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第三部
第八幕 異界
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唐突にそれは臨界点を越えたような全身でブルブルと震えはじめて、しかも蛇の頭部は全く別の支配下にあるように戸惑いながら体幹の方を覗く。次の首と一瞬考えたものの、絶望の悲鳴がたなびくのように菜の花畑の中に響き渡ったのを聞いて信哉は戸惑いにそれへの攻撃の手を一瞬緩めていた。
《ああああ!!あああ!!》
まるでこんなはずじゃないと嘆いているような激しい悲鳴が、菜の花を散らしていくのを白虎は戸惑いながら見つめる。何度もこんな風に戸惑いに人外に飲まれたことを嘆く姿を見ていた。
木崎蒼子も雲英も
何か矛盾に気がつき我に帰ったり、思い出したことに絶望したり、そんなことを切っ掛けにして唐突に限界を越える。忘れたままでいないと心が堪えられなくなるみたいだと、その姿を見ながら感じてしまうのは間違いではない気がするのだ。そして東条は何かに気がついてしまっていて、それは綱渡りしていた東条の精神を追い込むのに十分だったに違いない。
《うああああ!!あああ!!》
見る間に全身が膨れ上がり巨大化していく東条の体から咄嗟に距離をとるが、巨大化する方が早くてまるで離れている感じがしない。ところが奇妙なことに八つの頭は信哉ではなく、東条の自分自身の体に向けて牙を突き立て噛み付き喰い千切り始めた。まるで内部でせめぎあう何かが存在しているみたいに、首が体に襲いかかり黒い血を撒き散らして鱗を喰い千切る。
《あああ!ああ!》
だだバリッと皮が音をたてて剥がれて喰い破られた肌の下から直ぐに盛り上がってくる肉塊の様は、正直気持ちのいい眺めではなくて不快そうに思わず目を背けたくなる。そして見ている内に体は菜の真ん中で丸井肉の塊になり、蛇の首は体に向かってうねうねと蠢いていた。何が起きてるんだと躊躇いながら見つめている視線の先で、肉塊の奥に人間のような顔が蠢く。老いて皺だらけのその顔は、恐らく東条の本来の顔なのかもしれないと信哉は戸惑いながら見つめる。
《違ううぅ!こんな化け物にぃいいい!ちがううううぅううう!!》
その絶叫を潰すように蛇達が襲いかかっていくのに、信哉は呆然としながらそれを見つめる。まるで信哉の存在を忘れてしまったか無視したように自分の体を攻撃していた蛇の頭が、突然自分の尾の一本を喰いちぎった瞬間そこから口を焼いて炎が弾けたように吹き上がった。
《ぎゃあっ!!!》
口腔内を焼き付けられて蛇の顎がそんな悲鳴をあげて弾かれたように仰け反り、尾は一瞬で膨れ上がりまるで弾けるように放たれた火矢が尾を突き破って宙に踊り出したのに信哉は目を見開いた。あれほど仲間の気配が、フィルター越しのようだと感じていた理由が分かったと同時に一瞬で背筋が寒くなる。
何が今の東条に起こっているのかはわからないが、どうにかして東条は体内に信哉以外の仲間三人を取り込んでいたのだ。そして均衡が崩れ始めた東条の力では押さえきれずに、朱雀の忠志を吐き出した。そして目の前では、東条は今も体内で再生と崩壊を休むことなく繰り返す。
『馬鹿にしてんじゃねぇぞぉっ!!この腐れ外道!!』
『忠志!!』
苛立ちに火矢を打ち放ち高らかに嘶いて宙を舞う緋色の翼が辺りを熱気で照らしながらジリジリと菜の花を焼きながら、忠志はかけられた声と辺りの様子に目を丸くして眼下の白虎の姿を見下ろす。
『信哉?!本物?!花も生?!』
まるで意味のわからない言葉を吐きながら舞い降りる忠志の暢気さに、今までの緊張感が崩壊しそうになる。人が命懸けでと思わず脱力しそうになるが、これだからこそ忠志なのだと同時に安堵すら感じてしまう信哉は、崩壊を始めている蛇を警戒しながら変化を解いた。
「本物……てどういう……。」
胸に痛みが走って言葉にならない信哉の姿に、忠志が慌てて駆け寄ってくる。忠志はここと寸分の差のない、ただし完全な作り物みたいな菜の花畑にさっきまでいたのだと話す。ただしその菜の花畑にはここよりも満開の菜の花畑が広がっていたが、まるで臭いもなく花弁が散っても花も変わらない。奇妙な作り物の花畑だったと吐き捨てる。その瞬間再び尾を噛み砕いた東条自身が苦悩の呻きをあげながら、たたらを踏んで仰け反るのが見えた。何でか突然自滅を始めた姿に唖然としながら、尾の一本が膨れ上がってそこから身を翻す姿に強い安堵を感じる。
