鵺の哭く刻

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感染

6.

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そしてアキコがより不運に落ちてしまったのは、住んでいた地域性だった。
土地に根付いた記憶や習わしは、簡単には消えない。どんなに電気や水道や道路の整備で近代化が進んでも、その土に全く霞もしないものが悲しいことに脈々と存在するのだ。アキコが暮らす土地にはそれが今もまだ色濃く根付いていて、それは年嵩の親戚達の中では絶対の掟。

「南と北では、根付いてるもんも違う。」

そうアキコに教えたのは母方の祖母。祖母は昔から農作業を生業にして、農閑期には取れた大豆で豆腐を作り凍りつく空気の中で凍り豆腐を編む。稲藁で編んだ縄に硬く作って天日で干した豆腐を編み、凍てつく中に何度も凍結と融解を繰り返し凍み豆腐と土地で呼ぶ高野豆腐を作るのだ。幼い頃から共稼ぎの両親は学校が長期の休みになると、アキコと弟を母方の祖母か伯母の家に預ける。長期休暇には同じ県内とはいえ、片道二時間半もかけて親戚の家に十日程泊まりにいくのがアキコの恒例だった。だが父方の祖父母の家のような大量の本は、母方の親戚の家には置かれていない。アキコの母・ミヨコは読書好きなので自宅には沢山蔵書を持っていたが、母方の伯父や伯母は農作業もしくは土建業を生業にしていて忙しく余り読書をしないのだ。そんなアキコを話し相手に、眼鏡越しに祖母は黙々と作業をし続ける。

「違う?」
「南の者と北の者は別物よ。南はもんこは外れにしたどもや?北はもんこ外れはないが、変わりに神さんが仰山おる。」

祖母は周囲の親戚達とは少しイントネーションの異なる言葉で、そうアキコに丁寧に説明した。鼈甲縁の眼鏡の奥の瞳はアキコを見てはいないが、何処かアキコがどんな風に祖母の言葉に身を乗り出しているかは知っているように感じる。もんことは土地の言葉でお化けのことだと知ったのは大分後のことで、祖母は子供の暇潰しに土地の伝承をポツポツと話してくれていたのだった。

「家の山さばな?……わらしゃんどの神さんが昔いだのよ。」
「子供の神様?」

土地ではなく、家の山と祖母は話す。と言うのもアキコの母方の家系は元は土地の名士で、昔は広い土地が自分の地所だったそうだ。そしてその山の奥に神社を持っていて、そこには神様の住む家があったのだという。アキコが興味津々で今もまだそこはあるのと問いかけると、残念ながら戦争の最中に焼けてしまって今は何処がその山に当たるのかもう分からないのだと祖母は淡々とした口調で話していた。

「ばぁちゃん、そこには花畑があった?」
「なして?」

何故かアキコの頭の中に浮かんだのは、あの異郷の広大な菜の花畑。アキコの頭の中に広がる広大な菜の花畑に佇む人影が何故か自分の顔だったり若い教師の姿をしているのは不思議だが、祖母のいう神様みたいな形の定まらないものならと心のどこかで考えたからかもしれない。そう何気なく口にしたアキコに、祖母は初めて視線を向けて笑う。

「どうだべな、ばぁもそこさいったこどねぇからな。」

そう祖母は和らいだアキコによく似た顔立ちで笑い、豆腐を編む手を止めることもなく言うのだった。



※※※



それから月日が経ち、赤い縁の眼鏡をかけることにも慣れた当たり。
読書も出来ずに暇をもて余していたアキコは、土建業を生業にする伯母の家の広大な庭を眺めて立ち尽くしていた。するとその視界に何かキラキラと光るものがあって、アキコは首を傾げながらその光の道の出所を探す。視ている分には一見すると水流に見えるが、それは宙を漂って小川のように揺れていた。庭の飛び石を踏みながら奥に進んでいくと、それが庭の片隅の庭石にしては大き過ぎる岩の周りから染み出しているのを見つけた。岩に手を触れても光は消えないし岩肌は清水のように少しは冷たいような気はするが、かといって水のようには濡れない。眺めているとその岩は岩というには少し形が整い過ぎていて、まるで建物の壁か何かのように平らな面がある。

なんだろう…………?

