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第三部
第二幕 都市下
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悌順の怪我は水気の治癒能力で、殆ど問題なく治癒した。火傷の痕も殆ど残っていないし、視野にも問題なし。まあ、悌順の能力なら当然なのだがそう表だって言えるわけでもない。流石に直に傷を見ていた孝が翌日他の生徒と一緒に自宅に見舞いにきた時には、絶妙に不審な様子になったと来訪していた忠志が話す。どうやら仲直りのために義人が好む食材を持参して顔を出したところに、丁度見舞いの生徒が来たということらしい。
「いや、マジで教師なんだな、悌って。」
「なんなんだ、それは。」
「いやぁ、あんまり仕事してる様子って想像できなくね?」
呆れ顔の信哉に忠志は呑気にそう口にする。確かに夜の付き合いが多い忠志にしてみれば、教師の悌順や看護師の義人というのは姿が余り想像出来ないのだろう。信哉は自由業に近いし、忠志はフリーター。忠志にしてみると、制約のある仕事についている二人には頭が下がる気分なのだろう。
「本当にさぁ……凄いよな、教えるとか……看護とかさぁ。」
頭の後ろで手を組んでそう言う忠志は、あの後も密かに信哉と二人で道場で組討術と気を集めるを繰り返していた。たかが半月でいきなりどうこう出来るものではないが、それでも一心に鍛練を続けている忠志は、少しずつだが気を感じとるのに慣れ始めてきている。
「信哉も……こうして教えられるもんがあるんだもんなぁ……。俺だけだ、なんもないの…………。」
溜め息混じりにそんなことを言いだす忠志の頭を小突いて、お前にもいいところは沢山あるんだからそんな溜め息つくなと信哉は思う。何かを教えられたからいいというわけではないし、普通に過ごせる方がいいに決まってる。そう静かに言う信哉にそっかと呑気に笑って見せる忠志の様子に、信哉は少しだけ微笑みながら気を取り直して歩き出していた。
「あ、信哉!」
その矢先に不意にかけられた声に思わず目を丸くすると、目の前に立っていたのは一人の髪の長い女性で一見するとキャリアウーマンともとれる美人。隣の忠志がポカーンとしているが、実際には信哉もその女性と会って話すのはこれで三度目というのが本音なのだ。
彼女は四倉梨央。
少し前に唐突に夜に呼び出された原因となった女性で、一見すると三十代程に若く見えるが、実は母の幼馴染みの親友。つまり四十六になるわけだが、年齢に関しては深く追求すると激怒されるようなので触れないことにしている。看護師として都立総合病院で働く彼女は、夜勤明けなのか昼日中に街中で出会うとは思いもよらなかった。
「え?信哉、この美人なおねーさん誰?」
「誰って…………四倉さんだ。」
「何だよ、その他人行儀?!」
不満そうに詰め寄られてもと戸惑う信哉に、彼女は当然のように隣の忠志にも初めましてと艶然と微笑む。信哉に対してこんな風に親しげな人間をみたことがなかった忠志が素直に頭を下げると、四倉梨央は唐突にマジマジと忠志の顔を覗きこみ眺める。
「……根性ありそうな顔してんな?信哉の弟分?」
「四倉さん?!」
「何だよ、違うの?だから、信哉も名前でいいっての。」
口を開かなきゃとっても美人なお姉さんなのに何で口調が漢って感じなんだろうと、面食らっている忠志に彼女はカラカラと笑いながら何でか横に並んで歩き始めている。だってこの間弟みたいのと一緒に住んでるって言ったじゃないかと言われている信哉が、それは家にいる方だと呆れたように言い返している。
「えっと、四倉さん……でしたっけ?」
「あー、梨央でいい。友達は皆リオって呼んでるから。」
「えっと、じゃ梨央さん。」
「何?忠志。」
