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第三部
第八幕 異界
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意図して上げられた大きな声は、ビリビリと空気を震わせ奇妙なほどにそれは辺りに地鳴りのように響き渡る。そして同時に、目の前の赤子の顔はニタリと光の降り落ちる空を見上げて不気味に笑う。混沌を秘めた孔のない眼と鼻と口、何一つ開口していないのに音は響き渡っていく。
《あと、ひと………………つぅ…………。》
それは唐突な知性の片鱗の現れ、それなのにそれが放つ言葉は何故か聞き覚えがある忌々しいほどに低い声だ。年老いてはいないが、それが何故か東条巌のドロリと濁った声なのが分かった。目の前の赤子は生まれたばかりの存在かもしれないが、確実に
《ながい、時間、おいもとめて…………きた。》
その声は東条だけではなく、様々な人間に聞こえた。耳に届くと聞き覚えのある声に聞こえた気もすれば、全く聞いたことのない声にも聞こえるのが不快感を煽る。綺羅宗嗣の声にも、木崎蒼子の声にも、遠坂喜一の声にも聞こえ、同時に酷く不快なことにもっと身近な逝去した人間の声にも聞こえるのだ。義人が苦痛に呻いたのは声が父・宇佐川辰義の声に聞こえたからで、忠志が舌打ちしたのは妹の槇山利津の声に聞こえたからだった。チラチラと頭上から舞い落ちてくる金の光のようなモノをその肌から吸い込みながら、赤ん坊はまだ歯のない歯茎を奥で噛み締めニタリと笑って見せる。
《たいきょくを…………転じる……ときが……きた。》
太極。
その言葉に四人は息を飲んだ。自分達の持つ力が生まれる根源であるものの名前。
全ての最初にあったのは混沌だった。
混沌は渦を巻き、やがて太極となる。
太極は陰と陽の二つに分かれ、二つは万物の五つの元素を成した。
五つの元素は森羅万象の元となり、互いの間は陰と陽とで結び付く。そこから五つの元素は順繰りに相手を生み出す陽の関係と、相手を討ち滅ぼしていく陰の関係で結ばれたのである。そして森羅万象の象徴である五つの元素に、これらの関係が結ばれて初めて世界は穏当な循環を得ることができた。そして、この循環がこの世の全ての永続を生み出したのである。そして、世にある全てには漏れることなく陰と陽の二つの面が与えられた。光に闇が有るように、善いものには悪いものが有り、生には死が有る。
それを全て……転じたら…………
今まで保ってきた世界が全てが崩壊してしまう。自分や先代達が必死になって守ってきた世界が、守ってきたものが全て闇に飲み込まれてしまう。
その中には当然今の自分達が生きてきた生活も、大事な人も友人も。
四倉梨央も
須藤香苗も
これから生まれようとしている者も
そう感じた瞬間全身が激しい恐怖に震えるような気がした。何かと誰かを守るために沢山の人間が人外と戦い命を落として沢山のモノを失いながら四神も院の人間も足掻いてきたのに、こんな容易く全てを失うなんて恐ろしいのと同時に許せるはずがない。
『そんなのさせるかよ!!』
忠志の叫び声と同時に激しい焔が湖面から這い上がろうとする足を一本凪ぎ払い、渾沌は唐突の衝撃に体勢を僅かに崩した。それを切っ掛けにしたように、義人も同じように這い上がろうとする別な足を風圧で押し潰し薙ぐ。同時に信哉の鋭い声が何かを思い出したように声を張り上げた。
『悌!!七孔だ!!一か八かあけろ!!』
その言葉に悌順は、顔の回りを手で払うようにして忠志と義人を捕まえようとする窩のない赤ん坊の顔を鋭い視線で見上げて舌打ちした。
