119 / 206
外伝 思緋の色
第四幕 別離
しおりを挟む
大きな疑問と不安を胸に抱えたまま、武は何もすることができないままでいた。真実を知ることは余りにも残酷な結果を生みそうな気がして、逆に身動きが取れなくなってしまったと言ってもいい様な気がする。自分の胸の中に収めておくには大きすぎたが、仲間と共有してしまうには余りにも無慈悲なことのような気がした。だから、武はその全てを自分の胸の中だけに収めて時を過ごす。
暫しの時の後、優輝が少し以前より無口になったとはいえまた澪の家に姿を見せるようになって、想が介護の仕事を始めて、自分も曲りなりに定職について(そうはいっても彼の仕事はカメラマンと言う事もあってかなりの融通は利いたのだが)社会人としての生活も営む。代わらないような日々の中で、ただ自分の胸の中の不安だけが膨らむのを感じながら、それでも表面上は平静を装って武は何時もの陽気で能天気な自分であり続けた。
※※※
酷く奇妙な予感を不安と共に朱雀の心に湧き上がらせて、まるで首筋に何かが爆ぜるようなチリチリとした何か予感めいた感覚を与えていた。それは他の三人にも同様の様子で彼らは奇妙な沈黙の中でそれぞれに思いを巡らせる。
自分達に何かが起こるのか、それともそうではないのか。そんな考えにとらわれながら薄闇の中で立ちすくんだ彼等の間で、不意にざわめく様な悪感が走った。
弾かれる様に四人は全く同じ方向を振り返ると眉をひそめる。
それは、酷く奇異な感覚。
急激に大きなゲートが、自分達からはるか北に一気に口を開くのが分かった。まるで無理やり抉じ開けられたような感覚に、横にいた玄武が今までに聞いた事のない微かな苦悩の呻きを発したのを聞きつけてその不安が大きく紅蓮の炎を上げたような気がする。
「優輝さん?」
思わず名前で呼んだ青龍の声に視線を向ける事はないままで玄武の表情が目に見えて重く、まるで過去に一度見たことのあるあの写真を握り締めたあの時のように影を落とすのを朱雀は見て取る。聞いていないのにその先の言葉が想像できる気がして、彼は誰にも気がつかれないままに強く唇を噛んでいた。直後、不意に四人の居る薄暗い室内に駆け込む様にしてまだ幼い星読が、御付の僧衣の男を振り切る様にして飛び込んだ。
「北で、北で穴が開かれました。その傍に何か得体のしれないものが……っ!!」
幼い言葉の後を継ぐように玄武として、静かに一番年嵩で一番長い二十一年もの長い月日を四神として過ごしてきた者は呟くように言葉を溢した。
「……人外だ。奴らがゲートを開いたんだ………。」
玄武の言葉は彼等に驚きをもたらしたが、その言葉は逆に氷水でもかぶせられたかのように酷く冷やかに他の者の背筋を凍りつかせるのに十分過ぎるほどの威力を秘めていた。
人間を捕食すり天敵のような存在である人外。その存在はこの役目につく時に式読から語られはしたものの、直接対面したことは現実的に言えば玄武以外皆無だ。邪悪で人を餌にするというそのもの自体の個体数が少ないということもあったし、それは古に消滅したり封じられているものも多いと言うが、それだけ長い間出遭わなかったのはゲートが開き、そして封じられるまでの時間が短かった為もあったかもしれない。開かれたゲートが人外を蘇らせるほどの力を貯める前に封じ込められてきたのはある意味幸運が続いていたとも言える。
薄暗い室内を先に出る白虎と青龍の後に続こうとした朱雀の腕を不意に、玄武を示す色でもある黒衣を纏った者が掴み引き止めた。
「武。」
直前に「一先ず、先に手は絶対に出すな」と言ったままの口調を微かに潜めて、彼らしくないその行動に朱雀の真紅の衣を既に纏っている彼は足を止めた。仕事の時にしかも院の真っ只中で彼が、自分の本当の名前を呼ぶのはまずありえないことだった。自分が間違って思わず呼ぶならともかく、優輝が意図してそう呼ぶのはわざと何か聞かせたいことがある時だけだ。そうでなければ、彼は確実に青年を「朱雀」と呼び止めるはずだった。
