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第三部
第九幕 境界
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お願い…………
意識のない自分すら見えない闇の中でも、微かに遠くから聞こえる声があった。それは細くて拙い水の流れのように浸透して、それでも深い奥底まで流れ込んでくる声。それはとてもか弱いが悌順の耳にはハッキリと響いてきて、誰の声かは問いかけなくても分かっている祈りの声だった。
お願い……戻ってきて…………
その声に強く揺り動かされたように、ピクリと瞼が動き指先が微かに動く。するとジンワリと指先に血が巡りやがて感覚が戻ってきて、自分がいつの間にか意識を失っていたのにやっと気がつく。何とか動かそうとしても体はまだ重くまるで動かなくて、何か起こったのか悌順には思い出せない。それでも耳に響く声は懇願するように繰り返し繰り返しひたすらに自分を呼んでいて、それを聞くと早く帰らなくてはと思わせる。
お願い……帰ってきて……お願い……
それは必死に自分のことだけを呼んでいて、同時に自分もその声の傍に戻りたがっていた。それに気がつくと一気に悌順の胸の奥に強い思いが膨らむ。悌順が帰らないと、その声の相手が……香苗が泣くと悌順は分かっているのだ。
あいつを泣かせるわけにはいかない…………。
そう一心に自分が思うのは、まだ幼くてか弱い彼女が何よりも愛しいから。まだ生徒で子供だけど、それでも香苗だけは悌順には別格の宝物だった。月曜日といって別れたのに、あれからどれくらい経っているかもわからない。制服姿でいつも美術室の窓に頬杖をついて、何気ないふりをして自分だけを追う香苗の視線。目が合うと見てないというふりをバレているとも知らずに必ずするくせに、目が合わないとあからさまにガッカリした顔をする。好きだと言えば嘘だというし、ほんとに好きだと言えば処女じゃない何て言う始末。
でも、それが可愛いし愛しいんだから大概だ。
手に抱き寄せる小さな脆い体。危なっかしくて確り傍にいて守ってやらないと、椅子から落ちたり階段から落ちたり変態に絡まれたり。それを知らなかったらもしかしたら、帰りたいと気がつけなかったかもしれないのにも悌順は気がつかされる。誰かが帰りを待っていると知らないと、きっと自分はここで諦めてしまったかもしれないのだ。
…………帰ったら、謝らないと
きっと香苗は心配してくれている筈だ。今もこうして必死に自分の帰還を願い続けてくれているのだから、きっととても心配をかけている。だから…………
※※※
あれは傍目に見たら自殺行為だと分かっていた。分かっていて渾沌の巨大な手が飛び上がってくるのに、忠志は一歩も動かなかったのだ。それは正直何か計画があった訳じゃなくて相手が口にした言葉を、そんな馬鹿なことは許せないと考えただけだった。
そう、ただ単純にブチキレて叫んだだけ。
だって忠志は自分や自分の家族を何かの生け贄だなんて考えたことは一つもないのだ。例えばもしかして他の仲間がそう心の中で僅かにでも考えているとしても、忠志はそんなことを許せる筈がなかったし許す気もない。だっておかしいじゃないか、生け贄なんてなんの意味があるんだ。後であの行動や考えについては、多分先ずは義人からコッテリ説教をされて、次に悌順に拳骨をくらって、最後には信哉に鬼のようにしごかれる。それでもあの言葉に我慢していられるものかと、忠志は考えた。先代だったという五代武だって同じように感じたはずだ。焔に体を焼かれて自分だけが生き残るあの苦痛。あれを周りを生け贄にしてなんて、腹立たしくて泣きたくなる。
そんなのが許されるのが、この世界なら反転したって構わない。
だけど、反転してしまったら今度は今こうして自分が暮らしている世界を失う。友人や親友やまだ忠志を忠志として接してくれている人達、外崎宏太や風間祥太だっているし、和希だってまだ見つけてない。だから世界を反転はさせられないし、自分は何があっても諦めない。
それに信哉が言うように穴を穿てば何かが起きるのだとしたら、口を塞いでいる相手の手をこちらに向けておけば悌順は必ず残りをなんとかしてくれる、だろうと思ったんだ。
それでもし自分が死ぬのだとしたらどうするの?
