GATEKEEPERS  四神奇譚

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第三部

第八幕 異界

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滝のように唐突に溢れだしたものが一体何処からなのか何なのか、そこにいる三人にはまるで理解が効かなかった。しかも音を立てて巨大な蛇の頭に体を撥ね飛ばされた痛みにほんの一瞬意識が途切れたせいで、事実中空で義人が受け止めてくれなかったら信哉はその氾濫に飲み込まれてもおかしくない。あれに落ちて、意識がなかったらどうなっていたかは信哉にも想像もできない事だ。一回り体格の良い体を軽々と抱き止めて、中空に浮かぶ義人の方は飛べることに安堵している風にフワリと青い異装を翻していた。

「信哉さん!?」
「わ、るい、義人。」

既に何度も同じ衝撃に曝されていて視界がチカチカと白く瞬いているのを、流石に抱き止められて義人に勘づかれてしまう。溢れだしているものは水のように見えるが、仲間の生み出す水とは質が違うのが臭いと気配で薄々わかっていて義人は素早く辺りを見渡す。ほぼ同時に蛇の目潰しをしていた忠志が目の前の氾濫に慌てたように宙に飛び上がって、溢れだすものに蛇が飲み込まれていくのを目を丸くして見下ろしながら菜の花を薙ぎ倒し始めているものに目を凝らす。そして唐突に忠志が火焔の珠になったかと思うと矢のようにそれに向かって音を立てて飛び込んでいた。

「忠志!!」

信哉を抱きかかえたまま追いかけて飛び込むわけにもいかず、同時に何を見て忠志がそんな無茶しているのかも義人にだって理解できている。戸惑いに満ちた義人の声が響き渡った瞬間、ボッと破裂音をさせてその氾濫から人一人を抱えあげた忠志が中空に飛び出して全身を震わせて氾濫をふるい落した。

「ウエエッ!口入ったっ!おえっ!」

盛大な声が響いて力ずくで抱えあげられた頭がビクと僅かに動き、ゴボッと何かを吐き出すのが見える。そして抱きかかえられ激しい咳き込む声と、忠志のえずく声が重なりあうのに義人は安堵の吐息を溢していた。

「……き、んちょうかん……ねぇ……。」
「玄武の癖に溺れてんなよっ!うええっ!きもっ!おえぇ!」

黒衣の体を抱きかかえながら盛大にえずく忠志に、義人は微笑みを浮かべて忠志と安堵の声をあげると忠志の方も何とか言いたげな笑顔を浮かべて返す。
眼下の氾濫は更に広がり既に蛇の頭が溺れて飲み込まれていくのに、忠志と義人は目を丸くして、抱えられた信哉と悌順も息を詰めていた。広大な菜の花畑をあっという間に何かが滝のように溢れだして押し流していく情景は、一見すれば川の氾濫はにも似ているが湧水が吹き出しているようにも見えて酷く奇妙だった。
最初に沸き上がったのは三人の目にはあの蛇の体幹だった筈なのに、既に眼下には溺れて喘ぐ蛇の頭が見えていて蛇はまるで泥沼に飲まれていくようにジタバタと足掻いている。

「何なんだ……これは…………。」

風すらも飲み込むように黄色が失われ、まるで水面に沈んで逝くように辺りが色を失い始めていて、同時に空も色を失って黒と藍色に世界が変容していくのを四人は言葉もなく見渡す。あんなにキツい程に漂っていた花の匂いも飲まれ土の臭いも何もかもが沈黙して、花弁すらも残さない氾濫が音もたてずに眼下に広がっていく。

「東条……は?」

やっとのことで言葉を絞り出された声に、蛇達が救い求めるように頭上を舞う四人の姿を仰ぎ見るのが見えた。肉塊の体幹は既に氾濫の底に飲まれていて暗く沈んだ中から、首だけが空気を求めるように必死にもがいている。だが根本の体幹がそこにのまれては、どんなに首を伸ばしても限界があるのだろう。

《うあ……あガボッああ!》

蛇の口から溢れる本体があげているのだろう溺れるような悲鳴が、体を通して四人に向けてもれきこえる。長く生きていたかっただけ、知恵を失いたくなかっただけ。だから、異常な細胞の再生能力に特化してしまった化け物が、どんなに再生出来たとしても肺胞が溺れていくのはどうしようもない。しかも、もし死んだ細胞が再生し続けるとしたら、永遠に溺れて再生してを繰り返すだけ。

