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第三部
第八幕 異界・霧の里
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大抵の人間が間の子を毛嫌いするのは、その大概が人を拐って人でないものに孕ませられた子供だったからだ。山へ人を拐い皮を剥いで人の皮を被って里に降りて来るものもいたし、ただ餌として人を食うために人を拐うものもいたし、逆に人でないものの世界では力が弱いからそこから隠れるために人を拐って化けるなんてやつもいる。でも密かに言えば随分昔には反対に恩恵があるからと向こうのやつを囲って閉じ込めておいたり、それに生け贄として人間を差し出して人間が財をなしてきたことも多い。
よく聞くだろ?昔話で。
家の中に神様として奉って村の中で長者様になりましたなんてのや、その家の娘と神様ができちゃって子供が出来ました何て話。良二の本家・鈴徳家はどちらかと言えば神様として奉っていたものとの間に子供を作って栄えてきた家系であったが、それも今は過去の話。何が起きたかは知らないが、何十年か前にその奉っていた神様に呪われた災厄の家系に変わり果てた。土地の名士としての一面は社会的には維持していたから、表立ってはかわりなく見えているだろう。だけど射干玉の闇の中にある里の者にしてみたら、鈴徳の人間はとてつもない厄介者。
関わると呪われる鈴徳の家系。
それでも直系を本家継ぎにしないことで、鈴徳家は里の人間とは折り合いをつけて生きていた。血の濃い本家を残さないようにすることで血を薄めて、呪う神の力を相殺するってことで里と折り合いつけたのは佐倉家と違って鈴徳家が土地に今まで沢山恩恵をもたらしていたからだ。佐倉家は人喰いの血が濃くてルールもマチマチな上に恩恵が殆ど与えられないのだが、鈴徳家の間の子は大概大小の差はあっても良二と同じ力を持って夕暮れ時に顔さえ見なければ喰われないし、ルールさえ守れば山の恩恵は与えられる。
それでも幼い頃近隣の少女が妹の早苗のせいで行方不明になって悶着を起こして以来、良二の両親は里に近寄らないことに決めていた。それでも祖母の逝去には流石に里に顔を出すしかなくて、妹はその少女の成の果てに拐われた。
『経立』は女を拐うと嫁にしてしまうと言われていて、鈴徳家の神様になった『経立』は元が何かは知らないが、人に入り込むとそれの記憶を全部取り込んでそれに化けることが可能だ。それを嫁にするとか皮を被ると表現したのだと思うが、良二のように生まれた時点で『経立』になることもあれば、幼くして拐われた佐々野冬子のように入り込まれて『経立』になるものもある。問題は後者の『経立』は完全な人喰いで、里の人間はそれを捕獲し殺すために鈴徳家の人間を生け贄にして罠を張った。妹を始めに両親も消えて、良二自身も拐われたのは数年前だ。ただし贄にされて消える筈だった鈴徳の息子は、久々に鈴徳家本来の血を引いた間の子で『経立』として佐々野冬子だったものを逆に丸飲みして里に戻った。しかもその時里の人間を何人か仕返しとばかりに丸飲みにして、生き残りの叔母の手引きもあって何処かへ逃走してしまったのだ。その後も何度か鈴徳の息子は里に姿を見せたが、その度に親を生け贄にした里の人間に仕返しをする。そう里には伝わっている筈なのは、言われなくても分かっていた。何せ叔母も既に行方不明になって久しいし、残っている従兄弟達は父親と共に里側の人間だった。
