鵺の哭く刻

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潜伏期

15.★

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看護師になって二年。
看護学校が関東だったためか、地方出身でも正看護師免許をとってそのまま関東の病院に勤める同級生が殆どだ。それだけでなく元から医療機器会社の派遣社員として看護学校に通っていた学生もいて、看護師免許を取得して企業に戻った同級生もいた。海外に職場を移した同級生もいて、それぞれの行き先をそれぞれの考えで進んでいく同級生達の話は時々だが耳に入ってきてはいる。
アキコはそんな他の同級生と違って卒業した後、請われたわけでもなく故郷に戻り、県の職員になっていたのだった。県立病院の看護師として勤めているのだが、列記とした地方公務員。県内は広く県立病院の数が一際多い土地でもあったから、公務員として転勤族にはなるが福利厚生はきちんとしているし、何しろ公務員は公務員だ。長く勤めれば勤めるほど安定していると思ったし、それこそ県職員と言う肩書きは現実的だ。
最初の勤務地は実家からは遥かに離れていたが、母方の親戚が近郊にいたこともあって不安も少なく出だしは順調といってもいい。何しろ看護学校の間はあの渇望に飲まれることもなく過ごせていたから、新しく建てられたばかりで看護寮がアパートに一人暮らしているのとあまり変わりなかったのにもさほど不安ではない。何しろ三年の寮生活のうちあの渇望が起きなかったので、アキコ自身高校三年のあれが最悪の時期だったのだと思ったのだ。

あれから落ち着いたんだから、きっともう平気。

そう考えたのも強ち間違いではない。何しろ公務員だけあって同期の職員である看護師も割合多く、日々の勤務も忙しい。それでもやがて勤務にも慣れて、土地にも慣れていく。目立つような大きな変化はなく、自分で車の免許も取りに行って自分で車も買った。
平凡だけど安定した毎日。
時折仕事の中で失敗はまだするし、慣れない社会人生活に不安になることもある。時にはその不安に押し潰されそうになって母に不安で泣きながら電話をして、『子供じゃあるまいししっかりしなさい!』と怒鳴られたりしたこともあるけれど何とかこなしている。
平凡で安定した毎日。
代わり映えなく毎日毎日を決まったテンポで着実にこなしていく。日々のルーチンワークのように、同じ動きと同じ行動。アキコは已然として自分が呪われていて狂っているのだとしか思っていないから、尚更のように平凡であることを目指していた。そんな状況でもう一年が過ぎて、二年も半分が過ぎようとしている。

「タガさん、お休みの時何してるの?」
「掃除したり洗濯で終わっちゃいますね。」

そんな風にそれとなく声をかけてくる検査技師やレントゲン技師、理学療法士は何人もいる。何人もいるけれど、異性を惹き付けるのは蛇の呪いの作用の一つだから、アキコは特別だとは思わず適当な答えを答えるだけ。

「タガさん、今度合コンいこーよ。」
「ごめんなさい、お酒飲めないし知らない人と話すの苦手で……。」

殆ど同期の職員同士で飲むことも彼氏が出きることもなかった。一部の職員のように、将来性がありそうな若い医師を狙って合コンに行くこともない。それ以上にそういう方向に向かう会話を、アキコ自身が悉く拒否していく。誘われても近郊の別な職種の若者が開く合コンに顔を出すこともないが、逆に自分を異様な存在としていたことにも気がつかなかった。

「タガさーん、今日は休み?」

微かな潮風を感じとりながら朝方のベランダで洗濯物をかけていたアキコに、遥か眼下の駐車場から声がかかりアキコは下を見下ろした。看護師寮と並列に並んで作られたもう一つの建物は医師の官舎で、若い医者や遠方から派遣されている医師が利用している。駐車場から三階のベランダを見上げ声をかけたのは、アキコの勤める病棟の若い医者、眼科医のカネコだった。

「おはようございます、二連休です。先生は今からですか?」
「うん。そっかー、今日はタガさんいないのかー。」
「お疲れさまです。」

駐車場と看護師寮の三階のベランダとの会話。普段から仕事中にもその若い医師は気さくで不快感がない人間だから、別段気にもとめない程度の会話だ。見かけた同僚への挨拶でしかなくて、別に特別でもない言葉。医師が車に乗り仕事にでるのを洗濯物をかけながら見送り、アキコは別段特別でもなく洗濯をかけ終えると室内に戻る。