不意にその声が聞こえて忠志は暗闇の中で振り返った。そこにいたのは一人の栗色の髪をしたキツい目元の露出度の高い焔のような真紅のワンピース姿の女性で、派手な化粧の見た目とは違い子供のような微笑みを浮かべて忠志のことを見つめ立っている。その唇は燃えるような赤で、艶やかに笑う。
「死なないし、死ぬ気じゃない。まだ、お前との約束叶えてないし。」
そう忠志が当然のように口にすると彼女はおかしそうに笑い、歩み寄るとほんとバカねと口にする。
彼女は真名かおる。
この世には体すら存在しない、とある女性の別人格。
そんなことはもう何年も前に理解しているし、かおるの体の持ち主は既に別な男性と結婚もして子供を産んだ。それでも真名かおるのことは鮮明に槇山忠志の心の中に刻み込まれていて、今彼女はこうして忠志の前に佇んでいる。彼女と忠志が出会ったのは冬の事で、彼女との約束は永遠に残されたままだった。それを改めて確認するように彼女は上目使いに、忠志の瞳を燃えるような瞳で覗き込む。
ねぇ、もしまた私と会ったら、今度は一緒にずっといてくれる?
そうかおるは子供のような笑顔で当然みたいに問いかけてきて、忠志は不貞腐れたように彼女を見つめ口を開く。親友で幼馴染みだった三浦和希を別人に変えていった元凶でもある彼女は、何故か忠志の前では子供のようで無垢で。だが和希が未だに捕まらず逃げ続けているのは、彼女を探しているからでもある、
「和希が、お前のこと探してるぞ?」
そう。でも、もう和希は私が欲しいわけじゃないのよね。
意図も簡単に知りとしないことを平然と言うかおるは、綺麗な天使でもあるけど残酷な悪魔でもある。それなのに遥か彼方から薫りたつような魅力的な微笑みで、忠志の心にかおるという自分を深く深く刻んでしまう。ただの多重人格の一人のかおると再び出会う方法なんて、正直言えば忠志には想像もつかない。何しろかおるがいた筈の場所は、菊池遥という女性が当然のように生きているのだ。それでも困ったことにかおるが手を伸ばして差し出すと、忠志には拒めないしその手をとってしまう。
今度は……離さないでね?
熱くて燃えるような手で彼女が微笑みながら言うのに、忠志は仕方ないなと微笑み返す。
※※※
それが起こったのは宙を舞いながら仲間の名前を叫んでいた時だった。
射干玉の闇の中で上下も分からないまま自分が飛んでいるか落ちているかも分からなくなりつつあった最中、唐突に空間が歪んで飴が溶けるように谷底のように底が抜けて全てが落ちていく。
「悌さんっ!!忠志ぃ!!信哉さぁん!!」
まるで地の底が抜けて世界が崩落していくのを見ながら、義人は悲鳴に似た声で仲間の名前を繰り返し叫ぶ。信哉が叫んだ通り、渾沌であったものは七孔を穿たれたと同時に破裂していた。荘子の内篇應帝王篇、第七には七孔が無い帝として渾沌が登場する。南海の帝と北海の帝が渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまったと言われている。転じて、物事に対して無理に道理をつけることを『渾沌に目口(目鼻)を空ける』と言う。破裂した渾沌は手で握ろうとしていた忠志を飲み込み、弾けて降り注いだものが残っていた筈の地面を信哉と悌順ごと覆い隠してしまった。そして、何もかもは既に新たには形をなさず、この空間ごと崩壊を始めたようにみえる。
ここは渾沌が産み出していたのか…………
そして気がつくと崩壊と共に飛び散る力の断片に、奇妙に記憶の断片が義人の目に写り込む。まるで映写機の投影する映像のように崩壊する空間に、幾つも写し出されて砕け微塵になりながら地の底に落ちていくのだ。
破片のような記憶の断片は、当然あるべき東条巌だけのものではなかった。
義人の目の前で再生されるものは東条巌だけではなく数えきれないほど多くの人間の目がみていたもので、見ているだけで目が回りそうだ。それこそ渾沌とした大量の記憶と感情、羨望や憎悪、愛情、執着。何が誰かなんて一つも判別できないのに、それは一つ一つが誰かの強い感情だった。
こんなに沢山
こんなに大量の記憶があると言うことは、渾沌は遥か太古からこの準備を続けてきたに違いない。他には理由もなくただ太極を転換するためだけに、それこそ何百年と、もしかしたら院や自分達四神が生まれる前からこの日のために。