「武、お前には言っておく。……蘇ったか生まれたかは行ってみないと分からないが。」
彼の声は酷く小さく、まるで傍に誰かが来て聞いているといわんばかりに感じた。『院』の廊下に出たら何処かで聞いているものがいてもおかしくはない、だがここ一番という話をするはずのこの部屋で一番聴かれたくない言葉こそが最も声を潜められるという事実に気がついて朱雀は息を呑んだ。
この部屋に確実に耳をそばだてるものがいると言う事に気がついて、そう考えると此処で身の回りの話や大事な話は極力するなと昔言い聞かされた事すらつい今のことのように感じられる。それを知ってか知らずか優輝の潜めた声が、密かに言葉を繋いだ。
「世に出て直ぐにゲートを抉じ開ける様な力を持つ人外は、四人係でも危険なんだ。」
「危険だからって……でも……。」
「黙って聞け、いいか?お前は何をおいても澪を守れ。想は俺が守る。駄目なときは、約束だ。わかるな?」
その声は酷く思いつめて朱雀の心をかきむしるような気がして、武は表情を歪めた。それに気がついた様に、ふっと優輝は悲しげに視線を震わせ、その言葉の意味を噛み締めるように淡く微笑んだ。
まだ、彼らの二人の仲間には伝えなかった事実。
それは、残酷だが危険性が高いものに直面したということは、十分にあり得る事なのだと言う現実なのだ。自分達にも訪れる事だと言う事に朱雀自身十年も役目をこなしてきて、今初めて思い知らされたのだ。
「…優輝……。」
「大丈夫だ、………ちゃんと周りを見てやれば必ず皆戻ってこれる。だから、もしもの時の確認だ。分かったな?」
その声に響く暗い影に思わず武は微かに熱を帯びた手で優輝の腕を掴み返した。まるで、目の前の陽炎のよう優輝の姿が揺らいだ気がして、酷く恐ろしかったのだ。それは、彼の中にある紅の世界に消えて失ってしまった全てののものと重なるように揺らぎ、不安に押し潰されそうな気持ちに駆られる。それを知っていると言うように、十年もの間兄のように一緒にいた優輝が穏やかに口を開く。彼自身も深く辛い記憶を抱え、それでも自分以上の長い時間をこうしてきて、彼らの中で唯一他の先任者の行く末までも見つめてきたその瞳は今は黒い真珠のように輝くながら揺れている。
「……武、戻ったら、澪に気持ちくらい伝えろよ?……奴等と戦うよりその方がよっぽど簡単なんだぞ。」
「お、俺にはそっちのほうが難題なんだよ。」
自分の不安を振り切らせるように軽口を叩く優輝の姿に、胸の奥にわだかまる不安を飲み込んで言い返す。その言葉に薄暗い室内で微かに微笑んだ彼の表情を見上げながら朱雀として武は、心の中で何度もその不安を打ち消そうとするかのように彼の言った言葉を心の中で繰り返していた。
朱雀自身不安に押し潰されそうになる気がして、ただ「大丈夫。皆戻ってこれる。」と繰り返せば、それが現実になる心から信じたかったのだ。
※※※
耳に響きわたる白虎の悲鳴のような声を聞き、四神達の動揺をつく様に八握脛の姿が闇にズブズブと沈み消えていく。それを見ながらも、それでも朱雀の手はゲートを閉じる。凍りついた視界の中で白虎が宙を真っ逆さまに落ちてくる変化の解けた玄武の体を自身も変化を解いた体で抱きとめるのを見つめたが、何が起きているか理解が出来たのはもっと後だった。
大丈夫だ、ちゃんと周りを見てやれば必ず皆戻ってこれる…
その言葉がまるで心の中に木霊するような気がした。
漂っていた胸の奥の不安が形を成して、今変化をといた澪の腕の中に抱きとめられているその姿を呆然と自分は見下ろしている。
ゲートを閉じた武に優輝の視線が微かにそれでいいというように緩むのを見た瞬間、武はその状況に愕然として立ちすくむ自分に気がついた。澪の細い腕の中で空を見上げる優輝は、まるで分かっていたとでも言うように微かな微笑みを浮かべて口から大量の血液を溢れさせた。