「くそ……惣一さん、間に合うかな……。」
里の方の人間からすればそれが正論。でも、何も知らずに拐われて贄として山に捨てられたり殺されかけたら、それに対して生き残るためにやり返して当然だと良二は思う。
元々長く生きて『経立』になったモノは人に化ける性質があるから、生きていくために正体がバレるのを避ける。それが転じて『経立』の自分は素顔を見られれば喰うしかないのに、それを知らない奴等が『経立』になった顔をワザワザ覗きこんで見るから仕方がない。仕方がないとはいえ、それが食われた奴等の家族には人喰いなだけで言い訳なんて通じない。
サクラと呼ばれる仲間に頼んで逃がして貰い、惣一や松理にも助けられて何度か里からの追手を逃れてきたが、里に残る間の子まで達していない血筋の奴等までが霧に紛れて良二が戻ったのに感付いて黒面を被って大勢で木陰に潜んでいる。
ザワザワと闇の中で木立がざわめき杉林が揺れて、生臭い靄がたち始めているのに良二は舌打ちした。
あの施設に引き寄せられた霧は自分や鵺の女の生まれた土地に繋がっていて、ここらには時々地の底に繋がる穴も開く。それが当然の土地で昔からそんな伝承が当たり前に語り継がれるのは、ここいらには大嶽丸やらなにやらと太古からそういうものと交わって生き延びるしかない人間がいたからだ。恐らくは勘が鋭く動物として勝てない相手に取り入る方法を身につける人間が多く残っていたのと、開拓が進まないほどに野山が深く未開の土地に生きていたからだ。何しろ今だって道路一本潰れれば陸の孤島になる集落があるような場所で、当然のように市町村以外の隠れた名前を土地が持っている。
都市の近くにあったあの施設は、地の底にある人でないものの世界への扉を作りたかったのだろう。あの自分よりも遥かに力の強い兄さん達の力を何か利用したかったのだ。里に作れば簡単だろうが、ここらの人間は古くからの仕来たりに固執してあんな施設を作るのは絶対に許さないから、霧を接いで無理矢理ねじ曲げたのだ。それは兎も角あそこから逃げ出そうとした良二達は別な場所に出られれば良かったのだが、良二のこの血のせいで良二の血筋に引っ張られてここに繋がったに違いない。
お陰で俺のことを殺したがってる奴等のど真ん中かよ……
良二を殺すために他に何人巻き込まれても、里の人間は気にする筈がない。何しろここでは既に良二の妹も両親も霧に紛れて殺しても、何も事件とされない場所なのだ。『経立』の弱点・金気の手斧や鎌を持ち黒塗りの面を被った影が、良二の事を半円に囲んでキンキンと金属音をあげている。
「ふったち!」
「ロキねえさん、その人達も絶対に俺の後ろにいてよ?」
こうなったら仕方がないと良二が諦めに似た気分で息をつくと、ゾワリとその体が闇に飲まれて一回り膨らんだ。異様な光景に宇野衛を抱きかかえ妻を抱き締める成孝も、思わず驚きに息を詰め目を見開く。志賀松理は端末に向かって早くしてよと叫んでいるが、闇の中の仮面の集団が奇妙なほどに物音もせずにジリジリと手斧や鎌を手に輪を狭めようとしていた。
※※※
鋭く敵意を剥き出して甲高く哭く声に、乳白色の霧が裂けて細い道を描く。亜希子は迷いもなく真っ直ぐに進み続けていたが、道を辿っているというよりはどちらかと言えば道を声で産み出しているようにも感じられた。時にまるで生き物のように霧が手を伸ばして亜希子の肌に触れると、まるで鎌鼬でも起きているように病衣が裂ける。
でも…………私には……何も起きない?