なんで………………そんな…………
あれほど強大な力を持っていたらもっと違うやり方をすれば、それこそ他の人外のように表に出ることなんか容易かったのではないだろうか。窮奇ですら人の皮を被って二十年も潜めたのに、他にも沢山の人外が密かに人間と交わり生きながらえているのにだ。それなのに一番強大なものがこんな脆く、そう頭の中で考えた瞬間義人の目の前に居たのは聳孤だった。青い鬣を靡かせて、それはまるでこうなるのが分かっていたように義人を見つめる。
「聳孤…………渾沌は本当に転換したかっただけなのか?」
《何故?》
もっとやり方を変えれば、もっと違う方法で。間の子のように共存すら可能なものだと昔から全てが知っていれば、最初からこんな無意味に戦い続けることもない。ルールを守って共存すらできれば、互いに理解すれば。
《人喰いと?》
確かに人外は人を食う。だけど助けに来てくれた間の子だという彼らは普通に人間としても暮らせているというし、理性的で会話もできるのだ。なら、何もかもを排除という選択以外にも道はあるのではないのだろうか。大体にして人外の力と同種の自分達は、人を食ったりはしないが、普通に生きているのだ。
《綺麗事だな、青龍。》
綺麗事かもしれないけれど、それを知らせないのは卑怯だ。選択肢があってこそ、他に道がみえたかもしれないと口にすると聳孤は目を細めて、切り捨てるように告げる。
《それが……理だ。青龍。》
理。ブツリと理性が切れる音がしたのがわかる。理だから、戦え。理だからゲートを閉じ、人外を狩れ。理だから何もかもを諦めろ。ならこの現状はなんだ。理だから皆を諦めろとでも言うつもりなのか。
「そんな一言で納得できると思うか?!!聳孤!!おかしいだろ?!皆は?!その理のせいで誰も居なくなるのか?!!」
瑞獣だからなんてもう構うものかと義人は、目の前の聳孤に向かって全力で攻撃を仕掛けていた。自分より遥かに強かろうが、仲間を全員失って自分だけこの無意味な空間に取り残されて、そんなのを理だから仕方がないで済まさていい道理がない。なんで自分達だけがこんなに我慢を強いられて、こんな目に遇わされ続けないといけないのかだってもう一つも納得なんかできなかった。四神になんかなりたいなんて一つも思っていないのに、最後は理だから仕方がないだなんて。
「返せよ!!忠志や悌順や、信哉を!!僕の家族を!!返せ!!」
※※※
見上げるとそこは巨大な古木と草原で、背後には見事な菜の花畑が広がっていた。そして目の前にはグッタリとして眠り込んでいる香坂智美を抱きかかえた澤江仁だったものが立っている。その体からは最初に麒麟を見たときとはまるで違う黄金に輝く気を放ちながら、静かに信哉のことを見つめていた。
「仁…………。」
信哉の言葉に仁はゆっくりと視線をあげると、日の光に輝く瞳で信哉を真っ直ぐに見て歩み寄ると眠っている様子の智美を信哉の腕に手渡した。その肌が目の前でひび割れていくのを見つめて、信哉はそれの意味を理解する。
「…………行くのか?もう。」
返してもらったら…………
その言葉に信哉はそうかと悲しげに呟く。
遥か太古に水面のそこて老いた麒麟から白虎になった者が預かったのは、新たな麒麟の体の一部だった。それはまだ未熟で、同時に老いた麒麟の体内では育てることのできないもの。言葉では簡単に説明ができないが、それを育てるにはただの人間の体では無理だった。だから人外の力を宿した人間が選ばれて、それは同じ能力を持ったものに移りながら育ち続ける。
同時にそれは育つ時に力の破片を吸収していたから、ゲートが開き得られる筈の破片が地の底に落ちてしまうと焦燥感を感じさせたのだ。だから選ばれてしまった四人はゲートを放置出来ないで、それを閉じ、魂の中にあるそれを育てていく。
「これを返したら、俺達は死ぬんだろう?」
命と結び付いたものだから失う事が死に繋がるのは理解できたが、本当なら死にたいなんて一つも思っていないし本当は傍にいたい人がいる。だが、それを覆すほどの力はどんなに能力が高いと言われた信哉にすら、持ち得ないのもわかっていた。信哉のように双子の命を持っていてすら避けることが不可能なのに、それでも分かっていて聞いてしまう。