既に自分は友達認定らしく名前を呼び捨てにされているが、それほど嫌みじゃないのは恐らく四倉梨央に悪意が全くないからだと忠志も気がつく。それにしても信哉がまだ三度しか会ったことがないというのが信じられない程の気安さで、この女性と信哉が接しているのには驚いてしまう。そこで初めて今まで自分が接していた信哉と、信哉にも普段と言う別な姿があるんじゃないかなんて気がついてしまった。
何時も完全無欠そうに何でもこなしているように思ってきたけれど、鳥飼信哉だって実際には自分とたいして歳の変わらない二十代の青年なのだ。十年以上も自分より長くゲートキーパーをしているから老成しているように感じていたけれど、本当はこんな風に当たり前のように友人と接して日常を過ごしているのかもしれない。
「えっと、梨央さんって信哉の彼女?」
その言葉に信哉の方がギョッとした顔で何を言ってんだ?!お前!と忠志に声をあげる。ところが当の梨央の方はその問いに関して、再び艶然と微笑んだかと思うとこれからたらしこむところなんだけど、色仕掛けは効くと思うかなんて颯爽と聞き返してくる有り様だ。
「何言って……あんた……親友の息子に色仕掛けって……。」
梨央の言葉に絶句している信哉の様子に、でもその反応って信哉の方も満更じゃないんじゃないだろうかと忠志は内心思っていたのだった。
※※※
母の親友で幼馴染み。
つまり自分より十八歳上の女性は、生きていれば四十六歳の母・澪と同級生。
そんなことはちゃんと理解していて、相手だって理解している筈。そう考えているのに、何でか彼女は当然みたいに傍に座って酒を酌み交わして、いつの間にか自分の膝枕で寝る始末だ。しかも街中で会ってそのまま家まで来て、当然みたいに仁とも挨拶を交わしてしまったし。母の昔話をするだけの筈がいつの間にか自分の話に耳を傾けられて、幼馴染みの悌順でもここまで上手いこと自分の話を聞き出すのは難しいのにと信哉は戸惑う。
母の性格も熟知してるから、こんなに簡単に話してしまうのか?
それほど自分と母・鳥飼澪の性格は似ているとは思ったことがないのに、彼女はアッサリと信哉が今までに築いていた堅牢な壁の内側にいる。四神である限り自分は誰かと結ばれることもないし誰かの傍にいられるわけでもないのに、当然みたいに気がつくと彼女は隣にいるのだ。それが何でかを考えるのは本当は凄く嫌なのに、彼女が信哉の名前を呼んで隣に座ると、嫌でもそれを考えてしまう。
もし、誰かを好きになったらどうしたらいい?
十七で役目に就いた時に全てを母から聞かされて、もう二度と自分は人を好きになれないのだと思った。勿論成人男子としては所謂ガールフレンド程度の彼女がいなかったわけではないけれど、次第に年数を重ねて死を考えるようになってからは誰とも触れあわない方が楽だと気がついてしまったのだ。それをこんな風に意図も容易く覆して自分の近くに来る人間なんか、今まで誰一人いなかった。
幼馴染みの宇野智雪が高校時代の出来事で少し道を外しかけた時に彼を引き留めたのは実はまだ幼い従妹。それに雪は苦笑いで、信哉にだけこう言ったのだ。
だって気がついたら傍にいるし、逆らえないんだよ、うちの天使には。
信哉はそれを聞いて人の恋ってのはそんなもんなのかとその時は羨ましく思ったし、その数ヵ月後にはそんな相手は自分にはもう永遠に現れないのだと苦く悲しく思ったものだ。その筈だったのに今、こんな時に……
「何だよ?その顔。」
ぶっきらぼうに聞こえる言葉なのに、梨央の言葉が柔らかく心配を浮かべているのに気がついてしまう。気がつかないふりをしても梨央は裏表が無さすぎて、何もかも見透してくる。しかもこんな風に傍に寛いで忠志にも言った通り、信哉に対して当然みたいに私と付き合おうなんて事を言い出すのだ。誰かと付き合ったり、結婚したり、信哉にはもうそんなことは無理なのに。
「どうしてうんって言わないんだ?私のこと嫌じゃないだろ?」
「…………あんたな……もう少し躊躇いとか恥じらいとかないのか?」
