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第三部
第二幕 都市下
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人の命は脆く儚い。
そんなことは誰だって知っている。だが、知っていることと理解するのは、全く別次元なのだということは人は早々には気がつかないものだ。
ここに来て何故か信哉は初めてあった母の幼馴染みと付き合い始めて、何故か別の母の幼馴染みと会話を交わすほどに親しくなっていた。本来ならそういう関わり方は敬遠するべきで、こんな関係は人外にも院にも知られたくない。特に梨央の存在は知られれば一番の弱点であり、院には格好のモルモットにされてしまう。そう分かっていてそれでも、傍にいたいという思いに逆らえない。
家でゆっくりした後に梨央を送りがてら歩いている背後で一騒動が起きたのに、一瞬焦ったが背後で投げ飛ばされたのは梨央の実家の舎弟で投げたのは外崎宏太だった。実は既に梨央の実家の舎弟には何人か絡まれていて、いい加減邪魔なのでソロソロ話をつけにいかないととは考えてもいたのだが。こんなタイミングで、しかも外崎にはアッサリと交際は見抜かれるし。
そうして梨央を送りがてら外崎宏太に付き合って、もう一人の母の幼馴染み・遠坂喜一の顔を見に行くのに同行することになっている。そんな普通な日常をまさか自分が送るなんて思っても見ない。しかも慣れ親しんだ中で口汚く危ないことに首を突っ込むなんて言い放つ梨央が、昔の武勇伝を口にし始めるのにおかしくて苦笑いしてしまうのだ。
「信哉は知らないだろうけど、コータも高校のときゃノブとキーチと三人でなぁ。」
懐かしい幼馴染みの思い出話には結局、結論に母・澪の鉄拳制裁がある。それがまるで自分達三人のことのようで、横で適当に聞き流している外崎に思わず親近感が生まれてしまう程だ。そうして夕闇の中で辿り着いたアパートを何気なく見上げた瞬間、薄暗い視界に開け放たれた扉が信哉の目にはハッキリ見えた。確かに電気をつけるには少し早いかもしれないが、それでもこの時間に無防備にドアを開け放つ意味はなんだ?まるで誰かが開け放って逃げ出したみたいに、周囲には人の動く気配もない。
「外崎さん……遠坂さんの家って二つ目のドアですか?」
盲目の外崎には、勿論何が起きているかは見えない。それ以上に暗く沈んだドアの奥には、何かゲートのような腐敗の気配が漂うのが信哉の瞳には見えた。それには気がつかない梨央と外崎が不思議そうに、信哉の顔を眺めている。つまり夕闇に視界を遮られない自分だけが、そのドアが無防備に開け放たれたままなのを確りと見ているのだ。
「ん?何でだ?」
「……ドアが開けられてます。」
そう告げた瞬間に信哉が階段をかけあがり遠坂の家に飛び込むのに、梨央と宏太が慌てて後に続く。家の中には何故か腐敗したゲートの気配が濃密に漂い、そこに立ち尽くしている人間がいるのに信哉は目を見張っていた。まるでここにゲートが開いていたみたいな得体の知れない気配の中に立ち尽くしていたのは高校時代の同級生・風間祥太で、その目の前には四肢をダラリと投げ出して中腰のようになって宙にぶら下がっている項垂れた男の姿がある。
「信哉!キーチを下ろせ!!」
梨央の鋭い言葉に咄嗟に風間を押し退けて部屋に駆け込んだ信哉の体から放たれる金気が邪気を打ち払い、信哉はぶら下がった遠坂の体を力ずくで抱えあげる。続いて飛び込んだ梨央が喜一の体に飛び付くようにして、ガッチリと首に食い込んだネクタイを爪が割れるのも気にせずに必死に外す。床にそっと下ろされた喜一の体に飛び付くと、梨央は看護師の手早さで呼吸や脈を確かめながら外崎に向かって大声で救急車と叫ぶ。
「何やってんだ!!キーチ!!しっかりしろ!」