信哉に頼みがあるんだ…………
仁がユックリと口にした言葉に信哉は驚き目を見張る。それは
意識のない自分すら見えない闇の中でも、微かに遠くから聞こえる声があった。それは細くて拙い水の流れのように浸透して、それでも深い奥底まで流れ込んでくる声。それはとてもか弱いが悌順の耳にはハッキリと響いてきて、誰の声かは問いかけなくても分かっている祈りの声だった。
お願い……戻ってきて…………
その声に強く揺り動かされたように、ピクリと瞼が動き指先が微かに動く。するとジンワリと指先に血が巡りやがて感覚が戻ってきて、自分がいつの間にか意識を失っていたのにやっと気がつく。何とか動かそうとしても体はまだ重くまるで動かなくて、何か起こったのか悌順には思い出せない。それでも耳に響く声は懇願するように繰り返し繰り返しひたすらに自分を呼んでいて、それを聞くと早く帰らなくてはと思わせる。
お願い……帰ってきて……お願い……
それは必死に自分のことだけを呼んでいて、同時に自分もその声の傍に戻りたがっていた。それに気がつくと一気に悌順の胸の奥に強い思いが膨らむ。悌順が帰らないと、その声の相手が……香苗が泣くと悌順は分かっているのだ。
あいつを泣かせるわけにはいかない…………。
そう一心に自分が思うのは、まだ幼くてか弱い彼女が何よりも愛しいから。まだ生徒で子供だけど、それでも香苗だけは悌順には別格の宝物だった。月曜日といって別れたのに、あれからどれくらい経っているかもわからない。制服姿でいつも美術室の窓に頬杖をついて、何気ないふりをして自分だけを追う香苗の視線。目が合うと見てないというふりをバレているとも知らずに必ずするくせに、目が合わないとあからさまにガッカリした顔をする。好きだと言えば嘘だというし、ほんとに好きだと言えば処女じゃない何て言う始末。
でも、それが可愛いし愛しいんだから大概だ。
手に抱き寄せる小さな脆い体。危なっかしくて確り傍にいて守ってやらないと、椅子から落ちたり階段から落ちたり変態に絡まれたり。それを知らなかったらもしかしたら、帰りたいと気がつけなかったかもしれないのにも悌順は気がつかされる。誰かが帰りを待っていると知らないと、きっと自分はここで諦めてしまったかもしれないのだ。
…………帰ったら、謝らないと
きっと香苗は心配してくれている筈だ。今もこうして必死に自分の帰還を願い続けてくれているのだから、きっととても心配をかけている。だから…………
※※※
あれは傍目に見たら自殺行為だと分かっていた。分かっていて渾沌の巨大な手が飛び上がってくるのに、忠志は一歩も動かなかったのだ。それは正直何か計画があった訳じゃなくて相手が口にした言葉を、そんな馬鹿なことは許せないと考えただけだった。
そう、ただ単純にブチキレて叫んだだけ。
だって忠志は自分や自分の家族を何かの生け贄だなんて考えたことは一つもないのだ。例えばもしかして他の仲間がそう心の中で僅かにでも考えているとしても、忠志はそんなことを許せる筈がなかったし許す気もない。だっておかしいじゃないか、生け贄なんてなんの意味があるんだ。後であの行動や考えについては、多分先ずは義人からコッテリ説教をされて、次に悌順に拳骨をくらって、最後には信哉に鬼のようにしごかれる。それでもあの言葉に我慢していられるものかと、忠志は考えた。先代だったという五代武だって同じように感じたはずだ。焔に体を焼かれて自分だけが生き残るあの苦痛。あれを周りを生け贄にしてなんて、腹立たしくて泣きたくなる。
そんなのが許されるのが、この世界なら反転したって構わない。
だけど、反転してしまったら今度は今こうして自分が暮らしている世界を失う。友人や親友やまだ忠志を忠志として接してくれている人達、外崎宏太や風間祥太だっているし、和希だってまだ見つけてない。だから世界を反転はさせられないし、自分は何があっても諦めない。
それに信哉が言うように穴を穿てば何かが起きるのだとしたら、口を塞いでいる相手の手をこちらに向けておけば悌順は必ず残りをなんとかしてくれる、だろうと思ったんだ。
それでもし自分が死ぬのだとしたらどうするの?