「信哉さん!忠志!!」
「義人!無事か!?」
「さっきはごめん!忠志。」
一緒にいたのにはぐれたんだという二人は信哉に、その前に隔離されていた施設の奥で肉の塊にゲートに引きずり込まれたと簡単に話すが目の前のものがそれだったのかと言われると判別できないという。つまりはここがゲートの向こう側で、さっきの作り物世界は目の前の奇妙な肉の塊の内側ということか。既に目の前のものは肉塊から蛇の首と尾を生やした奇妙な生物にかわっていて、それは次第に渾然としたものから明らかな木気に満ち始めていく。
「悌は?悌もあれの中か?」
怪我に気がついて信哉に肩を貸しながら問いかける忠志に、義人が目を細めて背後の肉塊を見やる。頭と同じく尾も既に八本に増えて古事記や何かの化け物の様相に変わり果てているが、未だにその蛇の首は共食いをやめようとしない。もしかしたら僅かに残っている東条の意識が邪魔なのかもしれないと、苦く感じながらどの尾がそれなのか見定めようとする義人の視線を伺う。
※※※
金色の瞳をしたそれを見上げている自分に気がついたのは、何かが聞こえたからだった。
周囲は穏やかな風に揺れる満開の菜の花畑、花の匂いでむせかえりそうな気がするほどで、しかも土や水の匂いもする。何処かに炭を焼く人間でもいるのか、何処かから煙の匂いが風にのって流れてきているのに智美は目の前のものを見上げながら瞬きする。いつの間にかこんな美しい場所に来ているが、これはまさかあの世とか言うのだろうかと思わず考えてしまう。そんな非科学的な言葉を使いたくはないが、大概のことは科学では説明できない人生だった。
霧の中ではぐれて死んだとか、カッコ悪いな……。
一瞬そう考えた自分の目の前で、大きな体がコツンと頭に顎をのせるのに気がつく。もう一度見上げれば形は鹿に似て大きく背丈は五メートル以上もあり、顔は龍と虎の間の子、瞳は虎、牛の尾と馬の蹄、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には龍の鱗がある。基本的には一本角だが、見ていると何故か二本角、三本角、もしくは角の無い姿に揺らいで見える奇妙な生物。
名前が出てから何度も様々な絵では見たがこうして直に見ると生き物としてはあり得ないのは分かるし、大体にして顔が龍と虎の間の子いう時点であり得ないというか、間の子とはどんな顔になるものを指しているのかと聞きたくなる。
『我が名は、……索冥』
「さく、めい?」
麒麟ではないのかと頭の中で呟くと、それは穏やかに自分の背中の鱗を差し出して見せる。その鱗は白く薄く光を放っていて、黄色をしているという麒麟とは色味が違うと考えた智美にそれは頭を低く下ろして来た。
『時が来る、麒麟児。』
「きりん、じ?」
唐突にその言葉に頭の中の靄が取り払われていく。自分が知るはずのない奥底に刻み込まれた、遥か太古の記憶を、それが靄を剥いで明らかにするためにここにいるのがわかる。
『角端や炎駒、聳孤がやって来る。』
出現した麒麟と思われるモノはそれぞれに炎駒と聳孤と名乗っていた。そして目の前のものは索冥といい、他にも角端がいる。炎駒は赤く、聳孤は青く輝き、索冥は白、ならば角端は黒なのだろうと智美は無意識の中で考えた。ザワザワと風がなって索冥は智美を促して歩き始め、不思議なことに歩く足の先で菜の花は踏まれないようにというように左右に別れていく。
「礼慈達は無事?」
『彼らは心配ない。』
まるで白虎と話しているような気分だと考えながら、智美はそれにしたがって歩き出す。菜の花畑は先が見えないほどに広く、まるで過去に読んだ鳥飼澪の物語の中の最後のシーンのようだ。誰かを探し続ける主人公が、最後に足を向ける一番最初の土地。その言葉に何故か、そうだここが最初の土地で最後の場所なのだと理解もできてしまう。広く先の見えない菜の花畑のむせかえるような花の香りに、何故か楽しかったことばかりが浮かび上がってくる。
走馬灯ってやつか?