梨央がそう叫びながら遠坂のシャツのボタンを引きちぎれる程の勢いで外して前を寛げて、真上から垂直に胸をリズミカルに押し始める。信哉に首を動かさないように押さえてろと梨央が叫び、少しだけ顎を上げさせ口を開くが、既に紫に鬱血した口の中に梨央が畜生と叫びながら口元にハンカチを当てて人工呼吸を始めていた。
打ち払った筈の邪気を感じさせる血の濃密な臭いに信哉が咄嗟に視界を巡らせ、それが押し退けられ壁にへたりこんだ風間の横の流しから漂うのに気がつく。そして呆然としているのかと思った風間の視線が、自分と梨央の姿を穴が開くほどに微動だにせず見据えているのに一瞬信哉は戸惑う。
見渡した辺りは人が暮らしている環境には程遠かった。まるで引っ越し寸前のような物のなさ、そして何か書き置きのように残された手紙。もしかして風間は既にそれを見て呆然としていたのか?でも刑事の風間だったら救命の重要性は知っている筈、そう考えた瞬間に雪の事が頭を過った。
知っていても、理解しているのは別だ。
自分だってそうだ。直面した時に思う通り動けるかどうかは、全くの別問題だったじゃないか。自分だってそうなのだから、風間だってそうかもしれない。
「くそ!キーチ!!戻れよっ!キーチ!!」
人の生死に関わることの多い梨央の声が次第に泣きだし始めているのに気をとられ、風間の視線の事が一瞬意識から抜ける。首を固定しながらも遠坂は既に手の施しようがないことを触れた肌で信哉は感じとっていた。それでも泣きながら必死に処置を続ける梨央に止めろとはどうしても言えない。心臓ショックでも与えればとも思うが、首の骨の状態も思わしくない。微かな救急車の音を聞き取った時には心臓マッサージを必死に続ける梨央と信哉の横で、見えない筈の目を遠坂に向けた外崎が既に手遅れだと察していて見たこともない哀しい表情を浮かべていた。
遠坂喜一は自宅の中の部屋のドアノブにネクタイをかけて縊死を図った。
恐らく発見迄は十分もない程度だったろうが、縊死で命を落とすには十分な時間だ。しかも鍵のかかっていなかった室内には、遠坂の遺書もしっかりと残されていたという。信哉には分からなかったが遠坂が長年一人で暮らしていたアパートの家財道具は殆ど処分されていて、以前は足の踏み場もない程だった山のような書籍すら綺麗に片付けられていたのだと梨央が後から話した。そして濃密な血の臭いを漂わせていたのは、流しにあった血塗れのナイフだった。
第一発見者は同僚の風間祥太。
風間があの時呆然と立ち尽くしていたのは、自分が見ているものが現実と思えなかったからだと言う。救急車はやってきたが結局手の施しようがなく、遠坂喜一はそのまま死亡とされ警察が呼ばれ遺体として搬出されることになったのだった。
濃密なゲートの腐敗臭
それが何故地表にある筈のゲートも関係のない二階の部屋の中に漂っていたのか。あまりにもあの気配が濃密だったから逆に風間が当てられて茫然自失になったのは理解できるが、あの気配の元が遠坂の遺体なのか血塗れのナイフの方だったのか気配が濃すぎて判断が効かない。遠坂の方であれば木崎蒼子のように体を乗っ取られている可能性も考えられなくはないし、離れ業だが
体をポイントにゲートを抉じ開けるなんてことが起こらないわけではない。ただ正直な話し、それならばあの場にいた風間はただでは済まないだろう。それにどちらかと言えば血濡れのナイフの方が、気配がより濃かった気がしなくもない。もしかしたら血液を媒介に何かしようとしたか?人間の血でゲートを開ける為の円を描いた饕餮のように、何かがナイフを使おうとして近付く自分の気配で諦めた可能性はなくはない。ただそうなるとあの血は誰のものかだ。遠坂喜一には外傷はなかったし、風間も信哉が突き飛ばしただけで傷はなかった。
「信哉…………。」
「梨央。」
泣き続けている梨央をソッと抱き寄せながら、混乱した様子で黙りこんだままの外崎を見つめる。外崎の耳は今何を聞いているのだろうと考えながら、信哉は何かがしっくりしないと心の何処かが呟くのを聞いていた。
※※※
「それで…………亡くなったのか?遠坂。」
夜の風が吹き付ける山野の中。