亜希子が声を放ち道を作っているせいなのか、霧は亜希子にしか触れようとしない。礼慈の色の無い世界には真っ白な霧の壁の中に、一段と濃い霧が渦を巻くだけで明らかな形を見いだすことができないでいた。が、夜の霧とは思えない白さが、既に異質なのだと今更のように気がつく。
形をなしていないだけで、この霧自体が既に人外……
亜希子がここで礼慈の服を手放せば、礼慈だけでは永遠にこの霧から出られない。それ以前に恐らくあっという間に霧に喰われて終わるに違いないのは、襲われながらも先を急ぐ亜希子の背中を見れば容易に分かる。そしてそれは智美や三浦和希を早く探さないと、彼女と違って霧に詳しくはない二人も礼慈と同じ結果なのだと言うことではないだろうか。
「しつこいわね……っ!」
礼慈の服をガッチリと握り予想外に強い力で腕を引く彼女の表情は背後からは見えないが、黒髪が解れて乱れる様はまるで幽鬼のように冷気を放つ。不意に捕まれた部分に違和感を感じて礼慈が視線を何気なく下ろすと、その服を掴む爪が先程迄とは変化してきている。先程迄は別段特殊には見えなかった女性の爪は、今や鉤爪のように異様に鋭く延び始めていた。まるで亜希子自身が異形になりつつあるように見える変化は、次第に手の甲から手首に銀の毛が伸び始めて進行を早めていく。その毛並みはまるで白虎のような白銀の虎の毛並みのように見えるが、彼女はそれを気にする気配すらない。礼慈に耳を塞げと言って振り返ることもなく、彼女は真っ直ぐに何かを目指して先を急ぐ。
そして不意に霧が左右に飛び散ったと思ったら、二人はあまりの眩さに目が眩み手をかざした。振り返れば背後にあった筈の霧はどこにも姿形もなく、目の前に広がるのは恐ろしい程の見事な一面黄色一色の花畑。噎せかえるような強い花の匂いに、驚き二人は立ち尽くし手当たりを見渡した。
「…………菜の花…………?」
礼慈が呟くと同時に目の前でザワリと花が風に揺れて花弁が飛び散る。そしてその先には菜の花畑の中に一本の枯木が立ち枯れているのか、ハラハラと茶色の葉を風に散らし始めていた。呆然と立ち尽くしていた二人だが、亜希子が突然咳き込み始めて踞づいたのに礼慈が慌てて寄り添う。咳の発作は激しく屈み込んだ彼女は暫し呼吸も儘ならない様子だったが、やがて自分の手を見下ろし掠れた声で笑うのが聞こえた。
「…………あと…………少し…………ね。」
「……え?」
背中を擦っていた礼慈が、思わず彼女の言葉に反応する。亜希子は真っ白な血の気の無い顔で気がついたように礼慈を見上げると、酷く疲れた顔でニコリと笑いかけて立ち上がり早く二人を探しましょと弱々しく囁いた。菜の花を掻き分けて歩くのは正直花に申し訳ない気がするが、二人は並んで一先ず目に入る枯木に向かって歩き出す。同時に礼慈は病衣一枚の彼女の左の腕が、中程までまるで獣のように変容したまま元に戻らないのにも気がついている。亜希子がそれに触れないまま腕を手で握るようにしながら、枯木に向かって足を進めていく。
湿った土の匂い、花で視界が揺れていて枯木までの距離感がつかめない。迷いはしないが木立程度の枯木だと思ったものが、実はかなりの巨木なのに気がつく。
「大きい…………。」
次第に近づく枯れ葉を散らす古木は、やがて見上げるほどに巨大な姿を二人の前に顕しつつあった。
※※※
ガアッと予期しない咆哮をあげてその体が巨大に膨らみ、半円を崩さない黒面達と膠着状態にかわる。黒面は里では影を意味していて、それを被って声をあげなければ目を閉じ『経立』に気がついていない、顔を向けてはいない。そういう意味としてとらえられる、所謂『経立』避けの裏技だ。
鈴徳家の人間が最初の『経立』を土蔵に封じるのに仮面で視線を隠して、正体に気がついているのを誤魔化し土蔵に連れ込んだ時に被っていたのが黒塗りの面で顔に隅を塗りどちらが本物の顔か分からないよう、黒塗りの面を使ったとかなんとか。そして土蔵に引き込んで苦手の金気の檻に封じ込めたとも、金気で怪我をさせて閉じ込めたともいう。
山の化け物で気に入られると、山の幸(山菜やら茸やらだけでなく、果物や木の実、沢の魚もそうらしいし)やら薪やら、冬場にも生きるのに困らない恩恵をあたえるらしい。山林が行政区域の八割なのだから、恩恵を与えられる神様に奉ったのは分からないでもない。
