GATEKEEPERS  四神奇譚

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外伝 思緋の色

第三幕 あの人

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その日、武は何かが気にかかって仕方がなかった。訪れた鳥飼家のドアを開けたのは、何時もの十二歳の少年ではなく、その家の家主の姿だった。しかし、武の目でも分かるほどに何時もと様子が違う澪の様子に、武は思わずまじまじと彼女の姿を見つめる。

「何か……あったのか?」
「…武……。」

彼女は疲れたように微かに笑う。今まで一度も見せた事のない、儚く溶けてしまいそうな淡い粉雪のような真っ白な微笑みに武は息を呑む。彼女はその微笑を浮かべた事自体も自分で気がついていない様に武の顔を見つめ返し、「はいって」と小さく呟いた。弱く折れてしまいそうなその背中を見つめながら、武は無言のままに促される言葉に従う。自分が危惧していた通りの事態を迎えた事が、澪の様子でよく分かった。

「あの子に……、父親の事を聞かれたわ。」
「うん……。」

彼女は背を向けたまま微かに俯いたようだった。艶やかな黒羽のような色をした髪が、サラサラと肩から滑り背中を舞うように撫でていくのを武は無言のままじっと見つめる。

「もう……あの子……知ってたわ……。私……私は………。」

微かに震える肩に気がついて、言葉をかけるよりも先に手が動くのを感じた。言葉よりも先に自分の指先がその細い肩をかすり、自分の手の中に彼女の熱い涙を感じながら初めてその体を振り向かせて抱き寄せる。それは、思っているよりずっと細く小さな体だった。憂いに揺れる彼女はそのまま腕の中で小さな苦悩の嗚咽を零しているのを感じながら、その絹のような髪を手の下に感じる。

「あ……あの子の……結論が聞けなか………たっ。」
「分かってる……、お前の気持ちも信哉の気持ちも知ってるから、話さなくていい。」

その言葉に不意に大きく涙に煌く瞳が、自分を見上げるのを見つめ返した。驚きながらも真っ直ぐに見つめる美しい瞳。

澪の瞳をこんなに近くから見たのは初めてだ。

ふとそう心が囁くのを聞いたが、吸い込まれそうな黒目勝ちの瞳を見つめながら武は静かに零れ落ちる涙を見つめる。そして、初めて彼女が弱音を吐くのを見たことに気がついた。今まで一度も澪が振り返らずに来たのは、全て彼女の息子の存在があったからなのだ。それに改めて気がついて、武は初めて彼女の頭を昔彼女がしたように優しく気遣うようにそっと撫でる。

「あいつは……お前の気持ちをちゃんと分かってるよ、澪。」

武がそう囁いた瞬間、澪の表情が砕け子供のように歪んだ。

「でも……、あの子が……もう帰って来ないって、決めたら…私は……。」

気持ちは痛いほどに判る気がした。
長月想が口にした、自分を関わらなければ血の繋がった父でも生きているのだろうかという問い。それは言い換えれば、ずっと澪の心の何処かにもあった筈だ。

自分の血縁者は子供を残して他は全て死んでしまった。
自分の息子の父親は、自分と関係のない立場で今も生きている。では、自分の子供は、このまま自分と一緒に居てもいいのか。もしかしたら、この運命はこのままでは、自分の子供にも降りかかりはしないだろうか。
もしそうなら、早いうちに自分は子供と離れるべきなのだろうか。

そう出来なかったのは、澪自身が心から大切な息子を必要としたからだ。澪自身が前を向いて生きるために、息子の存在は不可欠で一番必要だった。それは薄々分かっていたが、ついに彼にもその時が来てしまった。

「……澪、あいつの事を信じろ。信哉はちゃんと自分で考えて決めるはずだ。」

それがどんな結論でもという自分の声に澪が声を上げて泣き出したのを、突き刺さる痛みのように感じながら武は天を仰ぎ眼を閉じた。信哉がどんな結論を出すのかは武にも分からなかったが、それでも彼は彼女の息子には変わりない。その事だけは絶対に変わりようがない。彼はそう心の中で呟きながら、ただ今は何時ものあの暖かい空気のない静かな部屋をその肌で感じる。そして、その腕の中で泣き続ける武にとって大事な人の心を癒そうとするように、無言のまま頭を撫で続けた。
暫くして泣き止み落ち着いた澪の体をそっと腕を解き離すと、彼女は少し気恥ずかしげに微笑みながら「お茶入れるね」と囁いてキッチンに踵を返した。何時ものようにキッチンに立つ澪の姿のよく見える場所に腰掛けた武に、その美しく輝く瞳は伏せたまま少し赤く滲むような色を残した頬の澪は呟く。

「あの子……あの人と話してくるって言って出て行ったの。」
「そっか……。」

暫くの無言の後にふと水音の影で彼女が小さな自嘲気味にクスリという笑みを溢したのに気がついた。武はそれに不思議そうに、ふっと彼女を見やる。澪はその視線に気がついたようにまるで淡い若葉の色を思わせる幼く初めて見せる笑みを浮かべて武を見やり、思わず武はその表情に魅せられたように視線をとめた。

「武に慰められちゃったわね、ありがとう。」

その言葉と笑顔に不意に頬が熱を持つような気がして、何にもしてねぇよと武は視線を背ける。そうしながらも、不意に自分の腕の中に澪の体の感覚と彼女の放つ香りがまだ残っているような気がして武は微かに戸惑う。しかし、その武の様子に気がつかない風の彼女はいい香りのする湯気をくゆらせたマグカップを彼に差し出した。