荘子に、目、鼻、耳、口の七孔が無い帝として、渾沌が登場する篇がある。それは南海の帝と北海の帝が渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけるという話だ。それと同じ事が起きる可能性がどれくらい残されているかは分からないが、それ以外に今の四人には方法が浮かばない。唐突に眼窩に当たる場所に槍のような水の塊が、孔を穿ったのに赤ん坊の顔はグラリと背後にのけぞった。
『忠志!!お前も孔を開けろ!足は俺と義人だ!』
義人は意図を説明せずともその内容を理解した様子で、忠志に目の孔を開けてと叫ぶのを聞いた赤ん坊が福福とした巨大な掌でその場所を隠すように塞いだ。
《アアァア!!!ああ!!》
※※※
やっとの事で広大な菜の花畑を通り抜けた多賀亜希子と友村礼慈は、ハラハラと枯れ葉が舞い落ちる古木を見上げた。疲れきった顔の亜希子は既に目の下に隈が浮き始めていて、礼慈は彼女の人間のままの片方の腕をとり頭上を見上げる。
「なんの…………木でしょう…………。」
「身が林檎ににてるけど、少し棘があるわね…………?バラ目の植物かしら……。蔦じゃないから……。」
平然と木瓜にも似てるけどこんな木になるかしらと呟く亜希子に、礼慈は驚いたように目を丸くする。
「詳しいですね。」
「実家に生えてるの、木瓜。でもこんな木にはなってない。」
疲れきった声で低くいう彼女は改めて、頭上を見上げた。まるで唐突に寿命が尽きたと言いたげに見ている目の前で音もなく葉が色を失って舞い落ちてきて、古木に触れた亜希子は目を細め見上げる。触れる手の先には時と共に朽ちていく樹木の体内の音がピシピシと伝わり、辺りは終演の静けさに包み込まれていく。幹は大人数人で抱えないとならないほど大きく、手でつたいながら裏側に回り込んだ二人は目を丸くしてそこに生まれていた虚に駆け寄った。中には古木にもたれ掛かるようにして、眠り込んでいる何人かの姿。そっと手首をとり呼吸を確認する手際のよさに驚くが、そう言えば亜希子は看護師でもある。
「眠ってるみたいだわ……この子達……。あとこの子は知らないけど誰かわかる?」
「はい……全員、智美さんの同級生です……。」
そこにスヤスヤと眠っているのは霧の中ではぐれた筈の宮井麻希子と真見塚孝、そして何故か突然姿を表した近隣のクリニックの孫の若瀬透だ。香坂智美の話題に出てくる同級生はそれほど多くはないし、ここにいる三人と志賀早紀・須藤香苗、そして澤江仁が定番の面子。
何故ここに…………
虚が宝物を守るように三人を包むその場所を、亜希子はそっと見渡して礼慈のことを決意したように見つめる。
「あなた、この子達を守ってて。」
「え?!何を……。」
「私なら、二人を探しに行ける。」
眠ったままの三人も高校生を連れてあるく事はできないし、同時にここはこの三人を守るように包み込んでいて害意をまるで感じない。そして礼慈にもそれは視覚としてハッキリ分かるが、礼慈には何かと戦うような能力を持っていないのだ。そういう意味では多賀亜希子は自分一人であれば、身を守る位は可能だし間の子だから道も分かる。
「私は子供を見捨てられないから、自分の子供とあなたの守ってる子供を連れてくるわ、約束する。」
「でも、多賀さん一人じゃ。」
腕の変質を既に一度見られている亜希子は、溜め息混じりにその腕を礼慈によく見えるようにさらす。それはまるで人間から獣に変わりつつある、細く固いまるで白虎のような銀色の毛に包まれた鋭い爪を生やした奇妙な腕だった。
「……これ見たら分かるでしょ?私はとうに死んでるの。ここにいるのは、亜希子の残りカスなの。」