気がつけば皆で笑っていることばかりで、それが当然に与えられる事を僻むことはなくなっていた。自分にもそういう時間が与えられたことに感謝しているし、そういう限りがある時間だからこそ光り輝く記憶として刻み込まれていく。楽しかったことも愉快だったことも、腹が立つことも、怒りに震えることも、誰かを思ったり心配したり、そんな当然の事が与えられ記憶に刻まれる。
今度は……夏祭りだね!文化祭もあるし!
そんな暢気な宮井麻希子の朗らかな声と微笑みが浮かび、残念だと心の底から思う。本当はもっと沢山傍で彼女を見ていたかったし、もっとしたいこともあった、それに諦めたなんて格好をつけないでこの気持ちも伝えておけばよかった。どうせ何時かは院の中に隔離されるからと学校に行くことだって諦めたし、どうせ失うからと友達も諦めてきたのに、今になって高校生活なんてものに接してしまったから。苦く思うのに、同時にそれを与えてもらえたことに感謝している。
出会えたことも、経験できたことも、全部宝物だ……
そう感じると余計に帰りたくなる。普通に皆と過ごした日々に、何もかも投げて帰りたい。諦めていた沢山の事を実は何一つ諦められないでいる自分に、智美は初めて気がついて自分が子供のように泣きそうになるのに気がつく。
ザクリと足が今までと違う足音を立てたのに、智美は思わず視線をあげた。
大きな古木が目の前の開けた場所に立っていて、それは随分と懐かしい記憶を揺り起こす。
ここだ。
ここが最初で、この棗の古木の根本にそれはいた。そうしてそれが何をするためにここで待っているのかを、智美の記憶は既に揺り起こし始めている。それは遥か千年も昔の出来事……
※※※
発光する青い瞳が必死に気の流れを探していく。既に菜の花は肉塊の周囲を丸くサークルのように薙ぎ倒され、花も土にまみれて飛び散った。所謂ミステリーサークルのように、薙ぎ倒された花畑には青々しい花のへし折られた緑の香りが溢れていて、まるで土俵のような丸い土地が生まれている。その中で義人の瞳がやっと、閉じ込められている悌順の気配を探りだした。
「あれ!あの一番短いのです!」
八本の尾の中にやっぱりそれは存在していて、尾はゾワゾワと蠢いているものの他の二人のように表になかったせいで、自分自身でそれに噛みつくことはない。義人の言葉と殆ど同時に蛇の鎌首は、唐突にビタリと自分の体を傷つけるのを止めた。まるで今までの共食いで悪い部分が取り終えたとでも言いたげに蛇の首がゾロリと三人の方に向けられたのに、忠志が生理的な嫌悪の声をあげる。
信哉の折れた骨を治癒するのは悌順の力を借りでもしないと短時間ではどうしようもないし、同時に寸前までの動きで傷ついている内臓も同じこと。それでもそれを口にしてどうなる訳でもないと、信哉は借りていた肩を解放して再び白虎に変化した。義人の口にした蛇の尾は八本の中でも一番太く短く、しかも他の尾より下に生えていて他の尾で隠れるように確認しにくい。それでも炎で焼かれて何もないとは言えないから、忠志には八本の頭の目を潰すように指示しながら、信哉と義人が背後に回り込もうとし始める。
「こんのっ!!うろちょろすんな!へびあたまっ!!」
正直火球の攻撃はかなり精密になったが、何しろ八本の頭を引き付けながら十六個の目を潰すのは流石に困難だ。時折こちらの狙いを反らすように眼球を狙いながら尾や頭を切り落とすが、再生の速度が先ほどまでとは段違いに変化している。
「……再生が……早いな。」
早いのか自分が遅いのか痛みのせいで、ハッキリしないと信哉は苦く感じる。もしかしたら駄目かもしれない・間に合わないかもと心の何処かが感じるのを表には出したくないのに、ジワリと焦りが背筋に這い寄るのを感じてしまう。
「信哉さん!危ない!!」
一瞬の思考の隙が再びメキメキと肋を軋ませて体を撥ね飛ばしたのを感じた時、それは突然閃光のようにその目の前の蛇の体内から滝のような勢いで溢れだしていた。