不意にその声が聞こえて忠志は暗闇の中で振り返った。そこにいたのは一人の栗色の髪をしたキツい目元の露出度の高い焔のような真紅のワンピース姿の女性で、派手な化粧の見た目とは違い子供のような微笑みを浮かべて忠志のことを見つめ立っている。その唇は燃えるような赤で、艶やかに笑う。
「死なないし、死ぬ気じゃない。まだ、お前との約束叶えてないし。」
そう忠志が当然のように口にすると彼女はおかしそうに笑い、歩み寄るとほんとバカねと口にする。
彼女は真名かおる。
この世には体すら存在しない、とある女性の別人格。
そんなことはもう何年も前に理解しているし、かおるの体の持ち主は既に別な男性と結婚もして子供を産んだ。それでも真名かおるのことは鮮明に槇山忠志の心の中に刻み込まれていて、今彼女はこうして忠志の前に佇んでいる。彼女と忠志が出会ったのは冬の事で、彼女との約束は永遠に残されたままだった。それを改めて確認するように彼女は上目使いに、忠志の瞳を燃えるような瞳で覗き込む。
ねぇ、もしまた私と会ったら、今度は一緒にずっといてくれる?
そうかおるは子供のような笑顔で当然みたいに問いかけてきて、忠志は不貞腐れたように彼女を見つめ口を開く。親友で幼馴染みだった三浦和希を別人に変えていった元凶でもある彼女は、何故か忠志の前では子供のようで無垢で。だが和希が未だに捕まらず逃げ続けているのは、彼女を探しているからでもある、
「和希が、お前のこと探してるぞ?」
そう。でも、もう和希は私が欲しいわけじゃないのよね。
意図も簡単に知りとしないことを平然と言うかおるは、綺麗な天使でもあるけど残酷な悪魔でもある。それなのに遥か彼方から薫りたつような魅力的な微笑みで、忠志の心にかおるという自分を深く深く刻んでしまう。ただの多重人格の一人のかおると再び出会う方法なんて、正直言えば忠志には想像もつかない。何しろかおるがいた筈の場所は、菊池遥という女性が当然のように生きているのだ。それでも困ったことにかおるが手を伸ばして差し出すと、忠志には拒めないしその手をとってしまう。
今度は……離さないでね?
熱くて燃えるような手で彼女が微笑みながら言うのに、忠志は仕方ないなと微笑み返す。
※※※
それが起こったのは宙を舞いながら仲間の名前を叫んでいた時だった。
射干玉の闇の中で上下も分からないまま自分が飛んでいるか落ちているかも分からなくなりつつあった最中、唐突に空間が歪んで飴が溶けるように谷底のように底が抜けて全てが落ちていく。
「悌さんっ!!忠志ぃ!!信哉さぁん!!」
まるで地の底が抜けて世界が崩落していくのを見ながら、義人は悲鳴に似た声で仲間の名前を繰り返し叫ぶ。信哉が叫んだ通り、渾沌であったものは七孔を穿たれたと同時に破裂していた。荘子の内篇應帝王篇、第七には七孔が無い帝として渾沌が登場する。南海の帝と北海の帝が渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまったと言われている。転じて、物事に対して無理に道理をつけることを『渾沌に目口(目鼻)を空ける』と言う。破裂した渾沌は手で握ろうとしていた忠志を飲み込み、弾けて降り注いだものが残っていた筈の地面を信哉と悌順ごと覆い隠してしまった。そして、何もかもは既に新たには形をなさず、この空間ごと崩壊を始めたようにみえる。
ここは渾沌が産み出していたのか…………
そして気がつくと崩壊と共に飛び散る力の断片に、奇妙に記憶の断片が義人の目に写り込む。まるで映写機の投影する映像のように崩壊する空間に、幾つも写し出されて砕け微塵になりながら地の底に落ちていくのだ。
破片のような記憶の断片は、当然あるべき東条巌だけのものではなかった。
義人の目の前で再生されるものは東条巌だけではなく数えきれないほど多くの人間の目がみていたもので、見ているだけで目が回りそうだ。それこそ渾沌とした大量の記憶と感情、羨望や憎悪、愛情、執着。何が誰かなんて一つも判別できないのに、それは一つ一つが誰かの強い感情だった。
こんなに沢山
こんなに大量の記憶があると言うことは、渾沌は遥か太古からこの準備を続けてきたに違いない。他には理由もなくただ太極を転換するためだけに、それこそ何百年と、もしかしたら院や自分達四神が生まれる前からこの日のために。