躊躇う事もなく青年の体から生命の光が失われていくのが、目の前にいるだけで分かる。土気に侵された水気はその清廉さを濁し、土気に浸食され水気の生命ごと吸い尽くされようとしていた。泣き声で彼に話しかける澪の言葉を、武の意識は理解するのを全て拒否したかのようだ。
…どうして……。
胸の奥が切り裂かれるような痛みを感じながら、武は優輝の姿を想の肩越しに見つめ、優輝もまたその視線に気がついているかのような光を眼に浮かべた。切れ切れの彼の声が微かに響く。それは全て黒の夜の闇に彼の魂ごと溶けて滲み消えていくかのような気がした。
「奴を……必ず……。」
その言葉だけがはっきりと不意に武の耳に届き、心が音を立てて裂けたような気がした。真紅の血を流す優輝の姿のように、自分の胸の中で心が裂けて血を流しているような感覚が痛みのように襲い掛かる。直後、微かにもう何も見ていないかのようなその青年の瞳が宙を仰ぎ、その血にまみれた唇が微かに動いたのを武だけが見つめていた。
……春海。
そう確かに唇は音もなく言葉を紡ぎ、死が三人の間に忍び寄り最後の灯火が掻き消すのを感じる。その時初めて抱きとめていた澪が絶望とともに嗚咽をこぼした。
彼に出会ってからの十年が激しく記憶の中で閃き、さらに増した澪の嗚咽を耳にしながら武は世界が揺らぐのを感じる。心に走る激しい痛みと溢れる様な思いが強い後悔を彼の胸に刻みつけていく。
もし、自分が火気を与えなかったら…。もし…あの時……。
揺らぐ世界を不意にわれに返らせるように不意に、木陰から現れた数人の人影に嗚咽をこぼし青年の体を抱きしめている彼女以外の二人に見て止められた。それは、僧衣の院の者の姿に他ならない。武はその姿にきつく唇を噛み、同じように思わず立ち上がって驚愕に眼を見開く想を視界の隅に感じた。そう、彼らは見ていたのだ。ただ、木立の隙間から人外に気がつかれないほど離れた場所で自分達を監視していたことは知っていても、その現実が更に武の心を抉る。
「玄武殿をこちらへ。」
機械的な無機質にも聞こえる声に嗚咽をこぼしていた澪が驚きに満ちた視線を上げた。月光の下で僧衣の男達は無表情な視線のままに、彼女たちを囲み見下ろしている事の意味に気がついた澪はその双眸を怒りにたぎらせた。それは横にいる想の瞳にもありありと浮かび上がる明確な怒りの色だった。
「何故っ!!!何故見ていてっ!!!!!」
彼女の憤りを受けても、彼らがどうする事もできないのだと武には分かった。彼らはゲートを閉じる事はできても、人外と直接戦う力を持っている訳ではない。彼らには自分たちのような気を持つ事は無いのだから。そう考えながら武は男達の所在なさげにも感じる姿を哀しい視線で見回した。武の視線は酷く哀しい紅玉の光を放ちながら堪える涙に揺れるのを感じながら、暗闇の中を切り裂くような白銀の慟哭を放ち怒りを顕にしている澪の腕をそっと引きとめた。
暫しの時の後、優輝が少し以前より無口になったとはいえまた澪の家に姿を見せるようになって、想が介護の仕事を始めて、自分も曲りなりに定職について(そうはいっても彼の仕事はカメラマンと言う事もあってかなりの融通は利いたのだが)社会人としての生活も営む。代わらないような日々の中で、ただ自分の胸の中の不安だけが膨らむのを感じながら、それでも表面上は平静を装って武は何時もの陽気で能天気な自分であり続けた。
※※※
酷く奇妙な予感を不安と共に朱雀の心に湧き上がらせて、まるで首筋に何かが爆ぜるようなチリチリとした何か予感めいた感覚を与えていた。それは他の三人にも同様の様子で彼らは奇妙な沈黙の中でそれぞれに思いを巡らせる。
自分達に何かが起こるのか、それともそうではないのか。そんな考えにとらわれながら薄闇の中で立ちすくんだ彼等の間で、不意にざわめく様な悪感が走った。