何しろこの言葉がかけられてるのが自分の膝からで、マトモに考えたらこんな短期間に若い男の膝枕なんて体勢で女の方から言う言葉じゃない。口調だけ聞いてたらこっちが彼女みたいな内容で、呆れて信哉が思わず指摘してしまった程。しかも仁を悌順の家に預けて何やってるんだと信哉自身だって思うのに、誘われると断れないでこうして二人で飲みに出てる始末だ。勿論仁も信哉が何のために出掛けるかも理解していて、呑気にいってらっしゃいと手を振るから少し罪悪感もある。
「あのなー、この歳で恥じらいなんかあったら気持ち悪いだろ?」
確かに酸いも甘いも知り尽くした年頃な訳だが、ふと膝の上から手を伸ばされて顔に触れられ信哉の顔に戸惑いが沸き上がる。誘いを断れない自分が何を感じ始めているかは分かっているし、これが何を意味しているのか分からないほど子供でもない。
「なぁ、嫌いじゃないだろ?私のこと。」
「ああ。」
嫌いならこんな出会ったばかりの女に膝枕なんてするか。好きだから呼び出されれば会うし、好きだからこんな出会ったばかりなのにこんなことまで許してる。
初めて出会った時に既に母が十一年前に他界していたことを知って号泣していた梨央に抱きつかれたのに、信哉は胸が痛くなるほど一撃に心を貫かれた。何故なら、信哉は初めて自分の母の死で、そんなに涙を流した人間に出会ったからだ。確かにあの当時五代武も長月想も自分も泣いたけれど、彼女ほどに母の死を悼んだ人間はいなかった。
そうなんだ……俺も武兄達も…………もう諦めていた……これが運命なんだって。
自分達は既に四神としての母でしかなくて、澪の死をただ諦めるしかなかった。それなのに十一年も経っているというのに、この四倉梨央は何で死んだんだと、澪が死ぬ筈がないと泣いていたのだ。何故自分に何も言わなかった、何故頼ってくれなかった、何故自分に死に目にも会わせてくれなかった。そう泣きながら言った彼女の姿に、信哉は初めてそんなに母を思っていた人間がいたことを知って衝撃を受けていた。そしてそこに他にいた鳥飼澪の幼馴染み達が、澪を悼んで酒を酌み交わしたのに信哉は大きく感情を揺らされてもいたのだ。
澪らしい……
母の死をそう呟きながら、それでも早すぎるし、もっと生きていて欲しかったと告げる言葉。自分は運命と諦めてしまっていたが、こうして澪に本当は生きていて欲しかったと素直に口にできる幼馴染み。自分にはこんな存在はいるのだろうかとも考えた。
もし自分が死んで、こう言ってくれる人間は何人いるのだろう。
そう感じた時に素直に母を初めて羨ましいと思った。生きていて欲しかったと言ってくれる人間が、これ程の時が経ってもいる鳥飼澪。自分はそんな生き方をしていないと今更気がついてしまったし、どうやったらそう生きていけるのかもわからない。
だから裏表なく信哉は澪に似てると笑いかけ、澪の話をしたいと梨央に誘われた時に信哉は断ることが出来なかった。母を懐かしみながら、お前はどう生きてきたの?と柔らかな声で問いかけられて、信哉は彼女の笑顔に惹かれてしまったのだ。
「めんどくさいか?年増相手。」
「……年増だなんて思ってない。」
あまりこれ以上問いかけないで欲しい。本音をさらけ出すには自分は、あまりにも四神に染まり過ぎていて多くの事を諦めてきたのだ。恋愛も家庭も何もかも、自分の子供だって永遠にあり得ないと考えているのに、仁を預かり始め、木崎蒼子に出会って、今こうして梨央に会ってしまった。揺らいで表に出ようとする自分の感情を必死に、飲み込み隠していくのが辛い。
「なぁ。」
「何だよ……。」
「私は年増だからさ……多くは望まないぞ?」
何が言いたいんだよと戸惑いながら呟くと、看護師の仕事で飾り気のない細い指が信哉の唇に触れてなぞる。多くは望まない。その意味が理解できない信哉に梨央はふと体を起こすと、頬に手を触れたまま信哉に口付ける。