……え。

その瞬間目眩がするほど一度に激しく体内がざわめいていた。モヤモヤとした真っ黒いものが腹の底から沸き出して、煮えるような熱さを伴い体の奥を炙り始める。全身に鳥肌が立ち、立っていられない程の感覚。
おさまっていた筈の渇望。
飢えに似た激しさに飲み込まれて、辺りが何も見えなくなる。そしてあっという間にアキコは渇望に全てを奪われていた。
その夜普段は友人と飲みになんて行ったことのないアキコの方から誘い、同期の男女の看護師二人と散々に飲み明かした後。アキコはそのうちの女性のほうの同僚一人と、夜の病院に向かっていた。
全てがシンと静まり返った人気のない大きな病院は、自分達が見ているのとは別世界だ。外来患者で溢れている診療階は、ヒヤリと冷たい空気が漂って闇の中にある。勤めている上階の病棟は違うだろうが、そこまで上がる気もないのは言うまでもない。

「センセー。」

まだ酔いの回った声で眼科の診療室内に二人で顔を出すと、科長である医師と若い医師が二人をおやおやと言う顔で眺めた。差し入れですとお菓子を差し出したのを受け取りながら、科長医師がどこで飲んでたとか飲むならここがいいなんて話をするのを笑いながら聞く。

「タガさんが酔ったの初めてみた。」
「そうですかぁ?」

カネコの隣に座ってニコニコと笑うアキコは、普段とはまるで別人のように距離感が近い。普段は必ず何処か一歩引いている風なのに、今のアキコは今にも肩にもたれ掛かりそうな程近くに座ってカネコの顔を見上げている。

「カネコ、今晩は上がりにしよう。」

差し入れの菓子を頬張りながら科長医師がそう言うのに、若い医師ははいと答えながら隣のアキコを見つめたままでいた。



※※※



気がついたら、見たことのないベットの上。キチンと片付けられた綺麗な部屋。転勤が多いからかそれほどの物は置かれていないし、置かれているものも吟味されて自分の好みで統一しているのだろう。看護師寮のワンルームとは違って、部屋は二つ。それでも一つの部屋の殆どは書籍で埋まっていて、紙の臭いがどこか図書室を思い起こさせて懐かしい。

「タガさ…………、アキコ……。」

ふっといつもの呼び方を緊張気味の声で訂正されて、意識を惹き付けられてしまう。自分の上に跨がる姿は闇の中の黒い影だと思っていたのに、アキコの視線の先には仄かな白く浮き上がる男性の素肌がある。気さくで爽やかな同じ職場の若い医師が、アキコの上で上半身裸になっているのに今更気がつく。
それでも今までと違うのは、その手つきが慎重で壊れ物でも触れるようだったこと。今までのように膨らみもないのに捏ね回されたり、力一杯絞り上げるように掴まれるのとは違う。彼の手の動きを見下ろすと、ユックリと自分の服がはだけられていく。そうして下着を滑らせるようにして、素肌の胸に大きな手が触れてきた。産まれて初めて痛めつけるようにではなく、丁寧に優しく触れられるのに戸惑いながら思わず頬が染まる。
 
「せ、んせ?」

戸惑いながらアキコがそう言うと覆い被さっていた青年が、覆い被さり頬や喉元に口付けて微かに笑うのが聞こえた。

「その呼び方、なんか……、イヤらしいね?」

まさぐられる指先に触れる肌が熱く痺れる。両方の親指の先で軽く転がされる乳首の刺激が体内にある激しい渇望に再び火を着けて、その手はヤワヤワと揉み上げ先端への刺激を繰り返す。

「んん……っ!せ、んせっ……!」
「気持ちいい?」

揉まれながら先端を舐められ、指で先を擦られるのが甘い刺激に変わっていく。こんな風に快感が沸いてくるのは初めてで、渇望が尚更ざわめき体内を焔のように炙り続ける。

私は……どうやって、カネコ先生とここに来た?

もしかして自分から性行為を強請り、看護師寮の向かいの官舎まで入り込んだのだろうか。一応は看護師は医師の官舎への立ち入りは禁止されているが、監視カメラもなければ管理人もいない。自分達の自己責任の範疇で、他の看護師が神経内科や整形の医師の部屋に買い物袋を下げて入っていくのは知っている。でもこの眼科医は今のところ、他の医師より年が若く勉強しているからと浮いた噂一つ聞いてなかった。

それに私は自分から誘ったの?どうなると、この状況になるの?

