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外伝 思緋の色
第四幕 悲運
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結局信哉はその後道場主に何度も進められた事もあってか、何か心の整理がつかないことが起きたりという自分の心に整理をつけたい時にしか道場には足を向けない事に決めたようだ。平常心でものを考えたい時に、ふっと少しの時間だけ鍛錬には通っているらしい。ただそれ以来寡黙になってきたというか有り余り日々の出来事に関しても詳しく話さないようになったのも事実だ。それから月日は流れ信哉は高校に入学して、それと同時に最近少し気になり始めたことがあって、武はその相手の家に久々に足を向けていた。
チャイムの音に扉を開けた相手は珍しそうに自分の顔を見下ろしながら小さく微笑むと中に促す。相変わらず女性の気配もない閑散とした書物ばかり目に付く室内に入り、かって知ったる様子で腰掛ける彼に部屋の主・氷室優輝は苦笑を浮かべる。
「……どうした?何かようか?」
その口調は何時もとそれ程変化があるようには聞こえない。
三十五歳になるには少し雰囲気のせいで老成しているかのようにも見える優輝は、穏やかな視線で自分を見つめ返す。武は少し伺うような視線を向けて彼の顔を見つめ返した。
優輝は自分の仕事もキチンとこなしているのは知っていたし、暫くそちらに集中するとここ一年次第に優輝は澪の家に来る事が減っている。誘っても色々と理由をつけて断る事が増え、仕事の同僚や友人との付き合いもある気配なのは悪いことではない。しかし、全く姿を見せないのは珍しく、ここ一ヶ月は全く澪の家には来ていないといってもいい。それが悪いというわけではないし、彼にも自分の生活もあるとは思う。だがその様子の奇妙さは仲間の中では、一番付き合いの長い自分には奇妙なものに見えた。
今いる四神の中でもっとも長く役目を続けている玄武。
やっと十年目になる自分よりも遥に長い時間をこの生活の中で過ごし、一人きりになった自分に初めてできた兄のような存在である優輝の事は、付き合いの長い分よく理解しているつもりでいた。
「俺が、何で来たかくらい優輝なら分かってんだろ?」
その言葉に向かいに腰掛けた優輝は、微かに苦笑して「そうだな」と呟く。穏やかな無言の先に彼は小さく溜め息をついて、視線を手元に下げた。優輝も武がどうして来たのか位は既に理解しているのだ。理解していて遂にその時が来たと言う風な、気配すら漂わせている。
「なぁ武。」
躊躇いがちな声は掠れて低く彼らしくない声音に聞こえて、武は目を細めた。
「澪は凄いな………子供を産んで、ちゃんと子供を育てて守って………俺には………できないことだ。」
何時もの言葉なのに何故かそれが違って聞こえるのに、武は眉を潜めながら何時ものように彼に向かって口を開く。
「あいつだって信哉に守られてるんだから、凄い事じゃないだろ?優輝だって、その気になれば………。」
優輝は武の言葉を遮るようにふと視線を上げた。その瞳は今まで見たことのない程感情が消え去っているようで、武は思わず口をつぐんだ。優輝は音もなく立ち上がると、すっと奥の部屋に向かい一枚の写真を片手に戻ってくる。そうしてその表情を変えることもなく、武にその写真を差し出した。
少ししわになって角の折れた鮮やかな色合いの写真には、黄色い菜の花のような美しい花畑を見ながら穏やかに微笑む優輝と見たことのない一人の女性の姿があった。
「誰……?」
優輝は立ち尽くしたまま武の顔を見つめていたが、不意に砕けるようにその無表情が哀しみに歪んだ。十年もの付き合いで一度も見たことのない悲痛で、激しい痛みを伴う哀しみに優輝が打ちのめされている。
「春海………、伏倉春海って言うんだ。」
呟くように写真の人の名前を告げる優輝は、もう隠す事もないと目を伏せた。
「付き合っていた……結婚する気だったんだ………。」
その言葉に武は目を丸くする。
一度もそんな素振りを彼が見せた事もなく、彼が誰か特定の人と付き合っていた事にも全く気がつかなかった。しかし、その言葉を放った優輝は酷く暗い視線で、武の手元の写真を眺めながら重く暗い声音で呟く。
「…………澪のように………何か残せるんじゃないかって……だから、彼女との未来もあるんじゃないかと……。」
「優輝……それって……。」
澪と信哉を見つめてきて心に灯った希望。
社会に再び目を向け過ごす内に、それをひっそりと静かにはぐくもうとした優輝の気持ちはよく分かる気がした。自分の倍近い時間の流れをこの独りきりの世界で黒い闇の中で生きてきた優輝だからこそ、大事にそっと育もうとした彼自身の幸せと希望。彼はソファーに力なく座ると目の前で微かに震える溜め息をついて、膝の上に組んだ手に額をつけた。