「信哉がいいって思う間だけ、傍に一緒にいられたらいい。」
その言葉に信哉の瞳から涙が溢れたのは、自分も心のどこかで同じことを考えていたからだと信哉も思う。遠くない何時か自分は、梨央の知らない間に多分人間じゃない何かと戦って死ぬ。それまでのほんの短い時間でいいから、梨央と一緒に過ごしていたい。そう願ってしまった自分を知ってしまった信哉には、もう梨央の言葉を拒否することが出来なかった。
そうして、まるで当然みたいに信哉は梨央に手を引かれて、ホテルのベットに二人で倒れ込んだ。ベットの中で縺れあいながら激しく愛し合った事を、こんなにも後悔したことはないし、こんなにも幸せだったこともない。
信哉は以前に香坂智美から今までの四神には、伴侶がいたり恋人がいたことはあると古文書にあると聞いていた。だけど子供は出来なかったという。四倉梨央は未婚で妊娠したこともないが健康体だとは言う。だけどだからと言って彼女を伴侶にすることは、信哉には恐らく出来ないと悲しく考える。
好きで、愛していても、伴侶にすれば梨央が危ない。
そう思えば傍にいられるだけで、母の事を想っていた武のように傍に居続けられるだけ傍にいる、それだけで満足しないとならないと分かっている。分かっているのに彼女を抱いて幸せに浸るなんて、自分は酷い男だとも思う。思うのにそれを止められないし、出来ることなら一時でも長く彼女と過ごしていたいと切に願っている。
「梨央……。」
仄かな光に照らされた梨央が腕の中で、不思議そうに瞬きしながら眠たげな瞳で見つめる。頭の中でこれで終わりにしておけと四神としての声が囁きかけ、お前と関わると彼女は不幸になるぞと警告がなり響く。
「…………こうしてるだけで、いいんだ。信哉は?」
何もこれ以上は求めないと綺麗な瞳が告げるのに、胸が痛む。本当はもっと多くの事を望んでいるのに、それは求めないから少しの間でいいから傍にいたい。そんなのは綺麗事で、本当は違うことを心の中で願っている。
「……俺は………………本当は……。」
不意に溢れ始めた感情を止められないのは、四倉梨央ではなくて本当は信哉の方なのだと気がついたのはその時の事だった。
※※※
恋人が出来たと改めて説明するのもなんだ。が、一応一番先に幼馴染みの悌順に話そうとはした。したのだが、目下それどころではない様子の悌順に話を断ち切られてしまったのには、正直なところお前!幼馴染みだろ?!と信哉が言いたくなったのは仕方がない。
「いや、マジで教師なんだな、悌って。」
「なんなんだ、それは。」
「いやぁ、あんまり仕事してる様子って想像できなくね?」
呆れ顔の信哉に忠志は呑気にそう口にする。確かに夜の付き合いが多い忠志にしてみれば、教師の悌順や看護師の義人というのは姿が余り想像出来ないのだろう。信哉は自由業に近いし、忠志はフリーター。忠志にしてみると、制約のある仕事についている二人には頭が下がる気分なのだろう。
「本当にさぁ……凄いよな、教えるとか……看護とかさぁ。」
頭の後ろで手を組んでそう言う忠志は、あの後も密かに信哉と二人で道場で組討術と気を集めるを繰り返していた。たかが半月でいきなりどうこう出来るものではないが、それでも一心に鍛練を続けている忠志は、少しずつだが気を感じとるのに慣れ始めてきている。
「信哉も……こうして教えられるもんがあるんだもんなぁ……。俺だけだ、なんもないの…………。」
溜め息混じりにそんなことを言いだす忠志の頭を小突いて、お前にもいいところは沢山あるんだからそんな溜め息つくなと信哉は思う。何かを教えられたからいいというわけではないし、普通に過ごせる方がいいに決まってる。そう静かに言う信哉にそっかと呑気に笑って見せる忠志の様子に、信哉は少しだけ微笑みながら気を取り直して歩き出していた。
「あ、信哉!」