木立の上で屈みこんで暗く沈んだ顔の白虎の話を黙って聞いていた緋色の異装の青年は、ふと視線を上げて問いかける。朱雀は何故か外崎と縁があるらしく時々外崎のアルバイトに使われていて、しかも以前から刑事の遠坂とも風間とも顔見知りだった。湿度の高いボンヤリと浮かぶ朧月の光の下で、夏の気配を微かに感じさせる風を受けながら白い異装姿の白虎は溜め息混じりにそうだと呟く。あの時何かがしっくりしないとは確かに感じたが、それでも遠坂喜一があのまま亡くなったことは事実だ。
去年の秋口に白虎の自宅のあるマンション内で警察が呼ばれる騒動が一度起きていた。その時に白虎の知る限りでは、槙山忠志を職務質問していたのは遠坂喜一と風間祥太だった訳でそこからの顔見知り。その切っ掛けになったのはやはり三浦和希で、密かに鳥飼信哉がオーナーであるマンションに住んで騒動を起こした張本人・杉浦陽太郎は槙山忠志と三浦和希の同級生だった。
「……去年、遠坂の目の前で杉陽が死んでさぁ……。」
去年の十月のあの都市部で起こった饕餮との戦闘とほぼ同じ時刻。自分達が命懸けで戦い続けている最中に、この街で朱雀が杉陽なんて気安く呼ぶ杉浦陽太郎は遠坂と風間の前で死んだ。
「何かさ……凄く人の命って儚いって思ったんだよな……。」
あの都市部での戦闘の時、都市下は広範囲な大規模な停電にみまわれていた。それはすぐ改善し、最終的に停電が続いたのは戦闘の周辺という限局的な場所だけだったのだが、短時間の停電でも交通網を破綻させるには十分だったようだ。地下鉄を含む電車は一ヶ所でも停電していれば、電車の管理が困難になり走行させられなくなる。なら車と思うだろうが、主要な交通網の中心が沈黙して信号機が機能しなければ車の流れも滞ってしまう。普段は当然に動く電車や信号機が一時止まるだけで、道には帰宅困難者が溢れ返り車は身動き出来なくなった。その最中に突然道路に飛び出した杉浦は、ほんの一瞬の間に停滞していた何台もの車に轢かれて即死したのだ。
車に轢かれて…………その言葉に母の記憶が過り心が揺れてしまうのに、白虎は思わず目を伏せた。
そして事故現場には防犯カメラ等の映像から、三浦和希がいあわせたのではないかと考えられたのだという。そこから朱雀は遠坂達と更に関わることになったようだ。
遠坂喜一をちょっと悪っぽいけど好い人だったと朱雀は言い、梨央の話から高校時代の自分と玄武と宇野智雪を思い浮かべていた白虎もきっと好い人だったのだろうと密かに思う。
「俺らが助けるどうこうじゃなくて……、本当に脆くて儚いんだなって……、最近はさ……思うんだよな…………。」
朱雀にしてみれば、まだ家族を失った記憶は鮮明だろう。それに友人の死や知人の死は、尚更に近く鮮明で砕けていく命にそう思うのは当然だ。しかも、それに今になって白虎自身も心の揺れをこんなにも鮮明に感じるようになってしまっている。以前はそれを弱さだと考えもしたが、今ではそれが普通なのだろうとすら感じてしまう。
「そうだな……。」
こんな風に何時までも感傷的になるつもりはないが、誰かを大事にすればする程尚更強く命の儚さが理解される。だからこそ、この仕事を手を抜くわけにもいかないし、突き動かされるままに続けるしかない。そう物思いに耽るような白虎の横で、朱雀が立ち上がり大きく身を伸ばして腕を振り上げると気を取り直したように口を開く。
「……さて。仕事するかなー。白虎、今日も玄武の分も手伝うのか?」
「玄武の夜回りが終わる前に、もし終わらせたら奢る気らしいぞ。」
「マジ?!俺も手伝っちゃおう!よし!さっさと終わらせてぇただ酒っ!!」
その言葉に白虎は微かに微笑みながら、それぞれ二つの方向に向けて一瞬にして勢い良く飛び出していた。
※※※
それに青龍が気がついたのは、偶々だった。少し仕事が終わるのに時間をとられ、普段より活動にはいるのが遅かった青龍が、マンションの屋上からフワリと音もなく飛び上がって間もなく。それは唐突に足元で何かが爆竹のように一気に破裂したような気配だった。
何?!今の?