なんで………………そんな…………
あれほど強大な力を持っていたらもっと違うやり方をすれば、それこそ他の人外のように表に出ることなんか容易かったのではないだろうか。窮奇ですら人の皮を被って二十年も潜めたのに、他にも沢山の人外が密かに人間と交わり生きながらえているのにだ。それなのに一番強大なものがこんな脆く、そう頭の中で考えた瞬間義人の目の前に居たのは聳孤だった。青い鬣を靡かせて、それはまるでこうなるのが分かっていたように義人を見つめる。
「聳孤…………渾沌は本当に転換したかっただけなのか?」
《何故?》
もっとやり方を変えれば、もっと違う方法で。間の子のように共存すら可能なものだと昔から全てが知っていれば、最初からこんな無意味に戦い続けることもない。ルールを守って共存すらできれば、互いに理解すれば。
《人喰いと?》
確かに人外は人を食う。だけど助けに来てくれた間の子だという彼らは普通に人間としても暮らせているというし、理性的で会話もできるのだ。なら、何もかもを排除という選択以外にも道はあるのではないのだろうか。大体にして人外の力と同種の自分達は、人を食ったりはしないが、普通に生きているのだ。
《綺麗事だな、青龍。》
綺麗事かもしれないけれど、それを知らせないのは卑怯だ。選択肢があってこそ、他に道がみえたかもしれないと口にすると聳孤は目を細めて、切り捨てるように告げる。
《それが……理だ。青龍。》
理。ブツリと理性が切れる音がしたのがわかる。理だから、戦え。理だからゲートを閉じ、人外を狩れ。理だから何もかもを諦めろ。ならこの現状はなんだ。理だから皆を諦めろとでも言うつもりなのか。
「そんな一言で納得できると思うか?!!聳孤!!おかしいだろ?!皆は?!その理のせいで誰も居なくなるのか?!!」
瑞獣だからなんてもう構うものかと義人は、目の前の聳孤に向かって全力で攻撃を仕掛けていた。自分より遥かに強かろうが、仲間を全員失って自分だけこの無意味な空間に取り残されて、そんなのを理だから仕方がないで済まさていい道理がない。なんで自分達だけがこんなに我慢を強いられて、こんな目に遇わされ続けないといけないのかだってもう一つも納得なんかできなかった。四神になんかなりたいなんて一つも思っていないのに、最後は理だから仕方がないだなんて。
「返せよ!!忠志や悌順や、信哉を!!僕の家族を!!返せ!!」
※※※
見上げるとそこは巨大な古木と草原で、背後には見事な菜の花畑が広がっていた。そして目の前にはグッタリとして眠り込んでいる香坂智美を抱きかかえた澤江仁だったものが立っている。その体からは最初に麒麟を見たときとはまるで違う黄金に輝く気を放ちながら、静かに信哉のことを見つめていた。
「仁…………。」
信哉の言葉に仁はゆっくりと視線をあげると、日の光に輝く瞳で信哉を真っ直ぐに見て歩み寄ると眠っている様子の智美を信哉の腕に手渡した。その肌が目の前でひび割れていくのを見つめて、信哉はそれの意味を理解する。
「…………行くのか?もう。」
返してもらったら…………
その言葉に信哉はそうかと悲しげに呟く。
遥か太古に水面のそこて老いた麒麟から白虎になった者が預かったのは、新たな麒麟の体の一部だった。それはまだ未熟で、同時に老いた麒麟の体内では育てることのできないもの。言葉では簡単に説明ができないが、それを育てるにはただの人間の体では無理だった。だから人外の力を宿した人間が選ばれて、それは同じ能力を持ったものに移りながら育ち続ける。
同時にそれは育つ時に力の破片を吸収していたから、ゲートが開き得られる筈の破片が地の底に落ちてしまうと焦燥感を感じさせたのだ。だから選ばれてしまった四人はゲートを放置出来ないで、それを閉じ、魂の中にあるそれを育てていく。
「これを返したら、俺達は死ぬんだろう?」
命と結び付いたものだから失う事が死に繋がるのは理解できたが、本当なら死にたいなんて一つも思っていないし本当は傍にいたい人がいる。だが、それを覆すほどの力はどんなに能力が高いと言われた信哉にすら、持ち得ないのもわかっていた。信哉のように双子の命を持っていてすら避けることが不可能なのに、それでも分かっていて聞いてしまう。
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