その矢先に不意にかけられた声に思わず目を丸くすると、目の前に立っていたのは一人の髪の長い女性で一見するとキャリアウーマンともとれる美人。隣の忠志がポカーンとしているが、実際には信哉もその女性と会って話すのはこれで三度目というのが本音なのだ。
彼女は四倉梨央。
少し前に唐突に夜に呼び出された原因となった女性で、一見すると三十代程に若く見えるが、実は母の幼馴染みの親友。つまり四十六になるわけだが、年齢に関しては深く追求すると激怒されるようなので触れないことにしている。看護師として都立総合病院で働く彼女は、夜勤明けなのか昼日中に街中で出会うとは思いもよらなかった。
「え?信哉、この美人なおねーさん誰?」
「誰って…………四倉さんだ。」
「何だよ、その他人行儀?!」
不満そうに詰め寄られてもと戸惑う信哉に、彼女は当然のように隣の忠志にも初めましてと艶然と微笑む。信哉に対してこんな風に親しげな人間をみたことがなかった忠志が素直に頭を下げると、四倉梨央は唐突にマジマジと忠志の顔を覗きこみ眺める。
「……根性ありそうな顔してんな?信哉の弟分?」
「四倉さん?!」
「何だよ、違うの?だから、信哉も名前でいいっての。」
口を開かなきゃとっても美人なお姉さんなのに何で口調が漢って感じなんだろうと、面食らっている忠志に彼女はカラカラと笑いながら何でか横に並んで歩き始めている。だってこの間弟みたいのと一緒に住んでるって言ったじゃないかと言われている信哉が、それは家にいる方だと呆れたように言い返している。
「えっと、四倉さん……でしたっけ?」
「あー、梨央でいい。友達は皆リオって呼んでるから。」
「えっと、じゃ梨央さん。」
「何?忠志。」
既に自分は友達認定らしく名前を呼び捨てにされているが、それほど嫌みじゃないのは恐らく四倉梨央に悪意が全くないからだと忠志も気がつく。それにしても信哉がまだ三度しか会ったことがないというのが信じられない程の気安さで、この女性と信哉が接しているのには驚いてしまう。そこで初めて今まで自分が接していた信哉と、信哉にも普段と言う別な姿があるんじゃないかなんて気がついてしまった。
何時も完全無欠そうに何でもこなしているように思ってきたけれど、鳥飼信哉だって実際には自分とたいして歳の変わらない二十代の青年なのだ。十年以上も自分より長くゲートキーパーをしているから老成しているように感じていたけれど、本当はこんな風に当たり前のように友人と接して日常を過ごしているのかもしれない。
「えっと、梨央さんって信哉の彼女?」
その言葉に信哉の方がギョッとした顔で何を言ってんだ?!お前!と忠志に声をあげる。ところが当の梨央の方はその問いに関して、再び艶然と微笑んだかと思うとこれからたらしこむところなんだけど、色仕掛けは効くと思うかなんて颯爽と聞き返してくる有り様だ。
「何言って……あんた……親友の息子に色仕掛けって……。」
梨央の言葉に絶句している信哉の様子に、でもその反応って信哉の方も満更じゃないんじゃないだろうかと忠志は内心思っていたのだった。
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母の親友で幼馴染み。
つまり自分より十八歳上の女性は、生きていれば四十六歳の母・澪と同級生。
そんなことはちゃんと理解していて、相手だって理解している筈。そう考えているのに、何でか彼女は当然みたいに傍に座って酒を酌み交わして、いつの間にか自分の膝枕で寝る始末だ。しかも街中で会ってそのまま家まで来て、当然みたいに仁とも挨拶を交わしてしまったし。母の昔話をするだけの筈がいつの間にか自分の話に耳を傾けられて、幼馴染みの悌順でもここまで上手いこと自分の話を聞き出すのは難しいのにと信哉は戸惑う。
母の性格も熟知してるから、こんなに簡単に話してしまうのか?
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もし、誰かを好きになったらどうしたらいい?
