鵺の哭く刻

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潜伏期

20.

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自分が深くはまり始めた感情の沼に気がつかないままに、アキコの日々は淡々と過ぎていく。表では清く正しいふりをして聖職者のように甲斐甲斐しく働いているのと、夜のリエとしての激しく淫らな痴態は次第に正反対の顔になりつつある。必死で清らかな赤ん坊を世話し続け母親に指導をする自分が穢れているという矛盾が大きすぎるから、尚更に反動が大きくなっている気がしなくもない。そのせいもあってかリエとフィとして交わす文字の会話は、あっという間に親密度を深めていた。

《俺は今埼玉に住んでるんだ。》
《そうなんだ、ちょっと遠いね。私東北だもの。》
《そう?新幹線で二時間だから直ぐだろ。》
《新幹線の駅まで車で二時間だから(笑)》

自分の居場所ははっきり言わなくても、条件を絞れば当てはまる区域は分かるのではないだろうか。そうは思ったが相手が余り東北の地理に詳しくない様子なのと、距離的にも来る機会もないのは分かりきっている。相手は大学生で関東に暮らしていて、自分は新幹線も通らない沿岸の地方都市。互いの話す内容もまるで正反対で、逆に相手のことを気にかけることもない。

《そっちは自然が多そうだね。こっちはコンクリートばっかりだ。今も暑いよ。》
《海辺だからね、潮騒が時々聞こえるの。》
《いいなぁ、こっちで聞こえるのは車のエンジンくらいかな。》

そう相手にしてみても、恐らく自分と考えている事はたいして変わらない筈。どうせ何をしても顔を逢わせる訳でもないのだから、この程度の雑談は小説を読んでいるのと何も変わりはしない。そうなのだ、結局は相手は自分が望むままの欲望を満たすための道具にしか過ぎないのは分かりきっている。だからこの会話も何の意味もなさない。ただのピロートークと同じで、全て適当に答えても変わりはしない。

《彼氏はいないの。田舎だし仕事柄、出会いがなくて。》
《そっか、俺も今はフリー。合コンとかないの?》
《人見知りだから、初めての人と会うの苦手だし。》
《そうなんだ?俺ならちゃんとフォローしてあげるのにな。リエは大人しいもんな。》

そんなことは言われたことがない。何しろアキコは大人しいどころか、しっかりしていて勝ち気で人当たりもよく人見知りだなんて一度も思われたことがない筈だと思うのだ。それでも本当は誰かにそう言って欲しかった。弟が病弱だからアキコはしっかりしないといけないと言われ続けて育ったと思っていて、本当は人と接するのは苦手なのにしっかりものだから上手く取り繕っていると考えてもいたのだ。ただ単にそれを今まで誰にも言わなかっただけだけで、誰もそれには気がつかないほどアキコが思うよりずっと巧みにかわしてきただけ。それでもフィがそれを見抜いてそう言ったと考えてしまえば、相手は自分をよく分かっているとも感じてしまう。
本当はどうなのか考えるよりも、ただこうして毎日交わされる会話が穏やかで自分の心に直接響く。それをただ感じている方が、ずっと心が満たされて幸せなような気すらする。

《もうそろそろ寝ないとな、リエ》
《あ、そうだね、もうこんな時間なんだ。早いね。》
《リエ?》
《なあに?フィ》
《そのまま寝るの?》

そんな雑談が終わる合図を文字で向けられて、その言葉に反応し始める渇望。どす黒く身の内を炙り、今までよりもずっとドロリとしていてマグマのように高い熱を秘めている。

《いいの?寝る?》

相手がそんなつもりで聞いているのではないのは、もうモニターの前のアキコにも理解できていた。リエとして会話を始めたら、最後はこうして躾られないと終われなくなってきている。与えられる罰は既に罰ではなく躾と呼ばれていて、リエはそれを請う従順なフィのペットになりつつあるのだ。いや痛みを与えられるのを待ち望んで、それを喜ぶのだから、正確にはペットとは言いがたい。

《…………お願い……します。》
《お願いの仕方があるだろ?違うか?》

次第に躾の時の言葉は、普段のとは違い穏やかなのに尊大にも感じる口調に変わりつつある。それでも拒否すればこの関係の全てが終わると分かっているし、嫌なら話をあわせるだけで誤魔化しても構わないのだ。何しろ相手は自分の顔も名前も知らない未知の存在のままなのだから、そうどこか心の中で自分に必死に言い訳をする。