多賀亜希子は血の中に強い間の子の素質は秘めてはいたが、本来間の子として最初から生まれたわけではなかった。双子の片割れを妊娠の初期に体内に取り込み密かに二人分の強い素質を持って生まれたが、そのままであれば一寸勘のいい子供程度で済んだ筈だ。そうならなかったのは運命の悪戯で、亜希子が産まれる際に仮死状態となり宿っていた鵺と奇妙な契約を結んだからだった。一つ目の命を失った対価として目覚めた鵺と生存本能で無意識に結ばれた約束は、『共存』というとてつもなく矛盾した約束だ。同時に亜希子は酷く特殊なもう一つの血を継いてしまっていた。それは太古の災厄を喰うモノでオウヤカムイ等と時に呼ばれもするが、それはやがて亜希子の中で寄り合わされただでさえ稀な鵺に組み込まれてしまう。そしてとてつもないレアケースの鵺を産み出したのだ。
それでも何も起こらず暮らしていれば普通の家庭を築く可能性の方が高かったのに、運命が噛み合い鵺は亜希子の中で目を覚ましてしまった。その約束と様々な経験から生まれた亜希子の絶望に、鵺は無意識に亜希子の身の回りに災厄を引き寄せてしまう。鵺は常々に災厄をその哭き声で呼び、悪意を食らい成長していく。ただ人間の亜希子はそれに耐えらずに三度死のうとして、最後に実はそれを果たしてしまった。
人間の亜希子が約束を破った代償は、鵺の亜希子に成り代わること。
内在した殻に鵺を飼っていたのに亜希子がそれを明け渡して死んだから、それから鵺は亜希子のふりをして過ごして生きている。何しろ殻が完全に死なないと生まれた鵺は外には出られない。仕方がないから殻の中に餌として、災厄の種として一つ囲ったのは空腹には耐えられないからだ。そしてここに来て災厄の種が殻から偶々それが逃げ出してしまったので、鵺はそれを確かめに元々亜希子が暮らしたここに舞い戻ったのだ。そして次第に残り時間が減っていくなかで、鵺は始めて血の繋がらないとはいえ我が子供を得た。亜希子自身にも子供はできたのに災厄がそれを奪ってしまったから、鵺は得た子供を心底愛している。ただ子供は亜希子が鵺だと知らないから、人の形を失ったら二度と顔を見ることも頭を撫でることもできなくなってしまう。それでも人の形の変わりにと子供を諦めることはできないのが、鵺であり亜希子だった。
「…………ここで待ってて、約束は必ず守るわ……。」
穏やかだが断固とした言葉に礼慈は何故か泣き出しそうになる。目の前にいる彼女は自分ができないことを、残り少ない体の命で果たすと言っているのだ。今までずっと人外は人を喰うだけ、そう考えて駆逐し続けたのに。その筈なのに、あの『教立』の青年も何故か他人を助けるために必死で、鵺の彼女も血の繋がりもない人間のために命がけで動こうとしている。
「何で……ですか?」
「…………羨ましいからよ…………、闇の中から見える光の中は目映く幸せに満ちてて、羨ましい………ただそれだけだし、私は子供を二度と見捨てないと誓ったの。」
人間より人間臭い化け物がいたって別に構わないでしょ?こんな世の中だものと彼女は、何故か酷く爽やかに朗らかに笑うと立ち上がった。そして彼女はほんの数歩だけ歩いただけなのに、礼慈が瞬きもしていないのに一瞬で彼女の姿は靄のように掻き消してしまっていたのだ。
※※※
眼窩に当たる場所に焔の矢が突き刺さり周囲の肉を焼くのに、それは大きくのけ反りながら絶叫を上げて両手を大きく振り回していた。肉が焼ける痛みになのか、慌ただしく頭上を舞い飛ぶものが五月蝿いのかはハッキリしないが巨大な手が顔の回りを払いのけ地表を掌で叩きつける。
『ズレると埋る!!集中して穿て!!忠志!』
『耳の穴なんて、ちっさいんだよ!!このぉ!!』
眼窩はそれほど難しくはなかったが、鼻腔と耳腔は格段に的が小さい。しかも巨大な赤ん坊はそれを防ぐためにか片手で口を塞ぎ続けていて、しかも激しく頭を揺り動かして的を動かすのだ。しかもその合間にも次第に足は這い上がり続け、既に三本目が抜き出されつつあるのに一点に集中して攻撃する義人と信哉も焦り出している。
恐らく東条の力を飲み込んでいる