弾かれる様に四人は全く同じ方向を振り返ると眉をひそめる。
それは、酷く奇異な感覚。
急激に大きなゲートが、自分達からはるか北に一気に口を開くのが分かった。まるで無理やり抉じ開けられたような感覚に、横にいた玄武が今までに聞いた事のない微かな苦悩の呻きを発したのを聞きつけてその不安が大きく紅蓮の炎を上げたような気がする。
「優輝さん?」
思わず名前で呼んだ青龍の声に視線を向ける事はないままで玄武の表情が目に見えて重く、まるで過去に一度見たことのあるあの写真を握り締めたあの時のように影を落とすのを朱雀は見て取る。聞いていないのにその先の言葉が想像できる気がして、彼は誰にも気がつかれないままに強く唇を噛んでいた。直後、不意に四人の居る薄暗い室内に駆け込む様にしてまだ幼い星読が、御付の僧衣の男を振り切る様にして飛び込んだ。
「北で、北で穴が開かれました。その傍に何か得体のしれないものが……っ!!」
幼い言葉の後を継ぐように玄武として、静かに一番年嵩で一番長い二十一年もの長い月日を四神として過ごしてきた者は呟くように言葉を溢した。
「……人外だ。奴らがゲートを開いたんだ………。」
玄武の言葉は彼等に驚きをもたらしたが、その言葉は逆に氷水でもかぶせられたかのように酷く冷やかに他の者の背筋を凍りつかせるのに十分過ぎるほどの威力を秘めていた。
人間を捕食すり天敵のような存在である人外。その存在はこの役目につく時に式読から語られはしたものの、直接対面したことは現実的に言えば玄武以外皆無だ。邪悪で人を餌にするというそのもの自体の個体数が少ないということもあったし、それは古に消滅したり封じられているものも多いと言うが、それだけ長い間出遭わなかったのはゲートが開き、そして封じられるまでの時間が短かった為もあったかもしれない。開かれたゲートが人外を蘇らせるほどの力を貯める前に封じ込められてきたのはある意味幸運が続いていたとも言える。
薄暗い室内を先に出る白虎と青龍の後に続こうとした朱雀の腕を不意に、玄武を示す色でもある黒衣を纏った者が掴み引き止めた。
「武。」
直前に「一先ず、先に手は絶対に出すな」と言ったままの口調を微かに潜めて、彼らしくないその行動に朱雀の真紅の衣を既に纏っている彼は足を止めた。仕事の時にしかも院の真っ只中で彼が、自分の本当の名前を呼ぶのはまずありえないことだった。自分が間違って思わず呼ぶならともかく、優輝が意図してそう呼ぶのはわざと何か聞かせたいことがある時だけだ。そうでなければ、彼は確実に青年を「朱雀」と呼び止めるはずだった。
「武、お前には言っておく。……蘇ったか生まれたかは行ってみないと分からないが。」
彼の声は酷く小さく、まるで傍に誰かが来て聞いているといわんばかりに感じた。『院』の廊下に出たら何処かで聞いているものがいてもおかしくはない、だがここ一番という話をするはずのこの部屋で一番聴かれたくない言葉こそが最も声を潜められるという事実に気がついて朱雀は息を呑んだ。
この部屋に確実に耳をそばだてるものがいると言う事に気がついて、そう考えると此処で身の回りの話や大事な話は極力するなと昔言い聞かされた事すらつい今のことのように感じられる。それを知ってか知らずか優輝の潜めた声が、密かに言葉を繋いだ。
「世に出て直ぐにゲートを抉じ開ける様な力を持つ人外は、四人係でも危険なんだ。」
「危険だからって……でも……。」
「黙って聞け、いいか?お前は何をおいても澪を守れ。想は俺が守る。駄目なときは、約束だ。わかるな?」
その声は酷く思いつめて朱雀の心をかきむしるような気がして、武は表情を歪めた。それに気がついた様に、ふっと優輝は悲しげに視線を震わせ、その言葉の意味を噛み締めるように淡く微笑んだ。
まだ、彼らの二人の仲間には伝えなかった事実。