「……気をつけていたんだ……日々の生活だって、彼女の身の周りだって……充分すぎる程気を付けていた。」
その言葉に彼が余り鳥飼家に姿を見せなくなった理由が、改めてわかる気がした。彼は彼なりに大切な人を守ろうとしていたのだろう。
「だけど……。」
優輝の声が掠れるのを聞いて、自分の体からも血の気が引いていくのが感じられる。
確かに澪の存在を知って彼女が信哉を産んでいると聞いたとき、自分も今まで同じ事を考えなかったわけではない。ただ彼が想ったのが、仲間の一人でもある唯一の女性だったから何も代わりなく過ごしていた。それが、他の人間だったらとは今まで考えた事もなかったが、目の前の氷室優輝は他の女性と恋に落ちたのだ。思わず言葉の続きを息を呑んで待つ。
暫くし黙り込んでいた優輝は、視線を手から上げてそっと武の手から写真を受け取り写真の中の彼女の姿に触れる。
「まるで……呪いだよ……武。俺は、一つもこんな力望まなかったのに……。」
悲しい震える声に、武は衝撃を受けながら口を開く。
「優輝………まさか、その人………。」
彼はふと視線を上げ、真正面から武を見つめた。優輝の視線は今まで見たこともない程に酷く空虚で揺らいでいる。
「先月死んだよ……、水に殺された。」
彼はそう言うと再び視線をその写真に落とし、俯くと一滴の涙を溢した。そこで初めて武はその写真に残る細かく沢山のしわが、彼の溢した涙の跡だということに気がついた。
※※※
伏倉春海と氷室優輝は仕事で出会い恋に落ちた。少し浮世離れした優輝に伏倉春海は、丁寧に仕事の仕方を教えてくれた先輩でもある。穏やかで優しい小柄な彼女に、いつの間にか惹かれていたが自分には家族は持てないと諦めてもいた。それを覆したのは伏倉の方で、好きだけど付き合えないと言った優輝にならお試しでと子供のように悪戯めいた口調で言う。
彼女との一緒にいると気持ちが穏やかになれる。ささくれだっていた心が包み込まれて、自分が人間なのだと感じさせてくれるのだ。やがて手をとり彼女を抱き締めた優輝の脳裏には、僅かだが自分も澪のように誰かと愛を交わせるのではと仄かな希望を抱いた。
信哉は十二歳になり、その父親も生きている。なら、もしかしたら。
今までの前例を覆した彼女の存在に、自分にも覆すことができるのではと淡い期待を持ってしまったのだ。
「優輝、あのね?話があるの。」
それは彼女からの打ち明け話で、優輝の希望を更に強くした。春海が優輝の子供を妊娠したと、頬を染めながら彼に打ち明けたのだ。
「春海……、結婚しないか?」
そう告げて頷いてくれた彼女の微笑みを見下ろしたのは、ほんの一ヶ月前の事だった。春海と結婚して子供を育てるつもりだった優輝の希望ごと、全てを脆くも打ち砕いたのはその結婚の約束をした翌日の事だった。
日々気を付けていたのに彼女を守り続けていたのに、突然その連絡が届いた時の愕然とする思い。しかも、そんな馬鹿なと言いたくなるような彼女の死の原因。
公園の真ん中での乾性溺水。
万が一でもあり得ないと思うような偶然のタイミングで、春海は人とぶつかり吹き出す噴水の水を勢いよく顔に受けた。乾性溺水とは勢いよく水を飲んだ時などに、誤って呼吸器に水を吸い込んだことが原因で気道が痙攣を起こし、空気の通り道がふさがれて溺水や溺死を引き起こすことである。定時に吹き出すタイプの噴水は足元を湿らせる程度の水でしかなく、偶然顔に水を受けた春海がそのまま窒息するなんて考えもしない。倒れた春海に驚いて駆け寄った人が救急車を呼んだが、到着までの数分の時間は致命的だった。だれかが、救命蘇生を少しでも行えれば違ったかもしれないが、神様の悪戯はそれすら許さなかったのだ。勿論彼女の中の優輝との子供も、彼女と共に奪い去られてしまっていた。
やっとのことで彼女と再会したのは冷たく暗い霊安室の中のベットの上で、もう冷たくなって笑いもしない春海の顔に優輝はその場で泣き崩れるしかできなかったのだ。
※※※
優輝の絶望に満ちた言葉に、武は唇を噛み言葉を失った。澪の存在で何処か自分達にも、何かしら残せるのではないかとか、何か自分達も通例を打ち破れるのではと何処かで軽く考えていたかもしれない。同時に澪と信哉の存在が如何に普通ではないのかが、改めて胸に突き刺さる。
本当にこのまま二人は一緒にいて、大丈夫なのだろうか。
もしかしたら澪が内心に危惧していたように血縁でなければ生きていられるなら、信哉との縁を切っておくべきなのだろうかとすら考えてしまう。だが、そうだったとしてもやはり信哉のあの能力が、普通ではないのではないかとも考える。澪だから子供を産めたのであって、同時に信哉だから生きているのだとしたら?