再成が早すぎて切り刻んでも直ぐに肉と肉が結び付き、人外がよく吹き出す黒い血なんて一滴も溢れ出さない。骨を断ちきる勢いで切りつけても、大体にして断面に肉以外が存在もしないのだ。空の藍色は既に漆黒の闇に代わり、チラチラと降り落ちる金の光は花火の火の粉のように湖面に反射して花弁のように音もなく散る。
だとすれば、饕餮も窮奇も檮杌も全て飲み込んでいるかもしれない
そうなると目の前には四神が今まで数人係で倒したものを、全て併せ持った原初の渾沌なのだ。それが望むのは原初の始まりの転換で、そうなれば今度は人間が闇の中の生き物に変わるかもしれない。
『くっそ!!このぉ!!』
何が突破口になるかわからない状況で、不意にチリチリと空気が震え出したのに義人が視線をあげる。足を薙ぎ払われても怯みもしないそれは、焼け焦げて孔になった眼窩を天球に向けて何かを視線で追う動きを見せた。それを義人もつられたように視線を向けて、その特異な視線で追う。天球には漆黒の闇に裏返しになった日本地図、光の川はまるで血液の流れる血管のように微細に張り巡らされて光は循環し、それから溢れ落ちた光がチラチラと降ってくる。
まるで血管
そう思ったのは流れに差違があるからだった。言うなれば大きな臓器に値する場所には光は溢れるほど多く流れ込み、末端の指先や髪の毛のような場所には光は薄い。そして改めて考えれば分かるが、ある一点から砂時計の括れをサラサラと落ちてくるように光が下に落ちてきていた。人が多い場所には光が流れていて、少ない場所は光が少ない。そして光は花火の火の粉のように様々に色を示しているが、大概は濃い薄いの差があっても色は決まっている。そしてサラサラと落ちてくる場所は恐らく自分達がここに落ちた場所、つまりは都市の沿岸部にあの建物はあって、あの場所が穴として向こうと繋がっていた。過去形なのは落ちた穴からは戻れないのを忠志が既に確認しているからで、それでも穴を気にするのはこの光だ。
青、赤、白、黒…………
それを集めるようにして浴びる新生児の様子に、義人は空かさず空を薙ぎその光を打ち払い根こそぎ撥ね飛ばしたのに初めて渾沌は驚きに顔を歪めたのだった。。
《あと、ひと………………つぅ…………。》
それは唐突な知性の片鱗の現れ、それなのにそれが放つ言葉は何故か聞き覚えがある忌々しいほどに低い声だ。年老いてはいないが、それが何故か東条巌のドロリと濁った声なのが分かった。目の前の赤子は生まれたばかりの存在かもしれないが、確実に
《ながい、時間、おいもとめて…………きた。》
その声は東条だけではなく、様々な人間に聞こえた。耳に届くと聞き覚えのある声に聞こえた気もすれば、全く聞いたことのない声にも聞こえるのが不快感を煽る。綺羅宗嗣の声にも、木崎蒼子の声にも、遠坂喜一の声にも聞こえ、同時に酷く不快なことにもっと身近な逝去した人間の声にも聞こえるのだ。義人が苦痛に呻いたのは声が父・宇佐川辰義の声に聞こえたからで、忠志が舌打ちしたのは妹の槇山利津の声に聞こえたからだった。チラチラと頭上から舞い落ちてくる金の光のようなモノをその肌から吸い込みながら、赤ん坊はまだ歯のない歯茎を奥で噛み締めニタリと笑って見せる。
《たいきょくを…………転じる……ときが……きた。》
太極。
その言葉に四人は息を飲んだ。自分達の持つ力が生まれる根源であるものの名前。
全ての最初にあったのは混沌だった。
混沌は渦を巻き、やがて太極となる。
太極は陰と陽の二つに分かれ、二つは万物の五つの元素を成した。
五つの元素は森羅万象の元となり、互いの間は陰と陽とで結び付く。そこから五つの元素は順繰りに相手を生み出す陽の関係と、相手を討ち滅ぼしていく陰の関係で結ばれたのである。そして森羅万象の象徴である五つの元素に、これらの関係が結ばれて初めて世界は穏当な循環を得ることができた。そして、この循環がこの世の全ての永続を生み出したのである。そして、世にある全てには漏れることなく陰と陽の二つの面が与えられた。光に闇が有るように、善いものには悪いものが有り、生には死が有る。