それは、残酷だが危険性が高いものに直面したということは、十分にあり得る事なのだと言う現実なのだ。自分達にも訪れる事だと言う事に朱雀自身十年も役目をこなしてきて、今初めて思い知らされたのだ。
「…優輝……。」
「大丈夫だ、………ちゃんと周りを見てやれば必ず皆戻ってこれる。だから、もしもの時の確認だ。分かったな?」
その声に響く暗い影に思わず武は微かに熱を帯びた手で優輝の腕を掴み返した。まるで、目の前の陽炎のよう優輝の姿が揺らいだ気がして、酷く恐ろしかったのだ。それは、彼の中にある紅の世界に消えて失ってしまった全てののものと重なるように揺らぎ、不安に押し潰されそうな気持ちに駆られる。それを知っていると言うように、十年もの間兄のように一緒にいた優輝が穏やかに口を開く。彼自身も深く辛い記憶を抱え、それでも自分以上の長い時間をこうしてきて、彼らの中で唯一他の先任者の行く末までも見つめてきたその瞳は今は黒い真珠のように輝くながら揺れている。
「……武、戻ったら、澪に気持ちくらい伝えろよ?……奴等と戦うよりその方がよっぽど簡単なんだぞ。」
「お、俺にはそっちのほうが難題なんだよ。」
自分の不安を振り切らせるように軽口を叩く優輝の姿に、胸の奥にわだかまる不安を飲み込んで言い返す。その言葉に薄暗い室内で微かに微笑んだ彼の表情を見上げながら朱雀として武は、心の中で何度もその不安を打ち消そうとするかのように彼の言った言葉を心の中で繰り返していた。
朱雀自身不安に押し潰されそうになる気がして、ただ「大丈夫。皆戻ってこれる。」と繰り返せば、それが現実になる心から信じたかったのだ。
※※※
耳に響きわたる白虎の悲鳴のような声を聞き、四神達の動揺をつく様に八握脛の姿が闇にズブズブと沈み消えていく。それを見ながらも、それでも朱雀の手はゲートを閉じる。凍りついた視界の中で白虎が宙を真っ逆さまに落ちてくる変化の解けた玄武の体を自身も変化を解いた体で抱きとめるのを見つめたが、何が起きているか理解が出来たのはもっと後だった。
大丈夫だ、ちゃんと周りを見てやれば必ず皆戻ってこれる…
その言葉がまるで心の中に木霊するような気がした。
漂っていた胸の奥の不安が形を成して、今変化をといた澪の腕の中に抱きとめられているその姿を呆然と自分は見下ろしている。
ゲートを閉じた武に優輝の視線が微かにそれでいいというように緩むのを見た瞬間、武はその状況に愕然として立ちすくむ自分に気がついた。澪の細い腕の中で空を見上げる優輝は、まるで分かっていたとでも言うように微かな微笑みを浮かべて口から大量の血液を溢れさせた。
躊躇う事もなく青年の体から生命の光が失われていくのが、目の前にいるだけで分かる。土気に侵された水気はその清廉さを濁し、土気に浸食され水気の生命ごと吸い尽くされようとしていた。泣き声で彼に話しかける澪の言葉を、武の意識は理解するのを全て拒否したかのようだ。
…どうして……。
胸の奥が切り裂かれるような痛みを感じながら、武は優輝の姿を想の肩越しに見つめ、優輝もまたその視線に気がついているかのような光を眼に浮かべた。切れ切れの彼の声が微かに響く。それは全て黒の夜の闇に彼の魂ごと溶けて滲み消えていくかのような気がした。
「奴を……必ず……。」
その言葉だけがはっきりと不意に武の耳に届き、心が音を立てて裂けたような気がした。真紅の血を流す優輝の姿のように、自分の胸の中で心が裂けて血を流しているような感覚が痛みのように襲い掛かる。直後、微かにもう何も見ていないかのようなその青年の瞳が宙を仰ぎ、その血にまみれた唇が微かに動いたのを武だけが見つめていた。
……春海。
そう確かに唇は音もなく言葉を紡ぎ、死が三人の間に忍び寄り最後の灯火が掻き消すのを感じる。その時初めて抱きとめていた澪が絶望とともに嗚咽をこぼした。
彼に出会ってからの十年が激しく記憶の中で閃き、さらに増した澪の嗚咽を耳にしながら武は世界が揺らぐのを感じる。心に走る激しい痛みと溢れる様な思いが強い後悔を彼の胸に刻みつけていく。