十七で役目に就いた時に全てを母から聞かされて、もう二度と自分は人を好きになれないのだと思った。勿論成人男子としては所謂ガールフレンド程度の彼女がいなかったわけではないけれど、次第に年数を重ねて死を考えるようになってからは誰とも触れあわない方が楽だと気がついてしまったのだ。それをこんな風に意図も容易く覆して自分の近くに来る人間なんか、今まで誰一人いなかった。
幼馴染みの宇野智雪が高校時代の出来事で少し道を外しかけた時に彼を引き留めたのは実はまだ幼い従妹。それに雪は苦笑いで、信哉にだけこう言ったのだ。
だって気がついたら傍にいるし、逆らえないんだよ、うちの天使には。
信哉はそれを聞いて人の恋ってのはそんなもんなのかとその時は羨ましく思ったし、その数ヵ月後にはそんな相手は自分にはもう永遠に現れないのだと苦く悲しく思ったものだ。その筈だったのに今、こんな時に……
「何だよ?その顔。」
ぶっきらぼうに聞こえる言葉なのに、梨央の言葉が柔らかく心配を浮かべているのに気がついてしまう。気がつかないふりをしても梨央は裏表が無さすぎて、何もかも見透してくる。しかもこんな風に傍に寛いで忠志にも言った通り、信哉に対して当然みたいに私と付き合おうなんて事を言い出すのだ。誰かと付き合ったり、結婚したり、信哉にはもうそんなことは無理なのに。
「どうしてうんって言わないんだ?私のこと嫌じゃないだろ?」
「…………あんたな……もう少し躊躇いとか恥じらいとかないのか?」
何しろこの言葉がかけられてるのが自分の膝からで、マトモに考えたらこんな短期間に若い男の膝枕なんて体勢で女の方から言う言葉じゃない。口調だけ聞いてたらこっちが彼女みたいな内容で、呆れて信哉が思わず指摘してしまった程。しかも仁を悌順の家に預けて何やってるんだと信哉自身だって思うのに、誘われると断れないでこうして二人で飲みに出てる始末だ。勿論仁も信哉が何のために出掛けるかも理解していて、呑気にいってらっしゃいと手を振るから少し罪悪感もある。
「あのなー、この歳で恥じらいなんかあったら気持ち悪いだろ?」
確かに酸いも甘いも知り尽くした年頃な訳だが、ふと膝の上から手を伸ばされて顔に触れられ信哉の顔に戸惑いが沸き上がる。誘いを断れない自分が何を感じ始めているかは分かっているし、これが何を意味しているのか分からないほど子供でもない。
「なぁ、嫌いじゃないだろ?私のこと。」
「ああ。」
嫌いならこんな出会ったばかりの女に膝枕なんてするか。好きだから呼び出されれば会うし、好きだからこんな出会ったばかりなのにこんなことまで許してる。
初めて出会った時に既に母が十一年前に他界していたことを知って号泣していた梨央に抱きつかれたのに、信哉は胸が痛くなるほど一撃に心を貫かれた。何故なら、信哉は初めて自分の母の死で、そんなに涙を流した人間に出会ったからだ。確かにあの当時五代武も長月想も自分も泣いたけれど、彼女ほどに母の死を悼んだ人間はいなかった。
そうなんだ……俺も武兄達も…………もう諦めていた……これが運命なんだって。
自分達は既に四神としての母でしかなくて、澪の死をただ諦めるしかなかった。それなのに十一年も経っているというのに、この四倉梨央は何で死んだんだと、澪が死ぬ筈がないと泣いていたのだ。何故自分に何も言わなかった、何故頼ってくれなかった、何故自分に死に目にも会わせてくれなかった。そう泣きながら言った彼女の姿に、信哉は初めてそんなに母を思っていた人間がいたことを知って衝撃を受けていた。そしてそこに他にいた鳥飼澪の幼馴染み達が、澪を悼んで酒を酌み交わしたのに信哉は大きく感情を揺らされてもいたのだ。
澪らしい……
母の死をそう呟きながら、それでも早すぎるし、もっと生きていて欲しかったと告げる言葉。自分は運命と諦めてしまっていたが、こうして澪に本当は生きていて欲しかったと素直に口にできる幼馴染み。自分にはこんな存在はいるのだろうかとも考えた。