《ああああ!!あああ!!》
まるでこんなはずじゃないと嘆いているような激しい悲鳴が、菜の花を散らしていくのを白虎は戸惑いながら見つめる。何度もこんな風に戸惑いに人外に飲まれたことを嘆く姿を見ていた。
木崎蒼子も雲英も
何か矛盾に気がつき我に帰ったり、思い出したことに絶望したり、そんなことを切っ掛けにして唐突に限界を越える。忘れたままでいないと心が堪えられなくなるみたいだと、その姿を見ながら感じてしまうのは間違いではない気がするのだ。そして東条は何かに気がついてしまっていて、それは綱渡りしていた東条の精神を追い込むのに十分だったに違いない。
《うああああ!!あああ!!》
見る間に全身が膨れ上がり巨大化していく東条の体から咄嗟に距離をとるが、巨大化する方が早くてまるで離れている感じがしない。ところが奇妙なことに八つの頭は信哉ではなく、東条の自分自身の体に向けて牙を突き立て噛み付き喰い千切り始めた。まるで内部でせめぎあう何かが存在しているみたいに、首が体に襲いかかり黒い血を撒き散らして鱗を喰い千切る。
《あああ!ああ!》
だだバリッと皮が音をたてて剥がれて喰い破られた肌の下から直ぐに盛り上がってくる肉塊の様は、正直気持ちのいい眺めではなくて不快そうに思わず目を背けたくなる。そして見ている内に体は菜の真ん中で丸井肉の塊になり、蛇の首は体に向かってうねうねと蠢いていた。何が起きてるんだと躊躇いながら見つめている視線の先で、肉塊の奥に人間のような顔が蠢く。老いて皺だらけのその顔は、恐らく東条の本来の顔なのかもしれないと信哉は戸惑いながら見つめる。
《違ううぅ!こんな化け物にぃいいい!ちがううううぅううう!!》
その絶叫を潰すように蛇達が襲いかかっていくのに、信哉は呆然としながらそれを見つめる。まるで信哉の存在を忘れてしまったか無視したように自分の体を攻撃していた蛇の頭が、突然自分の尾の一本を喰いちぎった瞬間そこから口を焼いて炎が弾けたように吹き上がった。
《ぎゃあっ!!!》
口腔内を焼き付けられて蛇の顎がそんな悲鳴をあげて弾かれたように仰け反り、尾は一瞬で膨れ上がりまるで弾けるように放たれた火矢が尾を突き破って宙に踊り出したのに信哉は目を見開いた。あれほど仲間の気配が、フィルター越しのようだと感じていた理由が分かったと同時に一瞬で背筋が寒くなる。
何が今の東条に起こっているのかはわからないが、どうにかして東条は体内に信哉以外の仲間三人を取り込んでいたのだ。そして均衡が崩れ始めた東条の力では押さえきれずに、朱雀の忠志を吐き出した。そして目の前では、東条は今も体内で再生と崩壊を休むことなく繰り返す。
『馬鹿にしてんじゃねぇぞぉっ!!この腐れ外道!!』
『忠志!!』
苛立ちに火矢を打ち放ち高らかに嘶いて宙を舞う緋色の翼が辺りを熱気で照らしながらジリジリと菜の花を焼きながら、忠志はかけられた声と辺りの様子に目を丸くして眼下の白虎の姿を見下ろす。
『信哉?!本物?!花も生?!』
まるで意味のわからない言葉を吐きながら舞い降りる忠志の暢気さに、今までの緊張感が崩壊しそうになる。人が命懸けでと思わず脱力しそうになるが、これだからこそ忠志なのだと同時に安堵すら感じてしまう信哉は、崩壊を始めている蛇を警戒しながら変化を解いた。
「本物……てどういう……。」
胸に痛みが走って言葉にならない信哉の姿に、忠志が慌てて駆け寄ってくる。忠志はここと寸分の差のない、ただし完全な作り物みたいな菜の花畑にさっきまでいたのだと話す。ただしその菜の花畑にはここよりも満開の菜の花畑が広がっていたが、まるで臭いもなく花弁が散っても花も変わらない。奇妙な作り物の花畑だったと吐き捨てる。その瞬間再び尾を噛み砕いた東条自身が苦悩の呻きをあげながら、たたらを踏んで仰け反るのが見えた。何でか突然自滅を始めた姿に唖然としながら、尾の一本が膨れ上がってそこから身を翻す姿に強い安堵を感じる。
「信哉さん!忠志!!」
