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第三部
第七幕 所在不明
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暗く。そして、静かだ。
先ず感じたのはそれだけだった。そして自分が何者なのか一瞬思い出せなくて、暫し考える。やがてユルユルと記憶が体と結び付き始めていく。
鈍く強い痛みが体にある。
何処かを動かそうにも指先も足先も痺れたように動かないのは、何処か骨折でもしているのか、それとも背骨が折れたのか。もしこれが背骨だとしたら、恐らくはもうこのままここで朽ち果てるだけなのだろうと気がついてしまう。それが何故か、ハッキリし始めた今はよくわかっていた。
自分があの高みから敵にしがみつかれて、真っ逆さまに墜ちたからだ。
まさか、あれがそんな自殺行為に出るとは考えもしなかった。絶対にこれは死んだと思ったのは、自分があの高みから真っ逆さまに墜ちたのだけは鮮明に覚えていたからだ。だが今感じている痛みはハッキリしていて、体が動かないという自覚もある。ということはまだ生きているのは確かだ。
あいつはどうなった……?
それは敵の事ではなく、一緒にいた自分の仲間のことだった。自分はまるで泥沼に引き刷り込まれるように、逆らって踏ん張ることも出来ず一瞬の間に気がついたら足元は地面ではなくなっていた。しかも、自分を助けようと手を伸ばして腕を掴んだ仲間まで巻き込んで、墜ちていた気がしている。
墜ちた後に何かに引っ掛かりでもしたのか、はたまた地面に叩きつけられているのかは幸いなことに記憶にない。もしどちらかと記憶がハッキリしていたら、今こうして冷静に考えているのも無理だったに違いないと思う。だけど同時に自分がどこで今どうなっているのかまでは、実は全く理解できていなかったのだ。
どれくらいの時間が経ったのだろう……
人の気配はもちろんないし、生き物の気配も感じない。虫の音すら聞こえてこない静寂の中に、ほんの微かな沢の水の落ちる音がする。真っ暗だと感じるのが谷底に墜ちたからかと思っていたが、視線だけを動かしてみたら星空が見えているのに気がついた。
どれくらいの高さを墜ちたかは正直分からないが、少なくとも墜ちた真下が水だったとしても、そのまま墜ちたら無傷でいられる筈はない。大体にして水に墜ちたのなら、衣服は濡れて水面にいるか水辺りに倒れている筈。もしかしたら墜ちた衝撃で意識が朦朧とした状態でここまで来たのだろうか、いやこの痛みでは身動きは取れないだろう。
そんなことをボンヤリと考える。
辺りは暗く頭上には星明りが瞬き、それなのにそれ以外のことは何も分からない程の静寂。何も音が聞こえないのは、もしかして墜ちた時に衝撃で耳をどうにかしてしまったのだろうか。
《…………え。》
不意に何かが聞こえた。確かに何かが囁く声が聞こえたのに、自分は助けを求めるどころか無意識に身を硬くしている。その声の元が近づいてくるかもしれないし、このまま通り過ぎるかもしれない。何にしろそれは助けに来た何かかもしれないし、もしかしたら全く違うかもしれないのだ。そう考えるとこちらからおいそれと話しかけることはできないと自分は咄嗟に考えた。何しろ自分の仲間は数えるほどしかいない。もしこれで一緒に墜ちた仲間が実は傍に居たのなら、自分が声を出してしまったら言葉を放ったら更に仲間を巻き込む可能性がある。
《お前。》
不意にその声が、ハッキリと自分を意図して呼んでいると気がつく。もう既に何かが自分の直ぐ傍に来ていて、しかも自分に向かって呼び掛けている。その者の姿がまるで見えないのは、実際には自分は地に臥していて横に向けた顔では夜空までは見えても、後頭部側からの声の主は見えないのだ。反対を向こうにも痛みが強くて、まるで身動きが取れない。これは自分を害するものなのだろうか。不安に飲まれそうになりながら、呼び掛けているそれが何を意図するのか必死に探ろうとする。
《お前、私を助けてはくれまいか?》
それは唐突にそういうと足音をたてて、自分の顔をグルリと回り込んで来た。驚きに体が戦くのが分かるが、相手は気にした風でもなく水晶のような澄んだ瞳で心を見透かすように自分の瞳を覗き込んでくる。それを真っ直ぐに見つめ返しながら、世の中にこんな生き物がいるなんてと感嘆の吐息を漏らす。何しろそれは一言では表現しがたい姿形をしているのだ。
《頼まれてはくれないか?お前。》
そっと覗き込みながら相手が頭を垂れて懇願してきて、これは一体自分に何をこれは頼むのだろうと虚ろになりつつある頭で考えていた。そうして自分は相手の言葉に、ゆっくりと答えを返す。
※※※
夢を見ていたのだと気がつき、フッと意識が浮かんで自分が地面に倒れ込んでいるのを知った。
今の夢が何だったのかは、あっという間に霞んで消し飛んでしまったが、義人は自分の体の何処にも異常はなさそうだと確認する。
なんで…………倒れているんだっけ……?