演じているだけ。

罰を受ける存在を演じていて、その罰を受けて許される。許されるからご褒美を与えられ、それが快楽に変わるだけ。そう思えば何も気にしなくていい。自分はリエを演じていて、相手はフィを演じているだけなのだから。



※※※



気がつくとそこは闇の中で嗅いだことのない湿った土の香りがしていた。肌に触れるのは乾いたい草の畳の感触で、アキコは戸惑いながら身体を起こす。

ヒョウ……

何処からかあの哭き声が聞こえてきてアキコは闇の中を目を凝らして見渡すが、闇の中にはあの自分の顔すら浮かんではいない。物悲しく掠れて響く哭き声だけが耳に届き、後は何一つ音が聞こえない空間の中にアキコは独りいた。

ヒョウ…………ヒョーウ…………

立ち上がることも出来ずに闇の中で、その声に耳を澄ましていると、それはキシキシと空気を震わせているように感じてしまう。やがてそれは近づいて来ていると心の中では気がついてもいるが、その声の主が見えた時に何が起こるかは想像もできない。そして灯りが射して、ここがどんな場所なのかを知るのも実は恐ろしいのだ。



※※※



そんな夢を頻回に見るようになっていた。フィと交流が深まってまるで当たり前のように毎日毎日お互いの時間を削っているのも気にしないほど、長く親密な会話が交わされるほどにその夢は鮮明になっていく。それに実際にはアキコは気がつきもせず、親密な距離感の短い会話と主従関係すら思わせるその後の調教という名の擬似的な淫靡な行為の繰り返しが続く。刷り込まれていく心地よい会話と苦痛の先で与えられる御褒美の飴の甘さ。それはまるで運命の相手と錯覚してしまうような細やかさで、アキコはその交わされる会話の多くを自分の現実の感情と重ね始めていた。

それが一度の事であればアキコだって信じはしない。

でも何度も何度も繰り返されていく。それは自分の体にハッキリとした痛みと快感として、何度も繰り返して刷り込まれていくのだ。何しろ指示にしたがって自分自身が演じて与える痛みと快感なのだから、自分の頭の中で自慰に耽るのと本当は何も代わりがない。それでも相手に指示されてしているという行為が、奇妙な呪文に変わってアキコの冷静さを奪って侵食していく。
独りきりの部屋で他の事をして過ごす時間よりも、モニターに向かって語り合う時間がアキコの生活を侵食してしまう。それすら、無数の感情と相まってアキコは心地いいとすら感じていた。

…………フィは……悪い子でも、私を女性として必要としていてくれる。

相手との会話がアキコに、そう言っているかのような気がしてしまう。それはアキコ自身がその先として起こりうる色々な可能性を知らないでいた結果でもあったし、相手も同じように考えていると思い込んでいたということでもある。



※※※



そうして二人のモニター越しの逢瀬は、約二ヶ月もほぼ毎日続いていた。その間アキコの生活は殆ど仕事とその会話・行為だけで締められていたようにすら思えるようになる。そんな最中フィは会話を始めると同時に、不意にこんな言葉をモニター越しのアキコに向けて放ってきた。 

《フィ:明日から三週間位チャット…………出来ないんだ。》

突然のフィの言葉に、アキコは酷く動揺している自分がいるのに気がつく。何度もその文字の浮かぶモニターを息を詰めながら見つめて、心の動揺の中で様々な可能性を思い浮かべる。

三週間……?
もうリエとの会話に飽きたのだろうか。
今はいないといっていた彼女が出来たのだろうか。
三週間何が起きるのだろうか、
三週間後フィは自分のところに戻ってくる?それとも……