「あああっ!!くそっ!」
半円全てを視界に入れられないから、視界に入れていない場所から金気が前腕に切りつけられ肉にめり込む。金気の痛みが神経に刺さり思わず牙を剥き苦痛に声をあげてしまいながら、小柄な黒面を反対腕で撥ね飛ばした。撥ね飛ばされた小柄なやつを他の何人かが影に引き込んでいくのと、別なやつが鉈を足に叩きつけてくるのは殆ど同時で良二は毛むくじゃらの足に血を吹き出させる。
人数が多い上に声も出さずルールを守られ、見ていない筈の里の人間に切りつけられていく。一つ一つは傷は小さくても、弱点で切りつけられ続ければやがては力尽きてしまう。
「ぐうううっ!!あああっ!」
背後に回られないよう必死に黒面を撥ね飛ばしていくが、流石に反対足に斧が深々とめり込んだのに良二は体勢を崩して前のめりに崩れ落ちてしまっていた。うつ伏せに崩れ落ちてしまった自分にはもう打つ手がないと呻きながら、黒面達を睨もうにも顔をあげられないように無慈悲に頭を踏みつけられる。
くそ……こんなんで……
「ふったちっ!!だめっ!!やめて!!」
松理の鋭い悲鳴が聞こえて、恐らく自分の首を落とそうと斧を振りかざした黒面がいるのだと良二は覚悟を決めて目瞑った。その瞬間ズンッと地響きのような振動が辺りを襲い、今まで一言も発しなかった黒面た達が尻餅をついたりしながら悲鳴をあげるのが聞こえる。恐る恐る薄目を開けると、目の前にずれた黒面の下で悲鳴をあげる里の人間がいて、それと目が合う。
ガハァ
躊躇もなく顔を見たそいつを頭から丸のみにした瞬間に、手足の傷が音を立てて結び付き肌を形成していくのを感じとる。その姿に他の黒面達が悲鳴をあげて逃げ惑うのに、頭上から低く聞きなれた声が降り落ちてきた。
『良二、一端おさめてくれないか、松理達と目があっても困る。』
頭上の声にホッとしながら良二がぐぐっと元の体に縮んで、その場にへたり込み、深い溜め息をついてからワンテンポ遅れて普段の良二になって視線を返す。頭上には金色の光を体から放つ灰色の狼の様なものが浮かんでいて、それは黒々とした瞳で良二のことを見下ろしている。
「遅い、よ…………惣一さ…………。」
疲れきった声で笑いながらそう言うとら鈴徳良二はその場で意識を失って倒れこんだのだった。
よく聞くだろ?昔話で。
家の中に神様として奉って村の中で長者様になりましたなんてのや、その家の娘と神様ができちゃって子供が出来ました何て話。良二の本家・鈴徳家はどちらかと言えば神様として奉っていたものとの間に子供を作って栄えてきた家系であったが、それも今は過去の話。何が起きたかは知らないが、何十年か前にその奉っていた神様に呪われた災厄の家系に変わり果てた。土地の名士としての一面は社会的には維持していたから、表立ってはかわりなく見えているだろう。だけど射干玉の闇の中にある里の者にしてみたら、鈴徳の人間はとてつもない厄介者。
関わると呪われる鈴徳の家系。
それでも直系を本家継ぎにしないことで、鈴徳家は里の人間とは折り合いをつけて生きていた。血の濃い本家を残さないようにすることで血を薄めて、呪う神の力を相殺するってことで里と折り合いつけたのは佐倉家と違って鈴徳家が土地に今まで沢山恩恵をもたらしていたからだ。佐倉家は人喰いの血が濃くてルールもマチマチな上に恩恵が殆ど与えられないのだが、鈴徳家の間の子は大概大小の差はあっても良二と同じ力を持って夕暮れ時に顔さえ見なければ喰われないし、ルールさえ守れば山の恩恵は与えられる。
それでも幼い頃近隣の少女が妹の早苗のせいで行方不明になって悶着を起こして以来、良二の両親は里に近寄らないことに決めていた。それでも祖母の逝去には流石に里に顔を出すしかなくて、妹はその少女の成の果てに拐われた。