自分が何故土の地面の上に倒れているのか暫しそのまま思案していたが、我に返った義人は咄嗟に体を起こして辺りを見渡していた。そうして辺りを見渡す義人は、予想外の光景に呆然とする。
視界のほぼ一面が黄色い花で埋め尽くされ、黄色い絨毯の果てが座り込んだ自分にはまるで見えない。それ自身がまるで光を放っているような鮮やかな黄色の菜の花が、見事に咲き誇っていて仄かに香ってすらいる光景は現実離れしすぎている。何故か音のない風に花が揺れ幾つもの花弁が散り落ちて、風に舞い黄色の花吹雪に変わるのを義人はポカーンとしたまま眺めていた。
僕…………ゲートに……墜ちた……よね?
確かにあの醜悪な肉塊に、片足を捕まれあっという間にゲートに引きずり込まれた筈だ。しかも、咄嗟に腕を掴んでくれた忠志も巻き込んでしまった筈。意識を失ったのは何時の時点なのか分からないが、確かに墜ちると感じたのはうっすらと覚えている。だが、この視界に広がる美しい光景は一体なんなのだろう。何故かずっとゲートの向こう側は、何もない荒涼とした寒々しい暗闇の世界しかないのだと勝手に考えていた。そこに人外が大量に屯していて、それこそ魔界というのに相応しい世界が拡がっているのだと考え込んでいたのだ。それなのに墜ちて気がついてみたら余りにもかけ離れた美しい光景が広がるのに、義人は呆然としたまま花畑を眺めている。
ここは……ホントにゲートの向こう?
一瞬自分が気を失っているうちにまるで違う場所につれてこられてしまったかのかと考えるが、その時不意にサクリと土を踏む背後からの足音に思わず振り返る。
「わぁ!俺!俺だってば!」
「忠志…………。」
背後から歩み寄ってきたのは見慣れた緋色の異装姿の忠志で、咄嗟に身構えた義人に慌てて手を上げ大声を出している。忠志の方も別段怪我をしている風でもなく、互いの姿に思わず安堵の吐息をついてしまう。二人は並んで立ち上がると、余りにも現実場馴れした世界に呆然と立ち尽くしていた。生き物の気配はまるでしないが穏やかで、静かで、嫌なものの気配は何一つ感じ取れないのだ。
「ここ……なんなのかな?義人。」
「分かんない……。」
「まさか…………だけどさ?……三途の川の前とか言わないよな?」
それを問われても、義人の方にも答える術が何一つない。世の中にはよく死にかけてお花畑で三途の川に行った何て話があるが、ここがそれだとも言えないし、もしそうなら世の中の数え切れない人間がゲートを通りすぎて来ていることになってしまう。それに自分を助けようとして巻き込まれた忠志には申し訳ないが、もしかしたら二人ともあっという間に死んでいて、ほんとに三途の川を今まさに体験中かもしれないのだ。溢れんばかりの菜の花畑に唖然としながら、結局義人が口にしたのは
「…………川は避けようね、忠志。」
「…………了解。」
広くまるで境の見えない程広大な黄色の花畑は見事だが、どこかに終わりはあるのだろうか。それに実際には墜ちた筈なのだがと、頭上を見上げると満点の星空と天の川が見える。一緒に墜ちた筈のあの肉塊の姿は今のところ何処にもないのに、辺りを警戒しながら一先ず菜の花畑を二人は歩き始めていた。
「……なんか、少し前だけど、こういうゲームやったなぁ俺。」
「なんでゲーム?」
「異世界を旅するとか言うやつでさ、エンディングのシーンが菜の花畑なんだよな。」