一番残酷な顛末だ…………

それが分かっていても今更助けあげることも、とどめをさしてやることも今の四人には出来ない。現状すら把握できないのに、この状況では何も仕様がない。せめて木気であることを顕にした今、相剋の白虎が無傷なら細切れになるまで切り刻むことも出来たかもしれないが、信哉は意識を保つので精一杯で蛇の苦悶の様を見下ろすだけだ。

《助けて……、ころ、し……ガボッゴボボッ》

体幹に近く短い首から完全に氾濫に沈み始め、幾分長さがある首が鯉のように口を喘がせている。だが攻撃の時に信哉がいち早く気がついたように、八本の蛇の首は攻撃のためのものでしかなかった。蛇の首は再生が早かったが、生存に関する機能をまるで有していないのだ。目を失えば本体が操作するしかなかった八本の首は呼吸をすることも知恵をあわせて体幹を持ち上げることも出来ず、ただ体幹に引っ張られ氾濫に沈んでいくしか出来ないでいる。

《た……ガボッゴボッ……たすけ……、ゴボボ、こ、》

溺れて沈んでいく蛇の首は、どれも想像通り呼吸の証しの気泡すらたてずに呑み込まれて行く。遂に溺れきって弛緩して力なく沈んでいく姿は、まるで寸前まで立っていた筈の地面が失われてしまったようにしかみえない情景だ。やがてその体は時折再生で目覚めるのか痙攣を繰り返しながら、水面の底に向かってユラユラと沈んでいくのを四人は言葉もなく背筋が凍るような思いで見つめている。

「……最悪…………。」

どうやってここに来たかもわからないのに、何時までも飛び続けるだけだとしたら。思わず言葉を溢した忠志が義人を振り返り首で先を示すと、その不安に飲まれてしまう前に忠志と義人が一直線に未だ菜の花の残る方向に向かって矢のように空を切りはじめていた。



※※※



その手を差し出され、迷わず手を握り返すと彼は静かに微笑む。久しぶりに会ったと考えると彼も同じことを感じているのが分かって、思わず微笑み返してしまう。

やあ

何時もと違う柔らかく穏やかな声に戸惑いながら、その声の主を見つめる。普段はもっと元気で子供のように放たれる声と、今の彼の声は別人のように穏やかに響くのだ。

それを私に、貸して欲しい。

彼のいう『それ』が何を示すのかは不思議なことに教えられなくてもそれぞれ分かっていて、同時に全くそれぞれにはまるで理解できないことでもある。それなのに頭のどこかで彼がいうことは理解できていて、そして深く戸惑いを感じさせた。それを渡したら彼は旅立ってしまうけれど、貸すってことは何時か返しにくるということなのかと問い返す。

そうだな……いつか。

それは自分なのかと問う。返しに来てくれるのは自分なのか、それとも別な誰かなのかと問いかけてしまうのは彼が時間を超越した存在だとここでは理解できているからだ。約束した筈の事はと問いかける。これから一緒にしようと互いに約束を交わしたことはどうするのと問いかける声に、彼は少しだけ寂しそうに笑うとまた何時かと繰り返す。その言葉になぜ彼がワザワザ自分達に、貸して欲しいと言うのかを理解する。

また、いつか

そう誰よりも一番に約束したいのは実は彼自身で、彼も決して別れて旅立ちたい訳ではないのだと知ったら酷く寂しくなった。また会う約束、また一緒に何かをする約束、また一緒に、そう約束しておきたいのは、何よりも彼の方なのだ。それを知ったらその手を離したくないと自分達は考えている。それでもそれを彼に渡さないと、大事な存在を返してやれないんだと彼は悲しげに言い、それを防ぐ方法もない自分達。だから、ここで自分達は彼と手を握り約束をかわす。

またいつか一緒に

そう約束して、自分達は彼にそれを貸す。本当ならば借りなくとも全て四人から返して貰えば良いだけだと知っているけれど、それだけてはなく自分達から少しずつ借りて自分達と約束を交わすために。

約束、必ずまた

一緒に海に遊びにいこう。一緒に甘いものを食べにいこう。一緒にお祭りに行こう。一緒に花火を見よう、一緒にあれをしよう、一緒に一緒に…………沢山の約束をしながら、涙が自然と溢れだしていた。



※※※



湖面のように変わり果てた岸辺で、水気の治癒を受けた信哉が青ざめながら迫りつつある湖岸としか見えない世界を見渡す。空はまるで夜空のように星明かりを称えているうにも見えるが、それがそうではないのは頭上を見渡せば一目瞭然だった。天球を分割するような天の川は見えず、星明かりは絶えず流動的に流れていく。一度どこまでそれに近寄れるのか飛び上がってみた忠志が、諦めたように舞い降りてきて呆れたような口調でいう。