「珈琲のほうがいい。」
「我侭言わないの、いれてあげてるんだから。全く武のおかげで家に珈琲党が増えちゃったのよ、信哉も珈琲って……。」

ふと止まった澪の言葉に心配げに彼が見やると、澪は気がついたように自嘲気味に笑って「もう平気よ」と呟くように言う。空元気にしか過ぎないと分かっていても澪は、明るく微笑んで見せながらもう一度まるで自分に言い聞かせるかのように「大丈夫」と囁く。
その言葉と殆ど同時に玄関が開き「ただいま」という息子の声が響き彼女の瞳が一瞬不安に揺れるのを見たが、澪はふっと息を吐いて穏やかに「おかえり」と声をかけた。室内にはいってきたのは戸惑いを隠せない表情の彼女の息子と仲間の姿だった。

「想君?」
「こんにちは、澪さん。あ、武さんも着てたんですか。」
「まァね。……俺は帰ったほうがいいか?」

その言葉の意味に気がついたように俯いていた少年は、真っ直ぐに彼の顔を見上げた。そこには彼の母親も彼の父親も同時に面差しとして併せ持つ顔に一杯の困惑を湛えた瞳があり、武は思わず目を細める。暫く考え込む素振りを見せていた少年は、やがて小さく首を横に振った。それは、彼自身、まだ何かまとめきれない思いがあって傍に居て欲しいといっているかのような気配にも感じられる。

「母さん……。」

躊躇い勝ちに口にした言葉。いつの間にかお母さんを卒業して、母さんと呼ぶようになったのは何時からだっただろうと澪は考える。あっという間に大きくなって違う呼び方をしたり、彼女を連れてきたりするようになるんだろうか。

「………これからは……僕が父さんの代わりに母さんを守る。」

その言葉の影に武は、あの時彼の父親であるあの人物から聞いた言葉が隠れているような気がした。
彼は「守りたかった」と言った。
そして彼は「守ろうとしたのではないか」とも言った。
恐らくあの人物は信哉に、真っ直ぐな視線で正直にそれを話したのかもしれないと武は思う。結ばれはしなかったけどお互いの思いが純粋なものであった事だけは、確かな真実であったという言葉。それを聞いて信哉は彼なりの結論を出したのだ、自分は澪の傍にいると。

「……信哉……。」

澪の言葉の中に浮かぶ安堵の感情を感じながら、思わず自分か小さな安堵の息をついたのに気がついて武は苦笑する。信じていろといながら自分も何処か不安を感じていた事に気がついた苦笑の影で、逆に困惑を深めた少年の様子に気がついて彼は眉を潜めた。同じようにその困惑に気がついた澪が不思議そうに言葉の先を待つのに気がついて、同伴してきた想が少年を勇気付けるかのようにポンとその肩を軽く押す。すると、暫しの逡巡の後に信哉は重い口を開いた。

「………僕は………母さんが皆から悪く言われるのが、嫌だったんだ。それにあの人も………。」

彼の苦悩の理由を聞いた瞬間、澪が微かに息を飲むのを肌で感じた。
ここ周辺では珍しい『鳥飼』という苗字。
そして、古武術を習っていた者でなくとも過去に同じ名前の道場がこの街の中にあった事を知っている者はまだ大勢居るだろう。そして、過去その名前を持つ少女が『真見塚』の家に暫くの間いた事を知る者もきっといたに違いない。ある日、そこから立ち去った少女と同じ苗字を持つこの少年。それだけならば何も起こらないかもしれない。だが、今この少年はどう見ても二人の面差しを過分に感じさせる容姿と、たぐいまれなる古武術の才能を受け継いでしまっている。古武術の道場が他に一ヶ所しかないという現実もあるが、彼の姿を見て彼が傍目にも道場主から過分に目をかけられれば結論は直ぐ噂につながるのかもしれない。

「………だから僕は、母さんやあの人の奥さんの為にも、もう通わないって………言いにいったんだ。」

武はその言葉に微かな驚きを持って少年を見つめた。
信哉が恨む事より先に案ずる事を選択した事を初めて知って、彼は畏怖にも似た思いでその姿を眩しそうに目を細め見つめる。考えていたより遥かに目の前の少年は大人の思考で、客観的に周囲を見定めて考えたのだという事実。自分が同じ立場だったらまず恨み言から始まると思うのにと心の中で呟く。
その視線の向こうで、ふと彼の仲間が淡く苦い微笑を浮かべたのに気がついた二人は訝しげに眉を潜めた。

「そうしたら…………、あの人、門下生としてはそれでいいけど、鍛錬にはきなさいって………。」

少年が必死に考えて出した結論。自分が通う事で起こった噂を通わない事で収めようと言う結論を、違う意味で道を塞がれてしまったのだ。思わず信哉の困惑の意味が理解できて、武は天を仰いであの道場主ならいいそうだと思う。
非凡で捨てがたい天武の才能を持つ少年。だがそれ以上に、あの人物にもこの子を傍から話したくないという思いが心の何処かにあるに違いない。
武の向こうで澪も一瞬言葉を失って唖然としたのが分かった。
どうやらこの言葉は彼女にとても予想外の言葉だったのだろう。やがて、まるで過去を思うかのような解く懐かしげな淡い微笑がその表情に浮かび、彼女は半分呆れたように溜息をついた。

「………あの人らしいわね。」

その言葉にこめられた微かな響きに気がついて、武は思わず咄嗟に「まァ、人がいないときに通えばいいんじゃね?」と言いながら手荒くグシャグシャと少年の頭を褒めるように撫でまわす。グシャグシャ止めてよっと憮然とした表情ではあるが、報告出来たことで険しかった表情を緩めた少年を見つめ、その言葉にこめられた彼女の過去をふと心に思う。そんなことを考えながらも、安堵した表情の澪を見ているほうがさっきみたいな悲しい泣き顔を見つめているよりはマシだと武は心の底から感じていた。

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