遥か眼下に広がる都市の中に、小さいが濃密な闇の気配が立ち上る。まるで間欠泉のように吹き上がる闇に驚いた青龍は咄嗟にそれに向かって青い裾を翻し、自由落下のように一直線に降下した。
黒く沸き上がる怨嗟の声のような闇の気配は爆発の煙のように一塊になって立ち上ったかと思うと、次には逆回しのように地表に収束し吸い込まれていく。ほんの一瞬だけのその変化は、こうして目の前にいなければ恐らく自分達でも気がつかないものだった筈だ。遥か上空から矢のように墜ちていても追い付けない程の速度で、その闇は吸い付くされ消え去っていく。小さな雑居ビルの屋上に青龍が音もなく降り立った時には、その気配は微塵もないのに青龍は眉を潜めた。
何だったんだ?……さっきの…………。
辺りを伺うが闇どころか何かがいる気配もないのに、一先ず異装を解いて人気の無いのを眺めてから路地裏めがけてまるで平地の柵を跳び越えるようにヒラリと鉄柵を体が乗り越えた。薄暗い湿った路地の奥に降り立った青龍は、ほんの少し歩いてその先に広がる蛍光灯の下に一瞬その光景に息を詰める。
目の前には開放されたままのドアの横に、目を薄く開いた男が血溜まりの中で大の字になっていた。下水道と古い油の臭いが微かに漂うゴミの散らばった通路に、上半身裸で天井を向きドロリと濁った瞳には既に生きている光はない。何しろ首が切り裂かれて蛍光灯の光の中に赤黒い肉が口を開けている上に、既にそこから溢れていた筈の血は流れを止めている。よく見れば股間の辺りも喉ほどではないが、血にまみれているのが確認できた。
ゲートはない……後考えられるのは……人外……?
戸惑いながら辺りに目を凝らすが、奇妙なことに何も周囲には視えない。先程立ち上った筈の闇の気配は恐らくここからだと本能的に考えるが、ここには今何一つ気配が感じ取れないのだ。より細分に青龍が息を詰め、暫し目を細めると青水晶の瞳が強く光を放つ。
でも、もし人外だとしたら、おかしい……。
殺しておいて血を啜りもせずに人目につくよう放置するなんて、人間を餌にしている人外らしくはない。らしくはないが、先程感じた直前の弾け飛ぶような気配のことが酷く気にかかっていた。あんな風に闇の気配が弾けて立ち上ったのに、その発生地点だと思われる場所に空虚な空間があることがおかしい。
看護師をしていれば自ずと分かるようになるが、人の死にはどうしたって苦しみや怨みなどの負の臭いが漂い、それは生き物の朽ちていく臭いと混じって独特の気配に変わる。ここには確かに血の臭いがするのに、その朽ちて行くものの臭いが何一つしないのだ。まるで他で溜めていた血をただ持ってきて溢したみたいに、幾ら殺されたばかりとは言え何にも感じないのは奇妙だった。それに違和感を感じて選り分けるように細かな気を篩にかけている最中に、ほんの僅かな気の残滓を発見して青龍は眉を潜めた。
…………これは……水気?