暢気な会話過ぎて呆れそうだが、奇妙な空とこの花畑を見ていれば確かに現実離れした事を考えたくもなるのは分からないでもない。当たり前に視界で揺れる風や葉擦れの音が全く聞こえないから、余計に作り物のようで現実感が薄くなってしまうのだ。自分達の歩くサクリサクリと土を踏む音だけが耳に入ってきて、置き去りにされてしまった迷子の子供の気分になる。それに暢気そうに話している忠志も同じで、だからあえて関係ない話をしているのだと気がついた。
「ゲームなんか、したことないな。」
「マジで?今度貸そうか?」
「そうだね、帰ったら貸して。」
こんな会話をするしか自分達の不安を解消する手立てがない。二度と帰れないかもと心のどこかで考えているから、あえて帰ってからの話をしてしまうしかできることがないのだ。
「悌と信哉どうしてっかな?」
「どうだろう、部屋からは出たかな?」
何時までも続く菜の花畑に終わりがあるのか、次第に不安が膨れ上がり始めている。永遠に続く菜の花畑を二人で歩き続けるだけだとしたら、それは流石に残酷過ぎはしないだろうか。互いに薄々不安を飲み込めなくなりかけた辺り、不意に義人はそれに気がついた。
思わずザッと花を掻き分けるようにして、駆け出した義人に忠志が驚きの声を上げる。
「義人!!」
※※※
乳白色の壁はあっという間に襲いかかり、辺りを飲み込んでしまっていた。
それに驚いたのは真見塚一家と『ロキ』そして香坂智美と友村礼慈。礼慈が驚いたのに、何でか智美が驚いた様子で、驚かない残りの三人の方が少し異質に見える。眠ったままの宮井麻希子と宇野衛、三浦和希が今さら痛み始めた傷で反応しないのは兎も角、多賀亜希子とふったちは溜め息混じりに顔を見合わせた。
「あんたんとこは海側?北か?ねぇさん。」
「……そっちは南側よね?化生なの?それとも間の子?」
「間の子。あんたは?」
噛み合わないように聞こえて二人には完全に通じているのが、仕方がないと言いたげな二人の様子でわかる。どう言うことと問いかけたいが礼慈の混乱の方が、先に疑問だった。
「霧に飲まれた途端、気配が何も見えなくなったんです……。」
今まで地下でも関係なく見通せていた礼慈の特殊な視界が霧に飲まれた途端に、何一つ見えなくなってしまったのだと言うのだ。視力を失っても気配を視ていた礼慈にはこんな経験かないから、混乱しているのだとやっと智美にもわかる。
「気配なんかもう見えねぇよ、この霧普通んじゃねぇんだよ。」
「正しく動かないと迷って出られなくなるわ。」
潮づたいに来たのかしらねと溜め息混じりに平然と言う二人の姿に、智美が感心したみたいに間の子って言うのは何なんだと問いかける。慌てても仕方がないと諦めたとも言えるが、建物も見えないこの状態でフェンスを伝って歩くのがいいのかと聞くとそうではないとふったちが呟く。
「説明しにくいけど、もうフェンスを伝って歩いても正しくねぇと思うな。」
「理論的には説明できないってこと?」
「ロキねぇさんの、端末ももうアウトだろ?境界を越えちまったんだよ。」
ふったちが言うまでもなく電子機器は既に霧に入った途端全て沈黙していて、パッドどころか全ての通信危機も遮断されている。奇妙な霧としか説明できないが、下手に動いたらここにいる人間ですらはぐれてしまいそうだと智美は眼を細めた。
「ここから出るには?」
「日が射すまで凌ぐのが一番なんだけど、どうかな……いけると思う?あんたは。」
「無理だと思うわ。近寄ってきてるもの。」
何がと問いかけようとした途端、霧に影が立ち始めるのを見て亜希子がそちらに向けて鋭くヒョウと声を上げて哭く。声がまるで鋭い矢のように霧を裂いた瞬間に、仕方がないと言いたげに亜希子が和希の腕をとって立ち上がらせた。