それを全て……転じたら…………
今まで保ってきた世界が全てが崩壊してしまう。自分や先代達が必死になって守ってきた世界が、守ってきたものが全て闇に飲み込まれてしまう。
その中には当然今の自分達が生きてきた生活も、大事な人も友人も。
四倉梨央も
須藤香苗も
これから生まれようとしている者も
そう感じた瞬間全身が激しい恐怖に震えるような気がした。何かと誰かを守るために沢山の人間が人外と戦い命を落として沢山のモノを失いながら四神も院の人間も足掻いてきたのに、こんな容易く全てを失うなんて恐ろしいのと同時に許せるはずがない。
『そんなのさせるかよ!!』
忠志の叫び声と同時に激しい焔が湖面から這い上がろうとする足を一本凪ぎ払い、渾沌は唐突の衝撃に体勢を僅かに崩した。それを切っ掛けにしたように、義人も同じように這い上がろうとする別な足を風圧で押し潰し薙ぐ。同時に信哉の鋭い声が何かを思い出したように声を張り上げた。
『悌!!七孔だ!!一か八かあけろ!!』
その言葉に悌順は、顔の回りを手で払うようにして忠志と義人を捕まえようとする窩のない赤ん坊の顔を鋭い視線で見上げて舌打ちした。
荘子に、目、鼻、耳、口の七孔が無い帝として、渾沌が登場する篇がある。それは南海の帝と北海の帝が渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけるという話だ。それと同じ事が起きる可能性がどれくらい残されているかは分からないが、それ以外に今の四人には方法が浮かばない。唐突に眼窩に当たる場所に槍のような水の塊が、孔を穿ったのに赤ん坊の顔はグラリと背後にのけぞった。
『忠志!!お前も孔を開けろ!足は俺と義人だ!』
義人は意図を説明せずともその内容を理解した様子で、忠志に目の孔を開けてと叫ぶのを聞いた赤ん坊が福福とした巨大な掌でその場所を隠すように塞いだ。
《アアァア!!!ああ!!》
※※※
やっとの事で広大な菜の花畑を通り抜けた多賀亜希子と友村礼慈は、ハラハラと枯れ葉が舞い落ちる古木を見上げた。疲れきった顔の亜希子は既に目の下に隈が浮き始めていて、礼慈は彼女の人間のままの片方の腕をとり頭上を見上げる。
「なんの…………木でしょう…………。」
「身が林檎ににてるけど、少し棘があるわね…………?バラ目の植物かしら……。蔦じゃないから……。」
平然と木瓜にも似てるけどこんな木になるかしらと呟く亜希子に、礼慈は驚いたように目を丸くする。
「詳しいですね。」
「実家に生えてるの、木瓜。でもこんな木にはなってない。」
疲れきった声で低くいう彼女は改めて、頭上を見上げた。まるで唐突に寿命が尽きたと言いたげに見ている目の前で音もなく葉が色を失って舞い落ちてきて、古木に触れた亜希子は目を細め見上げる。触れる手の先には時と共に朽ちていく樹木の体内の音がピシピシと伝わり、辺りは終演の静けさに包み込まれていく。幹は大人数人で抱えないとならないほど大きく、手でつたいながら裏側に回り込んだ二人は目を丸くしてそこに生まれていた虚に駆け寄った。中には古木にもたれ掛かるようにして、眠り込んでいる何人かの姿。そっと手首をとり呼吸を確認する手際のよさに驚くが、そう言えば亜希子は看護師でもある。
「眠ってるみたいだわ……この子達……。あとこの子は知らないけど誰かわかる?」
「はい……全員、智美さんの同級生です……。」
そこにスヤスヤと眠っているのは霧の中ではぐれた筈の宮井麻希子と真見塚孝、そして何故か突然姿を表した近隣のクリニックの孫の若瀬透だ。香坂智美の話題に出てくる同級生はそれほど多くはないし、ここにいる三人と志賀早紀・須藤香苗、そして澤江仁が定番の面子。