既に地中に溶けて吸われて消えつつある微かな水の気配。しかし、それは自分のよく知る水気とは、全く別の種類で例えるなら淡水と海水程違う。つまり弱いのか隠匿されているのか、水気の何かがここにいたことになるのに息を詰める。
窮奇は木気……饕餮は火気……
以前の青龍の目だったら恐らく見逃していた微細な気配は、既に跡を追える程の残滓でもない。人外を追うには遅かったということだし、死体を見つけて放置しておける程不人情な訳でもないのだ。青龍は戸惑いながらも、これをどうしたものかと思案を始めていた。
そんなことは誰だって知っている。だが、知っていることと理解するのは、全く別次元なのだということは人は早々には気がつかないものだ。
ここに来て何故か信哉は初めてあった母の幼馴染みと付き合い始めて、何故か別の母の幼馴染みと会話を交わすほどに親しくなっていた。本来ならそういう関わり方は敬遠するべきで、こんな関係は人外にも院にも知られたくない。特に梨央の存在は知られれば一番の弱点であり、院には格好のモルモットにされてしまう。そう分かっていてそれでも、傍にいたいという思いに逆らえない。
家でゆっくりした後に梨央を送りがてら歩いている背後で一騒動が起きたのに、一瞬焦ったが背後で投げ飛ばされたのは梨央の実家の舎弟で投げたのは外崎宏太だった。実は既に梨央の実家の舎弟には何人か絡まれていて、いい加減邪魔なのでソロソロ話をつけにいかないととは考えてもいたのだが。こんなタイミングで、しかも外崎にはアッサリと交際は見抜かれるし。
そうして梨央を送りがてら外崎宏太に付き合って、もう一人の母の幼馴染み・遠坂喜一の顔を見に行くのに同行することになっている。そんな普通な日常をまさか自分が送るなんて思っても見ない。しかも慣れ親しんだ中で口汚く危ないことに首を突っ込むなんて言い放つ梨央が、昔の武勇伝を口にし始めるのにおかしくて苦笑いしてしまうのだ。
「信哉は知らないだろうけど、コータも高校のときゃノブとキーチと三人でなぁ。」
懐かしい幼馴染みの思い出話には結局、結論に母・澪の鉄拳制裁がある。それがまるで自分達三人のことのようで、横で適当に聞き流している外崎に思わず親近感が生まれてしまう程だ。そうして夕闇の中で辿り着いたアパートを何気なく見上げた瞬間、薄暗い視界に開け放たれた扉が信哉の目にはハッキリ見えた。確かに電気をつけるには少し早いかもしれないが、それでもこの時間に無防備にドアを開け放つ意味はなんだ?まるで誰かが開け放って逃げ出したみたいに、周囲には人の動く気配もない。
「外崎さん……遠坂さんの家って二つ目のドアですか?」
盲目の外崎には、勿論何が起きているかは見えない。それ以上に暗く沈んだドアの奥には、何かゲートのような腐敗の気配が漂うのが信哉の瞳には見えた。それには気がつかない梨央と外崎が不思議そうに、信哉の顔を眺めている。つまり夕闇に視界を遮られない自分だけが、そのドアが無防備に開け放たれたままなのを確りと見ているのだ。
「ん?何でだ?」
「……ドアが開けられてます。」
そう告げた瞬間に信哉が階段をかけあがり遠坂の家に飛び込むのに、梨央と宏太が慌てて後に続く。家の中には何故か腐敗したゲートの気配が濃密に漂い、そこに立ち尽くしている人間がいるのに信哉は目を見張っていた。まるでここにゲートが開いていたみたいな得体の知れない気配の中に立ち尽くしていたのは高校時代の同級生・風間祥太で、その目の前には四肢をダラリと投げ出して中腰のようになって宙にぶら下がっている項垂れた男の姿がある。
「信哉!キーチを下ろせ!!」
梨央の鋭い言葉に咄嗟に風間を押し退けて部屋に駆け込んだ信哉の体から放たれる金気が邪気を打ち払い、信哉はぶら下がった遠坂の体を力ずくで抱えあげる。続いて飛び込んだ梨央が喜一の体に飛び付くようにして、ガッチリと首に食い込んだネクタイを爪が割れるのも気にせずに必死に外す。床にそっと下ろされた喜一の体に飛び付くと、梨央は看護師の手早さで呼吸や脈を確かめながら外崎に向かって大声で救急車と叫ぶ。
