで付きまとったりする。既に今年採用の二人の若い看護師を、今回に限っては願ったりかなったりではあるのだが退職まで追い込んだ。というのもこの病院は新しく建てたが、通っている患者は本院は川向こうにあって元からいた透析患者なのだ。こちらの病院に移ってきたのは、殆どが川をわたる必要のないこちら周辺の住民である患者。だがその問題患者は川向こうの方が実は自宅からは近いが、綺麗な施設で新しく採用される若い新しい看護師を狙って移ったのはわかりきっていた。何しろ本院ではもう悪事が知れわたり過ぎて、誰も相手にしないからだ。それでも透析患者の収益は確定したもので、若いその患者は少なくともこれからあと何年も収益になる。

だから我慢したが、あれは恐らく二度と戻ってこない。

しかもカルテ開示を求められれば、医療訴訟になりかねない事態だ。あり得ない状況で透析を実施して、しかも鼾をかいて意識を失った患者を二時間も放置。何とかして隠さなければと、カルテ開示してもそれが分からないように記録を改竄しないとならなかった。

ヒョーゥ

微かな何かの哭き声が耳に突然入ってきて、一瞬何かを思い出しそうになる。何か思い出してはいけないものを思い出してしまいそうで、恐怖にかられるのは何故だろうか。フラリと足が勝手に動いて、無意識に前に進む。

ヒョウ

哭き声が少し大きくなる。この哭き声はなんだったろうとボンヤリ考えるが、思い出せないままフラリと足が縁石を乗り越えていく。



※※※



一晩中明るいままの街に何処か遠くで救急車の走るサイレンが、微かに響いている。転居先は兎も角、荷物はまとめ始めないとならないから可能なものは片付け始めていた。翌日にはシュンイチの居住区周辺で二人で住める場所を探すつもりだ。
先日ここで襲われた影の存在は気にかかってはいるけれど、言い換えれば影は元に戻っただけとも言えるし、ここにはもういられないのは事実だった。

そう考えたら、あいつらから離れられるんだからいい。

前向きに考えてみたら、気分はまるで憎悪を感じたのが嘘のように綺麗に晴れた気がする。スッキリした気分というのはおかしな話だが、正直今のアキコは奇妙なほどにそんな気分を感じて思わず微笑んでいた。
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