そんな不穏なことを考えながらも、この部屋で一ヶ月優輝が何をどう思ってきたのかを武は目を向けて思う。それは全てこの閑散として空虚に感じる室内に漂う空気にあふれているような気がして、それ以上何も話す事ができなくなった自分に武は気がついた。
※※※
「全てがまるで、鎖にとらわれているような気がする……。」
口に出して呟けば、それが真実のような気がした。
一つの希望すらもたせない……それで、何故自分達はこの世界を守る?
夜の帳の落ちた足元の世界は、煌く星のようなオレンジや白の温かい光を燈し始め、彼は無言のままそれを見下ろした。
紅の世界で失ってしまった自分がいたあれと同じ場所。
それを守る為に戦ってきたし、今もそれは変わらない。だがそれ以上に彼自身、新しく生まれた彼の居場所を守りたかった。
仲間という彼だけの世界を守りたかった。その紅玉の光を放つ瞳は酷く激しく炎のように煌いて、まるで泣いているかのようにも見えた。
全てを犠牲にして得る力。そして孤独にならなければ、孤独でなければ得られない力……。
それは、まるで未だに自分は会ったことのない人外と呼ばれるものの存在と同じような気がするのは何故だろう。人の身であるのに自分達の存在は、酷く人間とかけ離れている気がした。この異能の力も自分と言う存在すらも、誰かの犠牲がなくては存在できない。
それまでずっと自分達をモルモット扱いする院を、一度もよく思ったことはなかった。なのに今はその存在すらも酷く悲しいもののような気がする。
自分達は何処へ向かおうと言うのか、自分達に未来はあるのだろうか。
はるかな虚空に昇る赤い月を見上げ、彼は無言のまま虚空へそびえたつ鉄塔の上で立ち尽くしていた。
チャイムの音に扉を開けた相手は珍しそうに自分の顔を見下ろしながら小さく微笑むと中に促す。相変わらず女性の気配もない閑散とした書物ばかり目に付く室内に入り、かって知ったる様子で腰掛ける彼に部屋の主・氷室優輝は苦笑を浮かべる。
「……どうした?何かようか?」
その口調は何時もとそれ程変化があるようには聞こえない。
三十五歳になるには少し雰囲気のせいで老成しているかのようにも見える優輝は、穏やかな視線で自分を見つめ返す。武は少し伺うような視線を向けて彼の顔を見つめ返した。
優輝は自分の仕事もキチンとこなしているのは知っていたし、暫くそちらに集中するとここ一年次第に優輝は澪の家に来る事が減っている。誘っても色々と理由をつけて断る事が増え、仕事の同僚や友人との付き合いもある気配なのは悪いことではない。しかし、全く姿を見せないのは珍しく、ここ一ヶ月は全く澪の家には来ていないといってもいい。それが悪いというわけではないし、彼にも自分の生活もあるとは思う。だがその様子の奇妙さは仲間の中では、一番付き合いの長い自分には奇妙なものに見えた。
今いる四神の中でもっとも長く役目を続けている玄武。
やっと十年目になる自分よりも遥に長い時間をこの生活の中で過ごし、一人きりになった自分に初めてできた兄のような存在である優輝の事は、付き合いの長い分よく理解しているつもりでいた。
「俺が、何で来たかくらい優輝なら分かってんだろ?」
その言葉に向かいに腰掛けた優輝は、微かに苦笑して「そうだな」と呟く。穏やかな無言の先に彼は小さく溜め息をついて、視線を手元に下げた。優輝も武がどうして来たのか位は既に理解しているのだ。理解していて遂にその時が来たと言う風な、気配すら漂わせている。
「なぁ武。」
躊躇いがちな声は掠れて低く彼らしくない声音に聞こえて、武は目を細めた。
「澪は凄いな………子供を産んで、ちゃんと子供を育てて守って………俺には………できないことだ。」
何時もの言葉なのに何故かそれが違って聞こえるのに、武は眉を潜めながら何時ものように彼に向かって口を開く。
「あいつだって信哉に守られてるんだから、凄い事じゃないだろ?優輝だって、その気になれば………。」