「何やってんだ!!キーチ!!しっかりしろ!」
梨央がそう叫びながら遠坂のシャツのボタンを引きちぎれる程の勢いで外して前を寛げて、真上から垂直に胸をリズミカルに押し始める。信哉に首を動かさないように押さえてろと梨央が叫び、少しだけ顎を上げさせ口を開くが、既に紫に鬱血した口の中に梨央が畜生と叫びながら口元にハンカチを当てて人工呼吸を始めていた。
打ち払った筈の邪気を感じさせる血の濃密な臭いに信哉が咄嗟に視界を巡らせ、それが押し退けられ壁にへたりこんだ風間の横の流しから漂うのに気がつく。そして呆然としているのかと思った風間の視線が、自分と梨央の姿を穴が開くほどに微動だにせず見据えているのに一瞬信哉は戸惑う。
見渡した辺りは人が暮らしている環境には程遠かった。まるで引っ越し寸前のような物のなさ、そして何か書き置きのように残された手紙。もしかして風間は既にそれを見て呆然としていたのか?でも刑事の風間だったら救命の重要性は知っている筈、そう考えた瞬間に雪の事が頭を過った。
知っていても、理解しているのは別だ。
自分だってそうだ。直面した時に思う通り動けるかどうかは、全くの別問題だったじゃないか。自分だってそうなのだから、風間だってそうかもしれない。
「くそ!キーチ!!戻れよっ!キーチ!!」
人の生死に関わることの多い梨央の声が次第に泣きだし始めているのに気をとられ、風間の視線の事が一瞬意識から抜ける。首を固定しながらも遠坂は既に手の施しようがないことを触れた肌で信哉は感じとっていた。それでも泣きながら必死に処置を続ける梨央に止めろとはどうしても言えない。心臓ショックでも与えればとも思うが、首の骨の状態も思わしくない。微かな救急車の音を聞き取った時には心臓マッサージを必死に続ける梨央と信哉の横で、見えない筈の目を遠坂に向けた外崎が既に手遅れだと察していて見たこともない哀しい表情を浮かべていた。
遠坂喜一は自宅の中の部屋のドアノブにネクタイをかけて縊死を図った。
恐らく発見迄は十分もない程度だったろうが、縊死で命を落とすには十分な時間だ。しかも鍵のかかっていなかった室内には、遠坂の遺書もしっかりと残されていたという。信哉には分からなかったが遠坂が長年一人で暮らしていたアパートの家財道具は殆ど処分されていて、以前は足の踏み場もない程だった山のような書籍すら綺麗に片付けられていたのだと梨央が後から話した。そして濃密な血の臭いを漂わせていたのは、流しにあった血塗れのナイフだった。
第一発見者は同僚の風間祥太。
風間があの時呆然と立ち尽くしていたのは、自分が見ているものが現実と思えなかったからだと言う。救急車はやってきたが結局手の施しようがなく、遠坂喜一はそのまま死亡とされ警察が呼ばれ遺体として搬出されることになったのだった。
濃密なゲートの腐敗臭
それが何故地表にある筈のゲートも関係のない二階の部屋の中に漂っていたのか。あまりにもあの気配が濃密だったから逆に風間が当てられて茫然自失になったのは理解できるが、あの気配の元が遠坂の遺体なのか血塗れのナイフの方だったのか気配が濃すぎて判断が効かない。遠坂の方であれば木崎蒼子のように体を乗っ取られている可能性も考えられなくはないし、離れ業だが
体をポイントにゲートを抉じ開けるなんてことが起こらないわけではない。ただ正直な話し、それならばあの場にいた風間はただでは済まないだろう。それにどちらかと言えば血濡れのナイフの方が、気配がより濃かった気がしなくもない。もしかしたら血液を媒介に何かしようとしたか?人間の血でゲートを開ける為の円を描いた饕餮のように、何かがナイフを使おうとして近付く自分の気配で諦めた可能性はなくはない。ただそうなるとあの血は誰のものかだ。遠坂喜一には外傷はなかったし、風間も信哉が突き飛ばしただけで傷はなかった。