考えようとしても与えられる快楽に飲まれて、思考が断片的に崩れていく。丁寧で優しい愛撫の経験がないから、これからがどうなるのかもわからなくて震えるアキコに可愛いと囁く声が耳に流れ込む。

可愛いなんて言われたことがない。

親には昔言われていたけれど、その他に誰かにそんなことを言われたことはなくて頬が熱くなる。気がつけばいつの間にかアキコが着ていたものが、次々と抜き取られ床に乾いた音をたてて落ちていく。

「ふふ、気持ちいいんだ?濡れてる。」

自分を観察する声がそう言う意味が分からなくて思わず覗きこむと、下ろされた下着と自分の体から溢れ出たものが糸を引いていて目を丸くする。自分の手で隠そうとする前に、そこに潜り込んだ指が縁を撫でるヌリュと濡れた感触に肌が粟立った。

「ひゃ!」
「可愛いね、感じやすいんだ。」

そんなはずはない。あの貧相な男にされた時はこんなに濡れることはなかったし、指を入れられるのも苦痛で、結局陰茎を挿入することすら体が拒んでいた。それなのにただ胸を揉まれて乳首を刺激されただけで、下着を汚すくらいに濡れるはずがない。そう思うのに覆い被さられて唇を奪われたら、全身から力が抜けてなすがままにされてしまう。

「あ、センセ……あの、あっ、ああっ!」
「沢山濡れて、よくなるまでしてあげるから、緊張しなくていいよ。」

そう優しく丁寧に愛撫されながら諭されて、初めてアキコはこの若い医師に好意を抱いている自分に気がつく。若くて努力家で、読書家で、顔を会わせれば何時も声をかけてくれる、背の高い青年。他の人のように意味深な目で白衣の上から体を見回すこともないし、変に物陰に二人きりになろうともしない。患者のようにさも間違ったふりで、白衣の上から乳を鷲掴みに揉んだりもしない。
初めての他人に、異性に対する仄かな好意。
だけど、今こうして渇望に飲まれて肌をあわせているのは、互いに本心からこうしたいからなのだろうか。もしかして蛇に唆されて踊らされて、互いの本来の願いではないのかもしれない。そう頭の何処かでは理解しているのに、頭の芯が快感に溺れてしまうのが分かる。

「んんっふぁ!あっ!」

沢山の愛撫に飲まれて自分から挿入を願ったアキコに、産まれて初めて体内を引き裂くようにして彼は硬く張りつめた怒張を根本まで埋め込んでいた。蛇の交尾は数日にも及ぶと言うけれど人間にはそれほどの長時間には及ばない、それでも初めてとしては随分と長く睦みあったのだろうと思う。そしてグッタリしたアキコを労りながら一緒にシャワーを浴びて、そこでも再び盛るなんて獣じみている。そう思いはするが、二度目はベットの上よりも更に快感が強かった。その快感が蛇の呪いで感じているものなのか、自分が好意を持っているから感じるのかが分からない。

教えてほしい……

もし好意を持ったから性行為に感じたのなら、それは他の誰とも変わらない普通のことなんじゃないかと思う。そう思ってもどうしたらそれを知ることができるのか分からないのに、アキコは気がついてしまっていた。
それから何時間かしてベランダに出るわけでもなく部屋の中から窓越しに、医師官舎を眺めて考える。

気持ちよかった……

今まで一度も感じたことがないくらい気持ちがよかったのは、好意だからなんだろうか。それとも蛇の渇望が強かったからなんだろうか。若い医師に一言自分をどう思っているのかと問いかければいいだけなのに、そうできなかったのは好きではないと答えられたら最後だからだ。快感を知ってそれが好意でないと知ってしまったら、後は渇望に飲まれて誰でも構わなくなると理解していた。
理解していたから余計に聞けなくて、話そうにも彼を避けてしまう。互いに今まで通り声をかけていたら、結果は違った筈なのに声もかけずに避けているうち冬がきて春が訪れる。

そこで決定したのはアキコの病棟の移動と、カネコ医師の転勤だった。

恋愛小説ならそれが決まった時点で愛の告白をしてハッピーエンドになったり、アンハッピーエンドだとしたらサヨナラと互いに告げて抱き締めあうのかもしれない。だけど現実はそんなに綺麗事でもなければ夢のようでもなく、アキコはカネコ医師が何時官舎を出たのかすら知らない。二年間一緒に働いていても勤務時間帯が異なる上に、アキコがあの後何気なく避けていたのだから当然の結果だ。

渇望は収まらない

高校の時に俚穢になって汚された後は五年以上もおさまっていたのに、優しく感じさせられた性行為では時折起こる渇望は収まらない。少なくとも性行為が快感であることは理解したから、自分で慰めることは可能だ。そうアキコは苦く一人で考えていたのだった。
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