何故ここに…………
虚が宝物を守るように三人を包むその場所を、亜希子はそっと見渡して礼慈のことを決意したように見つめる。
「あなた、この子達を守ってて。」
「え?!何を……。」
「私なら、二人を探しに行ける。」
眠ったままの三人も高校生を連れてあるく事はできないし、同時にここはこの三人を守るように包み込んでいて害意をまるで感じない。そして礼慈にもそれは視覚としてハッキリ分かるが、礼慈には何かと戦うような能力を持っていないのだ。そういう意味では多賀亜希子は自分一人であれば、身を守る位は可能だし間の子だから道も分かる。
「私は子供を見捨てられないから、自分の子供とあなたの守ってる子供を連れてくるわ、約束する。」
「でも、多賀さん一人じゃ。」
腕の変質を既に一度見られている亜希子は、溜め息混じりにその腕を礼慈によく見えるようにさらす。それはまるで人間から獣に変わりつつある、細く固いまるで白虎のような銀色の毛に包まれた鋭い爪を生やした奇妙な腕だった。
「……これ見たら分かるでしょ?私はとうに死んでるの。ここにいるのは、亜希子の残りカスなの。」
多賀亜希子は血の中に強い間の子の素質は秘めてはいたが、本来間の子として最初から生まれたわけではなかった。双子の片割れを妊娠の初期に体内に取り込み密かに二人分の強い素質を持って生まれたが、そのままであれば一寸勘のいい子供程度で済んだ筈だ。そうならなかったのは運命の悪戯で、亜希子が産まれる際に仮死状態となり宿っていた鵺と奇妙な契約を結んだからだった。一つ目の命を失った対価として目覚めた鵺と生存本能で無意識に結ばれた約束は、『共存』というとてつもなく矛盾した約束だ。同時に亜希子は酷く特殊なもう一つの血を継いてしまっていた。それは太古の災厄を喰うモノでオウヤカムイ等と時に呼ばれもするが、それはやがて亜希子の中で寄り合わされただでさえ稀な鵺に組み込まれてしまう。そしてとてつもないレアケースの鵺を産み出したのだ。
それでも何も起こらず暮らしていれば普通の家庭を築く可能性の方が高かったのに、運命が噛み合い鵺は亜希子の中で目を覚ましてしまった。その約束と様々な経験から生まれた亜希子の絶望に、鵺は無意識に亜希子の身の回りに災厄を引き寄せてしまう。鵺は常々に災厄をその哭き声で呼び、悪意を食らい成長していく。ただ人間の亜希子はそれに耐えらずに三度死のうとして、最後に実はそれを果たしてしまった。
人間の亜希子が約束を破った代償は、鵺の亜希子に成り代わること。
内在した殻に鵺を飼っていたのに亜希子がそれを明け渡して死んだから、それから鵺は亜希子のふりをして過ごして生きている。何しろ殻が完全に死なないと生まれた鵺は外には出られない。仕方がないから殻の中に餌として、災厄の種として一つ囲ったのは空腹には耐えられないからだ。そしてここに来て災厄の種が殻から偶々それが逃げ出してしまったので、鵺はそれを確かめに元々亜希子が暮らしたここに舞い戻ったのだ。そして次第に残り時間が減っていくなかで、鵺は始めて血の繋がらないとはいえ我が子供を得た。亜希子自身にも子供はできたのに災厄がそれを奪ってしまったから、鵺は得た子供を心底愛している。ただ子供は亜希子が鵺だと知らないから、人の形を失ったら二度と顔を見ることも頭を撫でることもできなくなってしまう。それでも人の形の変わりにと子供を諦めることはできないのが、鵺であり亜希子だった。
「…………ここで待ってて、約束は必ず守るわ……。」
穏やかだが断固とした言葉に礼慈は何故か泣き出しそうになる。目の前にいる彼女は自分ができないことを、残り少ない体の命で果たすと言っているのだ。今までずっと人外は人を喰うだけ、そう考えて駆逐し続けたのに。その筈なのに、あの『教立』の青年も何故か他人を助けるために必死で、鵺の彼女も血の繋がりもない人間のために命がけで動こうとしている。