光の染み出す岩を眺めて光の帯は一体何なのだろうと思案にくれたアキコは、自分の瞳の奥が奇妙に開かれる感触に思わず目を細めていた。まるで視界が変わるように目の奥が不思議と狭まり、それでいて視野は奇妙に広がるのが分かった。

「どうかしたの?アキコ。」

どれくらい経っていたか、ボンヤリとした様子で大岩を眺めて立ち尽くしているアキコに、母の姉である伯母が偶々庭を横切り偶々声かける。するとアキコはボンヤリとしながら、自分が突然その大岩を指差したのを感じていた。

「…………あそこの石」

庭を飾るわけでない滑らかな表面をしたその岩は、アキコの背丈以上もある大岩でまるで研磨したように銀に鈍く光る。

「元いたところに帰りたいんだって。」

そう、事も無げにアキコは伯母に言った。ところがこの時の事をアキコは実は覚えていない。記憶に残らないほど幼かった訳ではないし、アキコは自身の記憶力のよさは抜群で割合細かく鮮明に残っている。それくらいしっかり記憶できる能力があるのに、残念なことにアキコにはその会話の記憶は全くない。その頃の想い出は、きちんと何十年と経った今でも時系列毎に話して聞かせることの出きる位なのだが、会話の内容はアキコの中からスッポリと消え去ってしまっている。

「元のところ?」
「うん、山の奥で川の傍にあったでしょ?」

それはアキコには絶対に知り得ないことだったと後日伯母は言う。その岩が元々あった場所は、子供のアキコでは確実に知らない場所なのだ。何しろアキコがそこに行くためには誰かが車で乗せていかなければならないし、乗せていったとしても土建業の危険な足場の脆い現場に誰も幼い小学生の姪をつれていく筈がない。

「あそこにないと、…………この家が困るんだって。」

その時の伯母の家は、少し前に新たに建てかえられたばかりだった。元から敷地はとても広く大きな家だったが、古い自宅を建て替え、庭も全て改めて整備したのだ。前は納屋が並んでいた場所を全て庭に造成して、飾りとして置けるような庭石を探していたそうだ。そんな時自分の土地の山際を土をとるために開拓していて、偶々見つけた沢の中の石を重機で運んできたらしい。とは言え知っていてもその石が川にあった姿を見たのは伯母ではなく夫の伯父だけで、伯父はアキコと仲はいいが仕事の話をするわけもない。それにアキコはこれまで何度も長期休暇を近辺で過ごしていたが、読書家ではあるが石やなにかに詳しい訳じゃない。岩を視て川の岩かどうかなんて分かる筈のない子供なのだ。

「困る?」
「早く返した方がいいよ?後少ししかないって。」

アキコは振り返り意味ありげにそう言うと、不意にその口から乾いたヒョウという奇妙な音が溢れる。伯母はまるで夏の夜に聞く鳥の鳴き声のようだと、それを聞いて思ったという。すると突然アキコはその場でパチパチと瞬きをして我に返ったように、あれ?おばちゃんどうしたの等と何時もの様子で口にした。
アキコが何気なく溢したヒョウという鳴き声のような声に、正直に言うと背筋が寒くなったと、伯母は後年口にした。まるで夜に森で細く哭く鳥の鳴き声のようで、アキコらしくなくて何処か薄気味の悪い声だったらしい。そんなアキコの姿に伯母は何故か悪い予感を覚えて、夫に頼み早々に岩はもとの場所に戻したのだと後から聞いた。

それから一ヶ月も経たない内にその近郊一体を集中豪雨が襲い、氾濫した河川に母方の伯父の方は田畑が泥水に呑まれて大変な被害を被ったそうだ。
ドウドウと濁流は河川から溢れて、祖母と一緒に住む伯父の家の裏にある田畑を洗い流していく。勿論徒歩で五分と離れていない伯母の家にも危なく被害を被りそうな状態だったのだが、何故か新築の家は離れ小島のように濁流を窓から眺めるだけで終わった。二階の窓からは畑を洗う濁流が見えているのに、ほんの二十メートル程しかない我が家の庭はまるで水が来ない。その奇妙な光景を眺めながら夫と従姉妹と一緒にいた伯母は、微かに嵐の合間に奇妙な哭き声を聞いた。