「あなたが先にいって、私は後ろを散らす。」
「あー、もう。霧の中は歩ぐなってばぁちゃんがせぇっでだのに。」
ふったちが麻希子を背負い、衛を孝が背負いながら乳白色の霧の中を歩き始める。フェンスを伝っては行かないといった通り歩き出すと、ほんの一瞬でフェンスが見えなくなっていた。しかも足元の感触が奇妙に代わり始めている。芝だった筈の足の下が何故か剥き出しの土に代わり、次第に川縁等にあるような角のとれた砂利に変わるのに杖をつく智美は眼を丸くした。ふったちに続いて並びながら歩いているが左右は完全な霧の壁になっていて空気は潮の香りが強まったかと思うと、今度は青々しい緑の香りに変わっていく。
「な……んなんだ……これは。」
ふったちに、真見塚一家と『ロキ』、その後に続きながら、智美は呆気にとられていた。連れていかれたのは都市部から南下した沿岸部だったはすだが、潮の匂いは兎も角年が近くこんなに濃い緑の匂いはする筈がない。しかも、足元の角のとれた砂利は河川敷にはあるだろうが、少しずつ大きくなっていて河口ではないだろう。だがこんな短時間で移動できる距離ではない。
「常識的なことは起きないから、あまり考えないで歩いて。後ろが近いの。」
「後ろってのは何なんだ?」
「何て言ったらいいの?化生よ。人食いの、霧に紛れれば境界線を越えて人間になれる奴らよ。」
それは人外と言うんじゃと智美が呟くと呼び方は様々だし知らない、この人数だから余計に辺りから群がってくるから急いでと亜希子に急き立てられるように言われてしまう。時折振り返り哭き声を放つ彼女に、智美は不思議そうにそれは?と問いかける。
「鵺がなくと病になるの。一対一ならなんとか出来るけど……多すぎるのよ。」
理解しきれないが少なくとも相手を散らそうとしているらしい彼女の姿に、智美は不思議な気分になる。自分達が人外として戦ってきた筈の存在と何百年も前から続いていると言う、人外との間に生まれた子供達の一族。経立や鵺だけでなく他にも種類がいると言うから、それは予想より遥かに多いということになる。しかも彼女らは普段は普通に暮らしていて、礼慈の目にも気がつかない存在。大概が夜の闇の中で自分の種族のルールを守って、当然のように暮らしているなんて考えもしなかった。勿論ルールを破ってただ死ぬ者もいれば、人食いに変わるときもあると言うから全てが全て出はないのかもしれないが、どんどん常識が崩れていく。
『智美。』
不意にそう呼ばれた声に智美は弾かれたように振り返っていた。
先ず感じたのはそれだけだった。そして自分が何者なのか一瞬思い出せなくて、暫し考える。やがてユルユルと記憶が体と結び付き始めていく。
鈍く強い痛みが体にある。
何処かを動かそうにも指先も足先も痺れたように動かないのは、何処か骨折でもしているのか、それとも背骨が折れたのか。もしこれが背骨だとしたら、恐らくはもうこのままここで朽ち果てるだけなのだろうと気がついてしまう。それが何故か、ハッキリし始めた今はよくわかっていた。
自分があの高みから敵にしがみつかれて、真っ逆さまに墜ちたからだ。
まさか、あれがそんな自殺行為に出るとは考えもしなかった。絶対にこれは死んだと思ったのは、自分があの高みから真っ逆さまに墜ちたのだけは鮮明に覚えていたからだ。だが今感じている痛みはハッキリしていて、体が動かないという自覚もある。ということはまだ生きているのは確かだ。
あいつはどうなった……?