優輝は武の言葉を遮るようにふと視線を上げた。その瞳は今まで見たことのない程感情が消え去っているようで、武は思わず口をつぐんだ。優輝は音もなく立ち上がると、すっと奥の部屋に向かい一枚の写真を片手に戻ってくる。そうしてその表情を変えることもなく、武にその写真を差し出した。
少ししわになって角の折れた鮮やかな色合いの写真には、黄色い菜の花のような美しい花畑を見ながら穏やかに微笑む優輝と見たことのない一人の女性の姿があった。
「誰……?」
優輝は立ち尽くしたまま武の顔を見つめていたが、不意に砕けるようにその無表情が哀しみに歪んだ。十年もの付き合いで一度も見たことのない悲痛で、激しい痛みを伴う哀しみに優輝が打ちのめされている。
「春海………、伏倉春海って言うんだ。」
呟くように写真の人の名前を告げる優輝は、もう隠す事もないと目を伏せた。
「付き合っていた……結婚する気だったんだ………。」
その言葉に武は目を丸くする。
一度もそんな素振りを彼が見せた事もなく、彼が誰か特定の人と付き合っていた事にも全く気がつかなかった。しかし、その言葉を放った優輝は酷く暗い視線で、武の手元の写真を眺めながら重く暗い声音で呟く。
「…………澪のように………何か残せるんじゃないかって……だから、彼女との未来もあるんじゃないかと……。」
「優輝……それって……。」
澪と信哉を見つめてきて心に灯った希望。
社会に再び目を向け過ごす内に、それをひっそりと静かにはぐくもうとした優輝の気持ちはよく分かる気がした。自分の倍近い時間の流れをこの独りきりの世界で黒い闇の中で生きてきた優輝だからこそ、大事にそっと育もうとした彼自身の幸せと希望。彼はソファーに力なく座ると目の前で微かに震える溜め息をついて、膝の上に組んだ手に額をつけた。
「……気をつけていたんだ……日々の生活だって、彼女の身の周りだって……充分すぎる程気を付けていた。」
その言葉に彼が余り鳥飼家に姿を見せなくなった理由が、改めてわかる気がした。彼は彼なりに大切な人を守ろうとしていたのだろう。
「だけど……。」
優輝の声が掠れるのを聞いて、自分の体からも血の気が引いていくのが感じられる。
確かに澪の存在を知って彼女が信哉を産んでいると聞いたとき、自分も今まで同じ事を考えなかったわけではない。ただ彼が想ったのが、仲間の一人でもある唯一の女性だったから何も代わりなく過ごしていた。それが、他の人間だったらとは今まで考えた事もなかったが、目の前の氷室優輝は他の女性と恋に落ちたのだ。思わず言葉の続きを息を呑んで待つ。
暫くし黙り込んでいた優輝は、視線を手から上げてそっと武の手から写真を受け取り写真の中の彼女の姿に触れる。
「まるで……呪いだよ……武。俺は、一つもこんな力望まなかったのに……。」
悲しい震える声に、武は衝撃を受けながら口を開く。
「優輝………まさか、その人………。」
彼はふと視線を上げ、真正面から武を見つめた。優輝の視線は今まで見たこともない程に酷く空虚で揺らいでいる。
「先月死んだよ……、水に殺された。」
彼はそう言うと再び視線をその写真に落とし、俯くと一滴の涙を溢した。そこで初めて武はその写真に残る細かく沢山のしわが、彼の溢した涙の跡だということに気がついた。
※※※
伏倉春海と氷室優輝は仕事で出会い恋に落ちた。少し浮世離れした優輝に伏倉春海は、丁寧に仕事の仕方を教えてくれた先輩でもある。穏やかで優しい小柄な彼女に、いつの間にか惹かれていたが自分には家族は持てないと諦めてもいた。それを覆したのは伏倉の方で、好きだけど付き合えないと言った優輝にならお試しでと子供のように悪戯めいた口調で言う。
彼女との一緒にいると気持ちが穏やかになれる。ささくれだっていた心が包み込まれて、自分が人間なのだと感じさせてくれるのだ。やがて手をとり彼女を抱き締めた優輝の脳裏には、僅かだが自分も澪のように誰かと愛を交わせるのではと仄かな希望を抱いた。
信哉は十二歳になり、その父親も生きている。なら、もしかしたら。
今までの前例を覆した彼女の存在に、自分にも覆すことができるのではと淡い期待を持ってしまったのだ。
「優輝、あのね?話があるの。」