最後の思考が閃いた瞬間、アキコの脳裏に確信めいた閃きが弾けて思わず言葉になって口から溢れ、独りきりの室内に虚しい音となって響いた。

「………………恋してるの?私。」

それは自分でも酷く奇妙な感覚だった。
何しろアキコの中に生まれているのは、顔も知らない文字だけの交流をしている相手への恋慕。そんなものが本当にありえるのだろうかと、アキコは自分自身で頭の中に問いかける。それでも相手がもう一度自分の元にと考えたことで、自分の中には明確に恋慕と異性としての独占欲があるのが分かってもいた。毎晩話をして快楽を共有しているのだから相手も自分を好ましく考えている筈で、自分を独占したいからオープンチャットには行かない。そして、自分もそれは同様な筈だった。
実際にアキコが今まさに感じたのは、それ以外の表現を持たないと感じられる。
付き合っているわけでもない自分を彼が飽きたのではないかという不安・いるかどうかもわからない彼女への嫉妬・そして、独占欲めいた執着心を、はっきりと自分の中に感じ取ってアキコは息を飲む。やがて微かに震える指でキーを叩き自分の戸惑いを文章に変えて伝えた。

《リエ:何か…………あった?》

行間の戸惑いは文字からでも、彼にも伝わったのだろうか。その行間にあるリエとしての嫉妬や独占欲はフィには伝わらないで欲しいような伝わっていて欲しいような、どっち付かずの自分がここにはいる。そんな事を考えながら自動で更新される画面に新しい一行が生み出されるのを、アキコはモニターの前で息を呑んで待つ。

《フィ:教育実習で、実家に戻らないといけないんだ》

それは予想だにしない言葉で、アキコは相手が大学生だというのを改めて思い出していた。そういえば相手は教育学部に通う大学生で、教師になるために勉強していると何時か聞いてもいたのだ。

《フィ:実家にデスクトップ持って帰る訳にいかないし、実家には自由にできるパソコンないしね。》

その言葉に今まで張り詰めていた緊張が微かに緩むが、まだ最後の不安だけは消し去れない。三週間が終わったら元通りになるかどうか、もしならないとしたら自分の身に染み付いてしまったこの感情をコントロールする術があるのか。それを直接言葉に変えて聞く事もできないまま、アキコは身動ぎもせず新しい文章が自動で更新されるのをただ見守っていた。この先のそれを聞いてしまえば、今までとは関係が変わるような気がして聞きたいのに自分からは聞きたくなかった。しかし、その均衡を破ったのは、アキコではなくフィの方だった。

《フィ:もし…………だけど、よかったら電話で話さない?リエが……嫌じゃなければ。》

リエと呼ばれたアキコは微かな戸惑いと伴に、その言葉を文字を何度も何度も読み返した。電話をするということは文字ではなく、互いの本当の声で直に会話をすると言うことなのだ。

嫌ではない。

でもそれは今まで踏み越えることの無かった、一線を越えることになることがアキコにも良く分かっていた。仮想現実から現実への一線。例え会う事のない筈の人間でも、リアルな世界での相手の声を聴くことはどんな結果をもたらすのだろう。そう頭では考えていたのに何故か何時もの渇望が体内に沸き上がり無意識の熱に変わり、それに浮かされたようにキーを打っていた。
 
《リエ:………………いいよ、電話しても。》

何故リエがこんな無謀な事をしようとしているのか、アキコには自分でも理解ができない。アキコにしてみれば自分のリアルを文字だけではなく、声と電話番号という現実世界を曝すことになるのに強い不安がある。しかもリエは相手の番号がモニターに表示されて、それを見ながら考えていた。

こちらからかけるのだから電話番号を非通知にする。

事実そんな方法もあるのに、アキコではなくリエは何故かそうもしない。せめてものアキコの抗いなのか自宅のではなく携帯電話を手にして、モニター上の相手の電話番号の数字を緊張しながら打ち始める。自分の中のリエが迷わず全てを押しきってしまって、震える耳に携帯電話を押し当てアキコは崩れていく常識という一線をヒシヒシと肌で感じていた。

ヒョゥ……

耳に微かに響く哭き声。
このまま電話を切れと、冷静にアキコの声が言うのが聞こえる。でも、もしここで電話を切ってしまったら、この関係はここで終演を迎えてしまうだろう。そうしたらまた再びいつ襲ってくるか分からない、あの焼けつくような炙られるような渇望を感じながら暮らすことになる。しかも、あれを現実で抑えられるのは自分が、望まないような卑猥な行為でしかないのは分かっていた。あの渇望が愛情や何かでは満たされないのは、自分が悪意の塊で幸せを感じるのを許されないからだ。
そう思えば、フィのように自分を罰してくれて快楽を与えもしてくれる存在は稀有のような気がしてしまう。それを自分から失うのは辛い。
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