それは敵の事ではなく、一緒にいた自分の仲間のことだった。自分はまるで泥沼に引き刷り込まれるように、逆らって踏ん張ることも出来ず一瞬の間に気がついたら足元は地面ではなくなっていた。しかも、自分を助けようと手を伸ばして腕を掴んだ仲間まで巻き込んで、墜ちていた気がしている。
墜ちた後に何かに引っ掛かりでもしたのか、はたまた地面に叩きつけられているのかは幸いなことに記憶にない。もしどちらかと記憶がハッキリしていたら、今こうして冷静に考えているのも無理だったに違いないと思う。だけど同時に自分がどこで今どうなっているのかまでは、実は全く理解できていなかったのだ。
どれくらいの時間が経ったのだろう……
人の気配はもちろんないし、生き物の気配も感じない。虫の音すら聞こえてこない静寂の中に、ほんの微かな沢の水の落ちる音がする。真っ暗だと感じるのが谷底に墜ちたからかと思っていたが、視線だけを動かしてみたら星空が見えているのに気がついた。
どれくらいの高さを墜ちたかは正直分からないが、少なくとも墜ちた真下が水だったとしても、そのまま墜ちたら無傷でいられる筈はない。大体にして水に墜ちたのなら、衣服は濡れて水面にいるか水辺りに倒れている筈。もしかしたら墜ちた衝撃で意識が朦朧とした状態でここまで来たのだろうか、いやこの痛みでは身動きは取れないだろう。
そんなことをボンヤリと考える。
辺りは暗く頭上には星明りが瞬き、それなのにそれ以外のことは何も分からない程の静寂。何も音が聞こえないのは、もしかして墜ちた時に衝撃で耳をどうにかしてしまったのだろうか。
《…………え。》
不意に何かが聞こえた。確かに何かが囁く声が聞こえたのに、自分は助けを求めるどころか無意識に身を硬くしている。その声の元が近づいてくるかもしれないし、このまま通り過ぎるかもしれない。何にしろそれは助けに来た何かかもしれないし、もしかしたら全く違うかもしれないのだ。そう考えるとこちらからおいそれと話しかけることはできないと自分は咄嗟に考えた。何しろ自分の仲間は数えるほどしかいない。もしこれで一緒に墜ちた仲間が実は傍に居たのなら、自分が声を出してしまったら言葉を放ったら更に仲間を巻き込む可能性がある。
《お前。》
不意にその声が、ハッキリと自分を意図して呼んでいると気がつく。もう既に何かが自分の直ぐ傍に来ていて、しかも自分に向かって呼び掛けている。その者の姿がまるで見えないのは、実際には自分は地に臥していて横に向けた顔では夜空までは見えても、後頭部側からの声の主は見えないのだ。反対を向こうにも痛みが強くて、まるで身動きが取れない。これは自分を害するものなのだろうか。不安に飲まれそうになりながら、呼び掛けているそれが何を意図するのか必死に探ろうとする。
《お前、私を助けてはくれまいか?》
それは唐突にそういうと足音をたてて、自分の顔をグルリと回り込んで来た。驚きに体が戦くのが分かるが、相手は気にした風でもなく水晶のような澄んだ瞳で心を見透かすように自分の瞳を覗き込んでくる。それを真っ直ぐに見つめ返しながら、世の中にこんな生き物がいるなんてと感嘆の吐息を漏らす。何しろそれは一言では表現しがたい姿形をしているのだ。
《頼まれてはくれないか?お前。》
そっと覗き込みながら相手が頭を垂れて懇願してきて、これは一体自分に何をこれは頼むのだろうと虚ろになりつつある頭で考えていた。そうして自分は相手の言葉に、ゆっくりと答えを返す。
※※※
夢を見ていたのだと気がつき、フッと意識が浮かんで自分が地面に倒れ込んでいるのを知った。
今の夢が何だったのかは、あっという間に霞んで消し飛んでしまったが、義人は自分の体の何処にも異常はなさそうだと確認する。
なんで…………倒れているんだっけ……?
自分が何故土の地面の上に倒れているのか暫しそのまま思案していたが、我に返った義人は咄嗟に体を起こして辺りを見渡していた。そうして辺りを見渡す義人は、予想外の光景に呆然とする。
視界のほぼ一面が黄色い花で埋め尽くされ、黄色い絨毯の果てが座り込んだ自分にはまるで見えない。それ自身がまるで光を放っているような鮮やかな黄色の菜の花が、見事に咲き誇っていて仄かに香ってすらいる光景は現実離れしすぎている。何故か音のない風に花が揺れ幾つもの花弁が散り落ちて、風に舞い黄色の花吹雪に変わるのを義人はポカーンとしたまま眺めていた。
僕…………ゲートに……墜ちた……よね?
確かにあの醜悪な肉塊に、片足を捕まれあっという間にゲートに引きずり込まれた筈だ。しかも、咄嗟に腕を掴んでくれた忠志も巻き込んでしまった筈。意識を失ったのは何時の時点なのか分からないが、確かに墜ちると感じたのはうっすらと覚えている。だが、この視界に広がる美しい光景は一体なんなのだろう。何故かずっとゲートの向こう側は、何もない荒涼とした寒々しい暗闇の世界しかないのだと勝手に考えていた。そこに人外が大量に屯していて、それこそ魔界というのに相応しい世界が拡がっているのだと考え込んでいたのだ。それなのに墜ちて気がついてみたら余りにもかけ離れた美しい光景が広がるのに、義人は呆然としたまま花畑を眺めている。
ここは……ホントにゲートの向こう?