「何で……ですか?」
「…………羨ましいからよ…………、闇の中から見える光の中は目映く幸せに満ちてて、羨ましい………ただそれだけだし、私は子供を二度と見捨てないと誓ったの。」
人間より人間臭い化け物がいたって別に構わないでしょ?こんな世の中だものと彼女は、何故か酷く爽やかに朗らかに笑うと立ち上がった。そして彼女はほんの数歩だけ歩いただけなのに、礼慈が瞬きもしていないのに一瞬で彼女の姿は靄のように掻き消してしまっていたのだ。
※※※
眼窩に当たる場所に焔の矢が突き刺さり周囲の肉を焼くのに、それは大きくのけ反りながら絶叫を上げて両手を大きく振り回していた。肉が焼ける痛みになのか、慌ただしく頭上を舞い飛ぶものが五月蝿いのかはハッキリしないが巨大な手が顔の回りを払いのけ地表を掌で叩きつける。
『ズレると埋る!!集中して穿て!!忠志!』
『耳の穴なんて、ちっさいんだよ!!このぉ!!』
眼窩はそれほど難しくはなかったが、鼻腔と耳腔は格段に的が小さい。しかも巨大な赤ん坊はそれを防ぐためにか片手で口を塞ぎ続けていて、しかも激しく頭を揺り動かして的を動かすのだ。しかもその合間にも次第に足は這い上がり続け、既に三本目が抜き出されつつあるのに一点に集中して攻撃する義人と信哉も焦り出している。
恐らく東条の力を飲み込んでいる
再成が早すぎて切り刻んでも直ぐに肉と肉が結び付き、人外がよく吹き出す黒い血なんて一滴も溢れ出さない。骨を断ちきる勢いで切りつけても、大体にして断面に肉以外が存在もしないのだ。空の藍色は既に漆黒の闇に代わり、チラチラと降り落ちる金の光は花火の火の粉のように湖面に反射して花弁のように音もなく散る。
だとすれば、饕餮も窮奇も檮杌も全て飲み込んでいるかもしれない
そうなると目の前には四神が今まで数人係で倒したものを、全て併せ持った原初の渾沌なのだ。それが望むのは原初の始まりの転換で、そうなれば今度は人間が闇の中の生き物に変わるかもしれない。
『くっそ!!このぉ!!』
何が突破口になるかわからない状況で、不意にチリチリと空気が震え出したのに義人が視線をあげる。足を薙ぎ払われても怯みもしないそれは、焼け焦げて孔になった眼窩を天球に向けて何かを視線で追う動きを見せた。それを義人もつられたように視線を向けて、その特異な視線で追う。天球には漆黒の闇に裏返しになった日本地図、光の川はまるで血液の流れる血管のように微細に張り巡らされて光は循環し、それから溢れ落ちた光がチラチラと降ってくる。
まるで血管
そう思ったのは流れに差違があるからだった。言うなれば大きな臓器に値する場所には光は溢れるほど多く流れ込み、末端の指先や髪の毛のような場所には光は薄い。そして改めて考えれば分かるが、ある一点から砂時計の括れをサラサラと落ちてくるように光が下に落ちてきていた。人が多い場所には光が流れていて、少ない場所は光が少ない。そして光は花火の火の粉のように様々に色を示しているが、大概は濃い薄いの差があっても色は決まっている。そしてサラサラと落ちてくる場所は恐らく自分達がここに落ちた場所、つまりは都市の沿岸部にあの建物はあって、あの場所が穴として向こうと繋がっていた。過去形なのは落ちた穴からは戻れないのを忠志が既に確認しているからで、それでも穴を気にするのはこの光だ。
青、赤、白、黒…………
それを集めるようにして浴びる新生児の様子に、義人は空かさず空を薙ぎその光を打ち払い根こそぎ撥ね飛ばしたのに初めて渾沌は驚きに顔を歪めたのだった。。
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