もし自分が死んで、こう言ってくれる人間は何人いるのだろう。
そう感じた時に素直に母を初めて羨ましいと思った。生きていて欲しかったと言ってくれる人間が、これ程の時が経ってもいる鳥飼澪。自分はそんな生き方をしていないと今更気がついてしまったし、どうやったらそう生きていけるのかもわからない。
だから裏表なく信哉は澪に似てると笑いかけ、澪の話をしたいと梨央に誘われた時に信哉は断ることが出来なかった。母を懐かしみながら、お前はどう生きてきたの?と柔らかな声で問いかけられて、信哉は彼女の笑顔に惹かれてしまったのだ。
「めんどくさいか?年増相手。」
「……年増だなんて思ってない。」
あまりこれ以上問いかけないで欲しい。本音をさらけ出すには自分は、あまりにも四神に染まり過ぎていて多くの事を諦めてきたのだ。恋愛も家庭も何もかも、自分の子供だって永遠にあり得ないと考えているのに、仁を預かり始め、木崎蒼子に出会って、今こうして梨央に会ってしまった。揺らいで表に出ようとする自分の感情を必死に、飲み込み隠していくのが辛い。
「なぁ。」
「何だよ……。」
「私は年増だからさ……多くは望まないぞ?」
何が言いたいんだよと戸惑いながら呟くと、看護師の仕事で飾り気のない細い指が信哉の唇に触れてなぞる。多くは望まない。その意味が理解できない信哉に梨央はふと体を起こすと、頬に手を触れたまま信哉に口付ける。
「信哉がいいって思う間だけ、傍に一緒にいられたらいい。」
その言葉に信哉の瞳から涙が溢れたのは、自分も心のどこかで同じことを考えていたからだと信哉も思う。遠くない何時か自分は、梨央の知らない間に多分人間じゃない何かと戦って死ぬ。それまでのほんの短い時間でいいから、梨央と一緒に過ごしていたい。そう願ってしまった自分を知ってしまった信哉には、もう梨央の言葉を拒否することが出来なかった。
そうして、まるで当然みたいに信哉は梨央に手を引かれて、ホテルのベットに二人で倒れ込んだ。ベットの中で縺れあいながら激しく愛し合った事を、こんなにも後悔したことはないし、こんなにも幸せだったこともない。
信哉は以前に香坂智美から今までの四神には、伴侶がいたり恋人がいたことはあると古文書にあると聞いていた。だけど子供は出来なかったという。四倉梨央は未婚で妊娠したこともないが健康体だとは言う。だけどだからと言って彼女を伴侶にすることは、信哉には恐らく出来ないと悲しく考える。
好きで、愛していても、伴侶にすれば梨央が危ない。
そう思えば傍にいられるだけで、母の事を想っていた武のように傍に居続けられるだけ傍にいる、それだけで満足しないとならないと分かっている。分かっているのに彼女を抱いて幸せに浸るなんて、自分は酷い男だとも思う。思うのにそれを止められないし、出来ることなら一時でも長く彼女と過ごしていたいと切に願っている。
「梨央……。」
仄かな光に照らされた梨央が腕の中で、不思議そうに瞬きしながら眠たげな瞳で見つめる。頭の中でこれで終わりにしておけと四神としての声が囁きかけ、お前と関わると彼女は不幸になるぞと警告がなり響く。
「…………こうしてるだけで、いいんだ。信哉は?」
何もこれ以上は求めないと綺麗な瞳が告げるのに、胸が痛む。本当はもっと多くの事を望んでいるのに、それは求めないから少しの間でいいから傍にいたい。そんなのは綺麗事で、本当は違うことを心の中で願っている。
「……俺は………………本当は……。」
不意に溢れ始めた感情を止められないのは、四倉梨央ではなくて本当は信哉の方なのだと気がついたのはその時の事だった。
※※※
恋人が出来たと改めて説明するのもなんだ。が、一応一番先に幼馴染みの悌順に話そうとはした。したのだが、目下それどころではない様子の悌順に話を断ち切られてしまったのには、正直なところお前!幼馴染みだろ?!と信哉が言いたくなったのは仕方がない。
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