ヒョ…………ゥ…………

風鳴りでもない、鳥のような哭き声を伯母は確かに聞いたのだという。
そして奇妙な話だがあの岩を元の場所に戻していたお陰で、伯母は自宅への被害がなかったと話していた。
あの岩は元に戻された場所からピクリとも動かず、豪雨で嵩の増した沢の氾濫を住宅地ではない方向にねじ曲げた。確かに僅かに水は落ちたが、殆どが水路に流れ込み対応できる程度で、そこから下流にある伯父達の田畑に流れ込む河川のような広範囲の氾濫を食い止めていたのだ。翌日水が引いてから確認に行った伯父も呆気にとられるほど、ビクともせずにその場にある岩を見上げる。

「他にももっと大きな石はあるんだが、そっちは流されてて、あの岩だけびくともしてない。」

あれがあそこの要の石だったんだなと伯父は、久々の休みでやって来て意味の分からない顔で話を聞いているアキコの頭を撫でる。伯父が言うには土地には必ず要石と呼ばれるものがあって、それは下手に触ると恐ろしいことが起きるのだという。昔はそれには神さんが宿ると言われていて、土建屋なんかはそれに触れるのを忌避する方法を知っていたと言うのだ。

「しかし、今じゃそんなの見て分かるのは稀だ。」
「見て分かる人がいるの?おじちゃん。」
「盲は神さんの目を貰ってな、そういうのを視る仕事にしてたもんだ。」

伯父が何気なく盲人と口にしたのに、何故かアキコは自分の目が急に悪くなったのが頭を過る。そう言われると実は母方の祖母も目が悪く眼鏡がないと暮らせないが、他の親戚はアキコ以外は誰独り眼鏡をかけていない。そして畑は濁流に呑まれたが、祖母達の家もまるで被害はなく、祖母が大丈夫だと言ったから伯父一家も近郊の家が軒並み避難しているなか避難すらしていなかった。
あれがあそこになかったら土砂混じりの水が押し寄せ、樹木をなぎ倒しながら伯母の家まで押し寄せた筈だと言われても、岩を戻すよう言った記憶がないアキコにはピンと来ない。

「アキコのお陰で助かった」

そう伯母もアキコの頭を撫でて微笑んで、アキコは二人に褒められたからと、それを喜んで受け入れた。

岩の置場所が違うと告げたことが特殊だと言いたいわけではない。

偶々言ったことが当たっただけかもしれないし、偶々座りがよくて水の流れに耐えられて、上手いこと流れを具合のいい方向へそらしただけ。岩に関してだって、幼い頃からそこに預けられるのは何時もの事だから、祖母か母の兄である伯父が知っていてアキコに話したことがあっただけかもしれない。それに伯母が何も感じなかったら岩はそのままだったわけで、伯母が懇願しなければ岩はそのまま庭にあったのだ。

「アキコはかみさんと同じ力があるんだね。」

伯母は何気なくそんなことを口にした。

かみさん

それは祖母のいう神さんとは違う。
土地には土着でいる佐倉という拝み屋さんがいて、近隣の人間は時にその人に色々なものを見てもらい邪気払いをして貰う。伯母もそれをして貰っていて、佐倉の事をかみさんと呼んでいるのだ。
それが未だに当然のように根付いた場所。
母方の血縁者が多くすむ土地は、そういうものに対して信心深い人が多い。つまりは、八百万、モノノケ、何か不可思議なもの、そういうものが当然のように受け入れられ安い土地だった。そんな中では何かが見えたり聞こえたりする人間は当然のように社会にもいて、アキコにはその力があると伯母は素直に受け入れてしまったのだ。
それはアキコにとっては良いことではなかった。何故なら特殊さを受け入れられてしまったことで、自分の異様さが常に社会にあるものなのだと改めて考えてしまったのだ。

特殊なことは世の中にはこんな風にあること、だから呪われることもあること

それでもその話を両親には一言も口にはせずに隠したのは、予期せぬ能力の発揮は本能だからやむを得ないが、それを持っていると誰かに話すのは父方の伯母の言う話してはいけないことなのだと心底信じきっていたからだ。
そしてアキコの読書は更に実話怪談と呼ばれるものや、世の中にいる霊能力で活躍するとされる人々の活動譚に完全に傾倒する。不可思議なモノを一度視ただけでは駄目で、日々視ることが重要なのだと様々な書籍に載せられた如何わしい方法を試す。アキコが更にその世界にのめり込み、更に勢いを増して一人きりになっていくのはあっという間の事だった。
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