「義人!無事か!?」
「さっきはごめん!忠志。」
一緒にいたのにはぐれたんだという二人は信哉に、その前に隔離されていた施設の奥で肉の塊にゲートに引きずり込まれたと簡単に話すが目の前のものがそれだったのかと言われると判別できないという。つまりはここがゲートの向こう側で、さっきの作り物世界は目の前の奇妙な肉の塊の内側ということか。既に目の前のものは肉塊から蛇の首と尾を生やした奇妙な生物にかわっていて、それは次第に渾然としたものから明らかな木気に満ち始めていく。
「悌は?悌もあれの中か?」
怪我に気がついて信哉に肩を貸しながら問いかける忠志に、義人が目を細めて背後の肉塊を見やる。頭と同じく尾も既に八本に増えて古事記や何かの化け物の様相に変わり果てているが、未だにその蛇の首は共食いをやめようとしない。もしかしたら僅かに残っている東条の意識が邪魔なのかもしれないと、苦く感じながらどの尾がそれなのか見定めようとする義人の視線を伺う。
※※※
金色の瞳をしたそれを見上げている自分に気がついたのは、何かが聞こえたからだった。
周囲は穏やかな風に揺れる満開の菜の花畑、花の匂いでむせかえりそうな気がするほどで、しかも土や水の匂いもする。何処かに炭を焼く人間でもいるのか、何処かから煙の匂いが風にのって流れてきているのに智美は目の前のものを見上げながら瞬きする。いつの間にかこんな美しい場所に来ているが、これはまさかあの世とか言うのだろうかと思わず考えてしまう。そんな非科学的な言葉を使いたくはないが、大概のことは科学では説明できない人生だった。
霧の中ではぐれて死んだとか、カッコ悪いな……。
一瞬そう考えた自分の目の前で、大きな体がコツンと頭に顎をのせるのに気がつく。もう一度見上げれば形は鹿に似て大きく背丈は五メートル以上もあり、顔は龍と虎の間の子、瞳は虎、牛の尾と馬の蹄、麒角、中の一角生肉。背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には龍の鱗がある。基本的には一本角だが、見ていると何故か二本角、三本角、もしくは角の無い姿に揺らいで見える奇妙な生物。
名前が出てから何度も様々な絵では見たがこうして直に見ると生き物としてはあり得ないのは分かるし、大体にして顔が龍と虎の間の子いう時点であり得ないというか、間の子とはどんな顔になるものを指しているのかと聞きたくなる。
『我が名は、……索冥』
「さく、めい?」
麒麟ではないのかと頭の中で呟くと、それは穏やかに自分の背中の鱗を差し出して見せる。その鱗は白く薄く光を放っていて、黄色をしているという麒麟とは色味が違うと考えた智美にそれは頭を低く下ろして来た。
『時が来る、麒麟児。』
「きりん、じ?」
唐突にその言葉に頭の中の靄が取り払われていく。自分が知るはずのない奥底に刻み込まれた、遥か太古の記憶を、それが靄を剥いで明らかにするためにここにいるのがわかる。
『角端や炎駒、聳孤がやって来る。』
出現した麒麟と思われるモノはそれぞれに炎駒と聳孤と名乗っていた。そして目の前のものは索冥といい、他にも角端がいる。炎駒は赤く、聳孤は青く輝き、索冥は白、ならば角端は黒なのだろうと智美は無意識の中で考えた。ザワザワと風がなって索冥は智美を促して歩き始め、不思議なことに歩く足の先で菜の花は踏まれないようにというように左右に別れていく。
「礼慈達は無事?」
『彼らは心配ない。』
まるで白虎と話しているような気分だと考えながら、智美はそれにしたがって歩き出す。菜の花畑は先が見えないほどに広く、まるで過去に読んだ鳥飼澪の物語の中の最後のシーンのようだ。誰かを探し続ける主人公が、最後に足を向ける一番最初の土地。その言葉に何故か、そうだここが最初の土地で最後の場所なのだと理解もできてしまう。広く先の見えない菜の花畑のむせかえるような花の香りに、何故か楽しかったことばかりが浮かび上がってくる。
走馬灯ってやつか?