「全然ダメ、上に向かってんだか下に向かってんだか分かんなくなった。」

まるで深海に潜った潜水士のようにどちらに向かって飛んでいるか分からなくなって、途中から自由落下しても戻ってくるのに大変だったという有り様だ。まだ菜の花の畑の明るさがあったら飛べるかもしれないが、黒と藍色だけの世界を飛び続けるのは難しい。しかも中空と湖面が反射しあって余計に上下が分からなくなるようで酔いそうだと、忠志はまたえずいている。頭上が天球でないのはその流れの形で一目瞭然で、同時に湖面の侵食は緩んでいるようにも見えるが正確な判断は何一つ出来ない。

「あれ……地脈か?信哉。」
「多分…………だろうな。」

頭上には反転した日本地図と周辺の海域図を組み合わせ、細かくそれを満たすように光を流しているような光景。まるで地面を光で満たそうとするような細かな流れと、太く明らかな流動して巡る流れがある。血液のように単一の色で満たされているわけではなく、光の細かい流砂のようにそれは流れていて、時に濃く薄く濃淡を作っていた。吸着し大きくなる光もあれば、時に光同士でぶつかり合い砕けて細かく散るものもある。流れから外れて光同士で砕けた後の光が欠片のように音もなく、まるで花火の後の流れ落ちる火の粉のように湖面にキラキラと降り落ちてくる、幻想的な奇妙な静謐の世界。
湖面のように見えているが、これがあの氾濫の成れの果てなのはいうまでもない。生き物の気配は何一つ失われ、同時にあの蛇の首の人外の存在すらもあっという間に飲み込んでしまった氾濫。それは今も音もなく光を飲み込み続けていた。
東条との傷を癒す間に信哉が香坂智美と結論をつけた自分達の力の生まれた理由と、悌順が知った間の子と呼ばれる存在の話、それと四人が隔離された場所の話をしてここがゲートの向こう側なのは四人ともが納得はした。納得はしたが信哉がどうしてこっちにいるのかと、ゲートを通った筈の三人が東条の中に取り込まれていた理由は説明できるものではない。

「だけど、一先ず返る方法を考えないとな。」

溜め息混じりの悌順の言葉につられて横並びに頭上を見上げて、忠志も頭に手を組んで呆れたように呟く。

「早く帰らないと、バイト解雇されるのごめんだぞ?俺。」
「ほんと、緊張感ないよね?忠志。」
「ゲロはいてて緊張感なんてあるかよ、早く帰りたい。」

再三えずく羽目になったのにブチブチ言いながら忠志は辺りを見渡す。この奇妙な世界に来たのは東条が開いたゲートを施設の地下からくぐった訳で、頭上を見てもそれらしき穴は見えない。それに一度飛び上がった身としては頭上に穴があったからと言って、そこまで本気で飛べるのか甚だ疑問だ。上下が分からなくなっていつの間にか氾濫にボチャンでは笑い話にもならないし、ゲートを開いた東条は氾濫に溺れて沈んだし正直ゲートの開け方なんて想像も出来ない。

「まるで反対の事したら帰り道出来たりして。」
「反対?」
「向こうからはあいつらが………………開けるから、こっちからは逆に人外沢山倒して開けるとか。」

言いたいことは分からないでもないと悌順が苦笑いしながら、頭上を見上げてどうかねぇと呟く。なにしろそれ試すにも今ここには人外すら気配がない。まるで四人だけしか存在しないようなこの世界で、逆にあの世という言葉すら当てはまらないと感じ始めているのだ。正直薙ぎ倒される前の菜の花畑のままならある意味最初の作り物みたいな満開のなの花畑よりよっぽどあの世といわれて納得できたかもしれないが、この湖面を三途の川と認識するのには実は躊躇いがある。

「彼岸の岸もないしな……。」

苦笑いで賽の河原もないと呆れ混じりに言う信哉も悌順に同意しているのは、自分達が生きている感覚は明確なのに辺りが異質すぎるからだ。それでも抜け出すのに一体どうしたら良いものかと、四人は立ち尽くしている。目の前には底のまるで見えない深く暗い湖面だけ、対岸どころか空と一体化して果てすらも見えず生き物らしい気配は皆無。目の前のものが水であれば玄武の力でとも思うのだが、実際には目の前のものは水に見えるだけで水ではないから飛び込む気にもなれない。水でないものはただ音もなく満ちるだけで、風にも火にも、金気の刃すらも飲み込み沈めるだけ。このままここで朽ちる……その可能性はあるが、希望だってまだ捨てていないし、諦めるにはまだ早すぎる。そう信哉が呟いたのに、同意した義人は目を細めて辺りを見渡し始めていた。
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