『経立』は女を拐うと嫁にしてしまうと言われていて、鈴徳家の神様になった『経立』は元が何かは知らないが、人に入り込むとそれの記憶を全部取り込んでそれに化けることが可能だ。それを嫁にするとか皮を被ると表現したのだと思うが、良二のように生まれた時点で『経立』になることもあれば、幼くして拐われた佐々野冬子のように入り込まれて『経立』になるものもある。問題は後者の『経立』は完全な人喰いで、里の人間はそれを捕獲し殺すために鈴徳家の人間を生け贄にして罠を張った。妹を始めに両親も消えて、良二自身も拐われたのは数年前だ。ただし贄にされて消える筈だった鈴徳の息子は、久々に鈴徳家本来の血を引いた間の子で『経立』として佐々野冬子だったものを逆に丸飲みして里に戻った。しかもその時里の人間を何人か仕返しとばかりに丸飲みにして、生き残りの叔母の手引きもあって何処かへ逃走してしまったのだ。その後も何度か鈴徳の息子は里に姿を見せたが、その度に親を生け贄にした里の人間に仕返しをする。そう里には伝わっている筈なのは、言われなくても分かっていた。何せ叔母も既に行方不明になって久しいし、残っている従兄弟達は父親と共に里側の人間だった。
「くそ……惣一さん、間に合うかな……。」
里の方の人間からすればそれが正論。でも、何も知らずに拐われて贄として山に捨てられたり殺されかけたら、それに対して生き残るためにやり返して当然だと良二は思う。
元々長く生きて『経立』になったモノは人に化ける性質があるから、生きていくために正体がバレるのを避ける。それが転じて『経立』の自分は素顔を見られれば喰うしかないのに、それを知らない奴等が『経立』になった顔をワザワザ覗きこんで見るから仕方がない。仕方がないとはいえ、それが食われた奴等の家族には人喰いなだけで言い訳なんて通じない。
サクラと呼ばれる仲間に頼んで逃がして貰い、惣一や松理にも助けられて何度か里からの追手を逃れてきたが、里に残る間の子まで達していない血筋の奴等までが霧に紛れて良二が戻ったのに感付いて黒面を被って大勢で木陰に潜んでいる。
ザワザワと闇の中で木立がざわめき杉林が揺れて、生臭い靄がたち始めているのに良二は舌打ちした。
あの施設に引き寄せられた霧は自分や鵺の女の生まれた土地に繋がっていて、ここらには時々地の底に繋がる穴も開く。それが当然の土地で昔からそんな伝承が当たり前に語り継がれるのは、ここいらには大嶽丸やらなにやらと太古からそういうものと交わって生き延びるしかない人間がいたからだ。恐らくは勘が鋭く動物として勝てない相手に取り入る方法を身につける人間が多く残っていたのと、開拓が進まないほどに野山が深く未開の土地に生きていたからだ。何しろ今だって道路一本潰れれば陸の孤島になる集落があるような場所で、当然のように市町村以外の隠れた名前を土地が持っている。
都市の近くにあったあの施設は、地の底にある人でないものの世界への扉を作りたかったのだろう。あの自分よりも遥かに力の強い兄さん達の力を何か利用したかったのだ。里に作れば簡単だろうが、ここらの人間は古くからの仕来たりに固執してあんな施設を作るのは絶対に許さないから、霧を接いで無理矢理ねじ曲げたのだ。それは兎も角あそこから逃げ出そうとした良二達は別な場所に出られれば良かったのだが、良二のこの血のせいで良二の血筋に引っ張られてここに繋がったに違いない。
お陰で俺のことを殺したがってる奴等のど真ん中かよ……
良二を殺すために他に何人巻き込まれても、里の人間は気にする筈がない。何しろここでは既に良二の妹も両親も霧に紛れて殺しても、何も事件とされない場所なのだ。『経立』の弱点・金気の手斧や鎌を持ち黒塗りの面を被った影が、良二の事を半円に囲んでキンキンと金属音をあげている。
「ふったち!」
「ロキねえさん、その人達も絶対に俺の後ろにいてよ?」
こうなったら仕方がないと良二が諦めに似た気分で息をつくと、ゾワリとその体が闇に飲まれて一回り膨らんだ。異様な光景に宇野衛を抱きかかえ妻を抱き締める成孝も、思わず驚きに息を詰め目を見開く。志賀松理は端末に向かって早くしてよと叫んでいるが、闇の中の仮面の集団が奇妙なほどに物音もせずにジリジリと手斧や鎌を手に輪を狭めようとしていた。
※※※
鋭く敵意を剥き出して甲高く哭く声に、乳白色の霧が裂けて細い道を描く。亜希子は迷いもなく真っ直ぐに進み続けていたが、道を辿っているというよりはどちらかと言えば道を声で産み出しているようにも感じられた。時にまるで生き物のように霧が手を伸ばして亜希子の肌に触れると、まるで鎌鼬でも起きているように病衣が裂ける。
でも…………私には……何も起きない?