もし、自分が火気を与えなかったら…。もし…あの時……。
揺らぐ世界を不意にわれに返らせるように不意に、木陰から現れた数人の人影に嗚咽をこぼし青年の体を抱きしめている彼女以外の二人に見て止められた。それは、僧衣の院の者の姿に他ならない。武はその姿にきつく唇を噛み、同じように思わず立ち上がって驚愕に眼を見開く想を視界の隅に感じた。そう、彼らは見ていたのだ。ただ、木立の隙間から人外に気がつかれないほど離れた場所で自分達を監視していたことは知っていても、その現実が更に武の心を抉る。
「玄武殿をこちらへ。」
機械的な無機質にも聞こえる声に嗚咽をこぼしていた澪が驚きに満ちた視線を上げた。月光の下で僧衣の男達は無表情な視線のままに、彼女たちを囲み見下ろしている事の意味に気がついた澪はその双眸を怒りにたぎらせた。それは横にいる想の瞳にもありありと浮かび上がる明確な怒りの色だった。
「何故っ!!!何故見ていてっ!!!!!」
彼女の憤りを受けても、彼らがどうする事もできないのだと武には分かった。彼らはゲートを閉じる事はできても、人外と直接戦う力を持っている訳ではない。彼らには自分たちのような気を持つ事は無いのだから。そう考えながら武は男達の所在なさげにも感じる姿を哀しい視線で見回した。武の視線は酷く哀しい紅玉の光を放ちながら堪える涙に揺れるのを感じながら、暗闇の中を切り裂くような白銀の慟哭を放ち怒りを顕にしている澪の腕をそっと引きとめた。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
未明の駅
ゆずさくら
ホラー
Webサイトに記事をアップしている俺は、趣味の小説ばかり書いて仕事が進んでいなかった。サイト主催者から炊きつけられ、ネットで見つけたネタを記事する為、夜中の地下鉄の取材を始めるのだが、そこで思わぬトラブルが発生して、地下の闇を彷徨うことになってしまう。俺は闇の中、先に見えてきた謎のホームへと向かうのだが……
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
僕が見た怪物たち1997-2018
サトウ・レン
ホラー
初めて先生と会ったのは、1997年の秋頃のことで、僕は田舎の寂れた村に住む少年だった。
怪物を探す先生と、行動を共にしてきた僕が見てきた世界はどこまでも――。
※作品内の一部エピソードは元々「死を招く写真の話」「或るホラー作家の死」「二流には分からない」として他のサイトに載せていたものを、大幅にリライトしたものになります。
〈参考〉
「廃屋等の取り壊しに係る積極的な行政の関与」
https://www.soumu.go.jp/jitidai/image/pdf/2-160-16hann.pdf
不労の家
千年砂漠
ホラー
高校を卒業したばかりの隆志は母を急な病で亡くした数日後、訳も分からず母に連れられて夜逃げして以来八年間全く会わなかった父も亡くし、父の実家の世久家を継ぐことになった。
世久家はかなりの資産家で、古くから続く名家だったが、当主には絶対守らなければならない奇妙なしきたりがあった。
それは「一生働かないこと」。
世久の家には富をもたらす神が住んでおり、その神との約束で代々の世久家の当主は働かずに暮らしていた。
初めは戸惑っていた隆志も裕福に暮らせる楽しさを覚え、昔一年だけこの土地に住んでいたときの同級生と遊び回っていたが、やがて恐ろしい出来事が隆志の周りで起こり始める。
経済的に豊かであっても、心まで満たされるとは限らない。
望んでもいないのに生まれたときから背負わされた宿命に、流されるか。抗うか。
彼の最後の選択を見て欲しい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる