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第二部
終幕 都立総合病院 救急病棟
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ふっと微かなオレンジの室内灯の光の中で孝は意識を取り戻し、ボンヤリとした視界を見渡した。一瞬、事態の把握ができずにその無機質に感じる室内を眺め、そこに普段はあまり着ている姿を見たことのない着慣れないジャージを無造作に袖を通したようにして椅子の上で足を組んでいる姿に気がつく。
室内に漂う消毒液の臭いと微かな人の動く音に、やっとそこが病院だったことに気がつき椅子の上で転寝をするその姿を改めて枕越しに眺めた。
「兄さん……?」
ここ暫く家に来るなと言われて、両親からも兄の迷惑になるから暫く遊びに行くなと念をおされていた。それをちゃんと守って我慢に我慢を重ねていた最中、足の悪い友人を多人数で囲む卑怯な行為に我慢の限界を感じたのだ。勿論香坂智美がその程度の輩にどうにかされる間抜けではないことぐらい知っている。それでも鬱憤を発散するのに、自分が智美と一緒に囲んだ同級生を叩きのめしたのは事実だ。生徒指導室に残され二人で話ながら両親に連絡をとられても、全く後悔なんてしてない。だけど、その後の出来事が起こると知ってたら、智美も孝も喧嘩なんかしなかった筈だ。そして、自分の記憶はその教室の中辺りから、まるで抜き取ったようにその少し先で途切れていた。そして今ベットの上で目を覚まし、夜中なのか薄暗いベットの明かりで、転た寝をしている兄を信じられないものを見るように見つめている。疲れた表情で微かに眉を寄せるその表情を目にしたのはここ数週間で二度目だ。見つめていると何処か内側から光っているかのようにすら見えるその姿が、ふと身じろぎして前髪が僅かにかかる艶やかな瞳が自分を見下ろしホッとした様に温かく緩んだ。囁くように信哉はゆっくりと言葉を選ぶ。
「気がついたか…、何処か痛みは?」
何時もと変わらないような穏やかで優しい声音。静かな問いかけに孝は自分の腕に繋がれた点滴を見上げ、何が起きたのかと辺りを見渡す。信哉は痛みがないと確認すると安堵したように、椅子に腰かけたまま膝の前で手を組む。そこで信哉から今日の事の顛末を聞かされた。
生徒指導室に孝がいた辺り、元々病弱な母の杜幾子が家で倒れて救急車で運ばれていたのだという。父は勿論母に付き添っていて、生徒指導室の孝の向かえを引き受けたのは信哉だったのだ。担任が悌順でなければ無理だったかもしれないが、緊急事態だったから、信哉が父からの頼みを引き受けたのは当然だ。因みに母の様態は少し入院が必要ではあるが、今のところ命の問題はないという。
そして、信哉が校内に着いたと同時に、間の悪い事にあの事件に巻き込まれたのだという。あの時は孝には何が起きたのか分からなかったが、爆弾なんて物騒なものを校内に持ち込んだ人間がいたらしい。ただ、生徒の避難が速やかだったお陰か入院する状態になったのは5人程度で、その内の四人が生徒。四人の内の二人が孝と智美なのだというが、孝も智美も気を失いはしたが掠り傷程度。教師では担任の土志田悌順が軽傷、福上教頭が左手の骨を骨折したというが入院するほどではなかったようだ。爆弾魔は今のところは身元も分からないとのことだが、事態は終息の方向だという。ただ流石にマスコミが騒いでいるので、警察が門番のように病院の門番のように立っている。だから、窓には近付かないようにと、信哉が苦笑いで呟く。カーテンから外を覗こうものなら、望遠レンズが待ってるらしい。それにしても偶然父から頼まれて巻き込まれたと聞いて、信哉の酷く疲れきった顔を見ているといたたまれない。
自分の物ではないのだろうか、ジャージの袖を無造作にたくし上げてはいるものの、やはり無造作でも何処かその姿は際立っているような気がする。しかし、どうしてジャージなのだろうかと戸惑いながら自分も制服ではなく病衣に変わっていることに気がつき眼を丸くした。おぼつかない記憶の糸を手繰り寄せようとするが記憶は不確かで学校にいたということくらいしか思い出せないまま、もう一度組んだ膝の上に手を置いたその姿を眺める。
「すみませんでした、喧嘩なんかで迷惑かけて。」
そう言うと信哉は穏やかに笑う。
「気にするな、俺も高校の辺りはよくお袋を呼び出されてたよ。」
「まさか。」
孝が驚いたように目を丸くして言うと、信哉はまるで内緒話でもするように声を落とす。結構ヤンチャだったんでねと笑う信哉の姿はジャージのせいか、年よりはるかに若々しくて何だか何時もより身近な気がする。
「兄さんは、怪我は?」
「俺はたいしたことない、まぁスーツが一つ駄目になった程度だ。先生に今度請求する事にするよ。」
苦笑いでそう言いながら少し袖を捲る信哉に、その着なれないジャージは担任のものなのだと気がついた。静かで彼にとっては羨ましいと何時も思う大人の声音なのにそれは何時もと違って薄暗い室内で何処か痛みを抱えた子供のような気がして、孝は乾いた音をさせるシーツの下から手を伸ばした。ひんやりした滑らかなその兄の手に触れると思わぬ行動に微かに彼は苦笑を浮かべ、ポンともう片方の手で触れた手を包んでくれる。
「心細いか?気がついたから大丈夫。親父にも話してあるから…。」
初めて自分の前で父のことを親父と呼んだ信哉の穏やかに自分を気遣う柔らかい声とその手の感覚に、不意に自分が思っていたことが意思とは関係なく口をついて人気のない病室の中に零れ落ちた。
「兄さん、……辛い時は辛いって言ってください。僕じゃ頼りないのはわかってるけど……。」
話くらいは聞けますと言葉を繋いだ瞬間、目の前の青年の表情が驚きと同時に深い悲しみにゆれたのを確かに見たような気がした。
暫くの無言。
手の先では信哉が、言葉を発する事もなく自分の手元に視線を落としている。ふと目を伏せたままの影になってみる事の出来ない彼が、もしかしたら泣いているのではないかとすら感じながら微かに力のこもったしなやかな指先だけを孝は微睡みの中で見つめてる。
暫く会話をして再び眠りに落ちた孝が次に目を覚まし父が病室に姿を見せるまで、信哉は何も言わずにベットの横にずっとついていてくれたのだった。
※※※
「大丈夫か?友村は。」
月明かりの下。
何時もの薄暗い室内のモニターのではなく病室のベットの上に座る香坂智美の前に、訪れたその姿は静かに声をかけた。入院したのは香坂智美と真見塚孝。後は第一体育館で部活動をしていたバスケットボール部の男子二名、そして友村礼慈なのだ。それ以外には教師一名が骨折、もう一名が掠り傷で、丁度校内に来訪していた生徒の保護者一名が掠り傷。その他は一応犯人以外の死傷者はなしとしてある。
実際には院の能力者五名が行方不明、三名が重症、七名が一時意識がなかったが最後の七名は今のところ意識は戻り外傷はない。ただし、七名に関しては目覚めるのは速かったが、前後の記憶が定かではないという。院の者は大部分は院の医療施設に既に移動させ、ここに残っているのは智美と礼慈だけだ。礼慈も移動させたいが、意識がまだ戻っていないので智美があえてここに引き留めた。
病室にやって来たのは普段のように忍び込んだ訳ではなく、当の相手が学校関係者な上に掠り傷をおった教師なだけだろう。ジャージは夕方に見たものとは違うもので、校内のロッカーにおいてあったらしい。ジャージ姿で腕を組んで立つ姿は、どうしても教師の時の彼を思い起こさせる。しかし、玄武の姿を見やりながら智美は、微かに溜め息混じりに式読としての仮面をあえて被った。
学生でも保護者でもなく、院の者としてしなければいけない責務を放棄する事もできない。本当なら校庭で気を失っていたという礼慈の傍についていたいと思うが、彼には今それすらも許されない。結果がどうであっても礼慈は妖気が溢れる場所に誤った判断で身を晒してしまった。そして、人外の存在が見えていながら院の者数名をその妖気に晒し、その数名は今昏睡状態になっている。
その場で玄武が水気で妖気を払った礼慈と彼のクラスメートは特に問題ないでしょうと青龍が口にしたものの、他の者は先の予測がつかない状態にある。やむを得ないことだったかもしれないが、もし回復したら礼慈はその事実に苦しむ事だろう。それが判っているだけに智美はあえて仮面で感情を押し殺した。
「事情は分からないが外傷はないみたいだから。気がついたら色々話を聞くことにしてある。」
普段よりも硬くきつい彼の受け答えにまるでその内側にある意図を読み取ったように玄武は声も出さずに、ふっとその視線だけを緩め智美を見つめる。薄暗い室内でもはっきりとわかるその瞳はお互い辛いなとでも問いかけているようで、微かに智美は眼を細めながら唇を噛んだ。
ここには公の監視がない事だけは感謝しておこうと小さく心の中で囁きながら、智美は勤めて厳しい声音を作り出しながら玄武を見やる。
「それで?逃がしたという事?」
「……そうだ、隙をつかれた。白虎と二人がかりだったが、小賢しくてな。」
嫌な人の姿に化けると繋いだ言葉に、彼はもう既にここに戻る前に聞いた話を思い浮かべ微かに瞳を揺らした。既に一度大まかに聞いたことをここで繰り返す無意味さを感じながらも、この行為をしておかないと後々面倒な事態になるということも理解し智美は眼を細める。合理的ではないと知りながら、あえて監視するものに事実の断片を情報として与えておく。それは彼らの立場と、四神の僅かな日常を守る為なのだ。
そして闇に消えた窮奇の行方。
そのものが口にした自分達の知らない四神の存在に対する真実。
四神が何のための布石なのか、自分達が関わるものなのにその多くは確かにはっきりと断言できる事実はそう多くない。
高尚なる贄
その言葉を聴き、事情を目の前の彼から聞いた瞬間、もう一人の金気の出現と巨大な力を宿す麒麟、そして強大な妖力を宿したまま逃げる大妖の存在にせず時が寒くなるような気がした。
知らないでいる部分に多くの謎があるような気がして智美は微かに眉をよせ深い溜め息をついた。その姿を眺めていた玄武もつられたように小さな溜め息をつき、片手で無造作に髪をかき回す。
「しかし、どこまで奴の言葉が本当なのかも想像がつかん。」
そういいながらも戸惑うようなその瞳は不意に真剣な色を秘めて目の前の智美を見下ろした。
「ただ要はあの場に、奴が引き寄せたみたいに出てきたのは確かだ。」
今まで出現した要と呼ばれる存在は二つ。
そのどれもが出現と同時に砕かれ、邪気を纏っていた。後幾つの石があるのか、砕かれたことで何が起こるのか、未だ分からない事は山のように彼らの前に立ち塞がっているかのような気がした。
※※※
既に時間は翌日の朝を過ぎていたが、リビングからは微かに自分の母校である場所の爆破事件について報道が流れている。
『犯行は…とされ、その犯行声明は…。』
作り上げられた虚構のテロリスト。だが、犯行声明もなければ、その当人の身元すら明らかにできない。そして真実は旨く包みこまれて消して表には出てこないのだろう。それを知りながら自分の体の中にざわめきを彼は静かに息をついて、まるであやす様に飲み込んでいく。
家主のいないその家は、今は留守番の彼ともう一人の存在しかいない。家主からは先ほどこれから帰ると連絡があったものの、彼の同居人のほうはまだ病院から出る気配もない。そこまで気がついて、自分の気を見る能力が異常に高まってしまった事に気がつき彼は深い溜め息をついた。
そっと、リビングを横切り彼は静かにこんなに近くにいるのに全く読みきれない気配を持つ姿をドアの直ぐ傍に立ち眺めた。
視線の向こうにある穏やかで規則正しい寝息を耳にしながら義人はまた一つ溜め息をついて、薄闇の中に浮かぶ私室にあたるベットの中の青年の姿を見守る。気を失うように眠りに落ちたその姿はつい最近も見たことがあるもので、彼がこのまま眠り起きた時には何も覚えていないのだろうかと義人は微かな溜息をついた。
記憶が人に与えられた恩恵だというなら、麒麟は何を望むんだろう。仁君は…何を望むだろう。
蒼く澄んだ光を抱いた麒麟・聳孤の穏やかな眼差しを思い浮かべ、彼ですらも目的も分からないと告げた時の危うい存在感を思い起こさせる。そしてその視線の先の記憶では彼の二人の仲間が、酷く動揺した瞳をしながら無言のまま立ちすくんでいる姿が浮かんだ。二人は何も言わなかったが逃げられた窮奇との間に何かがあったことは間違いないのだろう。言わないのは言えない事だからなのか…ふとそう感じて胸の奥に微かな痛みを感じた。
迷う者・そして憎む者…それはきっと…。
あの時、もう一つの金気の者が放った言葉が心に過ぎる。知らなかった能力に惹かれていくもう一人の仲間は、早々に帰途についてしまって今はここにはいない。何をどこまで話せばいいのかも、どう理解していいかも分からないが朱雀が強い力に引かれているのは確かなのだろうと義人は考える。彼にとっては望まないものを朱雀である者が欲しいと願うのは、彼がまだこの能力の本来の恐ろしさを知らないからではないかとも。静かなその室内で義人はもう1つ深い溜め息をついてから、音を立てないようにその部屋を後にした。
室内に漂う消毒液の臭いと微かな人の動く音に、やっとそこが病院だったことに気がつき椅子の上で転寝をするその姿を改めて枕越しに眺めた。
「兄さん……?」
ここ暫く家に来るなと言われて、両親からも兄の迷惑になるから暫く遊びに行くなと念をおされていた。それをちゃんと守って我慢に我慢を重ねていた最中、足の悪い友人を多人数で囲む卑怯な行為に我慢の限界を感じたのだ。勿論香坂智美がその程度の輩にどうにかされる間抜けではないことぐらい知っている。それでも鬱憤を発散するのに、自分が智美と一緒に囲んだ同級生を叩きのめしたのは事実だ。生徒指導室に残され二人で話ながら両親に連絡をとられても、全く後悔なんてしてない。だけど、その後の出来事が起こると知ってたら、智美も孝も喧嘩なんかしなかった筈だ。そして、自分の記憶はその教室の中辺りから、まるで抜き取ったようにその少し先で途切れていた。そして今ベットの上で目を覚まし、夜中なのか薄暗いベットの明かりで、転た寝をしている兄を信じられないものを見るように見つめている。疲れた表情で微かに眉を寄せるその表情を目にしたのはここ数週間で二度目だ。見つめていると何処か内側から光っているかのようにすら見えるその姿が、ふと身じろぎして前髪が僅かにかかる艶やかな瞳が自分を見下ろしホッとした様に温かく緩んだ。囁くように信哉はゆっくりと言葉を選ぶ。
「気がついたか…、何処か痛みは?」
何時もと変わらないような穏やかで優しい声音。静かな問いかけに孝は自分の腕に繋がれた点滴を見上げ、何が起きたのかと辺りを見渡す。信哉は痛みがないと確認すると安堵したように、椅子に腰かけたまま膝の前で手を組む。そこで信哉から今日の事の顛末を聞かされた。
生徒指導室に孝がいた辺り、元々病弱な母の杜幾子が家で倒れて救急車で運ばれていたのだという。父は勿論母に付き添っていて、生徒指導室の孝の向かえを引き受けたのは信哉だったのだ。担任が悌順でなければ無理だったかもしれないが、緊急事態だったから、信哉が父からの頼みを引き受けたのは当然だ。因みに母の様態は少し入院が必要ではあるが、今のところ命の問題はないという。
そして、信哉が校内に着いたと同時に、間の悪い事にあの事件に巻き込まれたのだという。あの時は孝には何が起きたのか分からなかったが、爆弾なんて物騒なものを校内に持ち込んだ人間がいたらしい。ただ、生徒の避難が速やかだったお陰か入院する状態になったのは5人程度で、その内の四人が生徒。四人の内の二人が孝と智美なのだというが、孝も智美も気を失いはしたが掠り傷程度。教師では担任の土志田悌順が軽傷、福上教頭が左手の骨を骨折したというが入院するほどではなかったようだ。爆弾魔は今のところは身元も分からないとのことだが、事態は終息の方向だという。ただ流石にマスコミが騒いでいるので、警察が門番のように病院の門番のように立っている。だから、窓には近付かないようにと、信哉が苦笑いで呟く。カーテンから外を覗こうものなら、望遠レンズが待ってるらしい。それにしても偶然父から頼まれて巻き込まれたと聞いて、信哉の酷く疲れきった顔を見ているといたたまれない。
自分の物ではないのだろうか、ジャージの袖を無造作にたくし上げてはいるものの、やはり無造作でも何処かその姿は際立っているような気がする。しかし、どうしてジャージなのだろうかと戸惑いながら自分も制服ではなく病衣に変わっていることに気がつき眼を丸くした。おぼつかない記憶の糸を手繰り寄せようとするが記憶は不確かで学校にいたということくらいしか思い出せないまま、もう一度組んだ膝の上に手を置いたその姿を眺める。
「すみませんでした、喧嘩なんかで迷惑かけて。」
そう言うと信哉は穏やかに笑う。
「気にするな、俺も高校の辺りはよくお袋を呼び出されてたよ。」
「まさか。」
孝が驚いたように目を丸くして言うと、信哉はまるで内緒話でもするように声を落とす。結構ヤンチャだったんでねと笑う信哉の姿はジャージのせいか、年よりはるかに若々しくて何だか何時もより身近な気がする。
「兄さんは、怪我は?」
「俺はたいしたことない、まぁスーツが一つ駄目になった程度だ。先生に今度請求する事にするよ。」
苦笑いでそう言いながら少し袖を捲る信哉に、その着なれないジャージは担任のものなのだと気がついた。静かで彼にとっては羨ましいと何時も思う大人の声音なのにそれは何時もと違って薄暗い室内で何処か痛みを抱えた子供のような気がして、孝は乾いた音をさせるシーツの下から手を伸ばした。ひんやりした滑らかなその兄の手に触れると思わぬ行動に微かに彼は苦笑を浮かべ、ポンともう片方の手で触れた手を包んでくれる。
「心細いか?気がついたから大丈夫。親父にも話してあるから…。」
初めて自分の前で父のことを親父と呼んだ信哉の穏やかに自分を気遣う柔らかい声とその手の感覚に、不意に自分が思っていたことが意思とは関係なく口をついて人気のない病室の中に零れ落ちた。
「兄さん、……辛い時は辛いって言ってください。僕じゃ頼りないのはわかってるけど……。」
話くらいは聞けますと言葉を繋いだ瞬間、目の前の青年の表情が驚きと同時に深い悲しみにゆれたのを確かに見たような気がした。
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暫く会話をして再び眠りに落ちた孝が次に目を覚まし父が病室に姿を見せるまで、信哉は何も言わずにベットの横にずっとついていてくれたのだった。
※※※
「大丈夫か?友村は。」
月明かりの下。
何時もの薄暗い室内のモニターのではなく病室のベットの上に座る香坂智美の前に、訪れたその姿は静かに声をかけた。入院したのは香坂智美と真見塚孝。後は第一体育館で部活動をしていたバスケットボール部の男子二名、そして友村礼慈なのだ。それ以外には教師一名が骨折、もう一名が掠り傷で、丁度校内に来訪していた生徒の保護者一名が掠り傷。その他は一応犯人以外の死傷者はなしとしてある。
実際には院の能力者五名が行方不明、三名が重症、七名が一時意識がなかったが最後の七名は今のところ意識は戻り外傷はない。ただし、七名に関しては目覚めるのは速かったが、前後の記憶が定かではないという。院の者は大部分は院の医療施設に既に移動させ、ここに残っているのは智美と礼慈だけだ。礼慈も移動させたいが、意識がまだ戻っていないので智美があえてここに引き留めた。
病室にやって来たのは普段のように忍び込んだ訳ではなく、当の相手が学校関係者な上に掠り傷をおった教師なだけだろう。ジャージは夕方に見たものとは違うもので、校内のロッカーにおいてあったらしい。ジャージ姿で腕を組んで立つ姿は、どうしても教師の時の彼を思い起こさせる。しかし、玄武の姿を見やりながら智美は、微かに溜め息混じりに式読としての仮面をあえて被った。
学生でも保護者でもなく、院の者としてしなければいけない責務を放棄する事もできない。本当なら校庭で気を失っていたという礼慈の傍についていたいと思うが、彼には今それすらも許されない。結果がどうであっても礼慈は妖気が溢れる場所に誤った判断で身を晒してしまった。そして、人外の存在が見えていながら院の者数名をその妖気に晒し、その数名は今昏睡状態になっている。
その場で玄武が水気で妖気を払った礼慈と彼のクラスメートは特に問題ないでしょうと青龍が口にしたものの、他の者は先の予測がつかない状態にある。やむを得ないことだったかもしれないが、もし回復したら礼慈はその事実に苦しむ事だろう。それが判っているだけに智美はあえて仮面で感情を押し殺した。
「事情は分からないが外傷はないみたいだから。気がついたら色々話を聞くことにしてある。」
普段よりも硬くきつい彼の受け答えにまるでその内側にある意図を読み取ったように玄武は声も出さずに、ふっとその視線だけを緩め智美を見つめる。薄暗い室内でもはっきりとわかるその瞳はお互い辛いなとでも問いかけているようで、微かに智美は眼を細めながら唇を噛んだ。
ここには公の監視がない事だけは感謝しておこうと小さく心の中で囁きながら、智美は勤めて厳しい声音を作り出しながら玄武を見やる。
「それで?逃がしたという事?」
「……そうだ、隙をつかれた。白虎と二人がかりだったが、小賢しくてな。」
嫌な人の姿に化けると繋いだ言葉に、彼はもう既にここに戻る前に聞いた話を思い浮かべ微かに瞳を揺らした。既に一度大まかに聞いたことをここで繰り返す無意味さを感じながらも、この行為をしておかないと後々面倒な事態になるということも理解し智美は眼を細める。合理的ではないと知りながら、あえて監視するものに事実の断片を情報として与えておく。それは彼らの立場と、四神の僅かな日常を守る為なのだ。
そして闇に消えた窮奇の行方。
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四神が何のための布石なのか、自分達が関わるものなのにその多くは確かにはっきりと断言できる事実はそう多くない。
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その言葉を聴き、事情を目の前の彼から聞いた瞬間、もう一人の金気の出現と巨大な力を宿す麒麟、そして強大な妖力を宿したまま逃げる大妖の存在にせず時が寒くなるような気がした。
知らないでいる部分に多くの謎があるような気がして智美は微かに眉をよせ深い溜め息をついた。その姿を眺めていた玄武もつられたように小さな溜め息をつき、片手で無造作に髪をかき回す。
「しかし、どこまで奴の言葉が本当なのかも想像がつかん。」
そういいながらも戸惑うようなその瞳は不意に真剣な色を秘めて目の前の智美を見下ろした。
「ただ要はあの場に、奴が引き寄せたみたいに出てきたのは確かだ。」
今まで出現した要と呼ばれる存在は二つ。
そのどれもが出現と同時に砕かれ、邪気を纏っていた。後幾つの石があるのか、砕かれたことで何が起こるのか、未だ分からない事は山のように彼らの前に立ち塞がっているかのような気がした。
※※※
既に時間は翌日の朝を過ぎていたが、リビングからは微かに自分の母校である場所の爆破事件について報道が流れている。
『犯行は…とされ、その犯行声明は…。』
作り上げられた虚構のテロリスト。だが、犯行声明もなければ、その当人の身元すら明らかにできない。そして真実は旨く包みこまれて消して表には出てこないのだろう。それを知りながら自分の体の中にざわめきを彼は静かに息をついて、まるであやす様に飲み込んでいく。
家主のいないその家は、今は留守番の彼ともう一人の存在しかいない。家主からは先ほどこれから帰ると連絡があったものの、彼の同居人のほうはまだ病院から出る気配もない。そこまで気がついて、自分の気を見る能力が異常に高まってしまった事に気がつき彼は深い溜め息をついた。
そっと、リビングを横切り彼は静かにこんなに近くにいるのに全く読みきれない気配を持つ姿をドアの直ぐ傍に立ち眺めた。
視線の向こうにある穏やかで規則正しい寝息を耳にしながら義人はまた一つ溜め息をついて、薄闇の中に浮かぶ私室にあたるベットの中の青年の姿を見守る。気を失うように眠りに落ちたその姿はつい最近も見たことがあるもので、彼がこのまま眠り起きた時には何も覚えていないのだろうかと義人は微かな溜息をついた。
記憶が人に与えられた恩恵だというなら、麒麟は何を望むんだろう。仁君は…何を望むだろう。
蒼く澄んだ光を抱いた麒麟・聳孤の穏やかな眼差しを思い浮かべ、彼ですらも目的も分からないと告げた時の危うい存在感を思い起こさせる。そしてその視線の先の記憶では彼の二人の仲間が、酷く動揺した瞳をしながら無言のまま立ちすくんでいる姿が浮かんだ。二人は何も言わなかったが逃げられた窮奇との間に何かがあったことは間違いないのだろう。言わないのは言えない事だからなのか…ふとそう感じて胸の奥に微かな痛みを感じた。
迷う者・そして憎む者…それはきっと…。
あの時、もう一つの金気の者が放った言葉が心に過ぎる。知らなかった能力に惹かれていくもう一人の仲間は、早々に帰途についてしまって今はここにはいない。何をどこまで話せばいいのかも、どう理解していいかも分からないが朱雀が強い力に引かれているのは確かなのだろうと義人は考える。彼にとっては望まないものを朱雀である者が欲しいと願うのは、彼がまだこの能力の本来の恐ろしさを知らないからではないかとも。静かなその室内で義人はもう1つ深い溜め息をついてから、音を立てないようにその部屋を後にした。
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