亜希子が声を放ち道を作っているせいなのか、霧は亜希子にしか触れようとしない。礼慈の色の無い世界には真っ白な霧の壁の中に、一段と濃い霧が渦を巻くだけで明らかな形を見いだすことができないでいた。が、夜の霧とは思えない白さが、既に異質なのだと今更のように気がつく。
形をなしていないだけで、この霧自体が既に人外……
亜希子がここで礼慈の服を手放せば、礼慈だけでは永遠にこの霧から出られない。それ以前に恐らくあっという間に霧に喰われて終わるに違いないのは、襲われながらも先を急ぐ亜希子の背中を見れば容易に分かる。そしてそれは智美や三浦和希を早く探さないと、彼女と違って霧に詳しくはない二人も礼慈と同じ結果なのだと言うことではないだろうか。
「しつこいわね……っ!」
礼慈の服をガッチリと握り予想外に強い力で腕を引く彼女の表情は背後からは見えないが、黒髪が解れて乱れる様はまるで幽鬼のように冷気を放つ。不意に捕まれた部分に違和感を感じて礼慈が視線を何気なく下ろすと、その服を掴む爪が先程迄とは変化してきている。先程迄は別段特殊には見えなかった女性の爪は、今や鉤爪のように異様に鋭く延び始めていた。まるで亜希子自身が異形になりつつあるように見える変化は、次第に手の甲から手首に銀の毛が伸び始めて進行を早めていく。その毛並みはまるで白虎のような白銀の虎の毛並みのように見えるが、彼女はそれを気にする気配すらない。礼慈に耳を塞げと言って振り返ることもなく、彼女は真っ直ぐに何かを目指して先を急ぐ。
そして不意に霧が左右に飛び散ったと思ったら、二人はあまりの眩さに目が眩み手をかざした。振り返れば背後にあった筈の霧はどこにも姿形もなく、目の前に広がるのは恐ろしい程の見事な一面黄色一色の花畑。噎せかえるような強い花の匂いに、驚き二人は立ち尽くし手当たりを見渡した。
「…………菜の花…………?」
礼慈が呟くと同時に目の前でザワリと花が風に揺れて花弁が飛び散る。そしてその先には菜の花畑の中に一本の枯木が立ち枯れているのか、ハラハラと茶色の葉を風に散らし始めていた。呆然と立ち尽くしていた二人だが、亜希子が突然咳き込み始めて踞づいたのに礼慈が慌てて寄り添う。咳の発作は激しく屈み込んだ彼女は暫し呼吸も儘ならない様子だったが、やがて自分の手を見下ろし掠れた声で笑うのが聞こえた。
「…………あと…………少し…………ね。」
「……え?」
背中を擦っていた礼慈が、思わず彼女の言葉に反応する。亜希子は真っ白な血の気の無い顔で気がついたように礼慈を見上げると、酷く疲れた顔でニコリと笑いかけて立ち上がり早く二人を探しましょと弱々しく囁いた。菜の花を掻き分けて歩くのは正直花に申し訳ない気がするが、二人は並んで一先ず目に入る枯木に向かって歩き出す。同時に礼慈は病衣一枚の彼女の左の腕が、中程までまるで獣のように変容したまま元に戻らないのにも気がついている。亜希子がそれに触れないまま腕を手で握るようにしながら、枯木に向かって足を進めていく。
湿った土の匂い、花で視界が揺れていて枯木までの距離感がつかめない。迷いはしないが木立程度の枯木だと思ったものが、実はかなりの巨木なのに気がつく。
「大きい…………。」
次第に近づく枯れ葉を散らす古木は、やがて見上げるほどに巨大な姿を二人の前に顕しつつあった。
※※※