一瞬自分が気を失っているうちにまるで違う場所につれてこられてしまったかのかと考えるが、その時不意にサクリと土を踏む背後からの足音に思わず振り返る。
「わぁ!俺!俺だってば!」
「忠志…………。」
背後から歩み寄ってきたのは見慣れた緋色の異装姿の忠志で、咄嗟に身構えた義人に慌てて手を上げ大声を出している。忠志の方も別段怪我をしている風でもなく、互いの姿に思わず安堵の吐息をついてしまう。二人は並んで立ち上がると、余りにも現実場馴れした世界に呆然と立ち尽くしていた。生き物の気配はまるでしないが穏やかで、静かで、嫌なものの気配は何一つ感じ取れないのだ。
「ここ……なんなのかな?義人。」
「分かんない……。」
「まさか…………だけどさ?……三途の川の前とか言わないよな?」
それを問われても、義人の方にも答える術が何一つない。世の中にはよく死にかけてお花畑で三途の川に行った何て話があるが、ここがそれだとも言えないし、もしそうなら世の中の数え切れない人間がゲートを通りすぎて来ていることになってしまう。それに自分を助けようとして巻き込まれた忠志には申し訳ないが、もしかしたら二人ともあっという間に死んでいて、ほんとに三途の川を今まさに体験中かもしれないのだ。溢れんばかりの菜の花畑に唖然としながら、結局義人が口にしたのは
「…………川は避けようね、忠志。」
「…………了解。」
広くまるで境の見えない程広大な黄色の花畑は見事だが、どこかに終わりはあるのだろうか。それに実際には墜ちた筈なのだがと、頭上を見上げると満点の星空と天の川が見える。一緒に墜ちた筈のあの肉塊の姿は今のところ何処にもないのに、辺りを警戒しながら一先ず菜の花畑を二人は歩き始めていた。
「……なんか、少し前だけど、こういうゲームやったなぁ俺。」
「なんでゲーム?」
「異世界を旅するとか言うやつでさ、エンディングのシーンが菜の花畑なんだよな。」
暢気な会話過ぎて呆れそうだが、奇妙な空とこの花畑を見ていれば確かに現実離れした事を考えたくもなるのは分からないでもない。当たり前に視界で揺れる風や葉擦れの音が全く聞こえないから、余計に作り物のようで現実感が薄くなってしまうのだ。自分達の歩くサクリサクリと土を踏む音だけが耳に入ってきて、置き去りにされてしまった迷子の子供の気分になる。それに暢気そうに話している忠志も同じで、だからあえて関係ない話をしているのだと気がついた。
「ゲームなんか、したことないな。」
「マジで?今度貸そうか?」
「そうだね、帰ったら貸して。」
こんな会話をするしか自分達の不安を解消する手立てがない。二度と帰れないかもと心のどこかで考えているから、あえて帰ってからの話をしてしまうしかできることがないのだ。
「悌と信哉どうしてっかな?」
「どうだろう、部屋からは出たかな?」
何時までも続く菜の花畑に終わりがあるのか、次第に不安が膨れ上がり始めている。永遠に続く菜の花畑を二人で歩き続けるだけだとしたら、それは流石に残酷過ぎはしないだろうか。互いに薄々不安を飲み込めなくなりかけた辺り、不意に義人はそれに気がついた。
思わずザッと花を掻き分けるようにして、駆け出した義人に忠志が驚きの声を上げる。
「義人!!」
※※※
乳白色の壁はあっという間に襲いかかり、辺りを飲み込んでしまっていた。
それに驚いたのは真見塚一家と『ロキ』そして香坂智美と友村礼慈。礼慈が驚いたのに、何でか智美が驚いた様子で、驚かない残りの三人の方が少し異質に見える。眠ったままの宮井麻希子と宇野衛、三浦和希が今さら痛み始めた傷で反応しないのは兎も角、多賀亜希子とふったちは溜め息混じりに顔を見合わせた。
「あんたんとこは海側?北か?ねぇさん。」
「……そっちは南側よね?化生なの?それとも間の子?」
「間の子。あんたは?」
噛み合わないように聞こえて二人には完全に通じているのが、仕方がないと言いたげな二人の様子でわかる。どう言うことと問いかけたいが礼慈の混乱の方が、先に疑問だった。
「霧に飲まれた途端、気配が何も見えなくなったんです……。」
今まで地下でも関係なく見通せていた礼慈の特殊な視界が霧に飲まれた途端に、何一つ見えなくなってしまったのだと言うのだ。視力を失っても気配を視ていた礼慈にはこんな経験かないから、混乱しているのだとやっと智美にもわかる。