「信哉…………。」
「梨央。」
泣き続けている梨央をソッと抱き寄せながら、混乱した様子で黙りこんだままの外崎を見つめる。外崎の耳は今何を聞いているのだろうと考えながら、信哉は何かがしっくりしないと心の何処かが呟くのを聞いていた。
※※※
「それで…………亡くなったのか?遠坂。」
夜の風が吹き付ける山野の中。
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車に轢かれて…………その言葉に母の記憶が過り心が揺れてしまうのに、白虎は思わず目を伏せた。
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朱雀にしてみれば、まだ家族を失った記憶は鮮明だろう。それに友人の死や知人の死は、尚更に近く鮮明で砕けていく命にそう思うのは当然だ。しかも、それに今になって白虎自身も心の揺れをこんなにも鮮明に感じるようになってしまっている。以前はそれを弱さだと考えもしたが、今ではそれが普通なのだろうとすら感じてしまう。
「そうだな……。」
こんな風に何時までも感傷的になるつもりはないが、誰かを大事にすればする程尚更強く命の儚さが理解される。だからこそ、この仕事を手を抜くわけにもいかないし、突き動かされるままに続けるしかない。そう物思いに耽るような白虎の横で、朱雀が立ち上がり大きく身を伸ばして腕を振り上げると気を取り直したように口を開く。
「……さて。仕事するかなー。白虎、今日も玄武の分も手伝うのか?」
「玄武の夜回りが終わる前に、もし終わらせたら奢る気らしいぞ。」
「マジ?!俺も手伝っちゃおう!よし!さっさと終わらせてぇただ酒っ!!」
その言葉に白虎は微かに微笑みながら、それぞれ二つの方向に向けて一瞬にして勢い良く飛び出していた。
※※※
それに青龍が気がついたのは、偶々だった。少し仕事が終わるのに時間をとられ、普段より活動にはいるのが遅かった青龍が、マンションの屋上からフワリと音もなく飛び上がって間もなく。それは唐突に足元で何かが爆竹のように一気に破裂したような気配だった。
何?!今の?
遥か眼下に広がる都市の中に、小さいが濃密な闇の気配が立ち上る。まるで間欠泉のように吹き上がる闇に驚いた青龍は咄嗟にそれに向かって青い裾を翻し、自由落下のように一直線に降下した。
黒く沸き上がる怨嗟の声のような闇の気配は爆発の煙のように一塊になって立ち上ったかと思うと、次には逆回しのように地表に収束し吸い込まれていく。ほんの一瞬だけのその変化は、こうして目の前にいなければ恐らく自分達でも気がつかないものだった筈だ。遥か上空から矢のように墜ちていても追い付けない程の速度で、その闇は吸い付くされ消え去っていく。小さな雑居ビルの屋上に青龍が音もなく降り立った時には、その気配は微塵もないのに青龍は眉を潜めた。
何だったんだ?……さっきの…………。
辺りを伺うが闇どころか何かがいる気配もないのに、一先ず異装を解いて人気の無いのを眺めてから路地裏めがけてまるで平地の柵を跳び越えるようにヒラリと鉄柵を体が乗り越えた。薄暗い湿った路地の奥に降り立った青龍は、ほんの少し歩いてその先に広がる蛍光灯の下に一瞬その光景に息を詰める。
目の前には開放されたままのドアの横に、目を薄く開いた男が血溜まりの中で大の字になっていた。下水道と古い油の臭いが微かに漂うゴミの散らばった通路に、上半身裸で天井を向きドロリと濁った瞳には既に生きている光はない。何しろ首が切り裂かれて蛍光灯の光の中に赤黒い肉が口を開けている上に、既にそこから溢れていた筈の血は流れを止めている。よく見れば股間の辺りも喉ほどではないが、血にまみれているのが確認できた。
ゲートはない……後考えられるのは……人外……?