ガアッと予期しない咆哮をあげてその体が巨大に膨らみ、半円を崩さない黒面達と膠着状態にかわる。黒面は里では影を意味していて、それを被って声をあげなければ目を閉じ『経立』に気がついていない、顔を向けてはいない。そういう意味としてとらえられる、所謂『経立』避けの裏技だ。
鈴徳家の人間が最初の『経立』を土蔵に封じるのに仮面で視線を隠して、正体に気がついているのを誤魔化し土蔵に連れ込んだ時に被っていたのが黒塗りの面で顔に隅を塗りどちらが本物の顔か分からないよう、黒塗りの面を使ったとかなんとか。そして土蔵に引き込んで苦手の金気の檻に封じ込めたとも、金気で怪我をさせて閉じ込めたともいう。
山の化け物で気に入られると、山の幸(山菜やら茸やらだけでなく、果物や木の実、沢の魚もそうらしいし)やら薪やら、冬場にも生きるのに困らない恩恵をあたえるらしい。山林が行政区域の八割なのだから、恩恵を与えられる神様に奉ったのは分からないでもない。
「あああっ!!くそっ!」
半円全てを視界に入れられないから、視界に入れていない場所から金気が前腕に切りつけられ肉にめり込む。金気の痛みが神経に刺さり思わず牙を剥き苦痛に声をあげてしまいながら、小柄な黒面を反対腕で撥ね飛ばした。撥ね飛ばされた小柄なやつを他の何人かが影に引き込んでいくのと、別なやつが鉈を足に叩きつけてくるのは殆ど同時で良二は毛むくじゃらの足に血を吹き出させる。
人数が多い上に声も出さずルールを守られ、見ていない筈の里の人間に切りつけられていく。一つ一つは傷は小さくても、弱点で切りつけられ続ければやがては力尽きてしまう。
「ぐうううっ!!あああっ!」
背後に回られないよう必死に黒面を撥ね飛ばしていくが、流石に反対足に斧が深々とめり込んだのに良二は体勢を崩して前のめりに崩れ落ちてしまっていた。うつ伏せに崩れ落ちてしまった自分にはもう打つ手がないと呻きながら、黒面達を睨もうにも顔をあげられないように無慈悲に頭を踏みつけられる。
くそ……こんなんで……
「ふったちっ!!だめっ!!やめて!!」
松理の鋭い悲鳴が聞こえて、恐らく自分の首を落とそうと斧を振りかざした黒面がいるのだと良二は覚悟を決めて目瞑った。その瞬間ズンッと地響きのような振動が辺りを襲い、今まで一言も発しなかった黒面た達が尻餅をついたりしながら悲鳴をあげるのが聞こえる。恐る恐る薄目を開けると、目の前にずれた黒面の下で悲鳴をあげる里の人間がいて、それと目が合う。
ガハァ
躊躇もなく顔を見たそいつを頭から丸のみにした瞬間に、手足の傷が音を立てて結び付き肌を形成していくのを感じとる。その姿に他の黒面達が悲鳴をあげて逃げ惑うのに、頭上から低く聞きなれた声が降り落ちてきた。
『良二、一端おさめてくれないか、松理達と目があっても困る。』
頭上の声にホッとしながら良二がぐぐっと元の体に縮んで、その場にへたり込み、深い溜め息をついてからワンテンポ遅れて普段の良二になって視線を返す。頭上には金色の光を体から放つ灰色の狼の様なものが浮かんでいて、それは黒々とした瞳で良二のことを見下ろしている。
「遅い、よ…………惣一さ…………。」
疲れきった声で笑いながらそう言うとら鈴徳良二はその場で意識を失って倒れこんだのだった。
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