それは彼女からの打ち明け話で、優輝の希望を更に強くした。春海が優輝の子供を妊娠したと、頬を染めながら彼に打ち明けたのだ。
「春海……、結婚しないか?」
そう告げて頷いてくれた彼女の微笑みを見下ろしたのは、ほんの一ヶ月前の事だった。春海と結婚して子供を育てるつもりだった優輝の希望ごと、全てを脆くも打ち砕いたのはその結婚の約束をした翌日の事だった。
日々気を付けていたのに彼女を守り続けていたのに、突然その連絡が届いた時の愕然とする思い。しかも、そんな馬鹿なと言いたくなるような彼女の死の原因。
公園の真ん中での乾性溺水。
万が一でもあり得ないと思うような偶然のタイミングで、春海は人とぶつかり吹き出す噴水の水を勢いよく顔に受けた。乾性溺水とは勢いよく水を飲んだ時などに、誤って呼吸器に水を吸い込んだことが原因で気道が痙攣を起こし、空気の通り道がふさがれて溺水や溺死を引き起こすことである。定時に吹き出すタイプの噴水は足元を湿らせる程度の水でしかなく、偶然顔に水を受けた春海がそのまま窒息するなんて考えもしない。倒れた春海に驚いて駆け寄った人が救急車を呼んだが、到着までの数分の時間は致命的だった。だれかが、救命蘇生を少しでも行えれば違ったかもしれないが、神様の悪戯はそれすら許さなかったのだ。勿論彼女の中の優輝との子供も、彼女と共に奪い去られてしまっていた。
やっとのことで彼女と再会したのは冷たく暗い霊安室の中のベットの上で、もう冷たくなって笑いもしない春海の顔に優輝はその場で泣き崩れるしかできなかったのだ。
※※※
優輝の絶望に満ちた言葉に、武は唇を噛み言葉を失った。澪の存在で何処か自分達にも、何かしら残せるのではないかとか、何か自分達も通例を打ち破れるのではと何処かで軽く考えていたかもしれない。同時に澪と信哉の存在が如何に普通ではないのかが、改めて胸に突き刺さる。
本当にこのまま二人は一緒にいて、大丈夫なのだろうか。
もしかしたら澪が内心に危惧していたように血縁でなければ生きていられるなら、信哉との縁を切っておくべきなのだろうかとすら考えてしまう。だが、そうだったとしてもやはり信哉のあの能力が、普通ではないのではないかとも考える。澪だから子供を産めたのであって、同時に信哉だから生きているのだとしたら?
そんな不穏なことを考えながらも、この部屋で一ヶ月優輝が何をどう思ってきたのかを武は目を向けて思う。それは全てこの閑散として空虚に感じる室内に漂う空気にあふれているような気がして、それ以上何も話す事ができなくなった自分に武は気がついた。
※※※
「全てがまるで、鎖にとらわれているような気がする……。」
口に出して呟けば、それが真実のような気がした。
一つの希望すらもたせない……それで、何故自分達はこの世界を守る?
夜の帳の落ちた足元の世界は、煌く星のようなオレンジや白の温かい光を燈し始め、彼は無言のままそれを見下ろした。
紅の世界で失ってしまった自分がいたあれと同じ場所。
それを守る為に戦ってきたし、今もそれは変わらない。だがそれ以上に彼自身、新しく生まれた彼の居場所を守りたかった。
仲間という彼だけの世界を守りたかった。その紅玉の光を放つ瞳は酷く激しく炎のように煌いて、まるで泣いているかのようにも見えた。
全てを犠牲にして得る力。そして孤独にならなければ、孤独でなければ得られない力……。
それは、まるで未だに自分は会ったことのない人外と呼ばれるものの存在と同じような気がするのは何故だろう。人の身であるのに自分達の存在は、酷く人間とかけ離れている気がした。この異能の力も自分と言う存在すらも、誰かの犠牲がなくては存在できない。
それまでずっと自分達をモルモット扱いする院を、一度もよく思ったことはなかった。なのに今はその存在すらも酷く悲しいもののような気がする。
自分達は何処へ向かおうと言うのか、自分達に未来はあるのだろうか。
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