「気配なんかもう見えねぇよ、この霧普通んじゃねぇんだよ。」
「正しく動かないと迷って出られなくなるわ。」
潮づたいに来たのかしらねと溜め息混じりに平然と言う二人の姿に、智美が感心したみたいに間の子って言うのは何なんだと問いかける。慌てても仕方がないと諦めたとも言えるが、建物も見えないこの状態でフェンスを伝って歩くのがいいのかと聞くとそうではないとふったちが呟く。
「説明しにくいけど、もうフェンスを伝って歩いても正しくねぇと思うな。」
「理論的には説明できないってこと?」
「ロキねぇさんの、端末ももうアウトだろ?境界を越えちまったんだよ。」
ふったちが言うまでもなく電子機器は既に霧に入った途端全て沈黙していて、パッドどころか全ての通信危機も遮断されている。奇妙な霧としか説明できないが、下手に動いたらここにいる人間ですらはぐれてしまいそうだと智美は眼を細めた。
「ここから出るには?」
「日が射すまで凌ぐのが一番なんだけど、どうかな……いけると思う?あんたは。」
「無理だと思うわ。近寄ってきてるもの。」
何がと問いかけようとした途端、霧に影が立ち始めるのを見て亜希子がそちらに向けて鋭くヒョウと声を上げて哭く。声がまるで鋭い矢のように霧を裂いた瞬間に、仕方がないと言いたげに亜希子が和希の腕をとって立ち上がらせた。
「あなたが先にいって、私は後ろを散らす。」
「あー、もう。霧の中は歩ぐなってばぁちゃんがせぇっでだのに。」
ふったちが麻希子を背負い、衛を孝が背負いながら乳白色の霧の中を歩き始める。フェンスを伝っては行かないといった通り歩き出すと、ほんの一瞬でフェンスが見えなくなっていた。しかも足元の感触が奇妙に代わり始めている。芝だった筈の足の下が何故か剥き出しの土に代わり、次第に川縁等にあるような角のとれた砂利に変わるのに杖をつく智美は眼を丸くした。ふったちに続いて並びながら歩いているが左右は完全な霧の壁になっていて空気は潮の香りが強まったかと思うと、今度は青々しい緑の香りに変わっていく。
「な……んなんだ……これは。」
ふったちに、真見塚一家と『ロキ』、その後に続きながら、智美は呆気にとられていた。連れていかれたのは都市部から南下した沿岸部だったはすだが、潮の匂いは兎も角年が近くこんなに濃い緑の匂いはする筈がない。しかも、足元の角のとれた砂利は河川敷にはあるだろうが、少しずつ大きくなっていて河口ではないだろう。だがこんな短時間で移動できる距離ではない。
「常識的なことは起きないから、あまり考えないで歩いて。後ろが近いの。」
「後ろってのは何なんだ?」
「何て言ったらいいの?化生よ。人食いの、霧に紛れれば境界線を越えて人間になれる奴らよ。」
それは人外と言うんじゃと智美が呟くと呼び方は様々だし知らない、この人数だから余計に辺りから群がってくるから急いでと亜希子に急き立てられるように言われてしまう。時折振り返り哭き声を放つ彼女に、智美は不思議そうにそれは?と問いかける。
「鵺がなくと病になるの。一対一ならなんとか出来るけど……多すぎるのよ。」
理解しきれないが少なくとも相手を散らそうとしているらしい彼女の姿に、智美は不思議な気分になる。自分達が人外として戦ってきた筈の存在と何百年も前から続いていると言う、人外との間に生まれた子供達の一族。経立や鵺だけでなく他にも種類がいると言うから、それは予想より遥かに多いということになる。しかも彼女らは普段は普通に暮らしていて、礼慈の目にも気がつかない存在。大概が夜の闇の中で自分の種族のルールを守って、当然のように暮らしているなんて考えもしなかった。勿論ルールを破ってただ死ぬ者もいれば、人食いに変わるときもあると言うから全てが全て出はないのかもしれないが、どんどん常識が崩れていく。
『智美。』
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摩訶不思議な店でバイトをしているハズミとマミヤ。
彼等はソウマに頼まれ、街に買い物に行きました。
そこにはたくさんのモノがいて…。
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