気がつけば皆で笑っていることばかりで、それが当然に与えられる事を僻むことはなくなっていた。自分にもそういう時間が与えられたことに感謝しているし、そういう限りがある時間だからこそ光り輝く記憶として刻み込まれていく。楽しかったことも愉快だったことも、腹が立つことも、怒りに震えることも、誰かを思ったり心配したり、そんな当然の事が与えられ記憶に刻まれる。
今度は……夏祭りだね!文化祭もあるし!
そんな暢気な宮井麻希子の朗らかな声と微笑みが浮かび、残念だと心の底から思う。本当はもっと沢山傍で彼女を見ていたかったし、もっとしたいこともあった、それに諦めたなんて格好をつけないでこの気持ちも伝えておけばよかった。どうせ何時かは院の中に隔離されるからと学校に行くことだって諦めたし、どうせ失うからと友達も諦めてきたのに、今になって高校生活なんてものに接してしまったから。苦く思うのに、同時にそれを与えてもらえたことに感謝している。
出会えたことも、経験できたことも、全部宝物だ……
そう感じると余計に帰りたくなる。普通に皆と過ごした日々に、何もかも投げて帰りたい。諦めていた沢山の事を実は何一つ諦められないでいる自分に、智美は初めて気がついて自分が子供のように泣きそうになるのに気がつく。
ザクリと足が今までと違う足音を立てたのに、智美は思わず視線をあげた。
大きな古木が目の前の開けた場所に立っていて、それは随分と懐かしい記憶を揺り起こす。
ここだ。
ここが最初で、この棗の古木の根本にそれはいた。そうしてそれが何をするためにここで待っているのかを、智美の記憶は既に揺り起こし始めている。それは遥か千年も昔の出来事……
※※※
発光する青い瞳が必死に気の流れを探していく。既に菜の花は肉塊の周囲を丸くサークルのように薙ぎ倒され、花も土にまみれて飛び散った。所謂ミステリーサークルのように、薙ぎ倒された花畑には青々しい花のへし折られた緑の香りが溢れていて、まるで土俵のような丸い土地が生まれている。その中で義人の瞳がやっと、閉じ込められている悌順の気配を探りだした。
「あれ!あの一番短いのです!」
八本の尾の中にやっぱりそれは存在していて、尾はゾワゾワと蠢いているものの他の二人のように表になかったせいで、自分自身でそれに噛みつくことはない。義人の言葉と殆ど同時に蛇の鎌首は、唐突にビタリと自分の体を傷つけるのを止めた。まるで今までの共食いで悪い部分が取り終えたとでも言いたげに蛇の首がゾロリと三人の方に向けられたのに、忠志が生理的な嫌悪の声をあげる。
信哉の折れた骨を治癒するのは悌順の力を借りでもしないと短時間ではどうしようもないし、同時に寸前までの動きで傷ついている内臓も同じこと。それでもそれを口にしてどうなる訳でもないと、信哉は借りていた肩を解放して再び白虎に変化した。義人の口にした蛇の尾は八本の中でも一番太く短く、しかも他の尾より下に生えていて他の尾で隠れるように確認しにくい。それでも炎で焼かれて何もないとは言えないから、忠志には八本の頭の目を潰すように指示しながら、信哉と義人が背後に回り込もうとし始める。
「こんのっ!!うろちょろすんな!へびあたまっ!!」
正直火球の攻撃はかなり精密になったが、何しろ八本の頭を引き付けながら十六個の目を潰すのは流石に困難だ。時折こちらの狙いを反らすように眼球を狙いながら尾や頭を切り落とすが、再生の速度が先ほどまでとは段違いに変化している。
「……再生が……早いな。」
早いのか自分が遅いのか痛みのせいで、ハッキリしないと信哉は苦く感じる。もしかしたら駄目かもしれない・間に合わないかもと心の何処かが感じるのを表には出したくないのに、ジワリと焦りが背筋に這い寄るのを感じてしまう。
「信哉さん!危ない!!」
一瞬の思考の隙が再びメキメキと肋を軋ませて体を撥ね飛ばしたのを感じた時、それは突然閃光のようにその目の前の蛇の体内から滝のような勢いで溢れだしていた。
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