戸惑いながら辺りに目を凝らすが、奇妙なことに何も周囲には視えない。先程立ち上った筈の闇の気配は恐らくここからだと本能的に考えるが、ここには今何一つ気配が感じ取れないのだ。より細分に青龍が息を詰め、暫し目を細めると青水晶の瞳が強く光を放つ。
でも、もし人外だとしたら、おかしい……。
殺しておいて血を啜りもせずに人目につくよう放置するなんて、人間を餌にしている人外らしくはない。らしくはないが、先程感じた直前の弾け飛ぶような気配のことが酷く気にかかっていた。あんな風に闇の気配が弾けて立ち上ったのに、その発生地点だと思われる場所に空虚な空間があることがおかしい。
看護師をしていれば自ずと分かるようになるが、人の死にはどうしたって苦しみや怨みなどの負の臭いが漂い、それは生き物の朽ちていく臭いと混じって独特の気配に変わる。ここには確かに血の臭いがするのに、その朽ちて行くものの臭いが何一つしないのだ。まるで他で溜めていた血をただ持ってきて溢したみたいに、幾ら殺されたばかりとは言え何にも感じないのは奇妙だった。それに違和感を感じて選り分けるように細かな気を篩にかけている最中に、ほんの僅かな気の残滓を発見して青龍は眉を潜めた。
…………これは……水気?
既に地中に溶けて吸われて消えつつある微かな水の気配。しかし、それは自分のよく知る水気とは、全く別の種類で例えるなら淡水と海水程違う。つまり弱いのか隠匿されているのか、水気の何かがここにいたことになるのに息を詰める。
窮奇は木気……饕餮は火気……
以前の青龍の目だったら恐らく見逃していた微細な気配は、既に跡を追える程の残滓でもない。人外を追うには遅かったということだし、死体を見つけて放置しておける程不人情な訳でもないのだ。青龍は戸惑いながらも、これをどうしたものかと思案を始めていた。
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ホラー
Webサイトに記事をアップしている俺は、趣味の小説ばかり書いて仕事が進んでいなかった。サイト主催者から炊きつけられ、ネットで見つけたネタを記事する為、夜中の地下鉄の取材を始めるのだが、そこで思わぬトラブルが発生して、地下の闇を彷徨うことになってしまう。俺は闇の中、先に見えてきた謎のホームへと向かうのだが……
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
僕が見た怪物たち1997-2018
サトウ・レン
ホラー
初めて先生と会ったのは、1997年の秋頃のことで、僕は田舎の寂れた村に住む少年だった。
怪物を探す先生と、行動を共にしてきた僕が見てきた世界はどこまでも――。
※作品内の一部エピソードは元々「死を招く写真の話」「或るホラー作家の死」「二流には分からない」として他のサイトに載せていたものを、大幅にリライトしたものになります。
〈参考〉
「廃屋等の取り壊しに係る積極的な行政の関与」
https://www.soumu.go.jp/jitidai/image/pdf/2-160-16hann.pdf
不労の家
千年砂漠
ホラー
高校を卒業したばかりの隆志は母を急な病で亡くした数日後、訳も分からず母に連れられて夜逃げして以来八年間全く会わなかった父も亡くし、父の実家の世久家を継ぐことになった。
世久家はかなりの資産家で、古くから続く名家だったが、当主には絶対守らなければならない奇妙なしきたりがあった。
それは「一生働かないこと」。
世久の家には富をもたらす神が住んでおり、その神との約束で代々の世久家の当主は働かずに暮らしていた。
初めは戸惑っていた隆志も裕福に暮らせる楽しさを覚え、昔一年だけこの土地に住んでいたときの同級生と遊び回っていたが、やがて恐ろしい出来事が隆志の周りで起こり始める。
経済的に豊かであっても、心まで満たされるとは限らない。
望んでもいないのに生まれたときから背負わされた宿命に、流されるか。抗うか。
彼の最後の選択を見て欲しい。
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